2015.11/21 (Sat)
標題をご覧になって「あれっ?」と思われたらうれしいんですが。
標題をご覧になって「あれっ?」と思われたらうれしいんですが。
「11月23日は『勤労感謝の日』。日本中の働く人に感謝する日、なんだな」。
子供の頃はそう思う。
そして
「感謝、ってどんな風にしたらいいんだろう。お父さんお母さんありがとう、だけじゃないな。近所の人にもありがとう、という方がいいかなぁ~?」
バカみたいな話ですが、子供の頃、こんなことを思ったのは事実です。自分を中心にして物事を考えることしかできなかった。だから「感謝しなけりゃならないのは、自分だ」と思っていた。
でも、どうやったらいいか分からないし、どこの家も取り立てて何かをしている、という風でもなかったし。
つまり、「誰が」「誰に」感謝するのかということがはっきりしていなかった。「安らかに眠ってください あやまちはくりかえしませぬから」、と同じです、誰が過ちを犯したんだ??
でも、学校では聞いたような記憶があるんです。
「日本中の働いている人に感謝する日だ」、って。
それで
「働いてない、おじいさんや働けない人は??」
なんてことを思いました。昭和三十年代の終わり頃のことです。戦争に負けて二十年足らずの時です。
「三つ子の魂百までも」とは言うけれど、戦後教育を受けた者に、とにかく「??」なことは山のようにありました。
ただでさえ子供は「ねえ、ねえ。どうして?」の時期があります。その時に「道理」とか「物の感じ方」を学び始める。
ところが戦後教育は、基本、「戦前の否定」、なわけですから家庭で習った「筋」を学校で否定することが往々にして、ある。
(「東アジアの国々を解放するための大東亜戦争」が「軍部の独走による無謀な太平洋戦争」、とされたことなど)
筋が二本でクロスオーバーしてるんだから頭の中は「???」になる。何を信じればいいんだ?
だから「祝祭日」と言ったら「祝祭日」であって、まさか「祝日と祭日を合わせて祝祭日」と言ってるんだなんて。考えもしなかった。
知らなかった、考えもしなかったくらいだから、
「祝日と祭日、どう違うの?」
なんて聞かれたら、「???」、で、
「いいや、別に。休みだから!」
「祝日とは、日本の祝日」、と書いてある記事を見たことがあります。噴飯ものですね、今見ると。まさか外国の祝日のこと、なんて誰も思やしないだろうに。
で、「祭日」は、となると「祭日とは日本の祭日」、なんてことは書いてない。祭日の説明は、ない。
あったとしても「祭日とは、祭りの日のこと」と書いてある。わかっとる、っちゅうねん!
「祝日は国が定めた祝賀行事を行う日」。「祭日は国(正確には天皇)が祭祀を行う日」
祝賀行事を行うのが祝日。祭祀を行うのが祭日。政府(政治)主体が祝日、天皇主体が祭日、と言ってもいいかもしれない。
となると「勤労感謝の日」、じゃ、どちらかさっぱりわからない。
けど「新嘗祭」と言えば、祭日だと分かる。「~祭」とありますから。
今年の農作物の豊穣であったことを、天皇が国民の代表として神に献上し、奉告して、神前で神に感謝しつつ共に食される。
「勤労者」に、ではなく、「神」に感謝する祭りが「新嘗祭」。
でも、GHQによって出された神道指令により、天皇が祭祀を行う「祭日」は、全て廃止されたわけですから、「神に感謝」、ではなく、「(神である)天皇が全国の勤労者に感謝する」、という「天皇と国民が対立(対面)する、という形にしてしまった。
巧妙ですね、やり方が。アメリカ人ってこんなに狡猾だったんでしょうか?
とてもあの能天気なアメリカ人の発想からとは思えないんですけど。
アメリカの選挙は火曜日だったんじゃなかった?「伝統なんだ」、とか言って。日曜日は教会に行かなきゃならないから、その後で遠くにある投票所まで、馬車で行く。(どんだけ遠いんだ!)
工夫、摺り合わせ、なんてことはしない。目的と目標は重なっていて当然、みたいな国民性ですから、こんな姑息なことは考えないだろう、と・・・・。あっ、脱線した。
まあそれはそれとして。
「新嘗祭の当日まで、新米は食べない」
という敬神の念篤い方も段々に増えて来られたようで、日本にまた日が昇り始めたような・・・・。
ですが、何しろ品種改良も進み、ハデ干しもしない、稲わらも刈った端から細断してしまうというやり方が一般的になり、で昔よりも早く、新米、新穀が出回ります。だから新嘗祭まで待つ、というのもなかなか大変です。
それよりも、書いてきた通り、11月23日は「祭日」、なんですから。
祭祀を行うのは天皇陛下で、我々はその後ろに並んで敬礼(本当は最敬礼ですけどね、腰が痛くなります)をしている心持。実際に陛下の後ろに並ぶことはできませんし、陛下は代表として祭祀を行ってくださるんですから、我々は安心していればいい。
だからどうでしょう、普段は合掌して「いただきます」、と食物に感謝しているでしょう?
新嘗祭の日だけでも、「食物に感謝」ではなく、「神様に感謝」しては?
新嘗祭の時は「合掌」ではなく、(神社にお参りするときは二拝二拍手一拝だけど)膳に向って一拝一拍手という正式な拝礼をしてみる、なんてのは良いかもしれません。
もしかして、「何だ!合掌もしないで、手を叩くとは!行儀の悪い!」と怒る人が出てくるかもしれません。
そしたらしめたもの。
「え?これは正式な拝礼なんですよ」
などと話を始められる。
「今日は新嘗祭ですからね~~」って。
三年前に書いた日記の一部を転載します。↓
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2012.11/23 (Fri)
~~何となし、我々戦後生まれの日本人には、難しい話は「難しい言葉を遣わず、できるだけ分かりやすく噛み砕いて説く」または、たとえ話のようなつもりで、「言い換えて、感じが伝わるようにする」という、最善の策ならぬ次善の策に力を注ぐ傾向があります。
初めから難しいことは分かる筈がないから、と諦めて、何でもかんでも「ほどほどが良い」で、納得してしまう。
難しいことは、時が来れば、習練を積めば、分かるようになります。それを初めから簡単にしてしまえば、誰もそれを進めようとはしなくなる。「円周率を3とする」ようなものです。
そんな考え方が、「新嘗祭」を拡大解釈したら「勤労感謝の日」となった、というような妙な納得の仕方を、現日本の常識にしてしまっている。
そういうこともたまには考えてみる。
「感謝、ってどんな風にしたらいいんだろう。お父さんお母さんありがとう、だけじゃないな。近所の人にもありがとう、という方がいいかなぁ~?」
バカみたいな話ですが、子供の頃、こんなことを思ったのは事実です。自分を中心にして物事を考えることしかできなかった。だから「感謝しなけりゃならないのは、自分だ」と思っていた。
でも、どうやったらいいか分からないし、どこの家も取り立てて何かをしている、という風でもなかったし。
つまり、「誰が」「誰に」感謝するのかということがはっきりしていなかった。「安らかに眠ってください あやまちはくりかえしませぬから」、と同じです、誰が過ちを犯したんだ??
でも、学校では聞いたような記憶があるんです。
「日本中の働いている人に感謝する日だ」、って。
それで
「働いてない、おじいさんや働けない人は??」
なんてことを思いました。昭和三十年代の終わり頃のことです。戦争に負けて二十年足らずの時です。
「三つ子の魂百までも」とは言うけれど、戦後教育を受けた者に、とにかく「??」なことは山のようにありました。
ただでさえ子供は「ねえ、ねえ。どうして?」の時期があります。その時に「道理」とか「物の感じ方」を学び始める。
ところが戦後教育は、基本、「戦前の否定」、なわけですから家庭で習った「筋」を学校で否定することが往々にして、ある。
(「東アジアの国々を解放するための大東亜戦争」が「軍部の独走による無謀な太平洋戦争」、とされたことなど)
筋が二本でクロスオーバーしてるんだから頭の中は「???」になる。何を信じればいいんだ?
だから「祝祭日」と言ったら「祝祭日」であって、まさか「祝日と祭日を合わせて祝祭日」と言ってるんだなんて。考えもしなかった。
知らなかった、考えもしなかったくらいだから、
「祝日と祭日、どう違うの?」
なんて聞かれたら、「???」、で、
「いいや、別に。休みだから!」
「祝日とは、日本の祝日」、と書いてある記事を見たことがあります。噴飯ものですね、今見ると。まさか外国の祝日のこと、なんて誰も思やしないだろうに。
で、「祭日」は、となると「祭日とは日本の祭日」、なんてことは書いてない。祭日の説明は、ない。
あったとしても「祭日とは、祭りの日のこと」と書いてある。わかっとる、っちゅうねん!
「祝日は国が定めた祝賀行事を行う日」。「祭日は国(正確には天皇)が祭祀を行う日」
祝賀行事を行うのが祝日。祭祀を行うのが祭日。政府(政治)主体が祝日、天皇主体が祭日、と言ってもいいかもしれない。
となると「勤労感謝の日」、じゃ、どちらかさっぱりわからない。
けど「新嘗祭」と言えば、祭日だと分かる。「~祭」とありますから。
今年の農作物の豊穣であったことを、天皇が国民の代表として神に献上し、奉告して、神前で神に感謝しつつ共に食される。
「勤労者」に、ではなく、「神」に感謝する祭りが「新嘗祭」。
でも、GHQによって出された神道指令により、天皇が祭祀を行う「祭日」は、全て廃止されたわけですから、「神に感謝」、ではなく、「(神である)天皇が全国の勤労者に感謝する」、という「天皇と国民が対立(対面)する、という形にしてしまった。
巧妙ですね、やり方が。アメリカ人ってこんなに狡猾だったんでしょうか?
とてもあの能天気なアメリカ人の発想からとは思えないんですけど。
アメリカの選挙は火曜日だったんじゃなかった?「伝統なんだ」、とか言って。日曜日は教会に行かなきゃならないから、その後で遠くにある投票所まで、馬車で行く。(どんだけ遠いんだ!)
工夫、摺り合わせ、なんてことはしない。目的と目標は重なっていて当然、みたいな国民性ですから、こんな姑息なことは考えないだろう、と・・・・。あっ、脱線した。
まあそれはそれとして。
「新嘗祭の当日まで、新米は食べない」
という敬神の念篤い方も段々に増えて来られたようで、日本にまた日が昇り始めたような・・・・。
ですが、何しろ品種改良も進み、ハデ干しもしない、稲わらも刈った端から細断してしまうというやり方が一般的になり、で昔よりも早く、新米、新穀が出回ります。だから新嘗祭まで待つ、というのもなかなか大変です。
それよりも、書いてきた通り、11月23日は「祭日」、なんですから。
祭祀を行うのは天皇陛下で、我々はその後ろに並んで敬礼(本当は最敬礼ですけどね、腰が痛くなります)をしている心持。実際に陛下の後ろに並ぶことはできませんし、陛下は代表として祭祀を行ってくださるんですから、我々は安心していればいい。
だからどうでしょう、普段は合掌して「いただきます」、と食物に感謝しているでしょう?
新嘗祭の日だけでも、「食物に感謝」ではなく、「神様に感謝」しては?
新嘗祭の時は「合掌」ではなく、(神社にお参りするときは二拝二拍手一拝だけど)膳に向って一拝一拍手という正式な拝礼をしてみる、なんてのは良いかもしれません。
もしかして、「何だ!合掌もしないで、手を叩くとは!行儀の悪い!」と怒る人が出てくるかもしれません。
そしたらしめたもの。
「え?これは正式な拝礼なんですよ」
などと話を始められる。
「今日は新嘗祭ですからね~~」って。
三年前に書いた日記の一部を転載します。↓
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2012.11/23 (Fri)
~~何となし、我々戦後生まれの日本人には、難しい話は「難しい言葉を遣わず、できるだけ分かりやすく噛み砕いて説く」または、たとえ話のようなつもりで、「言い換えて、感じが伝わるようにする」という、最善の策ならぬ次善の策に力を注ぐ傾向があります。
初めから難しいことは分かる筈がないから、と諦めて、何でもかんでも「ほどほどが良い」で、納得してしまう。
難しいことは、時が来れば、習練を積めば、分かるようになります。それを初めから簡単にしてしまえば、誰もそれを進めようとはしなくなる。「円周率を3とする」ようなものです。
そんな考え方が、「新嘗祭」を拡大解釈したら「勤労感謝の日」となった、というような妙な納得の仕方を、現日本の常識にしてしまっている。
そういうこともたまには考えてみる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
で、今日は11月23日。今、午後5時半。
今になって国旗を掲げることを忘れていたことに気が付いた!
痛恨の極み。