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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

ガイドに載っていない川中島合戦の史跡!(妻女山里山通信)

2009-06-07 | 歴史・地理・雑学
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 いずれも、里俗伝では有名な第四次川中島合戦の史跡なのですが、色々な事情があって、たぶんどこのガイドブックやサイトにも載っていないマニアックな場所です。興味のある方は自己責任で訪れてみてください。

【斎場山】
私の「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をご覧になった方は、既にご存じと思いますが、『甲陽軍鑑』に西条山(さいじょうざん)と誤記された斎場山ですが、江戸時代中期より妻女山と改名され読みも変わりました。昭和47年以降は、国土地理院により旧赤坂山が妻女山となり、妻女山の名称の移動に伴って謙信本陣も斎場山から現妻女山へ移るという妙なことが起きてしまいました、事情を知らない県外の歴史研究家や小説家が、そのことを広めたために赤坂山が謙信本陣と思われてしまったのです。里俗伝では、斎場山の山頂にある円墳の上が謙信本陣跡といわれているのです。
●行き方:妻女山松代招魂社の南の駐車場から右手の林道に入り、15分ほど登って峠に出たら三叉路を右へ100mほど登り、右手に高い円墳が見えたら斎場山です。蜂に注意。私有地。また、斎場山がもっともよく見える場所は、岩野橋と新赤坂橋の中間の堤防上です。斎場山を本陣として、右に笹崎(薬師山)、左に赤坂(妻女山)と鳥が翼を広げたような尾根に上杉軍がずらりと布陣した様が想像できると思います。麓の斎場原(山と川の間、現在は家と畑)にも軍勢がいたということです。

【陣場平】
謙信本陣が斎場山にあったのは、信玄の軍勢が千曲川対岸にいた時といわれています。その後信玄は全軍を海津城下に入れてしまいます。すると本陣の眼下には誰もいないというおかしな状況になってしまうわけです。里俗伝では、謙信は斎場山から更に天城山方面へ10分ほど登った海津城が眼下に見える非常に広い尾根上に陣城を築いたといいます。そこが陣場平と伝わっています。『甲陽軍鑑』の編者といわれる小幡景憲の『河中島合戰圖 』では、陣場平辺りに七棟の陣小屋が描かれ、謙信公御陣所と記されています。現在は、林や草原で夏場はヤブになってしまいますが、冬枯れの季節だと非常に広い場所であることが分かります。標識や説明看板はありませんが、近くに堂平大塚古墳の大きな標柱があり、その東側に陣場平が広がっています。
●行き方:妻女山松代招魂社の南の駐車場から右手の林道に入り、15分ほど登って峠に出たら三叉路を左へ10分ほど登り古墳の標柱が見えたら、その左側の高原が陣場平です。熊鈴必携。夏場はオオスズメバチに注意。私有地。4月中旬から薬草の貝母が咲きますが、非常に強い毒草でもあるので絶対に持ち帰らないように。

【月夜平】
その陣場平からやや南側、天城山(てしろやま)方面の尾根から東側斜面が清野の字(あざ)月夜平です。『甲越信戦録』に、「甘粕近江守は月夜平に」布陣、と書かれています。陣場平より南東方向に延びた尾根の上に「物見台」という平地があります。狩野文庫所蔵の『川中島謙信陳捕ノ圖』には、清野大村の西の尾根上に月夜平と書かれています。現在は、林になっており物見台ではなくなっています。
●行き方:清野大村の林正寺の北側に延びる尾根上が月夜平の物見台です。明瞭な道はありません。藪こぎ覚悟で登ってください。古峯神社の裏手から登る方法もありますが、いずれもヤブ山です。妻女山松代招魂社の南の駐車場から左手の林道倉科坂線に入り、15~20分歩くと物見台上の尾根に出ます。私有地。

【滑澤橋(勘太郎橋)】
 勘太郎橋の由来(現地の看板より)
 この橋は、延享年間(1744)北国東街道の清野川に架橋された木橋でありました。その時、工事を担当した棟梁の名をとって勘太郎橋と言われました。旧藩時代、公式の送迎の場でもあり別名わかれの勘太郎橋とも言われ、幾多の歴史的浪漫を秘めた場所でもあります。明治27年(1894)碓井第四トンネルをつくった岩野の南次郎三郎が郷土の水害防止のため、逆流防止の水門と橋とを兼ねた石橋を設計、完成しました。石材は松代産柴石で英国式インチ寸法を用い、アーチ工法で、その美しい仕上りは、旧国鉄のトンネルの坑門を思わせます。昭和60年、土地改良事業で取り壊される運命にあったこの橋を、本会では、県及び地元関係者に陳情し、御理解を戴き、立派に解体復元出来ました。先人の業績を忍び後世に永く維持保存される事を願います。
平成四年八月吉日   勘太郎橋保存会

ということなのですが、この橋は、その昔は「滑澤橋」といいました。『甲越信戦録』に出てきます。

『松代町史上巻』(第四次川中島合戦)
 高坂昌信は謙信春日山を発すと聞きこれを防がんと途中まで兵を出して奮闘すれども越軍の威風に当たるべくもあらざるより引き返して海津城に楯籠(たてこも)った。越軍大室にありて城中の動静を伺い遂に出発して可候峠を越えた。されど城兵戦うことの不利を知り固く城を守って出でず。故に越軍一挙にして山を下り小稲澤(藤澤川)鰐澤(関谷川)を渡り多田越(象山の南)を越えて清野に出で十六日に妻女山に陣を取った。この時既に直江山城守は先鋒として赤坂の上(現在の妻女山)より滑澤橋(勘太郎橋)に備え、甘粕近江守は月夜平(陣場平より物見台にかけて)に、宇佐見駿河守は岩野の十二河原(斎場原から千曲川河原)に、柿崎和泉守は土口笹崎(薬師山)に陣を構えて殺気天に満ちた。

千曲川流域で2800人の死者を出した、寛保2年(1742)の「戌の満水」後に松代藩は千曲川の流れを変える大改修工事に着手し、宝暦10年(1760)ころ現在の流れになったわけですが、それ以前は、戦国時代も含めておおよそ現在の長野電鉄の線路の北側に沿うように流れていたということです。そして海津城の脇へと続いていました。瀬直しと呼ばれる大改修工事の後は、海津城の700mほど西へ川が移されたわけです。滑澤橋は、清野川が千曲川に流れ込むすぐ手前にあったと思われます。

●行き方:長野電鉄屋代線の象山口駅の踏切から西(松代と反対方向)へ100mほど行き、一本目の角を左へ曲がった突き当たり、線路のすぐ北側に勘太郎橋(石造りのアーチ橋)があります。

【蛇池】
これは、現在はありません。妻女山の展望台直下の高速道路辺りに、高速ができる少し前まで二つの池がありました。千曲川の旧流の名残です。謙信槍尻の泉もそこに流れ込んでいました。そこから北西方向に川式(川敷)という地名がありますが、千曲川の旧流の証として地名が残っています。江戸時代の天明年間に谷街道が開設されるまで、妻女山の際まで千曲川が蛇行し、その北は氾濫原でした。戦国時代も千曲川は妻女山にぶつかるように南流して清野の奥の方まで流れ込んでいたと思われます。西の笹崎の先は、雨宮の渡まで南流。つまり、斎場山、赤坂山は、西北東を千曲川に囲まれた天然の要害だったのです。謙信が布陣した大きな理由のひとつでしょう。渡は、雨宮と広瀬にしかなく、間の斎場山、赤坂山北部は広大な氾濫原だったのです。歴史研究家はこの千曲川旧流の検証を忘れています。

■千曲川の洪水と普請
寛保2年(1742年)8月1日、2日 戌の満水 妻女山(赤坂山)下蛇池は千曲川の旧流の一部だった。

延享4年(1747年)洪水のあと、何本かに分かれて流れていたうちの一つを掘り下げて流れを変えようとした。
宝暦12年(1762年)新しく掘り下げた川筋に川は流れたが、それまでの流れ(古川 )にも同時に流れていた。
宝暦13年(1763年)になっても、松代道は勘太郎橋を渡って南に大きく湾曲しており、地蔵の木から妻女山をこえて土口に下っていた。

天明元年(1781年)に行われた「国役御普請」これで谷街道開通か。つまり蛇池旧流の消滅。

享和4年(1804年)の千曲川災害満水。
文化4年(1807年)に「国役御普請」「水刎」というものを石を使って30間築いた。

弘化4年(1847年)7月8日 善光寺地震。
嘉永元年(1848年)から嘉永5年 松代藩のお手普請。嘉永年間の小森の史料にも対岸へ集めた石を船で小森の方へ運んだという史料がある。

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