10月28日
どうもこのノート、何だか書き辛い。と思ってふと気づいたのは、罫線が狭い(細い)のではないかということ。表紙を見たら「B」とある。
たまたま前のノートが手元にあったので、同じく表紙を見るとそちらは「A」。
やっぱり。間違って買って来たらしい。
いつも五冊組の安い大学ノートを使っている。そのノートがなくなりそうだったから、先日新しく同じものを買った。・・・つもりだった。
そしてその全ての表紙に「令和二年」と筆ペンで書いてしまった。一冊目のノートは、まだ数ページ使っただけだ。勿論、後の四冊は表紙に「令和二年」と書いただけで中は真っ白。ノートなんて日記用にしか買わない。どうする?
もう一度ノートを買いに行こうか、と思い始めた。無理して細い罫で書くよりも、そっちの方が良い。明日、だな。
万年筆のカートリッジを買いに行く、という用と一緒にはできない。同じ文房具ながら、安い大学ノートはホームセンターで買えるが、カートリッジは三宮の文房具店にしかない。
カートリッジは数年に一回で済むが、ノートは早ければ毎月一冊だから、五冊組だって半年持たないこともある。
それにしても・・・・。罫線が細い(狭い)ということで、日記を書く量が減ってしまう、というのはどういうことなんだろう。単に書き辛いから量が減ってしまうとは言い切れない。何か他の理由がある。
他の理由。
考えてみると、それらしいものがいくつか浮かんでくる。
・ペン軸に糸埃が挟まってしまい、字がつぶれやすくなる。
・老眼が進み、小さい字が読みにくくなった(目が疲れる)。
・そのため、読み返すのが億劫になる。
・読み返さないから、書き足りないところを詳しく書き直すということをしなくなる(いい加減な説明で終わってしまう)。
・文字の間隔が詰まってしまうので、誤字や脱字の訂正がしにくくなる。
物理的にも心情的にも「罫」の間隔ってのは意外に大事なんだな、ということに思い至る。
で、これらの要因を重要なことから順にランク付けをする、なんてことができるだろうか、と思ったのだけれど。
どうもそういうことはできそうにない。それぞれが要因であって、主因でもある。以前の日記に書いたように「黴臭さのせい」で書く気にならないこともある。
逆にダイイングメッセージのように、「どうしても書き残さなければ」となった時には、何としてでも、どんな手段を使ってでも書き残そうとする。
取るに足りない日記なんか無理して書かなくても、という気もするが、いやいや、羽毛よりも軽い選挙時の一票や、戦時の無辜の民の一命と同じく、こんな日記の一つだって、世界の構成要素であることに変わりはないのだ。