月の原に、雪が降っておりました。雪原は金剛石の粉を振りまいたかのようにちらちら光り、白く果てもなく広がっておりました。降る雪は、自ら光る白い月の原に、まるで幾万もの光の子が、大いなる母の胸を恋うように、静かに舞いおりていました。
子供がひとり、白いコートを着て、白いブーツをはき、雪原を歩いていました。歩いてはおりましたが、彼のあとには一つの足跡もありませんでした。どこまでも続く雪の原には、何物にも汚されぬ正しい光が秘められ、それは神の前に静かに目を伏せて祈る乙女のようにやさしく美しいかと思えば、愛を腐食させようとする怪を寄せ付けぬ聖者の怒りのように恐ろしく、そしてその上では、何物をも燃やさぬ静寂の炎が、青い花のようにあちこちで燃えていました。
途中、子供は雪の上を歩くのに飽いたように、大きく跳ね、空を飛び始めました。そして雪原の中ほどにある、水晶の柱のような氷柱の前に飛んできました。氷柱は、天を突き刺すように高くまっすぐに伸び、透きとおったその中には、一人の聖者が、目を閉じて座っていました。子供は氷柱のそばに降りると、「聖者さま」と声をかけました。すると氷柱の中の聖者は目を開け、子供を見下ろしたあと、静かな声で言いました。
「もう時間か」すると子供は、「はい」と答えました。聖者は氷の中で立ちあがり、ゆっくりと外に出てきて、雪原の上に舞い降りました。そして白い風景を見渡しながら、「ああ、治ったようだね」と言いました。子供はまた、「はい」と答えました。この聖者はたいそう年をとっておりましたが、姿は若者のようでした。髭もはやさず、髪を短く刈り、白いセーターとズボンを着用していました。一見普通の青年のように見えましたが、目は澄みわたる銀のように光り、容(かたち)良い唇はいつも不思議な笑みをたたえていました。
聖者は子供とふたり、しばらく並んで歩きました。そうして雪原を見回り、雪のしっかりと固まっているのを確かめました。彼は、先の月食の折り、何らかの原因で、月の原の一部が汚れてしまったのを、ひとりで治していたのでした。それはまた、彼の罪の浄化でもありました。
彼は月の原を清める仕事に入る前、大きなムカデを一匹殺しておりました。あるとき、神の愛を知らぬ、いえ、知ろうともしない愚かなムカデが、地上世界で恐ろしいことをやり、たくさんの人がむごい目にあって死んだことがありました。聖者はそのムカデの前に現れ、詩を読みあげ、浄化を試みましたが、ムカデは耳を貸そうとせず、神を侮辱することをやめませんでした。何を言おうと無駄だと判断した聖者は、穏やかな杖を刃に変え、その魂を殺したのでした。
それが神のため、また人々のためだったとはいえ、一つの魂を殺すことは、美しい愛の理想に反する罪にも当たりました。彼はその罪を償うため、食の折りに傷んだ月の汚(けが)れを、自分ひとりで清めることにしたのです。
「なんとかなったようだ」雪原の光に目を細めながら聖者がいうと、子供はまた「はい」と答え、どこから出したのか、長い杖を聖者に渡しました。聖者は杖をとり、それで風に聖域のしるしを描いて、しばらくはだれも雪原に近寄れぬように、結界を結びました。
子供は、ほっと息をつき、笑って悦びました。雪はまだ雲もない空から舞い落ちていました。「前よりも美しくなりましたね。とてもすばらしい。この雪の原に名前をつけてみたいな」子供が言うと、聖者は歩きながら、「君がつけるといい。そうすると、とてもいいことになるだろう」と言いました。子供は嬉しそうに胸の前に手をあて、「どんな名がいいかなあ」と、考えました。すると耳元で、舞い落ちる雪の一つがささやき、「つきのこのしろはら、はいかがでしょう」と言いました。すると子供は唇を突き出し、「ふうん、『月の子の白原』か。どうでしょう? 聖者様」と聖者を見上げました。聖者は笑いながら、「なかなかいい」と言いました。それでこの雪の原は、「月の子の白原」という名で呼ばれることになりました。子供は大喜びで、ぴょん、と跳ねました。
聖者は子供の無邪気さを悦び、彼をひょいと肩にかつぐと、小さな愛の呪文を歌いました。すると子供の胸の中を、おやさしい神の愛の流れがとおり、清らかな歓喜が体中にしみわたり、子供はいかにも幸せそうに、聖者の頭に抱きつきました。聖者は、子供を抱えて歌を歌いながら、月の原を、まっすぐに歩いてゆきました。