CubとSRと

ただの日記

僕を見かけませんでしたか

2018年09月22日 | バイク 車 ツーリング
 ~6月12日の日記より~
 4時に目が覚めた。
 眠れそうにないので、しばらく血圧を測ったりストレッチをしたりして散歩に出る準備をしていた。
 4時半を過ぎた頃、ブログの更新を、と思ってPCを点けたら、森田童子が4月24日に亡くなっていた、というニュースが・・・。
 歳が近い筈と思っていたが、やっぱりそうで66歳だったらしい。
 実際に活動していたのは8年ほどで、その中でもおそらく最初の3~5年、いや3年ほどだろうか、注目されたのは。
 最後の頃、LPが出された時に、何度目かのNHK-FM出演もあった。

 それから十数年経った時、森田童子の曲は「高校教師」というテレビドラマで再び脚光を浴びた。
 知らない世代からすると、
 「こんなに感傷的で切ない歌があるのか、この声からすると女性だろうが、名前が『童子』って?」
 みたいな感じ。
 当人は戸惑っている、という話が聞こえてきたが、ついに人前に姿を見せることはなかった。
 学生運動が背景にあるけど、全く論理的でない、抒情的と言うより感傷的、あまりにも後ろ向きで死ぬことばかり考えている、死への憧憬ばかリを歌っている。
 「学生運動が背景にある」と書いたけど、飽く迄も「背景」、書き割りみたいなもんで、バックボーンでは決して、ない。
 学生運動が失敗、挫折、下火となるにつれて、「革命」の熱に浮かされて斃れることを感傷的にとらえていた若者も減っていく。
 童子の歌は段々に聞こえなくなっていった。
 十数年後の脚光は、抒情的な、あまりにも感傷的な面にばかり当てられた。ただの「背景」だった「世の中を変える」という色、熱、はそこにはなかった。

 少し遡って。
 吹き荒れた学園紛争の嵐が過ぎ去った頃、学園紛争と全く縁のない学校に入学した。
 日米安保条約の自動継続が成った2年後のことだ。
 そして革命を謳う学生運動とは、まるで反対の学生生活を送った。
 4年後、それなりにまなじりを決したつもりで、社会に飛び込んだ。
 浦島太郎の気分だった。
 対立する筈の「革命のためになら斃れても良い」と言っていた奴らはどこに消えたのだろう。

 森田童子のLPはほとんど持っている。けど、これを聞くとこっちまで生きているのが嫌になるような気がする。
 だから、気が滅入っているような時は聞かない。
 30過ぎて神経が鈍くなったからか、それとも、「感傷的」、と余裕を持って対する分別がつくようになったからか、また聞けるようになった。
 
 34歳でバイクに乗るようになり、泊りがけのツーリングに出るようになると、GB250クラブマンで走る頭の中で、いつも、童子の「僕を見かけませんでしたか」が流れていたような気がする。
コメント
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