見る。また「見る」ですけど、「見ること」は語り尽くせない色々な視点があるので、また今回も書くことにした。
もう、新学期が始まって、私の愛弟子Kちゃんも上京した。Kちゃんは東京芸大の油彩画科の受験に落選し、一浪することになった。これは想定の範囲内だ。しかし、東京芸大の油彩画科を受験したが、正直言って、大きな問題だった。というのも今年も実技デッサンの出題が「世界を見る、考える」であった。私の読者で、絵を描く人描かない人にとっても、これはややこしい課題で、木炭紙の倍の大きさに、5時間で、木炭あるいは鉛筆で表せという求めに、どれほどの者が的確に応じられるだろうか疑問である。この課題を視覚的に表すのは私でも面食らうし、例えば分筆が優れた人でも、文章で表すのでも難題と言うべきだろう。しかし芸大の教授陣は毎年同じような出題を繰り返すのである。かつてお笑い芸人の爆笑問題がNHKの「00爆問」とか言う番組で、芸大の学生が制作するアトリエを訪ねた時,当時の宮田学長が案内する教室での風景は衝撃的で「まるで小中学生の図画工作の延長」でしかない作品には呆れた。もはや大きな期待は抱かぬ方が良いのだ。
前にも述べたが、この出題の仕方は、観念アート的で、アイデアを求めており、「感覚的才能」を求めているとは言い難い。この方法で選抜される者が「視覚芸術的才能」を持ち得るとは、私には到底思えない。油彩画科、日本画科という分類があるのであれば、観念アート学科でも作ればよいと述べてきたが、、しかし「観念アート」は殆どの場合「視覚芸術」ではなく、頭で考える表現であって、見る事とはかなり距離感がある。「自分たちは知的な表現をやっている」と思い込んでアイルのだから、例えば東京大学の文系の学科として「観念アート」学科を作るべきと思うが・・・・学科科目の能力を求めない美術系からの応募はないであろう。要するに観念アートには「哲学的能力」が求められているからである。
芸大油絵科のネット・ホームページの案内に登場する教授が椅子にふんぞり返って「芸術は愛だよ・・・」とか言うのには、あきれる気持ち悪さに・・・・もはや「自分たちは特殊なのだ」と言わんばかりの横着さを感じさせられる。作品で示せと言いたいが、言葉で言ってしまうところが「観念的」としか言いようのない教授陣なのだろう。
Kちゃんにとって、今回の受験は冒険であったが、来年は日本画科を受験するように進言した。日本画科の教授たちは、旧来の「描写力」も求めており、これから美術の世界に入っていく入門者としてのプロセスを踏んでいるように思うから、油絵と日本画では画材や技法に違いがあれど、描写については、もはや伝統的な表現ではなく、石膏デッサンの影響か立体的、空間的表現ではもはや油彩画も日本画も境がなくなっている。
石膏デッサンの問題点については、これまで述べてきたが、もう一度言えば「現象を追いかける描写」のところが良くなくて、誰もが個人的な感性の特異性に気が付かない様式に落ち込んでいるからだ。描写方法はこのデッサンの問題から各自の感性のすばらしさを大切にすれば、今現在陥っている紋切り型の表現から、描写表現が一皮むけるであろうことは分かるだろう。そこには「観念アート」とは違う「現代美術」がある。
そこで、今回の「見る3」の趣旨がある。
絵を描く者は「モチーフを見るとき」は一般の人が物を見るときとは違う目線で見ているが、「現象を追う人」は究極的に「写真的な絵画」に至る。これが面白くも全くない「右から左に写す」ための目線で、自分の感性や目的意識がない状態で形や色を決めてしまう。これで鑑賞者が感動するのは「きゃあー!!本物そっくり」という感想で、芸術性は全くない話だ。現代に「写真的に絵を描く人」に古典の巨匠のデッサン力について話しても「馬の耳に念仏」だろう。そう昔の巨匠は「本物そっくり」に描くのではなく、「無いものを在るがごとき」にするデッサン力を持つことが画家としての証であったから、「見えるままに描く」ことは許されなかったのだ。
ここで絵を描かない人に「無いものを在るがごときに」と言っても「ないもの」とはいったい何なのか分からない人がいるだろう。この無いものとは「我々の現実世界に無いもの」という意味で、作者が心の中で「見たもの」ということである。それを描写することで、鑑賞者に視覚的に伝えようとするのである。観念アートのように伝わらない作品に「言葉を添えて見せよう」とはしてはいけない。詐欺になるから。
古典の巨匠たちが、その彼らの時代に見せられなかった「無いもの」を現代の作家が「あるがごときに」描いて見せられる主題は山ほどある。だから安心して描写の絵画に参加すればよい。心の中に「見える世界」を描けばよいのである。
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