晴れていると忙しく、明日は行けるかなと思うと氷雨だったりと、妻女山ともご無沙汰でしたが、やっと撮影に行けました。紅葉やキノコ狩りの季節も終わり、山は積雪期を前に閑寂としています。生憎の曇り空で、北の山では雪模様になっているのが見て取れました。
まず、妻女山里山デザイン・プロジェクトの仲間とやっているシイタケ栽培の場所へ。前回まだ小さかったので残してきたものを確認に行きました。育っていましたねえ。雨が多かったので、傘が割れたドンコにはなっていませんが、肉厚でいいシイタケです。6本ほど収穫。加えて10本ほどが出始めています。
林道を登って行くと、まだ緑が多いことに驚かされます。リョウメンシダとヤブソテツは、冬のニホンカモシカの食料にもなります。カンスゲは、食痕を見たことはありません。シイタケは、噛った痕を見たことがありますが、積極的に食べることはなさそうです。色々なものを食べるということが、氷河期から生き延びた理由のひとつでしょう。他にはミツバアケビやヤマガシュウの葉の緑が残っています。ミツバアケビの葉もニホンカモシカは食べます。ロゼット(根生葉)も沢山出ていますが、これらは、雪の下で越冬して春を待ちます。
5番目のカーブの先で、落葉松の風倒木を発見。軽トラックは通れそうですが、いずれ片付けなければいけません。ところが、撮影を終えて帰りに見ると、誰かがチェーンソーで落としてくれていました。森林組合の人が伐採作業をしていたので、切ってくれたのでしょうか。感謝です。助かりました。
長坂峠へ行くと北風が吹き付けて凍えました。分岐を右へ行くとすぐに斎場山(旧妻女山)。第四次川中島合戦の時に、上杉謙信が最初に本陣を置いたと伝わる場所で、山頂は円墳です。分岐を左へ行くと信玄が海津城に全軍を入れた後、謙信が陣城を建て本陣を置いたと伝わる陣場平を経て天城山(てしろやま)。この山頂にも円墳があります。
仙人草が咲いていたギャップを訪れると、種になっていました。それでも花の面影が残ります。満開時には、ブライダルブーケの様な清楚さと華やかさを誇り、野草の中では、一二を争うほどのいい香りを振り撒きます。目にも鮮やかなカラコギカエデの落ち葉が、林道の真ん中にありました。
長坂峠から250mほど林道を歩くと陣場平入り口。ちょうど写真の正面の切岸の上が陣場平になります。写真矢印の踏跡を50mほど登ると陣場平。『甲陽軍鑑』の編者・小幡景憲の絵図には、ここに七棟の陣小屋が建てられたことが描かれています。昔は灌木やバラが生い茂り、とても入れなかったのですが、私が2年ほどかけて除伐し、現在は春に編笠百合が咲く桃源郷に変わり、オオムラサキや小鳥も来るようになりました。
冬枯れで、松代城方面も見えるようになりました。信濃柿(豆柿)が木になったまま干し柿になっています。これらは鳥の餌や、落果すると狸などの餌になります。クスサンという蛾の繭、スカシダワラがありました。幼虫は白髪太郎といって、昔は5mもある長い腸をとりだして、釣りのテグス(天蚕糸)として使ったそうです。成虫は翅を広げると10センチ近くもありますが、口が退化してありません。そのため8-9月に出現するとなにも食べずに過ごし、交尾出産するとすぐに死んでしまいます。
山桜に上から下までびっしりと 多孔菌科のハカワラタケが付いていました。広葉樹の枯れ木に発生する木材腐朽菌(木材に含まれる難分解性のリグニン、セルロース、ヘミセルロースを分解する能力を持つもの。ダイオキシンもまた分解する事から利用が進められている。wiki)森の掃除屋さんですね。
陣場平を抜けると、タラノキの冬芽に出会いました。今年はクスサンの繭が少なめです。鮮やかな緑が、冬枯れの森で非常によく目立つので、例年ならちょっと歩いて20や30は見つかるのですが。今回は、たった3つでした。これを沢山集めて布を織る男性を知っています。清野古墳への山の斜面で美しい苔を見つけました。苔の同定も難しいです。スギゴケ科であることは間違いだろうと思うのですが、種類までは分かりません。ウマスギゴケでしょうか?
天城山(手城山:てしろやま)手前の痩せ尾根まで来ました。ここから尾根通しで戻ります。鞍骨城跡が見えます。ここから1時間ぐらいです。山城マニアがよく訪れるようになりました。以前ろうあ者の若い夫婦が5歳ぐらいの男の子と登って下りてきたので、自分で登ったの?偉いね、凄いねと言ったら、ニコニコしてペコちゃんキャラメルをくれました。
清野古墳は二基、ヤセ尾根上にあります。清野古墳1は、隣にもうひとつ石室があると生前の父に聞いたことがあります。夫婦でしょうか。清野古墳2は、かなり崩壊が進んでいます。ここを30mほど下ると、登山道に出ます。
山桜の倒木のある森の中へ。なんとムキタケがまだありました。前回ヒラタケを1.5キロ採った倒木にもヒラタケがひとつ。どちらも今回は採りませんでした。胞子を撒き散らしてもらいましょう。その後、昨年急逝した山仲間のKさんのログハウスへ。現在は、身内の方が管理されていますが、彼が毎日のように来ていた頃と違い、ひと気が少なくなったので、猪など野生動物の痕跡があちこちに見られるようになりました。ログハウスでお茶を飲んで一休み。
帰りに斎場山(旧妻女山)へ。二段の墳丘裾がある北信でも最大級の円墳です。山頂は円形で、ここに上杉謙信が盾を敷き、陣幕で囲い、床几を据えて猿楽に興じた、或いは謡を唄ったともいわれています。冬枯れと獣害対策の除伐で、川中島が見えるようになりました。ここから西へ、旗塚とも呼ばれる塚が七基並んでいます。古墳時代後の県司、郡司の墓ではないでしょうか。その脇の森の中に、落葉松の倒木の穴を掘り広げた猪のヌタ場(泥浴び場)があります。ヌタ場としては、例外的に大きなものです。一昨年、この近くで140キロの巨大なオス猪が罠にかかったことがあります。やつが掘ったのでしょう。満月の蒸し暑い夜に、星を見上げながらこの水風呂に浸かったのでしょうか。今回、残念だったのは野生動物と出会えなかったことです。積雪期になれば、アニマルトラッキングができるので待ちましょう。
その先に、御陵願平と呼ばれる平地があります。よく見ると大きく二段に分かれていて、私はここが上杉謙信が庇護していたために、武田信玄により焼かれてしまったという会津比売神社があった場所ではと推察しています。会津比売命は、諏訪大社の祭神建御名方神(タケミナカタノカミ)の孫で(つまり大国主の命のひ孫で出雲系)、森将軍塚の埋葬者といわれる、聖武天皇より科野国の国造を任じられた神武天皇の後裔といわれる武五百建命(タケイオタツノミコト:つまり大和系)の妻といわれています。
関連記事★上杉謙信も庇護した妻女山(斎場山)の祭神、会津比売命について(妻女山里山通信)
帰路に見つけたアオツヅラフジ。有毒ですが、薬にもなります。コバノガマズミの実は、抗酸化作用が強く、いいリキュールができます。
樹状に土の塊が。ドロバチの巣ですね。もう壊れかかっていて宿主はいません。天蚕と呼ばれるヤママユガの繭。これも集めると美しい絹織物ができます。
有毒のヒヨドリジョウゴ。有毒の実は、虫も鳥も食べないことが多いいので、いつまでも残っています。冬の森の宝石と私は呼んでいるのですが、間違っても口にしてはいけません。ただ、微量だと薬にもなります。友人の医師はそういう研究もしているようですが、そこが閾値のない、完全有毒の放射性物質との決定的な違いなのです。
妻女山展望台から茶臼山の眺め。中央が茶臼山で、左の小さな三角が崩壊した南峰です。左手前の青い屋根の倉庫の右に、農道が2本平行に右上から左下にありますが、この間が千曲川の旧流の跡です。川式(敷)という地名がそれを物語っています。川は、妻女山に突き当たると右へ流れました。眼下の高速道路ができる前は、ここに蛇池という旧流の痕跡を示す池がありました。戦国当時は、この流れだったと思われます。
写真の右の千曲川河川敷は岩野十二川原といって戦記にも出てくる地名ですが、当時は堤防がなかったので、流れは川敷だけでなくいくつにも分流していたのでしょう。右の方の畑を起目沖といいますが、江戸時代後期の大洪水の戌の満水後の瀬直しで出来上がった(起き上がった)畑なのです。この地方では、畑に行くことを沖へ出ると昔は言ったそうです。尾根の先端には、韮崎とか関崎とかの様に、崎の字が付くのも特徴です。松代の古名、海津は会津比売命から来ているともいわれています。津とは港を指します。千曲川は、千曲市の塩崎で折れると突然流れが非常に緩やかになります。そのため、古代より河川輸送の港が発達したのでしょう。
眼下の畑は長芋畑ですが、多くは掘り終わっています。長芋はインフルエンザの予防効果があるそうです。とろろや山かけもいいのですが、お好み焼きに入れると上品に、エビや牡蠣やイカのしんじょ、ヒコイワシやアジのさつま揚げになどすると、料亭料理になります。お試しください。
最後に、会津比売神社に立ち寄りました。現在は山陰にひっそりと佇んでいます。ここが古代科野国の産土神(うぶすながみ)という祭神の終の社かと思うと寥々とした気持ちになります。上杉謙信鞍掛けの松の石碑がありますが、もちろん明治以降のものです。松も先代は枯れてしまい何代目か分かりません。そもそも鞍掛の松の伝説自体が怪しい。まあ、歴史なんてそんなものです。時の権力が都合のいいように捏造するのが、古今東西世の常です。
さて、北信の冬の味覚といえば、野沢菜漬けですね。今年は野沢菜の生育がよく、甘みも乗ったようです。うちは、荒塩と煮干し(放射能検査済み)と鷹の爪だけしか使いません。それでも年を明けて乳酸発酵し、飴色になった野沢菜は美味いのです。まさに滋味。これのじゃこチャーハンや福建炒飯は、息子達が大好きです。カブもおやきにすると絶品です。信州を訪れた時は、ぜひ即席漬けのではなく、少々高くなりますが、添加物のない本漬けの野沢菜漬けをお求めください。雪の深々と降る寒い夜に炬燵にあたりながら野沢菜漬けを食べ、世話に興じるのが信州人のライフスタイルです。信州人が、日本のアイルランド人とかギリシャ人とかいわれる所以です。ただ、くれぐれも「俺に言わせりゃあ。」が口癖の信州人にはお気をつけください(笑)。
★妻女山については、「妻女山」「妻女山 行き方」「妻女山 地図」「斎場山」「さいじょざん」「さいじょうざん」や、妻女山の歴史研究のページ「妻女山の位置と名称について」をお読みください。
今晩から雪なので、選挙の明日の朝は、この風景が真っ白でしょう。
★茶臼山や妻女山山系の自然については、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真など。蝶の写真はこちらにたくさんあります。
★ネイチャーフォトのスライドショーは、【Youtube-saijouzan】をご覧ください。粘菌やオオムラサキ、ニホンカモシカのスライドショー、トレッキングのスライドショーがご覧頂けます。
まず、妻女山里山デザイン・プロジェクトの仲間とやっているシイタケ栽培の場所へ。前回まだ小さかったので残してきたものを確認に行きました。育っていましたねえ。雨が多かったので、傘が割れたドンコにはなっていませんが、肉厚でいいシイタケです。6本ほど収穫。加えて10本ほどが出始めています。
林道を登って行くと、まだ緑が多いことに驚かされます。リョウメンシダとヤブソテツは、冬のニホンカモシカの食料にもなります。カンスゲは、食痕を見たことはありません。シイタケは、噛った痕を見たことがありますが、積極的に食べることはなさそうです。色々なものを食べるということが、氷河期から生き延びた理由のひとつでしょう。他にはミツバアケビやヤマガシュウの葉の緑が残っています。ミツバアケビの葉もニホンカモシカは食べます。ロゼット(根生葉)も沢山出ていますが、これらは、雪の下で越冬して春を待ちます。
5番目のカーブの先で、落葉松の風倒木を発見。軽トラックは通れそうですが、いずれ片付けなければいけません。ところが、撮影を終えて帰りに見ると、誰かがチェーンソーで落としてくれていました。森林組合の人が伐採作業をしていたので、切ってくれたのでしょうか。感謝です。助かりました。
長坂峠へ行くと北風が吹き付けて凍えました。分岐を右へ行くとすぐに斎場山(旧妻女山)。第四次川中島合戦の時に、上杉謙信が最初に本陣を置いたと伝わる場所で、山頂は円墳です。分岐を左へ行くと信玄が海津城に全軍を入れた後、謙信が陣城を建て本陣を置いたと伝わる陣場平を経て天城山(てしろやま)。この山頂にも円墳があります。
仙人草が咲いていたギャップを訪れると、種になっていました。それでも花の面影が残ります。満開時には、ブライダルブーケの様な清楚さと華やかさを誇り、野草の中では、一二を争うほどのいい香りを振り撒きます。目にも鮮やかなカラコギカエデの落ち葉が、林道の真ん中にありました。
長坂峠から250mほど林道を歩くと陣場平入り口。ちょうど写真の正面の切岸の上が陣場平になります。写真矢印の踏跡を50mほど登ると陣場平。『甲陽軍鑑』の編者・小幡景憲の絵図には、ここに七棟の陣小屋が建てられたことが描かれています。昔は灌木やバラが生い茂り、とても入れなかったのですが、私が2年ほどかけて除伐し、現在は春に編笠百合が咲く桃源郷に変わり、オオムラサキや小鳥も来るようになりました。
冬枯れで、松代城方面も見えるようになりました。信濃柿(豆柿)が木になったまま干し柿になっています。これらは鳥の餌や、落果すると狸などの餌になります。クスサンという蛾の繭、スカシダワラがありました。幼虫は白髪太郎といって、昔は5mもある長い腸をとりだして、釣りのテグス(天蚕糸)として使ったそうです。成虫は翅を広げると10センチ近くもありますが、口が退化してありません。そのため8-9月に出現するとなにも食べずに過ごし、交尾出産するとすぐに死んでしまいます。
山桜に上から下までびっしりと 多孔菌科のハカワラタケが付いていました。広葉樹の枯れ木に発生する木材腐朽菌(木材に含まれる難分解性のリグニン、セルロース、ヘミセルロースを分解する能力を持つもの。ダイオキシンもまた分解する事から利用が進められている。wiki)森の掃除屋さんですね。
陣場平を抜けると、タラノキの冬芽に出会いました。今年はクスサンの繭が少なめです。鮮やかな緑が、冬枯れの森で非常によく目立つので、例年ならちょっと歩いて20や30は見つかるのですが。今回は、たった3つでした。これを沢山集めて布を織る男性を知っています。清野古墳への山の斜面で美しい苔を見つけました。苔の同定も難しいです。スギゴケ科であることは間違いだろうと思うのですが、種類までは分かりません。ウマスギゴケでしょうか?
天城山(手城山:てしろやま)手前の痩せ尾根まで来ました。ここから尾根通しで戻ります。鞍骨城跡が見えます。ここから1時間ぐらいです。山城マニアがよく訪れるようになりました。以前ろうあ者の若い夫婦が5歳ぐらいの男の子と登って下りてきたので、自分で登ったの?偉いね、凄いねと言ったら、ニコニコしてペコちゃんキャラメルをくれました。
清野古墳は二基、ヤセ尾根上にあります。清野古墳1は、隣にもうひとつ石室があると生前の父に聞いたことがあります。夫婦でしょうか。清野古墳2は、かなり崩壊が進んでいます。ここを30mほど下ると、登山道に出ます。
山桜の倒木のある森の中へ。なんとムキタケがまだありました。前回ヒラタケを1.5キロ採った倒木にもヒラタケがひとつ。どちらも今回は採りませんでした。胞子を撒き散らしてもらいましょう。その後、昨年急逝した山仲間のKさんのログハウスへ。現在は、身内の方が管理されていますが、彼が毎日のように来ていた頃と違い、ひと気が少なくなったので、猪など野生動物の痕跡があちこちに見られるようになりました。ログハウスでお茶を飲んで一休み。
帰りに斎場山(旧妻女山)へ。二段の墳丘裾がある北信でも最大級の円墳です。山頂は円形で、ここに上杉謙信が盾を敷き、陣幕で囲い、床几を据えて猿楽に興じた、或いは謡を唄ったともいわれています。冬枯れと獣害対策の除伐で、川中島が見えるようになりました。ここから西へ、旗塚とも呼ばれる塚が七基並んでいます。古墳時代後の県司、郡司の墓ではないでしょうか。その脇の森の中に、落葉松の倒木の穴を掘り広げた猪のヌタ場(泥浴び場)があります。ヌタ場としては、例外的に大きなものです。一昨年、この近くで140キロの巨大なオス猪が罠にかかったことがあります。やつが掘ったのでしょう。満月の蒸し暑い夜に、星を見上げながらこの水風呂に浸かったのでしょうか。今回、残念だったのは野生動物と出会えなかったことです。積雪期になれば、アニマルトラッキングができるので待ちましょう。
その先に、御陵願平と呼ばれる平地があります。よく見ると大きく二段に分かれていて、私はここが上杉謙信が庇護していたために、武田信玄により焼かれてしまったという会津比売神社があった場所ではと推察しています。会津比売命は、諏訪大社の祭神建御名方神(タケミナカタノカミ)の孫で(つまり大国主の命のひ孫で出雲系)、森将軍塚の埋葬者といわれる、聖武天皇より科野国の国造を任じられた神武天皇の後裔といわれる武五百建命(タケイオタツノミコト:つまり大和系)の妻といわれています。
関連記事★上杉謙信も庇護した妻女山(斎場山)の祭神、会津比売命について(妻女山里山通信)
帰路に見つけたアオツヅラフジ。有毒ですが、薬にもなります。コバノガマズミの実は、抗酸化作用が強く、いいリキュールができます。
樹状に土の塊が。ドロバチの巣ですね。もう壊れかかっていて宿主はいません。天蚕と呼ばれるヤママユガの繭。これも集めると美しい絹織物ができます。
有毒のヒヨドリジョウゴ。有毒の実は、虫も鳥も食べないことが多いいので、いつまでも残っています。冬の森の宝石と私は呼んでいるのですが、間違っても口にしてはいけません。ただ、微量だと薬にもなります。友人の医師はそういう研究もしているようですが、そこが閾値のない、完全有毒の放射性物質との決定的な違いなのです。
妻女山展望台から茶臼山の眺め。中央が茶臼山で、左の小さな三角が崩壊した南峰です。左手前の青い屋根の倉庫の右に、農道が2本平行に右上から左下にありますが、この間が千曲川の旧流の跡です。川式(敷)という地名がそれを物語っています。川は、妻女山に突き当たると右へ流れました。眼下の高速道路ができる前は、ここに蛇池という旧流の痕跡を示す池がありました。戦国当時は、この流れだったと思われます。
写真の右の千曲川河川敷は岩野十二川原といって戦記にも出てくる地名ですが、当時は堤防がなかったので、流れは川敷だけでなくいくつにも分流していたのでしょう。右の方の畑を起目沖といいますが、江戸時代後期の大洪水の戌の満水後の瀬直しで出来上がった(起き上がった)畑なのです。この地方では、畑に行くことを沖へ出ると昔は言ったそうです。尾根の先端には、韮崎とか関崎とかの様に、崎の字が付くのも特徴です。松代の古名、海津は会津比売命から来ているともいわれています。津とは港を指します。千曲川は、千曲市の塩崎で折れると突然流れが非常に緩やかになります。そのため、古代より河川輸送の港が発達したのでしょう。
眼下の畑は長芋畑ですが、多くは掘り終わっています。長芋はインフルエンザの予防効果があるそうです。とろろや山かけもいいのですが、お好み焼きに入れると上品に、エビや牡蠣やイカのしんじょ、ヒコイワシやアジのさつま揚げになどすると、料亭料理になります。お試しください。
最後に、会津比売神社に立ち寄りました。現在は山陰にひっそりと佇んでいます。ここが古代科野国の産土神(うぶすながみ)という祭神の終の社かと思うと寥々とした気持ちになります。上杉謙信鞍掛けの松の石碑がありますが、もちろん明治以降のものです。松も先代は枯れてしまい何代目か分かりません。そもそも鞍掛の松の伝説自体が怪しい。まあ、歴史なんてそんなものです。時の権力が都合のいいように捏造するのが、古今東西世の常です。
さて、北信の冬の味覚といえば、野沢菜漬けですね。今年は野沢菜の生育がよく、甘みも乗ったようです。うちは、荒塩と煮干し(放射能検査済み)と鷹の爪だけしか使いません。それでも年を明けて乳酸発酵し、飴色になった野沢菜は美味いのです。まさに滋味。これのじゃこチャーハンや福建炒飯は、息子達が大好きです。カブもおやきにすると絶品です。信州を訪れた時は、ぜひ即席漬けのではなく、少々高くなりますが、添加物のない本漬けの野沢菜漬けをお求めください。雪の深々と降る寒い夜に炬燵にあたりながら野沢菜漬けを食べ、世話に興じるのが信州人のライフスタイルです。信州人が、日本のアイルランド人とかギリシャ人とかいわれる所以です。ただ、くれぐれも「俺に言わせりゃあ。」が口癖の信州人にはお気をつけください(笑)。
★妻女山については、「妻女山」「妻女山 行き方」「妻女山 地図」「斎場山」「さいじょざん」「さいじょうざん」や、妻女山の歴史研究のページ「妻女山の位置と名称について」をお読みください。
今晩から雪なので、選挙の明日の朝は、この風景が真っ白でしょう。
★茶臼山や妻女山山系の自然については、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真など。蝶の写真はこちらにたくさんあります。
★ネイチャーフォトのスライドショーは、【Youtube-saijouzan】をご覧ください。粘菌やオオムラサキ、ニホンカモシカのスライドショー、トレッキングのスライドショーがご覧頂けます。