所要で近くに行ったので、長男と善光寺に参拝しました。いつでも行けるという思いもあってか、帰郷してから一度も行っていませんでした。前の記事のK氏とメールのやり取りをしていて、彼が善光寺の起源について調べているというので、久しぶりに寄ってみようかなと思いました。
実は長野県立歴史館で、調べ物をしていて、『信濃古代史考』大和岩雄著(大和書房)という厚い本を見つけました。非常に高度で専門的な内容で、「信濃と古代ヤマト王権」「信濃と渡来人」「信濃の神と神社」 の三つの視点から、現代の長野県人の原点である“古代の信濃”を俯瞰し、探求する。とありますが、前知識がないと全くちんぷんかんぷんだと思います。脇に歴史辞書を置いて、検索しながら読みますか。善光寺の起源についても触れられていたので、帰ってAmazonで中古本を注文しました。届くのが楽しみです。『信濃が語る古代氏族と天皇 善光寺と諏訪大社の謎』関裕二著(祥伝社新書)も。加えて『善光寺コード–––諏訪御柱の守護秘術』長尾 晃著(鳥影社)も。ただ古代史というのは、実証歴史主義で証明できる要素が少ないので、記紀の記述にしても完全に史実と思うのは危険ですが。
(左)南長野運動公園の南西の端にある勘助宮の石碑。山本勘助がこの辺りで戦死したと伝わる場所です。小春日和の温かい日でした。(中)昔は北小森集落の建御名方神(タケミナカタノカミ)を祀る諏訪社だったそうです。それを地元の人がいつしか勘助宮と呼ぶようになったとか。(右)勘助宮から南を見ると、上杉軍が布陣したという妻女山が見えます。手前左が赤坂山(現在の妻女山)、軽自動車の上の手前の山が斎場山(旧妻女山・本陣)、右へ薬師山(笹崎山)。中央奥の三角は天城山(てしろやま)。左奥は、武田別働隊が越えたという大嵐の峯。最期の勘助は、ここでどんな景色を見たのでしょうか。
◉『第四次川中島合戦』啄木鳥戦法の検証【妻女山里山通信】(勘助の発案といわれるが、当時軍師という職はなかった)
(左)参拝の前に、安茂里の19号沿いにある女性三人が切り盛りする「やばね食堂」へ。(中)私はA定食700円を。豚鶏スープの優しい味の醤油ラーメン。塩辛くはありません。無化調でしょう。半カレー付きですが、充分に一人前あります。小麦粉とカレー粉を炒めた様なこれも辛くはない優しい味。ポテトサラダ、ゴーヤの漬物、沢庵、鮭とデザートに熟れ熟れの柿。(右)息子の鍋焼きうどん700円。熱々で非常にボリュームがあります。これも優しい味。結局カレーはほとんど彼に食べてもらいました。一番高い定食が、ジンギスカン定食850円。安いのが目玉焼き定食400円。手作りの餃子やもつ煮も美味しそうです。
(左)店内は昭和レトロな感じ。小上がりもあります。(中)メニュー。半カレーであの量ですからカツカレー750円て相当なボリュームだと思います。(右)お店は高台にあり、鏡台山や五里ヶ峯や斎場山、妻女山も見えます。お勧めです。さて、午後は牛に引かれてではなく、車に乗せられて善光寺参り。
(左)善光寺事務局の横にひっそりとある地震塚。善光寺地震の慰霊碑。1847年5月8日(弘化4年3月24日)に発生した大地震で、犠牲者は死者総数8,600人強。善光寺御開帳の期間で、全国からの参拝者も犠牲になったと思われます。(中)仲見世通りから見る仁王門。寒いので、帰りに仁王門手前の左の店に女将さん手作りの甘酒200円とあったので飲みました。もちろん砂糖は無添加で麹のコクの有る甘さが美味でした。おやきも売っています。(右)山門方向。七五三の家族がたくさん参拝に来ていました。ホテルオークラ東京でやった息子達の七五三のお祝いが昨日の様に思えるのですが…。23日はえびす講の煙火大会です。
(左)非常に大きな山門。拝観料は500円ですが、<三堂拝観(本堂お戒壇巡り/史料館・山門・経蔵)大人1000円・高校生400円・小中学生100円>なので、こちらを利用されるといいと思います。(中)境内案内図。非常に広いのでもらうべきですね。(右)大勧進。この日は結婚式が行われていました。宝物館は一見の価値があります。
外国人も含め大勢の参拝客が訪れていました。冬にはオーストラリア人、春節の頃は中国人で溢れます。内部は撮影禁止です。健康の神様賓頭盧(びんずる)尊者の周りは人でいっぱい。閻魔大王の周りは閑散。お戒壇めぐりは何度もして極楽の錠前にも触っているので今回はパス。内部は真っ暗ですが、触れるコツは、右の壁を上下に大きくこすりながら進むことです。必ず触れます。前の人がガチャガチャ音を鳴らすとだいたいの場所の見当がつきます。お戒壇めぐりは東から入って北へ曲がり東へまがって南に戻る四角いコースですが、鍵は北の面にあり、それはある小部屋の鍵です。実は鍵の写真を見たことがあるのですが、小部屋の中に何があるのかは分かりません。御本尊でしょうか。
◉信州 善光寺 公式サイト ©善光寺
大きな本堂ですが、実は奥行きがもの凄いのです。最後の写真で分かります。林業関係の息子が、これだけの太い材を何百本も集めるのは現代では不可能と言っていました(太柱は煩悩と同じ108本)。丸い柱を見ると木目がねじれているのが分かると思います。これはスパイラルグレインといって樹木の特性です。内側と外側が逆巻きになるものが多いのです。それで強度を増すわけです。正面の四角い柱はねじれていますが、これはその特性を活かしたものか、乾燥が足りなかったか、予測ミスか。私には分かりません。
巨樹伐採が問題視されていますが難しい問題です。善光寺の回向柱を今探していますが、かなり困難だと思います。諏訪系神社の御柱も大木が沢山必要です。平城京平安京の時代には寺社建築で近隣の巨木が切り尽くされ、拙書にも記しましたが、江戸時代後期に書かれた『遠山奇談』では大火で炎上した東本願寺の再建のため信州中を歩いたことが綴られています。大木を育てるには世代を超えた育成が必要です。すぐに結果を求める現代人には最も苦手な事案かもしれませんが、それは必要なことだと思います。人は刹那にしか生きられないからこそ永遠を願う想いが必要なのです。それが次世代に繋がるのです。アマゾンのある部族は、ジャングルは子孫から預かったものとして大切にしたそうです。彼らを未開人などという資格は我々にはありません。
本堂は間口23.89m、高さ25.82m、奥行き53.67mの規模を持つ江戸中期建築。敷地面積でいうと東大寺大仏殿、三十三間堂に次ぐ日本で3番目の大きさです。これだけ大きなお寺が、奈良や京都でなく信州にあるという事実が凄いと思います。
実は江戸時代に、善光寺に五重塔を建てようという計画がありました。千曲市の森の岡地にある「岡地天満大自在神社」(岡地天満宮)には、幻の善光寺五重塔建立のための試作品とされる名工・立川和四郎富棟作の「惣金厨子」があります。また、正和2年(1313)3月に焼失した善光寺、金堂以下の諸堂再建工事の折、用材を伐採、「長さ十丈ばかりの材木が空中を飛翔して、その工事を助けた、という「飛柱の異」という言い伝えがあります。五重塔は結局、幕府の許可がおりずに幻となりました。これから建てられないものでしょうか。
善光寺は、不思議な歴史をもった寺院です。諏訪社と深い関係があり、大祝の金刺氏とも。善光寺・本堂の最奥、内々陣には「守屋柱」という柱があります。「物部氏 守屋氏 善光寺」で検索すると色々出てきます。善光寺は、聖徳太子と蘇我氏により滅ぼされた物部守屋の鎮魂の寺という人もいます。ミシャグジ神、アラハバキとの関係は? 調べるほど謎が深まる古刹です。出雲系ともいわれる物部氏はどこから来たのか。後から入った大和系は。私は古代中国の呉と越に関係するのではと色々研究をしています。秦の始皇帝を結局は欺いた日本中にある古代ユダヤ人ともいわれる徐福伝説も考慮すべきと思います。世界史と日本史を分けて学んではいけないのです。
◉まぼろしの善光寺五重塔
◉佐久間象山大砲試射地から諏訪立川流山門の興正寺。象山の定宿だった伴月楼へ。象山神社と松代城(妻女山里山通信)
◉藤森照信氏の神長官守矢史料館・高過庵・空飛ぶ泥舟と、諏訪大社上社前宮と本宮へ(妻女山里山通信):善光寺の起源を調べると諏訪社は欠かせない。神長官守矢史料館は必見!
(左)ワインやジャムのサンクゼール: St.Cousair門前店。飯綱高原にはレストランも。その向こうは、七味唐辛子で有名な八幡屋礒五郎本店。亡父は生前、若い頃に先々代だと思うのですが、ご主人にわざわざ作り方を習いに行き、毎冬に薬研で七味唐辛子を作っていました。子供の頃に手伝ったことがあるのですが、くしゃみが止まらなくなって無理でした。(中)その右隣にある藤屋御本陳。昔は旅館だったのですが、現在は結婚式場やレストランなど。この三店はお勧めです。(右)帰りは武井神社に寄りました。以前木彫の保全作業をしました。そして息子の案内で、アウトドアショップの「NATURAL ANCHORS(ナチュラル アンカーズ)」へ。息子に店主の戸谷さんを紹介してもらい話をしました。拙書やブログの紹介も。分かりにくいところですが、レアなものが置いてある興味深いお店です。
◉NATURAL ANCHORSってどんなところ? 編集者・ライターの小久保よしのさんの非常にいいルポです。
◉妻女山の貝母が満開。ベニヤマザクラにクサボケも。善光寺三社の武井神社で保全作業(妻女山里山通信)
(左)そこから小径をたどって城山公園へ戻ります。途中の非常に古い橋。鉄板を巻いて補強してあります。脇の石碑には、城山懸社新道開設者 田島式左衛門の石碑が。明治廿年十一月十九日と。懸社とは、この上の横山城跡に鎮座する健御名方富命彦神別神社のことで、善光寺の守護神です。(中)萬佳亭の前を通って城山公民館への途中右手に、息子がとんでもないものを発見してしまいました。この塔の所有者は市に連絡してくださいって書いてあるのです。灯台でしょうか。そんなに古そうでもないし、明治か大正のものですかね。近所の古老で知っている人はいないのでしょうか。普通は銘板があるのにそれもないですし、不思議です。(右)城山小学校の上の道から善光寺。奥行きが非常に長いのが分かります。葛山の黄葉も盛りを過ぎました。翌日は長野市北部や里山の頂上には初雪が降りました。拙書でも紹介の冠着山(姨捨山)や聖山の山頂は真っ白です。
今回久しぶりに長野の中心街を歩いたのですが、観光拠点としてそれなりに充実している善光寺界隈はともかく、それ以外が酷い。特に長野駅周辺は県庁所在地の駅前とは思えないほど酷い。古いビルばかり。他の県と比べると目を覆いたくなります。駅前にドンキではねえ。駅前のホテルも古いし施設や規模やサービスも国際的には通用しないレベルです。デパートもひとつしかないし。個々には素敵なお店やゲストハウスなどもあるのですが。再開発が進む松本にどんどん引き離されている感じ。街造りのコンセプトが全く見えませんね。どうするつもりなんでしょうか。同じ北陸新幹線の金沢駅と比べると凍りつきます。あちらは世界一美しい駅なんていわれてますが。今では私よりこの辺りを知る東京育ちの息子も苦笑いしていました。
◆『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。在京中は、エディトリアル・アートディレクターやデザイン・プロデューサーをしていた経験の集大成でもあります。
★本の概要は、こちらの記事を御覧ください。
★お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
実は長野県立歴史館で、調べ物をしていて、『信濃古代史考』大和岩雄著(大和書房)という厚い本を見つけました。非常に高度で専門的な内容で、「信濃と古代ヤマト王権」「信濃と渡来人」「信濃の神と神社」 の三つの視点から、現代の長野県人の原点である“古代の信濃”を俯瞰し、探求する。とありますが、前知識がないと全くちんぷんかんぷんだと思います。脇に歴史辞書を置いて、検索しながら読みますか。善光寺の起源についても触れられていたので、帰ってAmazonで中古本を注文しました。届くのが楽しみです。『信濃が語る古代氏族と天皇 善光寺と諏訪大社の謎』関裕二著(祥伝社新書)も。加えて『善光寺コード–––諏訪御柱の守護秘術』長尾 晃著(鳥影社)も。ただ古代史というのは、実証歴史主義で証明できる要素が少ないので、記紀の記述にしても完全に史実と思うのは危険ですが。
(左)南長野運動公園の南西の端にある勘助宮の石碑。山本勘助がこの辺りで戦死したと伝わる場所です。小春日和の温かい日でした。(中)昔は北小森集落の建御名方神(タケミナカタノカミ)を祀る諏訪社だったそうです。それを地元の人がいつしか勘助宮と呼ぶようになったとか。(右)勘助宮から南を見ると、上杉軍が布陣したという妻女山が見えます。手前左が赤坂山(現在の妻女山)、軽自動車の上の手前の山が斎場山(旧妻女山・本陣)、右へ薬師山(笹崎山)。中央奥の三角は天城山(てしろやま)。左奥は、武田別働隊が越えたという大嵐の峯。最期の勘助は、ここでどんな景色を見たのでしょうか。
◉『第四次川中島合戦』啄木鳥戦法の検証【妻女山里山通信】(勘助の発案といわれるが、当時軍師という職はなかった)
(左)参拝の前に、安茂里の19号沿いにある女性三人が切り盛りする「やばね食堂」へ。(中)私はA定食700円を。豚鶏スープの優しい味の醤油ラーメン。塩辛くはありません。無化調でしょう。半カレー付きですが、充分に一人前あります。小麦粉とカレー粉を炒めた様なこれも辛くはない優しい味。ポテトサラダ、ゴーヤの漬物、沢庵、鮭とデザートに熟れ熟れの柿。(右)息子の鍋焼きうどん700円。熱々で非常にボリュームがあります。これも優しい味。結局カレーはほとんど彼に食べてもらいました。一番高い定食が、ジンギスカン定食850円。安いのが目玉焼き定食400円。手作りの餃子やもつ煮も美味しそうです。
(左)店内は昭和レトロな感じ。小上がりもあります。(中)メニュー。半カレーであの量ですからカツカレー750円て相当なボリュームだと思います。(右)お店は高台にあり、鏡台山や五里ヶ峯や斎場山、妻女山も見えます。お勧めです。さて、午後は牛に引かれてではなく、車に乗せられて善光寺参り。
(左)善光寺事務局の横にひっそりとある地震塚。善光寺地震の慰霊碑。1847年5月8日(弘化4年3月24日)に発生した大地震で、犠牲者は死者総数8,600人強。善光寺御開帳の期間で、全国からの参拝者も犠牲になったと思われます。(中)仲見世通りから見る仁王門。寒いので、帰りに仁王門手前の左の店に女将さん手作りの甘酒200円とあったので飲みました。もちろん砂糖は無添加で麹のコクの有る甘さが美味でした。おやきも売っています。(右)山門方向。七五三の家族がたくさん参拝に来ていました。ホテルオークラ東京でやった息子達の七五三のお祝いが昨日の様に思えるのですが…。23日はえびす講の煙火大会です。
(左)非常に大きな山門。拝観料は500円ですが、<三堂拝観(本堂お戒壇巡り/史料館・山門・経蔵)大人1000円・高校生400円・小中学生100円>なので、こちらを利用されるといいと思います。(中)境内案内図。非常に広いのでもらうべきですね。(右)大勧進。この日は結婚式が行われていました。宝物館は一見の価値があります。
外国人も含め大勢の参拝客が訪れていました。冬にはオーストラリア人、春節の頃は中国人で溢れます。内部は撮影禁止です。健康の神様賓頭盧(びんずる)尊者の周りは人でいっぱい。閻魔大王の周りは閑散。お戒壇めぐりは何度もして極楽の錠前にも触っているので今回はパス。内部は真っ暗ですが、触れるコツは、右の壁を上下に大きくこすりながら進むことです。必ず触れます。前の人がガチャガチャ音を鳴らすとだいたいの場所の見当がつきます。お戒壇めぐりは東から入って北へ曲がり東へまがって南に戻る四角いコースですが、鍵は北の面にあり、それはある小部屋の鍵です。実は鍵の写真を見たことがあるのですが、小部屋の中に何があるのかは分かりません。御本尊でしょうか。
◉信州 善光寺 公式サイト ©善光寺
大きな本堂ですが、実は奥行きがもの凄いのです。最後の写真で分かります。林業関係の息子が、これだけの太い材を何百本も集めるのは現代では不可能と言っていました(太柱は煩悩と同じ108本)。丸い柱を見ると木目がねじれているのが分かると思います。これはスパイラルグレインといって樹木の特性です。内側と外側が逆巻きになるものが多いのです。それで強度を増すわけです。正面の四角い柱はねじれていますが、これはその特性を活かしたものか、乾燥が足りなかったか、予測ミスか。私には分かりません。
巨樹伐採が問題視されていますが難しい問題です。善光寺の回向柱を今探していますが、かなり困難だと思います。諏訪系神社の御柱も大木が沢山必要です。平城京平安京の時代には寺社建築で近隣の巨木が切り尽くされ、拙書にも記しましたが、江戸時代後期に書かれた『遠山奇談』では大火で炎上した東本願寺の再建のため信州中を歩いたことが綴られています。大木を育てるには世代を超えた育成が必要です。すぐに結果を求める現代人には最も苦手な事案かもしれませんが、それは必要なことだと思います。人は刹那にしか生きられないからこそ永遠を願う想いが必要なのです。それが次世代に繋がるのです。アマゾンのある部族は、ジャングルは子孫から預かったものとして大切にしたそうです。彼らを未開人などという資格は我々にはありません。
本堂は間口23.89m、高さ25.82m、奥行き53.67mの規模を持つ江戸中期建築。敷地面積でいうと東大寺大仏殿、三十三間堂に次ぐ日本で3番目の大きさです。これだけ大きなお寺が、奈良や京都でなく信州にあるという事実が凄いと思います。
実は江戸時代に、善光寺に五重塔を建てようという計画がありました。千曲市の森の岡地にある「岡地天満大自在神社」(岡地天満宮)には、幻の善光寺五重塔建立のための試作品とされる名工・立川和四郎富棟作の「惣金厨子」があります。また、正和2年(1313)3月に焼失した善光寺、金堂以下の諸堂再建工事の折、用材を伐採、「長さ十丈ばかりの材木が空中を飛翔して、その工事を助けた、という「飛柱の異」という言い伝えがあります。五重塔は結局、幕府の許可がおりずに幻となりました。これから建てられないものでしょうか。
善光寺は、不思議な歴史をもった寺院です。諏訪社と深い関係があり、大祝の金刺氏とも。善光寺・本堂の最奥、内々陣には「守屋柱」という柱があります。「物部氏 守屋氏 善光寺」で検索すると色々出てきます。善光寺は、聖徳太子と蘇我氏により滅ぼされた物部守屋の鎮魂の寺という人もいます。ミシャグジ神、アラハバキとの関係は? 調べるほど謎が深まる古刹です。出雲系ともいわれる物部氏はどこから来たのか。後から入った大和系は。私は古代中国の呉と越に関係するのではと色々研究をしています。秦の始皇帝を結局は欺いた日本中にある古代ユダヤ人ともいわれる徐福伝説も考慮すべきと思います。世界史と日本史を分けて学んではいけないのです。
◉まぼろしの善光寺五重塔
◉佐久間象山大砲試射地から諏訪立川流山門の興正寺。象山の定宿だった伴月楼へ。象山神社と松代城(妻女山里山通信)
◉藤森照信氏の神長官守矢史料館・高過庵・空飛ぶ泥舟と、諏訪大社上社前宮と本宮へ(妻女山里山通信):善光寺の起源を調べると諏訪社は欠かせない。神長官守矢史料館は必見!
(左)ワインやジャムのサンクゼール: St.Cousair門前店。飯綱高原にはレストランも。その向こうは、七味唐辛子で有名な八幡屋礒五郎本店。亡父は生前、若い頃に先々代だと思うのですが、ご主人にわざわざ作り方を習いに行き、毎冬に薬研で七味唐辛子を作っていました。子供の頃に手伝ったことがあるのですが、くしゃみが止まらなくなって無理でした。(中)その右隣にある藤屋御本陳。昔は旅館だったのですが、現在は結婚式場やレストランなど。この三店はお勧めです。(右)帰りは武井神社に寄りました。以前木彫の保全作業をしました。そして息子の案内で、アウトドアショップの「NATURAL ANCHORS(ナチュラル アンカーズ)」へ。息子に店主の戸谷さんを紹介してもらい話をしました。拙書やブログの紹介も。分かりにくいところですが、レアなものが置いてある興味深いお店です。
◉NATURAL ANCHORSってどんなところ? 編集者・ライターの小久保よしのさんの非常にいいルポです。
◉妻女山の貝母が満開。ベニヤマザクラにクサボケも。善光寺三社の武井神社で保全作業(妻女山里山通信)
(左)そこから小径をたどって城山公園へ戻ります。途中の非常に古い橋。鉄板を巻いて補強してあります。脇の石碑には、城山懸社新道開設者 田島式左衛門の石碑が。明治廿年十一月十九日と。懸社とは、この上の横山城跡に鎮座する健御名方富命彦神別神社のことで、善光寺の守護神です。(中)萬佳亭の前を通って城山公民館への途中右手に、息子がとんでもないものを発見してしまいました。この塔の所有者は市に連絡してくださいって書いてあるのです。灯台でしょうか。そんなに古そうでもないし、明治か大正のものですかね。近所の古老で知っている人はいないのでしょうか。普通は銘板があるのにそれもないですし、不思議です。(右)城山小学校の上の道から善光寺。奥行きが非常に長いのが分かります。葛山の黄葉も盛りを過ぎました。翌日は長野市北部や里山の頂上には初雪が降りました。拙書でも紹介の冠着山(姨捨山)や聖山の山頂は真っ白です。
今回久しぶりに長野の中心街を歩いたのですが、観光拠点としてそれなりに充実している善光寺界隈はともかく、それ以外が酷い。特に長野駅周辺は県庁所在地の駅前とは思えないほど酷い。古いビルばかり。他の県と比べると目を覆いたくなります。駅前にドンキではねえ。駅前のホテルも古いし施設や規模やサービスも国際的には通用しないレベルです。デパートもひとつしかないし。個々には素敵なお店やゲストハウスなどもあるのですが。再開発が進む松本にどんどん引き離されている感じ。街造りのコンセプトが全く見えませんね。どうするつもりなんでしょうか。同じ北陸新幹線の金沢駅と比べると凍りつきます。あちらは世界一美しい駅なんていわれてますが。今では私よりこの辺りを知る東京育ちの息子も苦笑いしていました。
◆『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。在京中は、エディトリアル・アートディレクターやデザイン・プロデューサーをしていた経験の集大成でもあります。
★本の概要は、こちらの記事を御覧ください。
★お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。