そろそろ住民投票の結果が出る頃でしょうか。
8年前、「日本維新の会」ができる時に書いた日記を見てみました。
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「これ、維新?」
橋下市長の下に多くの人が集まって、遂に「国政に与(あず)かる勢力となるべき」ということで、「日本維新の会」という名の政党ができるとか。
で、とりあえず現国会議員で、正式に政党として旗揚げしなきゃならない。
そのために色々な政党から離れたメンバーで、とにかく発足させる。
そして、これを核(きっかけ?)にして、来る衆院選には各選挙区に候補者を置く。
各選挙区の候補者が、地元の人間で維新の会に入り、その政策に全面的に賛同する、ならいいけれど、そうでなければ大阪から落下傘候補を送り込む。
費用は全て自分持ち。「そのくらいの覚悟がなけりゃ政治なんかできない」、と発破をかける。
「何かやってくれそうな気がする」
「橋下さんの行動力・影響力は魅力的だ」
「民主は案外だったし、実力不足だけれど、自民だって総裁選でごたごたしてるだけだし」
テレビを見るとこんなのばかり。何だか不思議です。
「どこの国の話をしてるんだろう」と思う。
「何かやってくれそうな」って、国の将来のことですよ?博奕じゃあるまいし。
「行動力は魅力的」って、その行動力が何を目指しているのか考えたことあるんでしょうか。
「2万パーセント出ない」と言った人物です。全く信用のできない口約束と行動力が合わさればどんな結果を生むか。私のような能天気なおっさんだって、そのリスクの高さを考えたら二の足を踏む。
選挙は博奕じゃない。
国民一人ひとりが自らと国の命運を「代議士」に任せるのが国政選挙でしょう?
「我が国のことなのに、何だか他人事みたいなこと、言ってる」
と思います。
維新という言葉を用い、「船中八策」になぞらえて「維新八策」としているわけですが、内容がまだまだ、という評が為されています。
当然と思います。「策」であって、まだ、「案」でしかないのですから。
もっと言えば「維新」なんですから、ごたごたして当然。これまでのことを「一新」しようとすれば新たなことが次々に問題として出てくるものです。
「維新」は縦糸を換えるということでしょうから、これまでの社会の在り方を全て換える、「一新する」ということでしょう。
「明治維新」は、だから王政復古・天皇親政という形を採ることで幕藩体制をやめた。
だからと言って平安時代のような摂関政治でも、奈良時代のような律令制でもない、けれど天皇をいただいての御前会議から西欧の議会政治へとつなげていった。だからぐちゃぐちゃ。
「五箇条の御誓文」という、あんな立派な誓文が出された。「御誓文」の言葉通り、天皇が皇祖神に奉告する「政事の仕方」が書かれたものです。
ところが、同日に国民に向けて出された「五榜の掲示」は、一言で言えば「国民は従来通りの生活をせよ」というものでした。早い話が「今は慌てて動くな」ということです。
勿論、やくざの親分や、どこかの大国のように「私はいいんだがね。若い者は血の気が多いから何をするか分からない」、みたいないい加減なことではない。御誓文も五榜の掲示もそれなりの覚悟のもとで出されたものです。
ぐちゃぐちゃだけれど、確かにそれは明治「維新」、でした。
「維新」は革命ではありません。
革命は、政治を行う王室の「命」を「革(た)つ」ことですから、日本の場合で言えば、皇室を滅ぼして共和制にするか、新しく皇室を立てる(!)ことが革命ということになります。
共和制のことはさて置き、王室は「力」で前王室(王朝)を倒し、新しく「国王である」と名乗ることで成立しますが「皇室」、となるとそうはいきません。
現皇室の前に、別の皇室はない。
更に天皇は、(名目上は)神により王位を授けられる「王」室と違って、神(皇祖神)の子孫という形で天皇になることが「定められている」。
日本はそういう形で成り立っている国であり、その形は神武創業以来、一度も変わった(途切れた)ことはなかった。
その皇祖神以外の神が、つまり別の神が「子孫を天皇に」、という考えそのものが日本には存在しない。
一見、革命に似ているけれど、「維新」は社会の仕組みを変えはするものの、それは「力」でやるわけではないし、これまでの生活を全面否定するものではない。
そう見てくると、「日本維新の会」が「維新」を名乗るのは何とも不思議なことです。「維新」は天皇の命の下に行われるものなのですから。だから「御一新」と言われたのですから。
「維新の会」の目指すところは何だったでしょうか。「大阪都構想」、でしたね。
「『都』を二つ(以上)つくる。」
それは「今のままでは自由に動けないから」、でした。
「政治も経済も全て、各地域ごとに思いきり自由にやりたい。そのためには現在の東京への一極集中では駄目だ。地域に主権を!」ということでした。
「地域主権、とは何ごとか!それは独立国になるということじゃないか!」
と批判され、「地域主権」という言葉はいつの間にか「地域分権」に変わっていましたが、
「自治区単位が小さ過ぎる。これではまとまるものもまとまらない。無駄を省くために都府県制をやめて、日本も(韓国に倣って?)道州制にして『道州院』をつくって国政を行えば良い」
、と。
これ、「維新」、でしょうか?
国の在り方を変える。その目的は?
「政治も経済も各地域毎に、自由にやりたい」。
結局は「国民の生活が第一」、という考え方でしょう?
もっと言えば、国民の「生活が第一」。
「国なんかなくても良い」、につながる考え方ではありませんか?
これ、「維新」、でしょうか?ホントに?
註)
「国民一人ひとりが自らと国の命運を「代議士」に任せるのが国政選挙でしょう?」と書いていますが、何か変だなと思っていました。
これは「任せる」ではなく、「託す」でなければならない。
命を懸けて国政に挑む代議士に対し、見下すように「任せる」、などと言うのは失礼が過ぎました。自身の把握の曖昧さを改めて恥じています。
で、とりあえず現国会議員で、正式に政党として旗揚げしなきゃならない。
そのために色々な政党から離れたメンバーで、とにかく発足させる。
そして、これを核(きっかけ?)にして、来る衆院選には各選挙区に候補者を置く。
各選挙区の候補者が、地元の人間で維新の会に入り、その政策に全面的に賛同する、ならいいけれど、そうでなければ大阪から落下傘候補を送り込む。
費用は全て自分持ち。「そのくらいの覚悟がなけりゃ政治なんかできない」、と発破をかける。
「何かやってくれそうな気がする」
「橋下さんの行動力・影響力は魅力的だ」
「民主は案外だったし、実力不足だけれど、自民だって総裁選でごたごたしてるだけだし」
テレビを見るとこんなのばかり。何だか不思議です。
「どこの国の話をしてるんだろう」と思う。
「何かやってくれそうな」って、国の将来のことですよ?博奕じゃあるまいし。
「行動力は魅力的」って、その行動力が何を目指しているのか考えたことあるんでしょうか。
「2万パーセント出ない」と言った人物です。全く信用のできない口約束と行動力が合わさればどんな結果を生むか。私のような能天気なおっさんだって、そのリスクの高さを考えたら二の足を踏む。
選挙は博奕じゃない。
国民一人ひとりが自らと国の命運を「代議士」に任せるのが国政選挙でしょう?
「我が国のことなのに、何だか他人事みたいなこと、言ってる」
と思います。
維新という言葉を用い、「船中八策」になぞらえて「維新八策」としているわけですが、内容がまだまだ、という評が為されています。
当然と思います。「策」であって、まだ、「案」でしかないのですから。
もっと言えば「維新」なんですから、ごたごたして当然。これまでのことを「一新」しようとすれば新たなことが次々に問題として出てくるものです。
「維新」は縦糸を換えるということでしょうから、これまでの社会の在り方を全て換える、「一新する」ということでしょう。
「明治維新」は、だから王政復古・天皇親政という形を採ることで幕藩体制をやめた。
だからと言って平安時代のような摂関政治でも、奈良時代のような律令制でもない、けれど天皇をいただいての御前会議から西欧の議会政治へとつなげていった。だからぐちゃぐちゃ。
「五箇条の御誓文」という、あんな立派な誓文が出された。「御誓文」の言葉通り、天皇が皇祖神に奉告する「政事の仕方」が書かれたものです。
ところが、同日に国民に向けて出された「五榜の掲示」は、一言で言えば「国民は従来通りの生活をせよ」というものでした。早い話が「今は慌てて動くな」ということです。
勿論、やくざの親分や、どこかの大国のように「私はいいんだがね。若い者は血の気が多いから何をするか分からない」、みたいないい加減なことではない。御誓文も五榜の掲示もそれなりの覚悟のもとで出されたものです。
ぐちゃぐちゃだけれど、確かにそれは明治「維新」、でした。
「維新」は革命ではありません。
革命は、政治を行う王室の「命」を「革(た)つ」ことですから、日本の場合で言えば、皇室を滅ぼして共和制にするか、新しく皇室を立てる(!)ことが革命ということになります。
共和制のことはさて置き、王室は「力」で前王室(王朝)を倒し、新しく「国王である」と名乗ることで成立しますが「皇室」、となるとそうはいきません。
現皇室の前に、別の皇室はない。
更に天皇は、(名目上は)神により王位を授けられる「王」室と違って、神(皇祖神)の子孫という形で天皇になることが「定められている」。
日本はそういう形で成り立っている国であり、その形は神武創業以来、一度も変わった(途切れた)ことはなかった。
その皇祖神以外の神が、つまり別の神が「子孫を天皇に」、という考えそのものが日本には存在しない。
一見、革命に似ているけれど、「維新」は社会の仕組みを変えはするものの、それは「力」でやるわけではないし、これまでの生活を全面否定するものではない。
そう見てくると、「日本維新の会」が「維新」を名乗るのは何とも不思議なことです。「維新」は天皇の命の下に行われるものなのですから。だから「御一新」と言われたのですから。
「維新の会」の目指すところは何だったでしょうか。「大阪都構想」、でしたね。
「『都』を二つ(以上)つくる。」
それは「今のままでは自由に動けないから」、でした。
「政治も経済も全て、各地域ごとに思いきり自由にやりたい。そのためには現在の東京への一極集中では駄目だ。地域に主権を!」ということでした。
「地域主権、とは何ごとか!それは独立国になるということじゃないか!」
と批判され、「地域主権」という言葉はいつの間にか「地域分権」に変わっていましたが、
「自治区単位が小さ過ぎる。これではまとまるものもまとまらない。無駄を省くために都府県制をやめて、日本も(韓国に倣って?)道州制にして『道州院』をつくって国政を行えば良い」
、と。
これ、「維新」、でしょうか?
国の在り方を変える。その目的は?
「政治も経済も各地域毎に、自由にやりたい」。
結局は「国民の生活が第一」、という考え方でしょう?
もっと言えば、国民の「生活が第一」。
「国なんかなくても良い」、につながる考え方ではありませんか?
これ、「維新」、でしょうか?ホントに?
註)
「国民一人ひとりが自らと国の命運を「代議士」に任せるのが国政選挙でしょう?」と書いていますが、何か変だなと思っていました。
これは「任せる」ではなく、「託す」でなければならない。
命を懸けて国政に挑む代議士に対し、見下すように「任せる」、などと言うのは失礼が過ぎました。自身の把握の曖昧さを改めて恥じています。