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ただの日記

11月23日は「勤労感謝の日」(これも再掲)

2020年11月23日 | 神社
               2015.11/21 (Sat)
 標題をご覧になって「あれっ?」と思われたらうれしいんですが。

 「11月23日は『勤労感謝の日』。日本中の働く人に感謝する日、なんだな」。
 子供の頃はそう思う。
 そして
 「感謝、ってどんな風にしたらいいんだろう。お父さんお母さんありがとう、だけじゃないな。近所の人にもありがとう、という方がいいかなぁ~?」

 バカみたいな話ですが、子供の頃、こんなことを思ったのは事実です。自分を中心にして物事を考えることしかできなかった。だから「感謝しなけりゃならないのは、自分だ」と思っていた。
 でも、どうやったらいいか分からないし、どこの家も取り立てて何かをしている、という風でもなかったし。
 つまり、「誰が」「誰に」感謝するのかということがはっきりしていなかった。「安らかに眠ってください あやまちはくりかえしませぬから」、と同じです、誰が過ちを犯したんだ??

 でも、学校では聞いたような記憶があるんです。
 「日本中の働いている人に感謝する日だ」、って。
 それで
 「働いてない、おじいさんや働けない人は??」
 なんてことを思いました。昭和三十年代の終わり頃のことです。戦争に負けて二十年足らずの時です。
 「三つ子の魂百までも」とは言うけれど、戦後教育を受けた者に、とにかく「??」なことは山のようにありました。
 ただでさえ子供は「ねえ、ねえ。どうして?」の時期があります。その時に「道理」とか「物の感じ方」を学び始める。
 ところが戦後教育は、基本、「戦前の否定」、なわけですから家庭で習った「筋」を学校で否定することが往々にして、ある。
 (「東アジアの国々を解放するための大東亜戦争」が「軍部の独走による無謀な太平洋戦争」、とされたことなど)
 筋が二本でクロスオーバーしてるんだから頭の中は「???」になる。何を信じればいいんだ?

 だから「祝祭日」と言ったら「祝祭日」であって、まさか「祝日と祭日を合わせて祝祭日」と言ってるんだなんて。考えもしなかった。
 知らなかった、考えもしなかったくらいだから、
 「祝日と祭日、どう違うの?」
 なんて聞かれたら、「???」、で、
 「いいや、別に。休みだから!」

 「祝日とは、日本の祝日」、と書いてある記事を見たことがあります。噴飯ものですね、今見ると。まさか外国の祝日のこと、なんて誰も思やしないだろうに。
 で、「祭日」は、となると「祭日とは日本の祭日」、なんてことは書いてない。祭日の説明は、ない。
 あったとしても「祭日とは、祭りの日のこと」と書いてある。わかっとる、っちゅうねん!

 「祝日は国が定めた祝賀行事を行う日」。「祭日は国(正確には天皇)が祭祀を行う日」
 祝賀行事を行うのが祝日。祭祀を行うのが祭日。政府(政治)主体が祝日、天皇主体が祭日、と言ってもいいかもしれない。
 となると「勤労感謝の日」、じゃ、どちらかさっぱりわからない。
 けど「新嘗祭」と言えば、祭日だと分かる。「~祭」とありますから。

 今年の農作物の豊穣であったことを、天皇が国民の代表として神に献上し、奉告して、神前で神に感謝しつつ共に食される。
 「勤労者」に、ではなく、「神」に感謝する祭りが「新嘗祭」。

 でも、GHQによって出された神道指令により、天皇が祭祀を行う「祭日」は、全て廃止されたわけですから、「神に感謝」、ではなく、「(神である)天皇が全国の勤労者に感謝する」、という「天皇と国民が対立(対面)する、という形にしてしまった。
 巧妙ですね、やり方が。アメリカ人ってこんなに狡猾だったんでしょうか?
 とてもあの能天気なアメリカ人の発想からとは思えないんですけど。
 アメリカの選挙は火曜日だったんじゃなかった?「伝統なんだ」、とか言って。日曜日は教会に行かなきゃならないから、その後で遠くにある投票所まで、馬車で行く。(どんだけ遠いんだ!)
 工夫、摺り合わせ、なんてことはしない。目的と目標は重なっていて当然、みたいな国民性ですから、こんな姑息なことは考えないだろう、と・・・・。あっ、脱線した。

 まあそれはそれとして。
 「新嘗祭の当日まで、新米は食べない」
 という敬神の念篤い方も段々に増えて来られたようで、日本にまた日が昇り始めたような・・・・。
 ですが、何しろ品種改良も進み、ハデ干しもしない、稲わらも刈った端から細断してしまうというやり方が一般的になり、で昔よりも早く、新米、新穀が出回ります。だから新嘗祭まで待つ、というのもなかなか大変です。

 それよりも、書いてきた通り、11月23日は「祭日」、なんですから。
 祭祀を行うのは天皇陛下で、我々はその後ろに並んで敬礼(本当は最敬礼ですけどね、腰が痛くなります)をしている心持。実際に陛下の後ろに並ぶことはできませんし、陛下は代表として祭祀を行ってくださるんですから、我々は安心していればいい。

 だからどうでしょう、普段は合掌して「いただきます」、と食物に感謝しているでしょう?
 新嘗祭の日だけでも、「食物に感謝」ではなく、「神様に感謝」しては?
 新嘗祭の時は「合掌」ではなく、(神社にお参りするときは二拝二拍手一拝だけど)膳に向って一拝一拍手という正式な拝礼をしてみる、なんてのは良いかもしれません。

 もしかして、「何だ!合掌もしないで、手を叩くとは!行儀の悪い!」と怒る人が出てくるかもしれません。
 そしたらしめたもの。
 「え?これは正式な拝礼なんですよ」
 などと話を始められる。
 「今日は新嘗祭ですからね~~」って。


 三年前に書いた日記の一部を転載します。↓
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                                   2012.11/23 (Fri)
 ~~何となし、我々戦後生まれの日本人には、難しい話は「難しい言葉を遣わず、できるだけ分かりやすく噛み砕いて説く」または、たとえ話のようなつもりで、「言い換えて、感じが伝わるようにする」という、最善の策ならぬ次善の策に力を注ぐ傾向があります。
 初めから難しいことは分かる筈がないから、と諦めて、何でもかんでも「ほどほどが良い」で、納得してしまう。

 難しいことは、時が来れば、習練を積めば、分かるようになります。それを初めから簡単にしてしまえば、誰もそれを進めようとはしなくなる。「円周率を3とする」ようなものです。

 そんな考え方が、「新嘗祭」を拡大解釈したら「勤労感謝の日」となった、というような妙な納得の仕方を、現日本の常識にしてしまっている。
 そういうこともたまには考えてみる。 
 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 で、今日は11月23日。今、午後5時半。
 今になって国旗を掲げることを忘れていたことに気が付いた!
 痛恨の極み。
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遅ればせながら「神嘗祭」と「新嘗祭」

2020年11月23日 | 心の持ち様
 何度再掲したか分かりませんが、やっぱり何度目でも再掲、をしようと。
 今更ながらですが。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 神嘗祭(かんなめのまつり・かんなめさい)
 2012.10/14 (Sun) 
  神嘗祭は「かんなめのまつり」「かんなめさい」などと呼ばれます。
 この「神嘗祭」があって、「新嘗祭(にいなめさい・しんじょうさい)」がある。

 祭事があって、それを継ぎ、忠実に実行するのが政事、というのが日本の古来からの国の在り方でした。
 この祭祀を執り行うのが天皇であり、神嘗祭、そして新嘗祭の全ての準備を執り行うのが政事。そう考えたら良いかと思います。

 世界中にこの形を採る国は多かったでしょうが、現在この形を採る国はほとんどないでしょう。そして、少なくとも二千年以上続けてそれを行い続けているのは我が国だけです。これは奇跡と言っても良いことです。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 さて、今日は10月16日。神宮の神嘗祭(かんなめさい)が始まるのは、今日だったか、明日だったか。
 「嘗(なめ)る」というのは、「召し上がる」。神様が今年の新穀(本当の初穂、ですね)を召し上がる祭りです。

 これから一ヶ月。11月23日が「新嘗祭(にいなめさい)」。天皇陛下が同じく「今年の稔りを感謝され、神とともに召し上がる」という祭りです。
 これには「新嘗」という形で「神様への感謝の気持ちを、国民の代表(祭主)として表わす」意味があります。
 正に、祭祀国家の面目躍如、といった祭りです。

 ところが、皆さん御存知のように11月23日は「勤労感謝の日」とされています。
 何故、11月23日が「働く人々全てに感謝を」となったのか。
 「日本人が知ってはならない歴史」の著者である若狭和朋氏の表現によれば、GHQによる「追撃戦」の一つの形であることに、間違いないようです。

 戦前の日本人は、何かにつけて、暦を頼りにしてきました。正月三が日、更衣から、年末の大掃除に至るまで、本当に全国民、申し合わせたかのように、何でも暦のとおりに行なって来ています。
 それが、最近は休日ならば何でも同じ、みたいなところがあって、現に、「祝祭日」と一口に言うのは良いけれど、祝日と祭日の区別がついていることを、知らない人の方が多くなりました。

 祭日は皇室を中心にした、国家の祭りの日であり、祝日は記念日を含む、「祭り」ではない日。
 それに加えて、今回、政府はもっと極端なこと、言ってましたね。日本を地域に分け、各地域ごとに休日として、祝祭日をまとめてしまう、とか。
 これは、休みを取りにくいからとか何とか、まことしやかな説明をしていますが、間違いなく、結果として日本から「祝日、祭日」を取り上げよう、そして、「休日」という意識だけ残そう、という発想です。
 「祭日」をなくすことによって、皇室廃絶の準備をすることにつなげているのは、自明の理、です。
 つまり、「新嘗祭」を「勤労感謝の日」とするのは、「追撃戦」の延長線上の計画だ、ということです。

 「GHQがなくなって、何年経ったと思ってるんだ?陰謀論も大概にしろよ」と思っている人、多いでしょうね。
 でも、「陰謀」はコミンテルンの専売特許みたいなものです。

 歴史的事実をつなぎ合わせて、筋道を見出し、それから筋の通った考え方を発見し、実生活での思考の役に立てる。当たり前のことです。
 そうやって手に入れた思考の形で、我々は日々の生活を成り立たせています。
 歴史とは教科書に載る載らないではない。GHQが始めたから、といって、GHQがなくなった今も、それがそれなりの筋道を持っていたとすれば、それは必ず後世に伝播します。
 正しいとか、間違っている、とかは全く関係がありません。「従軍慰安婦」や「南京大虐殺」を思い出せば、簡単にうなずけることです。
 その事実に、捏造された部分があれば、抽出される考え方は、全く違った結論を導き出すことも出来ます。
 更には、考え方の根は、「理」であるべきですが、孔子でさえ「心の欲するところに従ひて矩をこえず」となったのは、七十を過ぎてからだったでしょう?

 つまり、一般的には考え方の根が、「理」、でなく「情」になっているのです。
 どんなに立派なことを、日頃言っていても、些細なことで怒ったり笑ったり、悲しんだりするのが普通の人間。哲学科で、熱心に勉強している大学生だからといって、殺人なんか絶対にしない、とは言い切れない。
 GHQが始めたことは、GHQがなくなっても、それを支える(手足となった)人々が継承、発展させて行きます。
 捏造した部分が明らかになれば、結論は百八十度違った方向に行きますが、それをさせないように、更に堅く口をとざす。或いは恥の上塗りならぬ「嘘の上塗り」をすることによって確固としたものにしていきます。
 (南京大虐殺は初め数万、次に十数万になり、二十万、三十万、ときて、今は四十万以上になっています)

 イメージからすれば木型の上に紙を貼り重ね、木型を外した、といったようなものでしょうか。
 本体はないのに、嘘の形が、さも本物のような顔をしている。「嘘も百回つけば真実に」です。
 
 GHQの中身(構成員)がマッカーサーの思いとは全く違った、コミンテルンそのものであったことを考えれば、容易に「理解は」、できることです。
 そして、それは、大学の、「社会主義思想学者による席捲」と、師範学校の廃止、普通大学卒の社会主義思想教師の激増により、悪名高き日教組教育へ、とつながっていきます。

 けれど、忘れてはならないこと。
 広がるのは教育界だけではない。法曹界もそうでしょう。裁判所、弁護士で、社会主義思想の持ち主はどれだけの比率なのか、想像できますか?そして、報道の世界では。だったら、経済界も?と思うのが普通でしょう?

 「新嘗祭」を「勤労感謝の日」としたことは、「天皇が、農民に感謝をする日、から、全ての労働者に感謝をする日に改めよう」との理由からということになっています。
 一瞥しただけでは、成程、と見えます。でも、ここには、巧妙に仕組まれたトリックがあります。
 「天皇が国民に感謝する」という言葉です。
 これ、最初に私が書いた「神への感謝」が入ってないでしょう?
 「天皇とは支配者のこと」、と、まるでサブリミナル効果のように思い込まされる。それによって、「農民だけでなく~」という展開につながる。

 支配者と、被支配者の意識を持たせ、敗戦後は「国民の総意で天皇が存在する」と、国民を天皇の上位に置き、国民の意志を変えることで、天皇廃止、皇室の廃絶につなげていく。

 道理を辿ったら、「勤労感謝の日」という言葉だけで、ここまで来てしまいました。
 常に「そんな程度のことで」と、看過してしまいがちなことの中に、「ジパノフォビア(日本嫌い)は、確かに隠れています。 
 
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