信濃の千曲市一帯は、国指定史跡の埴科古墳群(森将軍塚古墳・倉科将軍塚古墳・有明山将軍塚古墳・土口将軍塚古墳)があります。森将軍塚古墳を始まりとして4~8世紀初頭頃に古代科野国があったとされる地です。その中にこの堂平大塚古墳があります。戦国時代には川中島合戦で上杉謙信が斎場山に布陣した時に、陣用水として用いたという蟹澤の泉が近くにあります。
堂平大塚古墳は、写真で分かる様に横穴式です。横穴式石室をもつ古墳は追葬が可能で古墳時代後期のものです。つまり何人も何世代も埋葬できるということです。前方後円墳の土口将軍塚古墳が4世紀中頃から5世紀前半に造られたもので、斎場山古墳と天城山の坂山古墳が5世紀前半から後半以降、堂平古墳は5世紀後半から6世紀ということでしょうか。位置関係でいうと上下など少し疑問な点もあるのですが。
堂平には、この南の蟹沢(がんざわ)を挟んで南西の中腹にも平地があり、そこには数基の積石塚古墳が残っています。しかし、多くは戦乱や、その後の桑畑などでの開墾で壊されてしまいました。もし、全てが現存していれば、大室古墳群に匹敵する史跡となっていたかもしれません。大室古墳群と同様に、ここも渡来人と深い関係があるものと思われます。尚、積石塚古墳へは全く道がありません。昔の山道も途中で消えてしまいます。私は何度も訪れていますが、地元の人でも知る人はわずかです。
写真にある古墳の周りの石垣がいつの時代のものかは不明です。堂平古墳群ということで、これ以外にも積石塚古墳がいくつかありますが、畑の土止めや、それ以前には戦国時代の城塞などに使われたかもしれません。現在は雑木林や植林帯に覆われてしまい、その全貌を見ることはできません。深い森の中にひっそりとたたずんでいます。
■堂平古墳の住人
戦前、この古墳の横には篠ノ井の会村出身で日露戦争のときに乃木将軍の部隊で軍曹だった山岸儀十郎(漢字不確)という人が小屋を建てて住んでいました。古墳の手前に家があり、畑を作り古墳を貯蔵庫として使っていたそうです。隣には青木金時という人の畑があり、ある時境界線でもめたそうです。帰って来ないので家人が山に行ってみると、なんと彼は桑の株に縛り付けられていたということです。また、父が青年学校の時(昭和15頃)、山岸先生(将校)と数人の学生と一緒に、彼を訪ねたことがあるとか。先生は軍服にサーベルを下げて行ったそうです。日露戦争当時の話を聞いたのでしょう。その時に彼から乃木将軍からもらったという筆を見せてもらったそうです。この土地はその後別の人の手に渡り現在に至ります。
■堂平古墳への訪問者
1936 昭和11年11月21日・海軍大学生の高松宮殿下、川中島古戦場御祝祭のため来校。妻女山へ登山、堂平古墳から雨宮の渡を見学。馬に乗って巡ったようです。現在堂平古墳から土口に下りる道は、土砂崩れと麓が藪になり不明瞭です。
■堂平古墳への行き方
妻女山松代招魂社駐車場の奥から右の林道を登ります。10分ほどで峠(東風越・長坂峠)。三叉路を左へ進み、10分足らずで堂平古墳の標識。標識に沿って下りていくと古墳があります。私有地ですので声をかけてください。不在の場合はマナーを守って見学してください。見学は蜂や熊の心配のない初冬から早春の積雪のない日がベストです。たまにニホンカモシカが現れます。
■斎場山古墳巡りフォトルポ
■OLD JAPAN-19301930(昭和5)年、関東大震災から復興したばかりの日本を襲った世界大恐慌の時代。 ここから日本は軍国主義の色を深めて行った。また同じ過ちを犯すのか! 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。
堂平大塚古墳は、写真で分かる様に横穴式です。横穴式石室をもつ古墳は追葬が可能で古墳時代後期のものです。つまり何人も何世代も埋葬できるということです。前方後円墳の土口将軍塚古墳が4世紀中頃から5世紀前半に造られたもので、斎場山古墳と天城山の坂山古墳が5世紀前半から後半以降、堂平古墳は5世紀後半から6世紀ということでしょうか。位置関係でいうと上下など少し疑問な点もあるのですが。
堂平には、この南の蟹沢(がんざわ)を挟んで南西の中腹にも平地があり、そこには数基の積石塚古墳が残っています。しかし、多くは戦乱や、その後の桑畑などでの開墾で壊されてしまいました。もし、全てが現存していれば、大室古墳群に匹敵する史跡となっていたかもしれません。大室古墳群と同様に、ここも渡来人と深い関係があるものと思われます。尚、積石塚古墳へは全く道がありません。昔の山道も途中で消えてしまいます。私は何度も訪れていますが、地元の人でも知る人はわずかです。
写真にある古墳の周りの石垣がいつの時代のものかは不明です。堂平古墳群ということで、これ以外にも積石塚古墳がいくつかありますが、畑の土止めや、それ以前には戦国時代の城塞などに使われたかもしれません。現在は雑木林や植林帯に覆われてしまい、その全貌を見ることはできません。深い森の中にひっそりとたたずんでいます。
■堂平古墳の住人
戦前、この古墳の横には篠ノ井の会村出身で日露戦争のときに乃木将軍の部隊で軍曹だった山岸儀十郎(漢字不確)という人が小屋を建てて住んでいました。古墳の手前に家があり、畑を作り古墳を貯蔵庫として使っていたそうです。隣には青木金時という人の畑があり、ある時境界線でもめたそうです。帰って来ないので家人が山に行ってみると、なんと彼は桑の株に縛り付けられていたということです。また、父が青年学校の時(昭和15頃)、山岸先生(将校)と数人の学生と一緒に、彼を訪ねたことがあるとか。先生は軍服にサーベルを下げて行ったそうです。日露戦争当時の話を聞いたのでしょう。その時に彼から乃木将軍からもらったという筆を見せてもらったそうです。この土地はその後別の人の手に渡り現在に至ります。
■堂平古墳への訪問者
1936 昭和11年11月21日・海軍大学生の高松宮殿下、川中島古戦場御祝祭のため来校。妻女山へ登山、堂平古墳から雨宮の渡を見学。馬に乗って巡ったようです。現在堂平古墳から土口に下りる道は、土砂崩れと麓が藪になり不明瞭です。
■堂平古墳への行き方
妻女山松代招魂社駐車場の奥から右の林道を登ります。10分ほどで峠(東風越・長坂峠)。三叉路を左へ進み、10分足らずで堂平古墳の標識。標識に沿って下りていくと古墳があります。私有地ですので声をかけてください。不在の場合はマナーを守って見学してください。見学は蜂や熊の心配のない初冬から早春の積雪のない日がベストです。たまにニホンカモシカが現れます。
■斎場山古墳巡りフォトルポ
■OLD JAPAN-19301930(昭和5)年、関東大震災から復興したばかりの日本を襲った世界大恐慌の時代。 ここから日本は軍国主義の色を深めて行った。また同じ過ちを犯すのか! 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。