CubとSRと

ただの日記

はるかに及ばぬ 一(一人の)日本人

2020年11月29日 | 心の持ち様
 2014.07/30 (Wed)
 
 日本のことを、まるで外国人が言うように「この国」という。
 この表現の仕方自体はいつ頃からあったのかは知らないが、世間に広がったのには、司馬遼太郎の発言が大きく係わっていると思って間違いないだろう。
 温度、体温?親密度、だろうか、「我が国」と言わず、敢えて「この国」ということによって、何だか距離を取っているように見える。
 こういうことによって冷静・客観的に見ているような感じだけれど、見下す、とまではいかずとも、あまり温かみは感じない。

 政治家に必要なのは冷たい血だ、と言うけれど、小説家に必要なものであるとは言えまい。
 政治家は理想の社会をつくるために働くのだが、芸術家は理想の社会を描くために働くのだ。
 しかし、理を現実のものとするためには冷たい血が必要ながら、その基となる絵を描くには熱い血が必要だ。
 そうなると、やはり政治家も、「この国」ではなく「我が国」、だろう。

 ここ数年耳障りになって来ている政治家の「この国」、という表現が、違和感なく聞けるのは、平沼赳夫議員くらいのものだろうか。
 あとは上滑りにしか見えない。言葉の「馬子にも衣装」だ。

 ついでながら、司馬遼太郎の名前は当然本名ではない。
 元々が兵庫県の三木の出身で「三木」と言うらしい。
 三木城の合戦で鳥取のカツ江さんと同じく秀吉の兵糧攻めに遭い大阪に逃げ延びた敗残者の子孫なのだそうだ。
 これまた当然みたいなことなのだが、三木は別所氏で、だから三木に「三木」さんはいない。
 だから司馬もずっとそう思い込んでいたけれど、余りにも迂闊だったと、恥ずかしがっている。(戸籍上は福田、らしい)

 「司馬遼太郎」の「司馬」は「司馬遷」の司馬。「遼」は「遼(はる)か」、「太郎」は日本人の一般的な名前。
 「司馬遷」に「遼」かに及ばぬ「一日本人」と言う意味なのだという。
 勿論、司馬の謙遜だろう。その謙虚さで歴史を見たいということなのだろう、とは思う。
 しかし、それに重ねて「この国」という言葉を多用されると、氏の歴史の見方は日本人でありながら、日本を数十センチ乃至は数十メートル上から見下しているような温かみのないものかもしれない、と思ってしまう。


 今回西村眞悟氏は日記でこんなことを書かれている。
  ↓
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

                   (略) 
 
 番組の冒頭、あの司馬さんが語った。
「終戦の日、なんという馬鹿なことをしたのだろうかと思った」
 この「衝撃」が、
 小説家司馬遼太郎の「原点」であると彼は語り、NHKの番組も、この「原点」に基づいて流れていった。

 大東亜戦争ーなんという馬鹿なことーをしたのだろうか、というのが司馬遼太郎の小説の「原点」ならば、彼は、我々が現在、そこから脱却しなければ我が国家の存続を確保できないと思い定めている「戦後という時代」の代表的作家である。即ち、「国民的作家」だ。

 学生寮に住んでいた二十歳代の頃、司馬遼太郎の「龍馬が行く」や「坂の上の雲」また「国盗り物語」などをよく読んだ。
 三十歳代の後半に入った頃、馴染みになったキタ(大阪の繁華街)のスナックのカウンターに座っていると、顔見知りの初老の紳士が、司馬遼太郎の、言うてること、だんだん鼻についてきたなあ」と言った。
 その人は、司馬遼太郎と同じ世代の方だった。私は、世代は違うが、「鼻についてきた」というその方の表現が実に適切だと思った。
 司馬さんと同じ世代は、陸軍士官学校でいえば、五十六、五十七および五十八期であろう。
 私の知っている陸士のこの期の人々は、岳父も含めて戦争のことは語らなかった。そして、司馬さんもNHKの番組で、戦争のことは語らなかったと言われていた。
 しかし、司馬さんは、実に、実に、よく語ったではないか。
 何しろ、「なんと馬鹿なことをした」=「敗戦の衝撃」が、小説家司馬さんの「原点」なんだから、必然的に彼の小説は、如何に「馬鹿なことをした」かを、繰り返し繰り返し、バッハの曲のように奏でることになる。
 それは、つまり、司馬さんと同世代の従軍兵士や戦死者が「馬鹿なことをしたなかで死んでいった」と繰り返すことに他ならない。
 スナックのカウンターで、司馬さんの同世代から、「鼻についてきた」と聞いたときから、自然に司馬さんの講演や評論に触れなくなった。そのうちに、我らはこの「国民的作家」を失った。

 とはいえ、司馬遼太郎は、私の二十歳代によく読んだ懐かしい小説家である。
 特に、三島由紀夫が市ヶ谷台で自決した翌日の毎日新聞朝刊に掲載されていた司馬遼太郎の評論の鋭さには舌を巻いた。抜群の力量であった。
 それで、NHKの放送があった翌日、本棚に司馬さんの随筆「ある運命について」があったので取り出して少し読んだ。
 冒頭の広瀬武夫を描いた司馬遼太郎独特の表現が「鼻につく」という表現を思い返させてくれて懐かしかった。
「広瀬は単に存在したのではなく、濃厚に江戸期を背負っていた・・・それらが発酵し、さらにくだって明治中期までに成人したひとびとのなかでさえしばしばそれが蒸留されつづけていることを見出す。そのうちの一滴が広瀬であると思うと、彼の精神のひびきを伝える詩文は、すべて後世においてもはや再生されることはない。」
 
 次に、「旅順と日本の近代の愚かさ」という表題の随想。
「日露戦争における旅順要塞の攻撃というのは、日本が西洋の思想と、知識でもってではなく肉体でもって激突した最初の体験といっていい。」というこれまた独特の表現で始まる。
 そして、続く。
「軍人というものが戦争の専門家であるとすれば、なぜこんなばかな戦争指導をしたのか、いま考えても薄気味悪いほどの無能さというほかない。」
 これ以降は、読むのを止めた。読まなくとも分かる。

 なお、戦車隊の士官となった司馬遼太郎さんは、陸軍戦車学校に学んだ。その時の教官は、池田末男大佐だった。
 池田大佐は、司馬さんが「なんと馬鹿なことをした」と慨嘆した終戦時、千島最北端の占守島にいた。そして、池田大佐と彼が率いる六十四両の戦車を擁する戦車第十一聯隊には、司馬さんのように「慨嘆」に浸る暇はなかった。翌々日の八月十七日、ソビエト軍が約一万の兵力で占守島に武力侵攻してきたからである。
 池田末男大佐は、聯隊を率いて勇戦奮闘して戦死する。
 龍馬を描き、日露戦争における秋山好古を描いた作家である司馬遼太郎は、何故、終戦後に北の果ての孤島で敢闘した勇者、戦車学校の教官であり戦車第十一聯隊長池田末男大佐を描かなかったのか。
 これを司馬さんに聞いてみたい。

 これから、司馬遼太郎さんに関しては、「台湾紀行」をはじめとする「街道をゆく」シリーズだけを読み返してみようと思う。

                  (以下略)

        「ここ数日に感じ、また語ったこと」
                    
                  ~眞悟の時事通信より~

 http://www.n-shingo.com/cgibin/msgboard/msgboard.cgi?page...

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 ここからは私の日記の再掲です。
     ↓
 大阪外語大蒙古語学科を出た三木青年は、「史記」を書いた司馬遷に、「遼(はるか)に及ばぬ日本の男子(太郎)」、という意味から、司馬遼太郎と名告って、小説を書く。「日本は、どこから、道を間違えたのか」、と。

 そして、日清戦争の時は、洋々たる希望を胸に生きていたけれど、日露戦争の辺りから、怪しくなったのではないか、と思い始める。

 軍神と讃えられた乃木将軍に、凡庸の将という評価を定着させたのは司馬遼太郎の力、と言っても良いかもしれない。

 かれは、いつも、人間の目より高いところから、人を見る。数十メートル高いところから、人の展開する歴史を見る。
 「我が国のかたち」ではなく、「この国のかたち」を見る。「この国のかたち」として、日本の過去、現在、未来を、そして、人間の関わり合いを掴もうとする。
 「岡目八目」、だ。確かに見える。だが、切実さは、ない。離れている分、体温の温もりが伝わらず、分かりにくい。
 「悲惨な戦争」を見て、感情的に反戦主義者になった風ではない。

 けれど、日本から一歩離れて(少しの高みから)見ることが、歴史を掴むことを可能にはしたものの、「さて、それでは、これからどうする」といった「熱情」は、生まれるべくもない。

 
 「この国」という言い方は、そういうことなのだ。冷静に、客観的に見ている雰囲気がある。
 「自国に対して劣等感を抱いてきた」、或いは「他国に対して申しわけないことを先祖がやって来た」、という意識を抱いてきた者は、無意識のうちに自国を客観視することをよしとする。「思い遣っている」わけだ。
 ただし、深層の話だ。当人は気がついてない。

 今、急激に「この国」、という評論家的姿勢の人が増えている。
 幾多の売国法案に危機を感じるのは、底流に「この国」と見る人の増大があるからだ。

 追 「鳥取のカツ江さん」
 全国でゆるキャラが流行った時、「鳥取でもゆるキャラを」ということでキャラクターを公募したことがある。それに対して兵糧攻めにあってがりがりにやせ細り、魚の骨を手にした何とも悲惨なキャラクターデザインが応募作として出された。注目はされたもののキャラクターとしてはふさわしくないとされ、落選。それに対して「一定数の支持があるのに、落選させていいのか」と問題になった。
 「カツ江さん」の名は「兵糧攻めに遭って飢えている(飢える=かつえる)」から付けられた。
コメント
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