世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

2012-09-06 07:40:11 | 月の世の物語・余編

「ええ、今回は病死、それも七十三歳で独居死か…」と、書類を読みながら、竪琴弾きは川辺を歩いていました。薄藍色の空には蜜柑のような月がかかり、風の中にはその甘くもすがしい香りが漂ってきそうでした。「遺体を見つけてもらうまで、相当かかるみたいだな。これでいくらかの浄化にはなるけれど。ほんとに、貯金するなら、別のものを貯金すればいいものを」竪琴弾きは言いながら、ほう、と息を吐き、書類を消しました。

川幅は広く、向こう岸が灰色の霧に覆われて見えないので、見ようによっては川は海のようにも見えました。竪琴弾きは知っていました。こちらの岸は、月も空も美しく、川辺の草原もよい香りのする、とてもきれいなところですが、向こう岸は、暗い霧に覆われ、空気にかすかな毒が混ざり、でこぼこの荒れ地がどこまでも広がっていて、小石をいっぱい積みあげた小山がたくさんあることを。

やがて竪琴弾きは、川辺に小さな岩を見つけると、ちょうどいいと思い、立ち止まりました。「ここらへんで網を張っておいたらいいだろう」そう言って竪琴弾きは、竪琴をぽろんと鳴らし、歌を一節歌って、川の上に、こっちの岸からあっちの岸まで続く、橋のような網を張ったのです。

岩の上に座って、竪琴を鳴らしつつ小鳥と遊んでなどいると、突然、ひゃあ、という声が川の方から聞こえました。竪琴弾きが川の方を見ると、網に、年老いた女性がひとりひっかかっています。「たすけて、たあすけて、水が、水が!」女性は叫びつつ、網に必死につかまっていました。竪琴弾きは、岩から立ち上がり、大きな声をあげて、言いました。

「落ち着いて、大丈夫、沈んだりしませんよ!」すると、その声に気付いた女性は、いかにも意地の悪そうな顔を、竪琴弾きの方に向けました。竪琴弾きは、少し困ったように眉を寄せながらも、明るく女性に笑いかけて、言いました。「ひさしぶりですね、七十年ぶりかな?」女性は網にすがりつきながら、やっと気ついたように目を見張り、言いました。
「ああ!あんたあ、い、いつもの…。と、とと、いうことは…」
「ええ、そうです。今から二十分ほど前ですか。あなたは居間で心臓発作を起こして倒れ、そのまま死んだんです」
女性は、網をたぐりながら、竪琴弾きのいる岸に向かって来ようとしました。しかし竪琴弾きはそれを止め、言いました。

「だめです。こちらの岸に来ては。その網につかまっていてください。このまま、お話しましょう。ぼくの声は聞こえますね!」
「なによ、なんでだめなのよ!」老女が目をとがらせていうと、竪琴弾きはまた岩に座り、竪琴を鳴らして書類を出しました。

「…生まれる前に、少しのことでも積もり積もると大きくなってくると、何度も言ったはずですが、またやりましたね。今度は水ですか。川の水の中を流れてきたのも、そのせいですよ」竪琴弾きが言っている間に、女性は網を手繰って、竪琴弾きのいる岸に少し近付いてきました。そして足元に砂や石の感触を感じるところまで来ましたが、それ以上はどうしても進めず、女性は悔しそうに「畜生!」と汚い言葉を言いました。竪琴弾きは、清めの呪文を唱えたあと、厳しく女性を見て言いました。「あなたは生前、役所勤めをしていましたが、役所での自分の立場を利用して書類を操作し、自分の家の水道料金を、他人の家に押し付けてずっと支払わせていましたね」
それを聞いた女性は、口をとがらせて目をむき、女性とは思えないとても醜い表情を見せました。
「何よ。それが何だっての。たかが月に二百か三百くらいのものじゃない。これくらいのことはみんなやってるわよ」
「はあ、まあねえ」と竪琴弾きは、首を傾けながら、呆れたような顔をしました。

「なんといいますか。その、昔からですが、人は、他人にばれずに自分が得することをできるとなると、悪いことでも気軽にしてしまうってことは、まあほんとにたくさんあることですが…、悪いことは悪いことですから、ちゃんと支払わねばなりません。しかし今回は上手にやったものです。かえってほめたくなるほどだ。細部にも手を抜かず、実に巧みな操作をして、最後までばれなかった。まったく、努力するなら他のことを努力すればいいものを。おかげであなたの払わねばならない水道料金が膨れ上がりました。それを今から、向こう岸で、払ってもらわねばなりません。いいですか、もう一度言いますけど、どんな小さな罪でも、積もり積もると、大変なことになります。確か、この前の人生では、食堂で働いていて、毎日店からハム一切れを盗んでいましたね。あのときは、店主にばれて、即刻クビになってしまいましたが」
「それがどうしたのよ。いいじゃないの。残り物放っておいたって、腐るだけなんだから!」

竪琴弾きは、竪琴を鳴らして月を見あげ、清めの呪文を一息唱えました。根気と言うものがなければできないのは自分の仕事も同じだが、この女性には、その根気で負けてしまいそうだと、彼は思いました。竪琴弾きは少し悲しい目をすると、姿勢を正して、まっすぐに背骨を立て、教師のように厳しく女性に言いました。
「いいですか、何度もお教えしていますが、罪の償いというのは、生きているうちにもうやらされています。あなたは今回、離婚をして、子どもにも捨てられて、半生を一人で生きねばならなかったでしょう。それが、償いだったんですよ。もう、すっきりと言いますが、あなたが影でずるいことをするような人だったので、夫も子どもも、たいそうあなたを嫌っていたのです。あなたは誰にもばれていないと思っていたでしょうが、家族はあなたの役場での罪は知らなかったものの、あなたのその性質と申しますか、悪い癖を知っていたのです。だから、家族に見捨てられたのです。友人も家族もいない半生は、さびしかったでしょう」

竪琴弾きの言ったことは、女性の胸に響いたようでした。川の水の中でずぶぬれになっている彼女の目が、少しうるんだように見えました。女性はうつむき、網につかまったまま、竪琴弾きに背を向けて、しばらく何もいいませんでした。肩が少しふるえていたので、竪琴弾きは、ああ、泣いているのだなと思い、竪琴を鳴らして、やさしく愛を送ってあげました。すると突然女性は、竪琴弾きを振り向き、どなり散らすような声で言ったのです。

「なんだって、なんだって、こんなことんなるんだって、おもってたわよお、あたしゃ。つらかったよ。そりゃつらかったよ。誰もあたしに、いいことしてくれないんだもの。別にわるいことなんかしてないわよぉ。べつに、べつに、いいじゃないの。少し自分が得するくらい、なんでもないじゃない。ほかのひとだってやってたわよ。上の偉い人なんか、もっとすごいことやってるわよお。あたしがやったことなんて、なんでもないわよ。それってわるいわけ?なんでさ、なんでさ、なんでさあ!」

竪琴弾きは帽子を下げて目を隠し、少しの間、ただ黙っていました。竪琴弾きは女性の泣き顔を見つつ、口の端を歪め、少し考えたあと、ふうと息を吐き、少し声を低くして厳しく言いました。

「そういう風に、軽々しく人のものを盗る人がたくさんいるので、地球世界に物価高が起こり、人が生きることがとても難しくなるのです。たかが水道料金とあなたは思っているでしょうが、罪は軽くありませんよ。いいですか。なぜ人間が地球上で生きることが、苦しいのか。それはあなたのように、ずるいことで自分を得させるために、影で他人からものやお金を上手に盗む人が、本当にたくさんいるからなのです。ほとんどの人はばれていないと思っていますが、神はすべてをご存知です」

竪琴弾きは立ち上がりました。川の中にいる女性はまだ、不満がありそうに竪琴弾きを見つめています。竪琴弾きは、悲しげに目を細めて女性を見ました。そして言いました。「一応、仕事上、言わねばならないことを言います。あなたが、そうやって少しずつ人から盗んできて、重なってきた罪責数が出ています。八億三千二百というところです」
それを聞くと、女性は目を見開いて、びっくりした様子で叫びました。「ええ、うそ!あたしそんなにやってないわよ!」竪琴弾きは静かに答えました。
「前の人生と、前の前の人生と、前の前の前の人生の分もずいぶん残ってるんです。いつでもあなたは、他人から上手に少しずつ盗んできたので、それがこれだけたまったのです。これから全部、それを返してゆかねばなりません」
「いやよ!そんなの!あんなの悪いうちに入らないって言ってるじゃない!」

竪琴弾きはもう女性の言うことに耳を貸すのをやめました。「これから、三百年ほど、あなたは向こう岸で、荒れ地の小石を集めて、小石の山をいくつか作らねばなりません。小石で山が一つ完成すると、あなたの働いた量や学んだ度合いなどによって、山からお給金が出て来ます。しかしそのとき、必ず取立人があなたのところに行きますから、それで水道料金を払うようにしてください。言っておきますが、お金を持ち逃げしようとしたら、もう一段下の地獄に落ち、もっと辛い労働をしなければならなくなります」
「なんで、なんでよ!」と女性は叫びました。竪琴弾きは何も答えず、竪琴を高く鳴らしました。すると、網に引っ掛かっていた女性の姿は、パシャリと水音をたてて、そこから消えました。

竪琴弾きは遠見(とおみ)をして、霧に包まれた向こう岸を見ました。先ほどの女性が、もう、荒野を歩きながら、袋の中に小石を集めているのが、見えました。灰色の霧や、空気に混じっている妙な毒のせいで、彼女はしきりに咳をして、涙を流していました。
竪琴弾きは、川にかけた網を消すと、何も言わずに、竪琴を背に回し、そこから歩き始めました。そして少し胸に込み上げてくるものを感じ、それが感情の動きとなる前に、彼は自分を鎮め、小さな歌を歌ったのでした。

正しいものは正しく、美しいものは美しくなる。
愛を磨いた小さな蝶々を、野に放ちなさい、人々よ。
嵐の中に、何度濡れなければならないとしても、
灰の荒野に、何度倒れなければならないとしても、
あなたたちは幸福なのだ。



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2012-09-05 07:57:20 | 月の世の物語・余編

編集者との打ち合わせ等が終わり、什が自分の町の自分の家に帰ってきたのは、彼が家を出てから三日後のことだった。朝一番の列車に乗ることができたので、割合に早く家に着くことができた。裏口の鍵を開け、中に入ると、すぐに台所があり、母が朝食を終えたまま、おいてある食器がテーブルの上に並んでいる。什は疲れてはいたが、特に気にはせず、自然にその食器類を洗い場にもっていき、洗って片づけた。
台所の天井を見あげ、彼は深々と安堵の息をついた。家に帰ってきて、本当にほっとしている自分がいる。什はだんだんと、自分が、自分の家のある町の外に出ることが難しくなってきているような気がしていた。

慣れ親しんだ家の匂いを胸に吸いながら、今度の詩集が、もしかしたら最後の詩集になるかもしれない、と彼は思った。美しい暗喩の産着に包まれた赤子の正体は、今、誰にもわからないだろう。いや、たとえわかる人がいたとして、今のこの世界でどういう行動がとれようか。みな自由でいるように見えて、がっしりと強い鉄の檻に囲まれているのだ。

「清らかな詩ですねえ。ひねりにひねっているが、リズムがいい。あなたにしては、ずいぶんと難解だが」と、出版社の編集員は什の詩を読みながら言ったものだ。編集員は、什の持っていった原稿を読みながら、何か不思議な感慨に襲われているようだった。清らかなどと言われるのは初めてだが、什は素直にほめ言葉と受け取って、「ありがとうございます」と答えた。だが、内部に現れる、かすかなさみしさを隠すことができなかった。今は誰にもわからない。この自分の胸にあるものが何なのか。だが、これがいつか、人々の前に真実を見せるときが、きっとやってくる。これは、切り札なのだ。いや違う。最終兵器だ。

白雪のごとく麗しき駿馬の
風に踊るそのたてがみを見よ
それはあなた自身である
星々の祝福の金の音の鳴るを
その貝の耳を開きて聞くがよい
私とはすばらしいものである
すべては愛である
神が すべての愛が
待ち焦がれていたその時が
とうとうやってくる
人々よ 鍵を左に回しなさい

什は、詩集の中で最も気に入っている部分を、心の内部で暗唱した。ああそうとも。たとえ可能性が無に等しくとも、わたしはやっていく。すべての幸せのために。どんなに無駄な努力に見えようとも。それがわたしなのだから。

服を着替えると、すぐさま什は書斎に向かった。書斎の戸を開けて中に入ると、何かがつま先にぶつかり、彼は何気なく下を見た。そして唖然と目を見開いた。最初、それは蜘蛛かナナフシのような虫の一種ではないかと思った。しかしそれは虫ではなかった。什は、数分ほど、息をするのを忘れて、その情景を見ていた。

…小人だ。小人が、いる。

なんとそこには、何百、いや何千という小さな人間が、書斎の床の上にひしめきあって、きゅうきゅうと不思議な言葉でしゃべりながら、一斉に什を見上げて騒いでいるのだ。什は目をぱちぱちさせ、何度も目を拭いた。だが小人の集団は消えなかった。身長は十センチくらいだろうか。手も足も頭もある。確かに人間の姿をしている。男も女も若者も老人もいた。もちろん顔や髪や肌の色などもみなそれぞれに違う。什はふと、誰かに見られているような気がして、窓の外に見える青い空に目を向けた。青空には雲がひとひら流れており、そこに一瞬、不思議な顔が見えたような気がしたのだが、彼がそこに目をやるとほぼ同時に、それは空に溶けて消えてしまった。什は、再び下を見た。だが小人は消えていなかった。幻覚か、それとも今は眠っていて夢を見ているのか。とにかく今、書斎の床は小さな人でいっぱいだ。

「ドゥワーフじゃないな。リリパットだ」彼は自分を落ち着かせるため、少々冗談めかして言った。ガリヴァーみたいにならなければいいんだが、と思いながら、彼は「ごめんなさい。失礼します」と言ってゆっくりと足を動かし、小人たちを踏まないように気をつけながら、自分の机に向かった。小人たちは彼の足が降りるところをよけて、彼のゆく道を作ってくれた。そしてようやく自分の椅子に座って一息つくと、什は改めて、床の上にひしめく小人たちを見下ろした。

小人たちの声は、キュウキュウ、キイキイと鼠の鳴き声のように聞こえた。これは何の夢だ? 一体何の現象だ? 什は机の上に頬杖をつきながら、しばし考えた。四六時中、夢のような詩など書いてると、気がおかしくなりすぎて、しまいにこんなことになるのかとも、思った。とにかく、小人たちは、什の部屋に満ち満ちている。まるで、球場に集まった大勢の人々を空から見ているようだとも、彼は思った。

と、小人たちが急に高く口笛を吹き、大きな歓声を上げた。見ると、小人たちの中では、特に背が高く体格も大きな小人が、什の方に向かって歩いてくる。それはどこかの王様のような立派な毛皮のマントを引きずり、頭に小さな王冠をかぶり、黒い髪も髭も床に届くほどたっぷりと伸ばしてずいぶんと立派な様子に見えるのだが、よく見るとマントは灰やカビにまみれてずいぶんと汚くなっており、髪も髭もだらしなくもつれ合ってモップのように床のゴミをつけていた。顔も、近くから見ると、傷やアザだらけで、片目はつぶれており、たいそう醜い相をしていた。

黒髭の小人は什の足もとまできて、きい、と声を上げた。什はその小人の顔が、悲哀の黒い影に深く染まっているのを見て、目を細めた。まるで、腐った王様というような姿をした、黒髭の小人は、鼠のような声でもう一度、きい、と什に何事かを問いかけた。言葉の意味はわからなかった。だがその王を見ていると、什の胸に、どうしようもない憐憫の情が現れた。何か自分にできることをやってやらなければたまらないと、彼は思った。彼はしばしの間考え、黒髭の小人に言った。

「すばらしい人よ。美しい人よ。あなたには愛する自由がある。なぜならあなたの手はあなたのもの。あなたの足はあなたのもの。あなたの心はあなたのもの。あなたは、あなたのもの。あなたは美しい。なぜならあなたはあなたというものを使い、愛のためにすべてのことをやっていくことができる、すばらしいものだからだ」

什は即興の詩でその小人に語りかけてみた。するとそのとたん、その小人は姿を変えた。汚いマントは消え、冠も黒い髪も髭もさっぱりと消えて、そこに質素だが清潔できちんとした服を着た、心床しい紳士のような小人が現れた。顔の傷やあざなどもすっかり消えていた。つぶれた目もなおっていた。小人たちの群れから感動の声が上がった。

それから、什の即興の詩は、まるで不思議なウイルスが感染していくかのように、あるいは火が野を燃え広がっていくかのように、書斎にいた小人たちの間に伝わって行った。それと同時に、小人たちはどんどん姿を変えていった。皆、美しく、さっぱりとした姿に変わって行った。中には背を向けて逃げていく小人もいたが、あれよあれよと言う間に、その詩のウイルスは書斎にいた小人たち全員に広がっていったのだ。

やがて、美しい姿になった小人たちはあちこちで歓喜の踊りを踊り、幸福の歌を歌い始めた。什はただ椅子に座って茫然とそれを見ていた。ふと彼は、何かに頭を、かつんと叩かれたような気がして、無意識のうちにまた窓の方を見た。空から誰かが見ているような気がした。それと同時に、什は自分の周りの空気が、一瞬のうちにまるごと入れ換わったような感覚に襲われた。それはまるで、自分が生きている物語の中の一ページを、ひらりとめくられ、場面が急に変わったかのような感触だった。そして什が再び床を振り向くと、もうどこにも、小人の姿はなかった。

什は、いつもの様子に戻った書斎を茫然と見まわした。やはり幻覚だったのか? 自分の気が少しおかしいのは、前から知ってはいるが。彼は混乱したまま机に向かい、引き出しから日記代わりの小さなノートを取り出して開き、そこにまず、「小人を見た」と一言だけ書いた。とにかく、見たのは確かだ。自分が即興で歌った詩も、たぶんそのせいで起こったことも、覚えている。何が何だか、さっぱりわからない。だが、この経験は、多分自分にとって何かの意味を持つのだろう。今は何もわからないが、いつか、何かがわかる日が来るにちがいない。什はそう思うことにして、さっき起こった不思議な出来事を、ノートに細かく書いておくことにした。

るみが家を訪ねてきたのは、その日の午後のことだった。チャイムが鳴ったので、玄関に出て扉を開けると、高校の制服を着たるみが、少しうつむき気味にそこに立っていた。
「やあ、いらっしゃい」と什はるみに言った。るみは玄関の扉のすぐ前に立ち、斜め下を見ながら、もじもじしている。るみが何も言わないので、什は少し戸惑いつつ、いつもの優しい声で、彼女に言った。
「どうしたの。何か用があるんじゃないのかい?」
すると、るみはますますうつむき、涙を一粒、足元に落とした。什は困ってしまった。女の子と言うのは時々、男にはまるで理解できないものになってしまうのだ。什は何を言ったらいいかわからなくなり、しばしるみの様子を黙って見守っていた。やがて、るみは少しすねたような声で言った。

「什さん、どこにいってたの? 昨日来たけど、いなかったじゃない」
「…ああ、その、今度新しい詩集を出すので、出版社の方に行ってたんだよ。ほかにも取材したいところがいくつかあって、三日ほど留守にしてたんだ」
「わたし、什さんがいなくなるの、いやなの」
るみは突然、半分泣きそうな声で言った。什はびっくりした。前にも似たようなことを言われたことがあるが、これは、どう解したらいいんだろう? 什はしばらく頭の中を検索して答えを探してみたが、それは見つからなかった。彼が無言のまま茫然とるみを見ていると、るみは涙顔をあげて、什をまっすぐに見つめて、言った。

「わたし、昨日十六になったの。十六になったら、結婚できるよね」
「は?」什は間抜けな声で言った。
「約束したでしょ。大きくなったら、結婚しようって」
「え…、あ?…」
什は目をまるまると見開いた。驚きのあまり、眼窩から眼球が転げ落ちるのではないかと思った。あの、るみがまだ小学生だった頃の約束、まだ有効なのか?

什は呆気にとられて、しばし何も言えなかった。るみはどうやら本気のようだ。真剣な目で什の顔を見つめている。これは、どうしたらいいんだろう。什は考えようとしたが、何をどうしたらいいか、まるで思考が動かなかった。しっかりしろ!と自分の心の中で声がした。…そうだ。とにかく、ここは大人として、なんとかしなければならない。まだ若すぎる彼女の心を傷つけないように、何とかうまく切り抜ける方法はないものか、什は必死に考えた。そしてようやく言った。「るみちゃん、十六では早すぎるよ。君が学校を卒業して、大人になってからにしよう、結婚は」什はそれで何とかこの場をしのごうとしたのだが、そう言ってしまった後で、ずぶりと何かの罠に深くはまりこんでしまったような気がした。

「…十六じゃ、まだ若すぎる?」るみは言った。
「そうだよ。高校は卒業したほうがいい。それに、就職もちゃんとして、社会勉強もしておいたほうがいい」什は必死に言った。るみは、最初は不満がありそうだったが、やがて什の言うことももっともだと納得して、小さな涙をふき、笑顔を見せた。

るみは、什から一冊詩集を借りると、また元気に手を振りながら帰って行った。るみを見送った什は、これから何年かのうちに、どうか彼女が例の約束を忘れてくれるようにと、神に願った。

「Confucius!」
書斎に戻ると、什は椅子に座りながら西洋風に嘆いてみた。全く、女の子と小人と言うのは、わけがわからない、と彼は言いたかったのだ。
とんでもない一日だと深々とため息をつきつつ、彼はふと思った。そう言えば、「侏儒」というのは、小人という意味ではなかったろうか。彼は椅子から腰を上げて書棚に向かい、分厚い辞書を開いた。職業柄、気になる言葉にぶつかるとどうしても調べたくなる。

辞書を開くのは好きだ。まるでそこに、色とりどりのさざれ石が魚のように生きているような気がする。書物の中の言葉の世界に入っていくと、もう什は小人のこともるみのことも忘れていた。




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2012-09-04 07:36:22 | 月の世の物語・余編

「これはやはり、我々が出ていくより仕方ありませんね」
と、ひとりの月の世の役人が、知能器の画面を見ながら言いました。すると斜め前の席に座り、机の上に山のように積んだ古文書に顔をつっこむようにして、新しい呪文の意と作用と力を確認していた役人が、ふと顔を上げ、それに答えました。
「若いものにまかせるわけにはいかないだろう。新しい紋章がどう働き、どう反動が返ってくるかもわからない。聖者様にお頼みすれば完璧にうまくいくだろうが、我々ができることは我々がやらねばならない」

それを聞いた知能器の前の役人は、唇を噛み、前を見る眼光を強くしました。彼は、磨いた黒曜石のような黒い肌をしており、縮れた黒髪を丁寧に結いこんで後ろで結んでいました。対してもう一人の役人は、こげ茶色の髪に、少々赤らんだ白い肌をしていました。二人は、これから地球上で行うある実験のための、相談をしていたのです。

黒い肌の役人は、知能器の画面に浮かんだ、見事な赤い紋章に目をやると、その計算の見事さに感嘆しつつ、少し考え込みました。「これが、浄化というものか」と彼がつぶやくようにいうと、白い肌の役人は「どうした、君らしくない。神は甘くないと、いつも言うだろう」と、少し語気を強めていいました。辛い気持は、自分も同じだったからです。黒い役人も彼の気持ちを感じ、少しすまなそうな顔で微笑みしました。
「確かに。だが、どうしても捨てきれないものがあるのは、わたしが未熟だからですね。彼らが悔悛してくれることを、どうしても心の中のどこかで願ってしまう」
「その可能性はゼロだ。悲しいがね。さて、これは我々による最初の実験だ。実験地点は?」「G-2659-3610、別名『蛇の蟻塚』です」「…ああ、いわゆる『組織』というところか」「地上の俗語でいうところの『危ない所』です。薬と女性を売り、暴力、暗殺、詐欺など、あらゆる悪事で暮らしている。かなり大きな怪がいますが、神より新しい魔法もいただきましたし、我々の手で何とかできるでしょう」

ふたりは知能器を休ませ、封じの鍵をかけると、同時に椅子から立ち上がりました。白い役人が言いました。
「今回の試みにはちょうどいい規模だ。準備は整ったな」「はい。認可もとりました」「ではいこう」
ふたりはいっしょに役所を出ると、ふわりと空に飛び出し、地球に向かいました。

それから数十分後には、彼らはもう地球上の目的地の前にいました。そこは都会の真ん中にある大きな高級マンションの最上階の、最も広い、最も豪華な部屋でした。太陽は十一時のあたりにあり、マンションの住人は留守なのか、中に人影はありません。
役人たちは空を飛びながら窓から中を覗き込み、ほう、と感慨にも似たため息をつきました。
「すごいですね。これは」黒い役人がいうと、白い役人は眉を歪めつつ、言いました。「地球の人間の目には、きれいに見えるだろうが、…まあ、よくやったものだ」

彼らの目には、マンションの床の上に、黒い記号や文字や紋章を複雑に歪めて組み合わせ、からみあわせたものが、まるで蟻塚のようにかたまってそれが何本も林立し、小さな森のようになっているのが見えたのです。それは、強い毒性の黒カビを樹木にしたような毒気と腐臭を放ち、時々、柱の奥で、蛇の舌のような赤い炎がひらめくのでした。

「この蟻塚は、通常の人間が使える魔法の紋章や印、記号などを歪めたり、逆にひねったりして、複雑に組み合わせ、何重ものぺてんの理論を作って重ねた、悪の紋章だ。彼らはこの、自分らでひねりにひねって作った紋章で、何とか自分たちが正義になるように、道理を無理やり歪めてきた」「長い時をかけて、それがここまで積もってきたわけですが…、ところどころ、破たんした部分がありますね」「無理に無理を重ねた結果だ。このまま放っておいても、いずれは総崩れになるが、そうなると、被害が甚大になる」「その前の、洗浄ですね」黒い役人は心を動かさないよう自分を制御しながら、言いました。

「やれ、手間のかかることだ」と白い役人は言いながら、窓ガラスを透いてマンションの中に入って行きました。黒い役人もその後についてきました。彼らは『蟻塚』と言われているこのペテン記号の柱の中を、しばし林の中を歩くように歩き回りました。血肉が腐ったような臭いがあたりに立ちこめていました。「まるで腐乱地獄だ」と黒い役人が言うと、白い役人は、乾いた表情を変えず、「ここに来る人間は、ほとんど、死後そこにいくことになっている」と言いました。

「さて、まずは、紋章の方から試してみるか」白い役人が言うと、黒い役人は「はい」と答え、口の奥で清めの呪文を唱えつつ、左手をひねらせ、そこから赤い光を出して、中空に赤い紋章を描いていきました。しかし途中、蟻塚が放つ邪気が邪魔をして、線が歪み、紋章は霧のように消えてしまいました。黒い役人はふうと息をつき、清めの呪文を一段階上げると、もう一度紋章を書き始めました。白い役人も清めの呪文を唱和しました。そして黒い役人は、複雑に線と図形の交錯する赤い紋章の最後の一画までを、見事に正確に書きあげました。すると紋章の奥から、かすかに鐘のような音が響いてきました。

とたんに、周りにあった何本もの蟻塚が、蛙がつぶされるような悲鳴を上げて、あれよあれよという間に砂のように崩れ去り、空気に溶けるように消えてゆきました。紋章は太陽のように光り、あたりを明るく照らして、間違いを正確に正してゆきました。生きている人間の目には、何も起こっていないように見えるでしょうが、しかし、役人たちの目には、そのマンションの壁や天井が、まるで水に溶けて行く薄紙のように消えていくのが見えました。マンションは、地球上にまだありましたが、しかし、こちらの世界の道理では、もうありませんでした。役人たちがマンションの本当の姿を見てみると、そこは、なにもない赤土とがれきの荒地でした。どの方向を見ても、何も見えず、ただ風が渇いた土を吹きあげるばかり。草一本生えず、蝿一匹すらもいない。しかもそれだけでなく、土はかすかに流砂のように流れており、だんだんと大地が陥没し始めてきていました。そしてその穴の奥から、何か黒いものが染みだしてきたのを見ると、白い役人が合図をして、黒い役人はすばやく左手を動かして赤い紋章を消しました。

白い役人は、黒い役人の目に少し疲れを見出して、「大丈夫か?」と声をかけました。黒い役人は笑いながら、言いました。「大丈夫です。しかしすごいですね。紋章の威力は」「ああ、神が下さったすばらしい愛の贈り物だ」

そのとき、マンションの隅から何か物音がし、二人が振り向いてみると、床の一部が異様に膨らみ、それが卵のように割れて、中から、大蛇のように大きな一匹のムカデが現れました。白い役人が目を強く光らせ、高い声を上げて呪文を投げました。するとムカデの顔に、鋭い水晶の刺が何本も刺さり、ムカデは、ぎいい、と声をあげました。

「あ、ああ…、いたい、いたあい、つ、つらい、つらあい…」
ムカデはしゃべることができるらしく、刺の刺さった顔を振りながら、床の上をもがき暴れました。はあ、はああ、と激しくもだえ苦しむ声が、腹のあたりから聞こえます。

「一匹じゃない。これは、三千匹はいる。集合個体ですね」「ああ、まさしく軍団(レギオン)だ」「ええ、弱きものは皆、集団でやる」
黒い役人は、清めの呪文を吐き、ムカデの腹のあたりに投げました。するとムカデの苦しみはややおさまり、ムカデは、はあううう、と声をあげ、力弱く床に横たわりました。
白い役人が、詩を読みあげました。

白雪のごとく麗しき駿馬の風に踊るたてがみを見よ。
それはあなた自身である。
星々の祝福の金の音の鳴るを、その貝の耳を開きて聞くがよい。
私とはすばらしいものである。
すべては愛である。
神が、すべての愛が、待ち焦がれていたその時が、とうとうやってくる。
人々よ、鍵を左に回しなさい。

その言葉は、魔法のようにムカデに作用を及ぼし、集合個体のしっぽのほうが、ばらばらに崩れ始め、小さなムカデがわらわらと床の上を散っていきました。すると頭の方が、ぎいっと声をあげ、逃げて行く小さなムカデに戻れと命じました。しかし小さなムカデはそれに従いませんでした。

「つ、つ、つらい、つらい。お、おまえらを、ころして、ころしてやる。ばかめ、ばあかめ。おれは、おれは、かみだ。かあみなのだ」

黒い役人が返しました。「あわれにも弱き怪に落ちしものよ。その言葉を言っているそのものは誰だ」そういうとムカデは、ききっと耳をつく声を上げ、怒りにざわざわと足を動かしました。その間も、しっぽのほうから、次々と小さなムカデが逃げて行きます。白い役人は、逃げて行くムカデに導きの呪文を振りかけ、彼らがどの道に逃げようとも結局は怪の地獄に向かうようにしかけました。

「だれだ、だれだ、だれだ、おれは、おれは、かみだ。かあみだ。かみだ。かみだ。だから、なにもしなくてよい。いやだ。はらうのは。いたいめにあうのは、いやだ。おれは、いやなんだ。だから、おれがただしいことに、するんだ。なにもかも、おれがせいぎにするんだ。わるいやつが、ただしいんだ。すべてはおれのおもうとおりになる。みな、ばかになってしまえ、おれのいうことをきけ、ころしてやる、すべて、ころしてやる、ばかめ、ばかめ、ばあかめえ!」

ムカデは自分の言いたいことを言いつくすと、ぐぉ、と喉を絞められたような声をあげました。役人たちは声を合わせて呪文を唱えました。すると、もう半分ほどの長さになったムカデは、蟻塚のように立ったまま凍りつきました。黒い役人が、一瞬喉を詰まらせました。押さえていた涙が噴き出てしまったのです。白い役人は黙りこみ、後を彼にまかせました。黒い役人はその意を感じて、涙を捨てて、詩を歌いました。

「人なるもの、人なるもの、怪に落ちし人なるもの、おまえを愛す。ゆえに、これをせねばならぬ愛の神の涙の海を、荒波をくぐるごと泳いでくるがよい」

とたんに、大ムカデの内部で、ばん、と弾けるような音がしました。大ムカデは砂のようにざらざらと音をたてて崩れ、やがてそれのいたところに、砂山のような小ムカデの山ができました。元の小さな個体に戻ったムカデたちは、からからに乾いて、まるで死んだように動きませんでしたが、詩に感じてしびれているだけで、死んではいませんでした。黒い役人は、ほっと息をつきました。怪を、一匹も殺さずに済んだからです。ここで怪が皆倒れなければ、後は殺すしかなかったのです。

白い役人は呪文を吐くと、ムカデの山から、一匹の小さなムカデを引きずり出し、手元に呼びました。「これだな。核個体は」「小さいですね。やはり」「ああ、集合個体の核になるやつは、たいてい、中で一番進化度の低い魂だ。何も知らぬから、なんでもできると思っている、子どものようなやつが、中心にいる。それで、あらゆる悪をやる。すべては、何も知らないから、できることだ」

役人たちは、核個体のみを水晶のカプセルに封じ込めると、床の上に倒れたまま動かない他のムカデたちを、すべて怪の地獄に送りました。そうして、マンション全体にしみついた邪気を呪文で可能な限り洗浄すると、あちこちの壁や天井に紋章を描き、一番大きな窓の真ん中に赤い目を描いて、ここで起こる全てのことが、お役所の知能器で観察できるようにしました。白い役人が言いました。

「これで、彼らが作った、悪を正義とする複雑怪奇な紋章はすべて無効になった。彼らを影から操っていた怪もいなくなった。救いの紋章も導きの印も全て描いたな」「ええ、残りはあと一つだけです」

二人の役人は、最後に、神の愛の紋章を、白い小鳥の形に封じて飛ばしました。紋章の小鳥は、鈴のような歌を歌いながら、マンションの中を飛び回り、やがてリビングに置いてある小さな観葉植物の上にとまりました。その紋章は、ここに来る人々の魂に作用して、ある程度彼らの運命を良き方向に導くはずでした。こうして、やるべきことはすべてやったことを互いに顔を見合わせて確認すると、白い役人は、まるで駅員が列車の出発の合図をするように言いました。「第一段階は終わった。我々はこれから、彼らの破滅がどういう風に起こっていくか、見て行かねばならない」
彼らはマンションの外に飛び出ました。黒い役人がふと言いました。「一応結界を張っておきましょうか」白い役人は答えました。「ああ、そうだな」そして二人は、マンションの周りに結界を張り、縁のない人間がここに近寄れないようにしておきました。

ふと、その部屋に、明かりがともりました。マンションの持ち主が帰ってきたからでした。白い役人が窓からマンションの中をのぞき、その人間を見ながら言いました。「ほう、もう変化が出ている」すると黒い役人も彼の隣にきて、言いました。「ほんとうだ。わずかだが、背骨に影ができている」

二人はそっとマンションを離れ、空に飛び出しました。もうとっくに日は沈んでおり、桔梗色の空にかかる白い月が、静かに彼らを見下ろしていました。黒い役人が言いました。

「どうなって行くんでしょうね、彼らは」「アルファ。すべてはこれからだ。彼らは奈落に落ちて行くだろう。だがそれこそが、本当の幸福への最も近い道なのだ」「わかっています。けれども、神のお気持ちは、おつらいことでしょう」「そうとも。だが、我々はやっていかねばならない」

ふたりの役人は白い月を目指して飛びながら、これから浄化の波をかぶるであろう人間たちのことを思い、しばし悲哀をともに噛み、愛を送ったのでした。



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2012-09-03 07:36:30 | 月の世の物語・余編

かすかに黄味をおびた、白いまっすぐな道を、彼は歩いていた。白緑の草むらがその道を縁取り、その向こうからはちろちろと水の流れる音が聞こえ、ときおり、こりり、と蛙の声が鳴った。

空気が澄んでいる。息をするのがここちよい。ああ、また夢を見ているのだな。と、什は思った。

「わが君」

後ろから呼ぶ声がしたので、什は振り向いた。するとそこに美しい女がいる。シタールと琵琶の間の子どものような、不思議な弦楽器を手に持ち、やさしく什に微笑みかけている。什は、おや?と思った。るみじゃないか。ずいぶんときれいだし、まるで敦煌の飛天のようなかっこうをしているが、るみにまちがいない。什が「る…」と言いかけた時、女の方が、先に言った。

「わが君、ご散策でございますか?」
すると什の口は、彼の思いとは別の思いに従って動いた。
「ええ、そうです。道を歩くのは楽しい。草の香り、蛙の声、水の流れ、木々を鳴らす風、みな美しい。人々は喜んでいるでしょうか」
「はい、それはもちろん。みな、幸せでございます」
什はそれは喜んで、女に微笑みかけ、少し頭を下げて彼女に挨拶をすると、くるりと背を向けて、また道を歩き出した。

什は白い道をまっすぐに歩き、国の縁にある小さな岬へと向かった。そこは月を浴びた白い砂がまるで金砂のように見える場所だった。そこから向こうは、黒い空間があるばかりで、何も見えない。ただ、見えない波がかすかに砂を洗う音が聞こえる。どこからかよい香りが漂ってきて、振り向いて空を見ると、普通の二十倍はありそうな大きな月が空にかかっている。この涼やかな香りは、あの月から吹いてくる風の香りのようだった。

彼は岬の突端に立った。風が一息、金の針のように耳をさした。什は、「ああ」と言った。そして、「そうですか」と言った。誰かが彼に声をかけ、何かの行動を呼びかけたのだ。彼はゆっくりと首を回して、周りに誰もいないのを確かめると、正面を向き、目を光らせた。

彼は誰もいないと思っていたが、近くの木立の影に、梅花の君がこっそりと隠れていたことには気づかなかった。梅花の君は、一瞬、王様の中から、炎のような薄紅の光を放つ大きな鳥のようなものが飛び出したかと思うと、暗闇の中に、ふっと消えていったのを見た。

しかし王様は、何事もなかったかのように、岬の突端でいつもの好きな歌を高らかに歌い、微笑みながら、また元来た道を帰っていった。途中、また梅花の君に出会った。王様は彼女の目が少し涙にうるんでいるのを見て、心配になり、「どうかなされましたか?」と言った。梅花の君はかぶりをふりながら、「なんでもございません。王様のお歌がすばらしく、胸に響いただけでございます」と言った。しかしそれがうそであることは、王様にはすぐにわかった。だが何も言わず、ただやさしく彼女に微笑みかけた。

薄紅の翼ある光るものが、透明な風に乗り、霧に覆われた白い空間を飛んでいた。ずいぶんと遠い、そして深い。だが清らかなもののにおいが、かすかに呼んでいる。翼のものは高度を少し下げ、風を従えてその呼び声を追って速度を上げた。次第に霧は消え、やがて、木も草もない岩だらけの灰色の連山が、空を刺すようにとがった峰を並べながら、壁のように長々と続いているのが、見えてきた。彼は流星のように、その連山に沿って飛んで行った。やがて、遠くに、灰色の山に囲まれた小さな盆地のようなところがあり、その真ん中に白く光る丸いものが見えた。それはこの灰色の世界に落ちてきた小さな月のようでもった。翼あるものは、翼を幾分縮めると、体勢を変えてゆっくりと速度をゆるめ、その地上に落ちた月から、少し離れたところに、そっと降り立った。

彼は、薄紅の翼を背にしまうと、その小さな月を見下ろした。近くから見るとそれは、白っぽい乾いた土を敷き詰めて固めた広場のようなところであった。だがこれを月と呼んでもよかろう。上を見あげても、藍色の空に月はなかった。月は人々への愛のためならば、喜んで自分を小さくして下に降りてくる。多分月は、人々のためにこのような形で、ここに降りてきたのだ。誰もこれが月だとは気がつくまい。月には人に踏まれることなどなんでもないことなのだ。ただ静かにそこにあり、かすかな光で歌いながら、人々の魂を清め続けている。

さて、その白い月の真ん中には、一本の焼け焦げた柱が立っており、その周りには真っ黒な炭になった薪の山があった。それを見て、彼は自分の体がずいぶんと大きく、白く光っていることに気づき、呪文を唱えて自分の体を人間のように小さくし、光を抑えた。そして、自分の足で歩き、その炭の山に向かって歩いていった。

すっかり冷え切った炭の山の奥から、小さな歌が聞こえた。それは少女の声だった。小さくも清らかな声で彼女は「神に御栄あれ、御栄あれ」と繰り返し歌っていた。彼は微笑んだ。そして言った。

「少女よ、立ちなさい」

すると、黒い炭の山がからりと動き、その中から、焼け焦げたされこうべが顔を出したと思うと、風が白い灰を一瞬のうちにその周りに巻き集めて、いつしかそこに金髪の少女の姿があった。炭の山の中に立った少女は目を閉じ、とめどなく涙を流していた。その頬や手や裾の長い服のあちこちに、炎に焼け焦げた跡がある。少女はまだ「御栄あれ、御栄あれ…」と小さな声で繰り返していた。彼は言った。

「目を開きなさい。少女よ」

すると涼しい風が、彼女の頬の涙をふき、少女は目を開けた。そして目の前にいる人を見て、目をまるまると見開いて驚き、慌てて炭の山から出てきて、月の広場の上にひざまずき、胸の前に指を組んだ。少女は頭を下げ、言った。

「お許しください。わたしは罪深きものです。己の深き罪の償いのため、こうして何度も灰になるまで焼かれねばなりません。神へのおわびのため、わたしが苦しめてきた人々の悲哀を清めるため、こうして苦しまねばならない、愚か者です」

その声を聞いて、彼は微笑んだ。愛が胸の中で花のように咲き、すべてのことをやってやろう、と彼は彼女のために心の中でささやいた。彼は言った。

「少女よ。あなたは今日、神の御前に呼ばれた。だからわたしは、こうしてあなたのもとにやってきた。少女よ、あなたは愚か者ではない。あなたは美しいものである。それをこれから、教えてあげよう。さあ、立ってこちらへきなさい」

少女は言われるまま立ち上がり、こわごわと足を動かしながら、その人のところに歩いて行った。近くから見るその人は、なんとも深く青い目をしていた。ああ、知っている。この人を。誰もが知らぬはずはない。忘れられるはずがない。少女の胸が震え、目に涙が再び流れた。

「ここに座りなさい」彼がいうと、少女は、「はい」と言って、彼のすぐ前にひざまずいて座った。手は自然に指を組み、祈りの形をとった。

「これから、わたしのいうとおりにしなさい」と彼は言った。少女はただ「はい」と言った。彼は少しの間、不思議な呪文を唱え、光を呼んだ。
「もうあなたは、十分に準備が整っている。それゆえにわたしはあなたにいう。さあ、まずは、一頭の立派な白い馬が、あなたの中にいると思いなさい」
「はい」
「あなたは今、その白い馬のそばに立っています。それは千里を疲れなく走る美しい駿馬です。雪のように白く、清らかな優しい愛の心を持っている。あなたは今まで、そこに白い馬がいることを知らなかった。だが今はそれを知っている。さあ今、その馬に乗りなさい」
「はい」
「乗りましたか?」
「はい」

少女は、心の中で、白い馬に乗った自分の姿を思い描いた。彼は続けた。
「その白い馬は、あなた自身です。あなたは、馬の真ん中に乗り、馬を操ることができます。さあ、馬に乗って馬を操るように、自分の手を自分の心で操り、その手を動かしてみなさい。そして全身を、自分自身として感じてみなさい」
「はい」
少女は言われた通り、自分の心で、自分の手を動かした。それは遠い昔に踊ったことのある祭りの踊りの所作に似ていた。そして自分を動かしている自分を感じた。そのときふと、何か、自分が空気の壁をすっと抜けたような、不思議な風を感じたような気がした。自分の中で、自分と自分がまっすぐに重なった。彼女は胸の中に起こった感動につき動かされ、周りを見た。遠い連山の風景、所々に生えている、耐乾燥植物。地に降りて来た月のような白い広場、真ん中に立った焼け焦げた柱。風景が今までと違い、何故にか、薄紙を一枚はがしたかのように、くっきりと見える。「ああ」と彼女は言った。見つけたからだ。自分が、今、ここにいることを。ここにいて、風景を見ていることを。

「ああ…」と、また彼女は言った。彼は微笑み、「わかりましたか?」と言った。
「あ…、あ…、あ…」少女は微笑む彼の顔を見あげながら、自分の全身に自分が満ちていくのを感じていた。わたし、わたし、わたしだ! 彼女は胸の中で叫んだ。

「あなたは、あなたというものです。『私』というものです。『私』とは、雪のように白い駿馬のごとく美しく、すばらしいものです。あなたはそれゆえに美しい。それゆえにすばらしい。あなたは、あなたという、すばらしい『自分』を持っている。それを、自分の自分と言います。すばらしい宝です」

その人の言葉は溶けるように少女の中に入って行った。と、突然、天から光の星が落ちてきたかのように、少女の全身を信じられぬ歓喜が貫いた。少女はあまりのことに、その場にうずくまり、頭を押さえながらがくがくと震えた。ほとばしりそうな叫びを懸命にこらえた。底知れぬ歓喜に魂が割れんばかりに震えていた。なんという幸せ。なんという喜び。これが、これが、これが…!

「わかりましたか、それが本当の幸いです。自分が、自分であること。すべてはみな、最初から持っていたのです。何もかもは、すでに与えられていたのです。少女よ。伝えなさい。苦しみの中にも、人々に伝えなさい。人々は今まで、双子のように自分を裂いて生きてきた。そして、本当の自分ではない自分をずっと生きてきた。それゆえに、あまりにも生きることが苦しかった。あらゆる不幸はここから起こったのです。けれどももう、あなたは、あなたになった。たったひとりの、あなたになった。少女よ、この世界には愛以外のものは存在しない。すべては、素晴らしい愛の存在のみであり、真実の幸福はその中にこそあると、伝えなさい」と彼は言った。少女は歓喜の中で、しばし答えることができず、涙で頬をうるおしながら、ただ何度もうなずいた。少女の頬や手にあった火傷のあとはいつしかきれいに消えて、服も新しいものになっていた。それゆえにか、彼女は前よりも一層美しくなって見えた。

「白雪のごとく麗しき駿馬の風に踊るたてがみを見よ。それはあなた自身である。星々の祝福の金の音の鳴るを、その貝の耳を開きて聞くがよい。私とはすばらしいものである。すべては愛である。神が、すべての愛が、待ち焦がれていたその時が、とうとうやってくる。人々よ、鍵を左に回しなさい」

彼は謎のような詩を歌った。その詩は彼女の心の奥に、光る記憶として結晶した。彼女はもうすべてがわかっていた。

わたしが、「私」と、いうものであるということを。そしてそれは、このうえなく美しいものであるということを。そして私は私であるゆえに、愛そのものであるゆえに、全てを耐え、全てを愛のためにやっていく、よきものであるということを。

なんとすばらしいものを、わたしは持っていたのか!少女は真の幸福を確かにつかみ、それを胸深く抱きしめた。愛がとめどなく自分の奥から生まれてくるのを感じていた。ああ、どんなに苦しくとも、わたしはやっていきたい。みなのために、すべての愛のために、やっていきたい。私とは、こんなにも美しいものだったのか!

彼は幸福に震え泣いている彼女に、静かな声で言った。

「アルファ。これは印です。ここからあなたが始まります。すべてのことを、あなたは、あなたによって、やっていきなさい」

すると少女は、額をまっすぐに彼に向けて、手を組んで礼儀を整え、美しくも確かな自分の声でくっきりと言ったのだ。

「はい、わかりました」

彼は微笑んだ。そして呪文を唱えた。すると少女は幸福そうに目を閉じ、ゆっくりとそこに身を横たえ、やがて静かな寝息をたてはじめた。

彼は再び翼を広げ、空に飛び立った。耳の中に、金の針のような誰かの声が飛び込んできた。

「わかりました」と、什は言った。そしてその声で、目を覚ました。

気付くと、彼は、寝室の寝床の中にいた。目を上にあげると、いつもの天井の木目模様が見える。

什は横になったまま、しばしぼんやりと白い思考の中を漂っていた。何かしら不思議な夢を見たような気がするが、何だったろう、と彼は思った。よく思い出せない。それは美しい夢だったようだが、思い出そうとすると、よけいに記憶が白い霧の向こうに逃げてゆく。ただ、なんとなく、昔雑誌で見た敦煌の壁画が思い浮かんだ。そういえば、夢の中で、るみに会ったような気がするが。

突然、枕元の目覚まし時計がけたたましく鳴った。夢の気配は弾け飛んで、どこかへ消え、什は慌てて目覚ましをとめると、いそいで寝床から起きあがった。



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2012-09-02 07:31:53 | 月の世の物語・余編

狭い研究室に、黄色い服を着た七人の役人が、椅子を丸く並べて座り、その真ん中に立っている、人形のように動かない女性を取り囲んで、しげしげとその姿を見ていました。眼鏡をかけた一人の役人だけが、壁際の知能器の前に座り、画面を流れていく文字を追いかけていました。

「サンプルD-287、24歳、西方大陸某先進国の人気歌手です」
知能器の前の役人が言うと、手に持った資料と、目の前の女性の立体映像をかわるがわる見ながら、役人たちは難しい顔をして話し合いました。

「この人怪も、だいぶ古い怪だね」「ええ、二万年はやっています」「人気歌手か。確かに美しいが、何か妙だ」「髪は明るい茶色。瞳は菫色、これは非常に珍しい。しかし、足が細すぎないか?」「ええ、計算上、このスタイルでは、人類は歩くことができません。バックから怪が助けない限り、彼女は自分の足で自分の体重を支えることができないはずです」「美しくしようとして、足を細くし過ぎたんだな」「それにしても、この奇妙さはなんだろう?何かが、今までと違う」

「次のサンプルを出します」知能器の前の役人が言うと、目の前にいた女性の姿は瞬時に消え、今度はがっしりとした体格の、東洋系の男性の姿が現れました。役人たちは書類を繰りながら、また、目を歪めたり、ため息をついたり、指を躍らせて、導きの印を宙に描いて、自分の霊感を刺激したりしました。

「サンプルB-079、32歳、東方先進国の、プロスポーツ選手です」知能器の前の役人が言うと、役人たちはまた議論を始めました。

「スポーツ選手にしては少し背が低いね」「男性は、女性に対する罪業がありますから、学びのすすんだ男性以外は平均的に皆、身長が低くなってきています。その傾向は、先進国にいくほど、顕著です」「人怪もその傾向には逆らえないか?」「背を高くすることはできますが、何らかの原因で失敗したか、裏から操作している怪が、面倒がってこれ以上高くするのをやめたんでしょう」「それにしても、線が細すぎないか?まるで女性というか…、漫画の中の登場人物のようだ」誰かのその声に、別の役人が、「あ!」と何かに気づいて声をあげました。

「わかったぞ!この奇妙さ。見てください、この男、絵に見えませんか?」
「絵?」
そう言われて、他の役人たちは目を見開いて、まじまじと人怪の立体映像を見ました。誰かが、知能器の前にいる役人に、立体映像を回してくれるように頼みました。すると、立体映像は、役人たちの目の前で、ゆっくりと回り始めました。

「立体だな。確かに」「ええ、三次元の存在です」「だが、確かに、絵に見える。どの方向から見ても平面的というか、薄っぺらいというか…」「美しいが、顔の作りが、単純すぎる。わずかだが、体全体に、絵画的にデフォルメされているような感がある」「…写実主義じゃありませんね。印象派か、マニエリスムか」「そんなもんじゃない、コミックイラストレーションだ」「何にしろ、下手な画家だ。絵の具の塗り込みようが足らない。絵の具も粒子の粗い粗悪品だ。…人間には見えるが、線が単調で陰が軽い」「これは一体何を意味するのだ?」

立体映像がまた変わり、今度は少し太った五十代くらいの女性が現れました。

「これもまた古い怪だ」「しかし、絵には見えませんね」「ああ、しっかりとした人間には見える」「彼女は某国の政治家、元女優です」「それなりの美人だったわけだな」「人怪は、美しくなりたがりますから」「ふむ、次のサンプルを」

すると立体映像はすぐにまた変わり、今度は猿のようにおどけた表情をした男が現れました。

「サンプルD-865、33歳、コメディアンです。人怪は芸能界が好きですね」「ステータスというもんだろう」「妙な顔をしているな。美男に見えないこともないが、どこかずれている」「美しくしようとして失敗した例でしょう」「これも、妙に薄っぺらで影が薄い。まるで、写真を切り抜いて空気に貼りつけたかのようだ」「一体何が起こっているのだろう?」

室内の役人たちは、資料と映像を見ながら、議論しました。知能器の前の役人が、カチカチとキーボードを打っていると、突然、きん、という音を知能器が鳴らしました。役人は白い画面を見ながら少しため息をつき、後ろを振り向きながら、言いました。「計算上では、人怪がこのようになりだしたのは、五年ほど前からですね。五年前当時、三十歳以下だった人怪は、ほとんどこうなっているようです」「五年前?五年前に何があった?」「残念ながら、結界にぶつかって答えを出すことができません」「接触不可能が出たか」「ええ、聖域です」「ふむ」役人たちはしばし、人怪の立体映像を見ながら、どこかに何かヒントはないかと、注意深く細かいところを観察していきました。

役人の一人は、人怪の手を見て、まるで猿の手のようだと感じました。顔やスタイルはほとんどが現代的で標準以上に美しいのに、手だけがまるで千年以上前の人間のようでした。それを隣の役人にささやいてみると、彼はしばし口をつぐんで考えたあと、「なるほど、魂の進歩度というか、本性がこういうところに出てくるのだな」とつぶやくように答えました。やがて、一人の役人が、言いました。

「とにかく、怪が、人体形成に関して、決定的に何かの力を失ったのは確かなようだ。それは多分…」「はい、おそらく、いと高きところにおわす方々が、彼らのための愛の糸を一本、お切りになられたのでしょう」「すべては愛ゆえだ。神はそれが彼らのためによいことだとお考えになった」
「このままいくと、どうなると思います?」「地球人類は、人怪の存在に気づくかもしれない」「それは多分、気付くだろう。いずれは必ず。神は、これからだんだんと、人類が隠し続けている嘘が白日のもとに暴かれてくるとおっしゃっている。これはそれが、地球上の現実に現れてきた現象の一つではないか?」「ふむ、なるほど」

役人たちは、何人かの人怪の立体映像を見ながら、多くの人怪の中に、様々な形で絵画化の現象が現れてきていることを確かめ、持っている帳面に気付いたことを書き記していきました。その途中、ふと、何人かの役人が何かに気づいて顔を上げ、天井を見ました。残りの役人もまた、気付いて、顔をあげました。
それは風にも香りにも似た、柔らかな暗喩の布に包まれた、赤子のような一つの言葉でした。役人の中でひときわ力の高い役人が、まるで誰かに口を取られたかのように不思議なことを言いました。

「鍵を左に回せ」

瞬間、室内に凍ったような静寂が落ちました。目の前の人怪の立体映像が、まるで新聞紙をくしゃくしゃにするように縮んでいき、やがて粉々になって散って行きました。知能器の前にいた役人は、ほとんど無意識のうちにキーボードを打って、画面を切り替えると、いつものパスワードを、末尾のほうから逆に打ちこみました。すると、知能器の画面が真珠のミルクを流したように白くなり、その真ん中にひとくさりの短い詩が現れたのです。

『人なるもの、人なるもの、これまでなせることのすべてを、ちいさき薔薇の若葉のごときことたまにてこたえよ。』

役人たちは知能器の周りに集まってきて、言いました。「何だこれは?」「詩だ。いや、詩の形をした鍵穴だ。つまりは、人類が、これまでやってきたことは一体なんだったのか、それを短い言葉で答えよ、と我々は問われている」「なるほど、その答えが聖域へのパスワードだな」「おそらく」

数分の静寂があり、やがて一人の役人が、静かな声でその問いに答えました。

「人なるもの、人なるもの、なせしことのすべては、人を辱め、自らのみを高めんとせしことなるか」

すると知能器はその言葉にすぐに反応し、画面に「可なり」という言葉が見えたかと思うと、知能器の結界が解け、画面が扉のように開いて、その奥が見えたのです。それを見て、誰かが、ほう、と驚きの声が上げました。

「ああ…、そうだ。人類は様々なことをやってきた。殺し合い、奪い合い、侮辱し合い、様々な悪を行ってきたが、それらは全て、自分以外の人間を馬鹿にし、自分の方を偉くするためというだけのことだったのだ。あまりにも、自分の存在が痛いがために」

誰かがため息とともに、悲しげに言いました。吸い込まれるように画面を見ていた役人の一人が、柔らかな声で、知能器の画面に現れた詩の一部を、朗読しました。

「美しいものは美しく、正しいものは正しくなる。虚無の風を脱ぎ、耳をすませ若き人よ。帰るべき故郷の声が、波のごとく繰り返し君の耳を洗う。沈黙する星の凍りついた涙を溶かし、いと高き愛を求め、…帰って来なさい」



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2012-09-01 12:05:29 | 月の世の物語・余編

ある日のことです。月のお役所の一室で、黄色い髪をしたある役人が、知能器のキーボードの上で指をかたかたと踊らせていました。その音ときたらまるで本当に音楽のようでした。木製の知能器は、細やかで柔らかなところにも気がきくし、丁寧な情報処理をしてくれるので、大いに助かります。

役人が、画面の中の水晶グラフを、真剣な瞳で見つめつつ、様々に分析をしていると、ふと、こん、と音がして、知能器の画面が真っ白になりました。
「おや?」と役人は言いましたが、すぐ何かに気づいて指で印を書き、知能器に封じの魔法をかけ、指をパチンと鳴らして大声で周りの人に言いました。

「知能器をガード!役所内の知能器全て!」黄色い髪の役人が言った言葉は速やかにお役所全体に広がり、すぐに、お役所内のすべての知能器にガードがかかり、全ての知能器の画面が一時真っ暗になりました。

「どうしたんです?一体」と言いながら、同じ事務室にいた役人たちが、ただ一つ画面から光を放っている知能器の前に座っている、黄色い髪の役人に近付いてきました。

「最初は怪かと思ったんだが…、どうやら小精霊のようだ。姿を消してこの知能器に入り込んだらしい」黄色い髪の役人は白い画面に時折走る妙な線を見ながら言いました。「小精霊が何でこんなところにいるんです?」「わからない。小精霊はまだ道理が十分肝に入っていないから、日照界にある浮遊大陸から出てはいけないことになっているはずなんだが」「いたずらで妙なウイルスを作られたりしたら大変ですね」「どうしてこんなとこにきたものか。まあとにかく、早くこの小精霊を捕まえて、親役の精霊に渡さねば」皆が会話をしている間に、あちこちの部署から役人がこの事務室に集まってきて、問題の知能器と彼らを取り囲みました。

黄色い髪の役人は言いました。「みんなは、大丈夫かい?」「ああ、ガードの魔法印はほぼ完ぺきだから。データの保存も自動的にやってくれるし」「でも、こっちの魔法計算は最初からやり直さなきゃならないわ。最初からしないと意味がないのですもの」「お役所の知能器に入り込むなんて、どんな小精霊ですか?」
「詳細はこれから調べるところだ」と、黄色い髪の役人が言うと、ふと、真っ白な知能器の画面に、赤と黄色の小さな丸い点が現れました。黄色い髪の役人は、「おや」と言って、その小さな丸い点を見つめました。丸い点は画面の真ん中でテントウ虫のように這いながらぐるぐる回っていましたが、しばらくすると、急に、画面に碁盤模様が現れ、赤い点は小さな薔薇に、黄色い点はタンポポになって、碁盤の真ん中に二つ行儀よく並びました。

「ははあ、なるほど。わかったぞ。こいつ、花将棋をやりたいんだな」と、ある役人が画面を見て言いました。「きっとずいぶんと自分の腕に自信があるんだろう。それで、対戦相手が欲しくて、ここにきたんじゃないか?月の役所には花将棋の名手が多いって噂があるから」

「…おやおや、このわたしに挑戦しにきたのかな?」黄色い髪の役人は、少し呆れたように笑いつつ、言いました。そして少し考えたあと、キーボードをカチカチと打ちました。すると、『花将棋をやりたいのかい?』という文字が、碁盤の右上の小さな枠の中に現れました。するとすぐにその文字は消え、代わりに、『ぼくは薔薇だ。君はタンポポだ。先行は君でいいよ』という文字が枠の中に現れました。周囲の役人たちの中から、くすくすという忍び笑いが聞こえました。黄色い髪の役人は周りの役人たちに言いました。

「よし、これで原因はわかった。封じの印を三重にするから、皆それぞれにガードを解いて仕事を始めてくれ。この小精霊が他のところにいく可能性は低いと思う。こいつの相手はわたしがするから」黄色い髪の役人が言うと、集まってきていた役人はおもしろそうに笑いながら、それぞれ自分の部署に帰ってゆき、知能器のガードを解いて再び自分の仕事を始めました。

『では、先にわたしが打つよ』と、キーボードを打つと、役人は右手の人さし指に息を吹きかけ、その指で直接画面に触れて、画面の中の黄色いタンポポの駒を動かし、碁盤の下方右の領域の真ん中あたりに打ちました。するとすぐに、薔薇の駒が動いて、左上方の真ん中あたりにとまりました。こうしてしばしの間、黄色い髪の役人は、小精霊を相手に、知能器で花将棋を打ちました。

最初は、小精霊だからと、少々甘く見ていた役人でしたが、途中から少し苦しくなってきました。どうやら、この小精霊もかなりの打ち手らしく、役人は何度か相手の手にはまって苦境に追い込まれました。しかしなんとか難況を打開しつつ、どちらかと言えば優勢を保ちつつ勝負は続いていきました。

「こんなのはどうだい」と言って役人が打つと、『きしょう、そこはずるいぞ!』という文字が画面の縁の枠内に現れました。役人はにやりと笑って、『はしたない言葉を使うもんじゃない。汚い言葉は空気を汚すって、お師匠さんに習わなかったか。さ、君の番だ』と文字を打ちました。小精霊は長考に入ったようで、しばしうんともすんとも言わなくなりました。

カチン、と知能器が音をたてると同時に、薔薇の駒が打たれました。すると役人は目を見開き、口を曲げました。『どうだ』という文字が画面の隅に現れました。「おや、これはまいりましたね」と言いつつ、役人は腕を組んで考え込みました。そして同時に、なんだか腹の中を小人にくすぐられているように、自分がやっていることがおかしくなってきて、口元を押さえて笑いをこらえました。『早くしろよ』と画面に文字があらわれました。『わかったよ』と役人は文字を打ち込みました。そして、仕方ない、負けてやるか、と思い、タンポポの駒をぱちりと打ちました。すると小精霊は大喜びで、『やあ、ひっかかったな!』と勝ち誇って薔薇の駒を打ちました。とたんに、知能器の中から赤い薔薇の花があふれ出し、事務室内が薔薇の花園になりました。ところどころに、金の星のようなたんぽぽも、咲いていました。どこからか小鳥の声が聞こえます。小さな蝶が花の間で瑠璃の星のかけらのように、ちらちらと光りながら飛んでいました。

「やあ、きれいだな」「ええ、いい香りだこと」役人たちは赤い薔薇の花園を嬉しそうに眺めました。知能器の画面は再び真っ白になり、『おれの勝ちだ、おれの勝ちだ!』という文字がうれしそうに踊って揺れていました。

黄色い髪の役人も、負けた方が得だったかなと思いつつ、美しい薔薇の園を眺め、ため息をつきました。そのとき、知能器がこんこんとまた妙な音をたてて揺れました。役人が驚いて画面を見ると、『このいたずらものめ!』という大きな文字が、画面の真ん中をゆっくりと横切りました。知能器の中から、かすかに、きゃあ、という悲鳴が聞こえました。そして不意に画面が暗くなって七色の星がほたるのようにたくさん揺れたかと思うと、急に画面が明るくなって元の水晶グラフが戻り、それと同時に薔薇の花園はゆっくりと消えていきました。役人たちが少し花を惜しみつつ事務室を見回していると、いつしか知能器の上に、暴れる猫の首根っこを右手に捕まえているひとりの大きな精霊が浮かんでいたのです。

精霊は知能器の上からひらりと床に降りてくると、黄色い髪の役人に深く頭を下げて、言いました。
「真に申し訳ありません。わたしがこの者の親役でございます。この者、花将棋が好きでたまらず、毎日そればかりやっているうちに、周りに自分の相手をしてくれる者がいなくなってしまったので、こんな大変なことをしてしまいました。お役所内のお仕事を大変にお邪魔してしまったこと、深くお詫びいたします。どうかお許しください。ほんとうにもう、二度とこんなことはしないよう、きつく叱っておきます」
親役の精霊は男性で、姿も衣服も人間にそっくりでしたが、どことなく梟に似た顔をしており、長い金髪と見える髪はよくみると細くしなやかな長い羽根でありました。彼に首根っこをつかまれて暴れている猫は、夜のように黒い猫で星のような明るい銀の目をしており、額のあたりに、透き通った小さい角がありました。

黄色い髪の役人は立ち上がって自分も挨拶をし、「いや、久しぶりにひと勝負できて、おもしろかったですよ」と笑いながら言いました。親役の精霊は恐縮してもっと深くお辞儀をしました。そして猫の小精霊の頭を小突くと、短い言葉で説教し、頭を下げさせました。「ごめんなさい。もう二度としません」親役の精霊に叱られた猫の小精霊は、目に涙を浮かべつつ、うつむいてしょんぼりとしながら言いました。

「これもわたしのしつけのいたらぬせいと、反省いたしております。このお詫びは必ずいたします。本当にご迷惑をおかけしました」と言うと、親役の精霊は再び深く役人に頭を下げ、小精霊をつれて、事務室の窓から飛んで帰っていきました。黄色い髪の役人は、精霊たちを見送ると、ほっとして、知能器を透き見てみました。すると、三重の封じ印は見事に砕かれていて、一部、小精霊が荒らしたらしい知能器内の長い紋章の回路を実に正確に書きなおしたあとが見えました。役人は、親役の精霊は相当な力の持ち主と見て、ほお、と声をあげました。彼は砕けた印のかけらを呪文で溶かすと、すぐに元の仕事に戻りました。

花将棋の相手をさせられている間に、止まっていた仕事は、彼の魔法と努力ですぐ遅れを取り戻すことができました。知能器もちゃんとデータを避難させて保存しており、それほど大きな害はなく、この小さな事件は収まりました。

「おや、見てください」ふと、役人の一人が言って、窓の外を指さしました。すると、そこには、月長石の大地の上の紺青の空に、大きな半円形の不思議な月虹がかかっていたのです。虹は白みがかった七つの色を宝石の光のように束ね、自らかすかな光を放ちながらくっきりとそこに立っており、それはまるで、不思議な別世界への入り口のように見えました。そしてそれをずっと見ていると、石英の百合のような清らかな喜びの響きが観る者の耳にかすかに届き、その音を聞いていると、胸の中に秘められた鈴が鳴り、魂の歓喜をかきたてられて、本当に自分は幸せだとみんな思うのでした。

「大きな虹だ。月で月虹を観るなど、不思議なこともあるものだ」「ほんとですねえ」役人たちはしばらく、その、美しくも幻想的な虹を見ていました。
「精霊たちのお詫びの気持ちでしょう」「実にきれいだ」「まだ消えませんよ。なんだかずっと見ていたくなるな」役人たちは顔を見合わせながら、今日はひと騒ぎあったが、なかなかにいいこともあったなと、幸福な微笑みを交わしたのでした。

月虹は、それから七日ほども、ずっとお役所の窓から見えていたそうです。



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余編・第三幕

2012-09-01 07:12:06 | 月の世の物語・余編

やあみなさん。初めてお会いします。わたしは月の世で役人をやっているものです。
肌の色が黒いので、作者によって鉛筆とシャープペンシルで描かれました。もちろん、最近の作者が少々疲れ気味で、色鉛筆や切り絵よりずっと鉛筆の方が楽だと言う理由もあるのですが。

「月の世の物語・余編」第三幕、始まります。この第三幕は、われわれ役人が多く出て来ます。わたしも二話ほど、話に出て来ます。役人も結構忙しく、難しい仕事をやっています。それを皆さんに知っていただけるのは、うれしいことではありますね。若者たちも大変な仕事をしていますが、役人も大変なのです。

ああ、なお、作者によれば、わたしのモデルは、カンベ・タケルさんだそうです。全然似てませんが、なんとなく彼を思い浮かべながらお話を書いていたそうです。彼のように、わたしにも一人上司がいますが、彼のモデルは残念ながら、スギシタ・ウキョウではありません。まあそんなことはよしとして、お話をお楽しみください。どこら辺でお会いできるか、楽しみにしています。

お昼ごろに、第一話の更新があります。では、また。



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第2幕・終了

2012-07-29 06:52:58 | 月の世の物語・余編

月の世の物語・余編第2幕、一応昨日で終了です。ここで改めて、「歌」から「什」までの13編を「第1幕」、「飢」から「蟹」までの14編を「第2幕」と決めたいと思います。

本当は「一」で物語は完全に終了、「蟹」は「エピローグ」とするつもりだったのですが、この物語、なかなかには、終わらせてもらえないようなのです。物語の方が、わたしに書けと言っているようなのだ。なのでまた、ピリオドを打つことはやめておくことにします。いつかまた、何かの折りに、お話のイメージがわいてくるのかもしれません。第3幕を書くときがいつくるかはまだわかりませんが、もし書くときがきたら、また大いに楽しみたいと思います。

冒頭の絵は「古道の魔法使い・本性」。彼女は、黒い肌に金色の目、銀の髪をしているので、切り絵では表現が難しく、鉛筆と色鉛筆、パステルなどで描いてみました。ちょっと少女っぽくなってしまったかな。本当はもっと怖くて迫力があるイメージなんですが。またいずれ機会があれば、描きなおしてみたいです。



それでこれは、古道の魔法使い・黒髪の美女バージョン。切り絵で描いてみました。何やら知的というか、きれいだけど、一癖ありそうなという感じの美女になりました。
つややかな黒髪、白い肌、澄んだ緑の瞳。豊かな胸元。天使のような微笑み。この顔で、恐ろしいことをやるんですよ、この人は。いや、ほんとの姿は別なんですけど。美人には、気をつけましょうね。男の方。

ちなみに、腐乱地獄というのは、20階ほどありまして、一番浅いところが1階、一番深いところが、20階となっております。お降りの際は階を間違えないように、お気をつけ下さい。



双子だったのが、ひとりになってしまった、白蛇の精霊です。胸飾りがカラータイマーみたいだな。切り絵だと、目の表現が難しいな、瞳孔が細い目、ちゃんとわかりますか?

とにかく、ここでしばらく、物語はお休みです。




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2012-07-28 07:28:01 | 月の世の物語・余編

気がつくと、周りは真っ暗でした。一瞬だけ、月の明るい森の風景を見たような気がしましたが、いきなり強い風が吹いて、何かでんぐり返りをするように、ぐるんと自分の体が回ったような気がしたかと思うと、いつの間にか、彼は真っ暗なところにひとり座っていました。周りを見回しても暗闇ばかりで何も見えません。地面はあるらしく、お尻の下に冷たい土の感触を感じました。自分はどこにいるんだろう?と彼は考えました。確か、少し前まで、両親と妹だけの、さみしい自分の葬式を眺めていたはずだが。

「はあい」と後ろから女の声がすると同時に、暗闇の上の方に不思議なランプがともりました。男が振り向くと、そこに、抜けるような白い肌をした、長い黒髪の美しい女が、ランプの光に照らされて立っていました。男は目を見開き、うっと、言葉を喉に詰まらせました。女は微笑みながら歩いて男の前に回ってくると、言いました。

「おひさしぶり。待ってたのよ、ずいぶん」
女は意味ありげに微笑んで、男を横目で見ました。この目つき、どこかで見たことがある、と男がそう思ったその途端、彼の中で、電気が弾けるように記憶が符合しました。彼は驚きのあまり、あっ、あっと声を詰まらせつつ、女を指差しました。混乱した頭の中で、彼はここから逃げようと思いました。しかし、足が地面に接着剤でひっつけられているかのように動かず、立ち上がることもできません。男は目を皿のようにして女を見つつ、叫びました。

「…あ、赤毛の!赤毛の!あの女ぁ!…あ、あんただったのかあ!!」
「ああら、うれしい。覚えていてくれたのね」

男は足を動かそうと必死にもがきました。しかし強い魔法がかかっているらしく、足が地面にひっついてどうしても立ち上がることができません。女は焦っている男の方にゆっくりと近づいてきて、彼の前に座り、その美しい微笑みを彼の顔に近づけつつ、甘い声でささやきました。
「いい勉強になったわ。痛いのね、鉄砲の玉って。ほかにもいろいろやってくれたけど」
「…いや、いやあの、す、すまなかった。あ、その、待ってくださいよ。まさか、まさかあれがあなただったとは、思わなかったんですう!」
女が一瞬形相を変えたので、男は許しを請うように、目の前で手を合わせながらしきりに頭を下げました。女は目を金色に光らせ、舌舐めずりをするように、言いました。
「ふうん、そうなの…」女は立ち上がると、男のいるところから数歩後ろに下がり、右手をさっと横に振って、杖を手の中に出しました。

すると男はまるで蛙のように青ざめて、震えあがりました。まずい、まずい、まずい、と心の中で繰り返しながら、周りをきょろきょろと見回し、彼は叫ぶように言いました。
「い、いつものやつ、どこだ!?おれを担当してるやつ。あの間抜けそうな栗毛のバカ、どこにいるんだよう!たすけてくれ、たあすけてくれえ!」男は泣きそうになりながら、動かない下半身を揺らして、何とか立ち上がろうとしました。でも、どうしても、足を黒い地面から離すことができません。女は妖しげに微笑みながら、男を見つめ、甘い声で言いました。

「…ねえ、あなた。あたしが、あんなことやられて、おとなしく黙ってる女だと、思った?」
男は、震えながら女の顔を見ました。天使のような白い顔が、それはやさしそうに美しく微笑んでいます。金の目はもう澄んだ緑の目に戻っていました。しかし男にはそれが鬼の形相に見えました。

「ご、ごめんなさい。すみません! し、知らなかったんです。も、もう殺したりしませんから、ゆ、許してください…!」
男は何とか逃げようとしながら泣きわめくように言いました。女はあごに指をあてて小首をかしげ、目を細めて微笑みながら、少し肩をすくめて「うふん」と言いました。男は目を見開いたまま、凍りつきました。

天使の微笑みをした女は、そこで瞬時に表情を悪魔に変え、空気を切るような呪文を唱えたあと、持っていた杖を振りまわし、こん、と高い音をたてて地面を叩きました。すると男の下の地面が割れ、ぎゃひっという悲鳴を聞いた思うと、もうそこに彼の姿はありませんでした。

そのときふと、かすかな風が女の頭の上を動きました。「…ああ!遅かったか!」という声が背後から聞こえました。女は振り向きながら魔法を解き、ランプと周囲の暗闇を消しました。すると月明かりの中に、栗色の髪をした青年が息を切らせながら立っていました。月光の差し込む明るい森の中で、栗色の髪の青年と女は向かい合ってしばし話をしました。
「ひとの担当する罪びとを、勝手に横からさらわないで下さいよ。それにこういう復讐は、道理に反することですよ」青年は困った顔をして女に言いました。すると女はしらじらと月を見あげて言いました。
「あら、そうだったかしら。でも彼がわたしにしたことに比べると、二十倍はやさしいと思うけど?」
「どこまで落としたんですか?透き見しても見えない」
「腐乱地獄の十七階くらいにいるわよ。今頃は蟹にでも食われてるんじゃない?」
「うわあ!!」青年はびっくりして、急いで手元に書類を呼び出し、お役所に救助願いを出しました。

「さてと」と女は言うと、そこから飛び立とうとしました。青年はあわてて彼女を呼びとめました。「どこにいくんです?罪の浄化願いは出して下さいよ!」
「必要ないわよ。もうわかってるから。山に行って黄水晶七千個作ってくるわ。…まあたねえ!」
そう言うと、古道の魔法使いは、ふわりと風に乗り、空の向こうに飛んで行ってしまいました。

腐乱地獄に落ちた男は、三日後になってようやく助けられましたが、体中を人食い蟹に噛まれて、それはひどい状態になっていました。青年は罪びとに癒しの術を施しながらも、言いました。
「いいですか?何度も言ってるけど、女の人をいじめたり殺したりしてはいけませんよ。あなたはいつも、女性を憎んで手の込んだ意地悪ばかりするけれど、女性を甘く見てはいけません。時には、とんでもない女性に意地悪をして、死んでからひどい目にあうことがあるってことくらい、あなただって知ってるでしょう」
「は、はい…」男は、腐乱地獄がそれは恐ろしかったらしく、素直に言いました。

「も、もう二度と、やりません…」



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2012-07-27 07:49:20 | 月の世の物語・余編

白い雪花石膏のような月が、森の梢の上を転がっていました。月明かりのため、星はいくらも見えず、ただ天頂から少し西寄りに傾いたあたりに、二つの一等星がかすかに光って見えます。

二匹の白蛇は、細い声で愛の歌を歌いながら、夜の森をさらさらと歩いていました。木々がそれを喜んで涼やかな風を呼び、自分たちの歌を歌いました。森の隅に隠れているほんの小さな花も、見えない星のためいきのような、かすかな歌を歌っていました。

二匹が森のシステム管理を始めてから、どれくらい経ったのかわかりませんが、今のところ、特に変わったことはなく、森は静かに生きて、この地上でやるべきことをやり、歌うべき歌を歌っていました。森が守っている小さな鼠も、増えもせず、減りもせず、安定した数を保って生きていました。鼠は時々、きゅう、と小鳥のような声をたて、それが白蛇には、小さな宝石のような光を吐いているように見えました。それはまるで、大きな鍋に煮た星光のスープに、ほんの少し混ぜるシナモンの香りのようでした。その鼠が鳴くと、星光のスープはそれはよい香りを放って、森全体に、心地よく甘い心が染みわたり、神の微笑みが森全体に切なくも強くふりかかるのです。

二匹の白蛇は、自分たちが管理を始めてから、森の天然システムが、特に変調もきたさず、順調にリズムを刻んで行われていくことに、静かな喜びを感じていました。

「いい夜だねえ、兄さん」前を行く弟が言うと、後ろを行く兄も答えました。「ああ、いい夜だ。歌が透きとおっている。美しい愛が流れている」双子の白蛇は、うれしそうに森を見渡しました。

そうしてしばらく、静かな喜びに二匹が浸っていると、ふと、どこからか変わった風の音が聞こえてきました。「おや?なんだろう」兄が言うと、弟も言いました。「おや?なんだろう」

風はまたたく間に森の方にかけてきて、森の梢に触れ、まるで女神の髪をかき乱すような音をたてて過ぎ去っていきました。それと同時に、月のある空に一瞬赤い絹をひるがえすようなオーロラが揺れ、かすかな鈴のような音を地上に落としたかと思うと、すぐに消えてしまいました。

二匹はしばし、茫然と空を見ていました。「一体なんだろうね」「本当に、なんだろうね」二匹が空を見ながら言うと、ふと、弟が何かの気配に気づいて、後ろを振り向きました。すると、そこにいるはずの兄の姿がないのです。弟は驚いて言いました。「兄さん!どこに行ったんだい?」すると、声はすぐに返ってきました。「何を言うんだ、わたしはここにいるよ。いや、それよりおまえこそ、どこにいったんだい?」「え?」

弟は、びっくりしました。今度は前の方を見てみましたが、そこにも兄の姿はありません。「兄さん、どこに行ったんだい?」「だからここにいると言ってるじゃないか。おまえこそ、どこに行ったんだ?」
そこに至って、二匹はようやく気付きました。兄も、弟も、同じ一つの口でしゃべっているのです。

ふと、周囲の樹霊たちがずいぶんと驚いて自分たちを見ていることに、二匹は気付きました。樹霊たちは彼らに、いつの間にか、二匹が一匹になっているということを、教えました。
「ええ?」と兄は言いました。「おやあ?」と弟は言いました。そう言えば、どちらも、同じ口でしゃべっています。「兄さん、兄さんはわたしみたいだね」「おまえ、おまえは、わたしみたいだね」一匹になった白蛇はきょとんとした眼で宙を見つめました。「「どういうことなんだろう」」と二匹は同時に言いました。そして彼ら、いえ彼は、呪文を唱えて、元の姿に戻ってみました。髪も肌も服も真っ白な美しい若者がひとり、そこに立っていました。ただ、胸飾りは、瑠璃でも、柘榴石でもなく、不思議な白い筋の入った紫色の石に変わっていました。それを見て彼は弟のように言いました。「何だろう?紫水晶だろうか。透きとおっているよ」すると彼は、今度は兄のように言いました。「ちがうよ、菫青石だろう。少し紫が濃いけれど」

「「なんでなんだ?」」ふたりはいっぺんに言いました。そして少し悲しくなりました。「弟よ、おまえはいなくなってしまったのかい?」「そんなことはないよ。わたしはここにいるよ。兄さん、兄さんこそ、いなくなってしまったのかい?あんなに、わたしたちは、いつもいっしょだったのに」「ああおまえ、わたしはいるよ。ちゃんとここにいるよ。いつもいっしょにいるよ」

二人は会話を交わしていましたが、樹霊たちからみると、それは一人の人間が二役の芝居をしているように見えました。兄の言ったことも、弟の言ったことも、胸に菫青石の飾りをつけた、一人の精霊が言っているのです。

しばらくの間、一人の白い精霊は、黙って森の中に立っていました。互いに互いを失ってしまったような寂しさが胸を浸して、目からほとほとと涙が流れました。精霊は、ああ、と重い息をついて、頭の重さのままにうつむきました。風がまた森の上をなでて行きます。誰かに呼ばれたような気がして、二人、いえ一人の精霊は静かに顔をあげて上を見ました。するとそこには、それは大きな白い蛇神が、森の梢の上に軽々と寝そべり、細やかな綿毛のような白い光を放ちながら、静かにこちらを見下ろしていたのです。

神を見て驚いた精霊は、慌ててひざまずいて拝礼しました。すると蛇神は、星の香りを放つ息をふうと吐いて、精霊を清め、言うのです。

「清くも白き精霊よ。汝は一人であったが、ある目的のためにあるときから二人となっていた。片方の名を、『いるもの』と言い、片方を、『いないもの』と言った」
精霊は驚いて、顔をあげました。蛇神は静かに続けました。「または、片方を『愛』と呼び、片方を『虚無』と呼んだ。二つのうち一つは本来ないものであったが、仮にあるとしていなければならなかったため、神は汝を二人に分けた。ゆえにこれまで汝は二人であったが、鍵の方向が変わったため、元の姿に戻った」
「そ、それはどういうことですか?」思わず、精霊は言いました。それはもはや二人ではなく、一人の声でした。

すると蛇神は蛇の顔でかすかに微笑み、言ったのです。「汝は、この世界を助けて行くに必要な一つの生きる紋章の一つであった。神は心清き汝を選び、一人を二人に分け、あり得ない双子として存在させ、苦しき世界を創造しつつ営んでゆく神の御計画のための、ひとつの灯として働いていたのだ。汝は神のため、そしてこの世界のために、いかにも大切な仕事をしていた。そしてその役目が、今日、終わった。よって汝は元の姿に戻った。白くも清き精霊よ。新しき名が、汝に授けられる」

すると蛇神は、精霊にしか聞こえぬ声で、精霊に新しい真の名を教えました。精霊は驚きました。そして言いました。「ああ、世界は、世界はそういうことになっていくのですか?」
すると蛇神はまるで月に溶けるようにやさしく微笑み、静かに「そうだ」と言いました。

精霊の心の中を、歓喜が踊りました。「ああ、そうなれば、なんとうれしいことでしょう。なんという美しい希望でしょう。神よ、御身のためにこの身がお役にたてたことをうれしく思います。ありがとうございます」そういうと精霊は、深く神に頭を下げました。そして精霊が再び顔を上げた時、蛇神の姿はもうそこにありませんでした。ただ、清らかな星の香りだけが、見えない薄絹をふわりとかぶせるように、森に漂っていました。

「ああ、兄さん」と精霊は弟のように言いました。「なんだい、おまえ」と精霊は兄のように言いました。「おかしいねえ、一人なのに、二人分しゃべってしまうよ」「そりゃあ何せ、本当に長い間、わたしたちは二人だったからねえ」「でも、一人だったんだね」「ああ、昔から、何となく感じていたよ、わたしたちは本当は一人なんだと…」「わたしもだよ…」

精霊は白蛇の姿になり、また森の中をさらさらと歩きながら、歌を歌いました。小さな鼠が、その前にまろび出てきて、キュウ、と鳴きました。この鼠の吐く小さな魔法の香りで、白蛇は小さくくしゃみをしました。それはたった一人のくしゃみでした。

「ああ、わたしは今、一つの愛なのだ」

一匹の白蛇は自分の中で、二人であった自分の心が、望遠鏡の焦点が合ってくるように、だんだんはっきりと一人に見えてくるのを感じていました。胸に暖かに燃える金の光が、喉を通り美しい愛の歌となって森を流れました。樹霊たちがそれを喜び、全てを賛美する歌を歌い始めました。

小さな鼠が、キュウと鳴き、かすかな星のため息を、吐きました。風が起こり、生きている天然システムが、歓喜に揺れて清らかな斉唱を、世界に流し始めました。それはこう歌っているのでした。

「世界にどれだけ多くのものがいようとも、存在するものはただひとつ、愛のみなのだ」。



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