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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

戸隠連峰朝夕冬景色(妻女山里山通信)

2008-12-01 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 1561(永禄4)年、上杉謙信と武田信玄による第四次川中島合戦の舞台、岩野十二河原越しに望む戸隠連峰の朝と夕方の風景です。まるで戸隠の雄姿を見せるためのように手前の山が、そこの部分だけ低くなり、一服の絵のように見えます。右の葛飾北斎の描いた富士山に似た形の山は高妻山です。鷺の群が高く千曲川の上を飛んでいきました。

 「アメリカ被れの神無き個人(利己)主義者達」によって、美しかった日本の文化も伝統も葬り去られた現在ですが、ここ千曲川の堤防から望む風景は、一瞬昔のままのような錯覚を覚えるほどです。しかし、「みんな違っていい」という孤立と拒絶が蔓延する風潮は、この風景の中にも確実に潜んでいるのです。

 永禄4年の9月09日、信玄は軍議を開き山本勘助献策の呉の将軍・孫武による兵法書『孫子』より半進半対の術(啄木鳥戦法)を取り入れ、高坂昌信を主将とする別働隊を西条の入より戸神山脈に向かわせ、斎場山の背後を攻撃させようと目論みます。信玄は8000の兵と八幡原へ、本陣を構えまたと伝わっています。
 9月10日、上杉政虎は、海津城の炊飯の煙の多さで夜襲を察知、主力を率いて深夜に斎場山(妻女山)を下山。濃霧の中を雨宮の渡を渡り、川中島に出ました。そこで、武田軍と遭遇。きびすを返し武田軍に襲いかかりました。この時の妻女山は、円墳のある斎場山のことで現在の妻女山は、赤坂山あるいは単に赤坂と呼ばれていました。

 戦場となった川中島には、戦争目当ての武器商人や娼婦も集まり、奴隷市場まで開かれたといいます。乱取りの際には、火を放ち、略奪し、女子供を誘拐して売り飛ばしたと記されています。この美しい風景からは、そんな悲惨な過去の光景は想像することもできませんが、惨劇は確かにあったのです。善光寺大地震、戌の満水と悲劇は続きましたが、その度に先人達は雑草のように萌えあがりこの信濃の国を作り上げてきたのです。アルプス(飛騨山脈)や戸隠連峰は、その全てを見てきたに違い有りません。
 
 斎場山(本当の妻女山)や赤坂山(現在の妻女山)の麓は、現在長芋を掘る作業が最盛期を迎えています。この妻女山麓の長芋は、火山灰土のものに比べて味が濃いのでファンが多いのです。特に冬越しの長芋の旨さは特筆ものです。とろろはもちろんですが、薩摩揚げや長芋100パーセントのお好み焼きにすると最高です。卵にチーズやベーコンを入れたパンケーキも美味。長芋料理は、MORI MORI RECIPE(モリモリ レシピ)をご覧ください。

 川中島合戦と古代科野の国の重要な史蹟としての斎場山については、私の研究ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をご覧ください。

 赤坂山(妻女山)から鞍骨山(鞍掛山)へのトレッキング・フォトドキュメントは、「鞍骨城トレッキングルポ」をご覧ください。上杉景勝と直江兼続が見たかも知れない壮大な風景がご覧いただけます。

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