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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

長野市新諏訪町にある諏訪神社の太々神楽(神楽屋台)(妻女山里山通信)

2017-11-14 | 歴史・地理・雑学
 妻女山里山デザイン・プロジェクトのメンバーでもあり、寺社彫刻と宮彫師の研究家であるK氏から、長野市新諏訪町の諏訪神社にある、石川流の宮彫師 山嵜儀作(やまざきぎさく)が明治17年に作ったという神楽屋台が5年ぶりに公開され、その解説講演をするのですが来ませんかと連絡をもらいました。彼が本当に木彫が細かくて素晴らしいのですというので興味津々、長男を誘って出かけました。ところでこの新諏訪町なんですが、国土地理院の地図には諏の字にわざわざ「ず」とルビを振ってあるのです。本家の諏訪に配慮してのことなのでしょうか。

(左)想像以上に細かな木彫が散りばめられた総欅造りの見事な神楽です。(中)K氏の解説講演が始まりました。地区の人が大勢集まりました。彼を研究家への道へのきっかけを作った私も紹介していただきました。(右)手作りのパネルも非常に分かり易いものでした。

(左)各部分の木彫について、何が彫られているのか、また時代的な意味なども話してくれました。全ての意匠には込められた意味があるのです。少し難しくなりますが、後の構造主義に影響を与えたソシュール言語学でいうシニフィアン(意味するもの・記号表現)とシニフィエ(意味されるもの・記号内容)。昔の人も言語学などの知識はなくても、それを意識して表現する知恵や技術は持っていたのです。(中)右側面。とにかく造作の細かさと精緻さに驚かされます。まさに超絶技巧。(右)松に鶴。元は中国の「松鶴長春」の様ですが、夫婦の不老長春を願う目出度い図案です。

 左側面の木彫。上の勇ましい男の木彫は、「力神」といい古代中国の天と地を分けた神(盤古)に由来すると説明がありました。日本では天手力男神『古事記』や天手力雄神『日本書紀』というアメノタヂカラオ神のことでしょうね。天照大神を天岩戸から引きずり出した神です。神楽各部の名称は、手挟(たばさみ)虹梁(こうりょう)木鼻(きばな)蟇股(かえるまた)妻飾(つまかざり)懸魚(げぎょ)等、色々あって難しいのですが、興味のある方は調べてみるといいと思います。
 左右には「七難即滅、七福即生」の七福神が彫られています。大黒天(だいこくてん)、毘沙門天(びしゃもんてん)、恵比寿天(えびすてん)、寿老人(じゅろうじん)、福禄寿(ふくろくじゅ)、弁財天(べんざいてん)、布袋尊(ほていそん)ですね。

 右側面。三脚を持っていかなかったので少し手ブレしていますが、扉の周囲にも右には鷹、左には鶴があしらわれています。

(左)鬼板には諏訪大社の御神紋である梶葉紋が。諏訪大社上社の梶紋は「諏訪梶」といい、木の根に当たる部分が4本、これに対して下社の梶紋は「明神梶」といい、根に当たる部分が5本なのですが、庶家や氏子はこの様に根のないものを使用したということです。(中)四隅にある木鼻には獅子の木彫。口の中のみ丹塗(にぬり)で紅く彩色されています。(右)布袋尊の広げる巻物に明治十七年と記されています。K氏によると、明治十六年の九月に受注し制作を始めた様です。

(左)精緻な彫金があちこちに見られます。(中)彫金も非常に細かな細工です。私は彫金もかじったことがあるのですが、非常に難しいです。木彫もですが、失敗したらやり直しができないですから。今ならコンピューター制御のルーターでできますけどね。でも全て同じ様にはできないと思います。(右)制作費は50円だとか。明治16年に政府が決めた基準では、『1家3人で年収70円、4~5人で年収120円 … が中等、それ以上が上等、それ以下が下等と区分する。』とありますが、仏像を彫る仏師とは異なり、宮彫師は職人扱いだったため社会的地位も高くはなかった様です。

 スサノオノミコト(素戔嗚尊・須佐之男命)のヤマタノオロチ(八岐大蛇・八俣遠呂智)退治の木彫。生贄にされそうになっていた櫛名田比売(奇稲田姫・くしなだひめ)を助け、妻とします。大国主命はその後裔になります。垂木の先端にも細かな彫金のカバーがされています。
 この頃は、明治政府が天皇制を堅固なものにするため、廃仏毀釈をしたり、南方熊楠が猛反対した合祀令を発布したりしています。長野市では400のお堂が次々に廃止され、残ったのはわずか16でした。現在復活したものを入れても40だそうです。これは大規模な文化破壊で、多くの貴重な仏像や仏具などが破壊されたり海外へ流出しました。明治維新は、欧米の巨大な金融勢力が薩長の田舎侍を使って傀儡政権を作ったクーデターでした。興味のある方は、田布施システムで検索を。
【民俗学】岩野村の伊勢講と仏恩講(ぶっとんこう)。戌の満水と廃仏毀釈。明治政府の愚挙(妻女山里山通信):講の歴史と意味。
 信州『松代里めぐり 清野』発刊と戌の満水など千曲川洪水の歴史 (妻女山里山通信):洪水と大地震に翻弄された歴史。

 保存方法などの質問なども受けて4時過ぎにお開きになりました。K氏は、長野にあるこういう見事な神楽を集めて長野駅に展示したら、非常にいい観光の目玉になると思いますと言っていました。外国人観光客にも受けるでしょうね。もちろん湿度が一定に保たれた丈夫なケースが必要ですが。(左)長男が富士ノ塔山へ登って帰らない?と。この時間では無理だろうと言うと、ほとんど山頂まで車で行けるからというので連れて行ってもらいました。途中の小田切の国見のイチイの大木。相当古いと思います。この先から狭い林道に入りクネクネと登ります。(中)山頂直下にある四阿は、元小田切村立尋常小学校の玄関の一部を移転したものだそうです。(右)山頂への入り口にある「小田切八景」の碑。

 暮れる善光寺平。ちょうど雲がかかった中央が鏡台山で、その一番手前が妻女山や斎場山、薬師山になります。いつもはあちら側から見ているので、新鮮な風景です。右は茶臼山。そのずっと奥は冠着山(姨捨山)。

 望遠で撮ってみました。左に雲がかかった鏡台山。一番手前が妻女山や斎場山、薬師山。中央奥は五里ヶ峯。その左奥に霞むのは蓼科山。ずっと右は美ヶ原。盆地に見える斜めの直線は北陸新幹線。街の明かりが灯り始めました。さむいです。

 右手を見ると茶臼山の尾根が南北に伸びています。茶臼山の自然植物園が見えます。その向こうに千曲川の流れが光っています。その奥は姨捨駅辺り。

(左)富士ノ塔の案内。一名を浅間山、国見山というそうです。(中)標高は998mなんですが、この様に2mの台が設置してあり、1000mと記してあります。う〜むちょっといじましいかな。山頂は滋野御三家の流れをくむ土豪小田切氏の砦だった様です。(右)詩吟「川中島懐古」。戸隠方面は雪雲の中でした。
 麓からの登山道は、南面の志奈埜市神社(しなのいちじんじゃ)手前の松ヶ丘小学校裏からがお勧めです。山頂までは2時間ぐらい。

 妻女山展望台から見た富士ノ塔山と善光寺平(川中島)。すっかり晩秋の風景です。この週末は、雪マークがつきました。慌ててスタッドレスに履き替えている人も多いでしょう。

K氏のブログです。
『北信濃寺社彫刻と宮彫師』―天賦の才でケヤキに命を吹き込んだ名人がいた―

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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