世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

2011-11-30 07:54:09 | 月の世の物語

月の原に、雪が降っておりました。雪原は金剛石の粉を振りまいたかのようにちらちら光り、白く果てもなく広がっておりました。降る雪は、自ら光る白い月の原に、まるで幾万もの光の子が、大いなる母の胸を恋うように、静かに舞いおりていました。

子供がひとり、白いコートを着て、白いブーツをはき、雪原を歩いていました。歩いてはおりましたが、彼のあとには一つの足跡もありませんでした。どこまでも続く雪の原には、何物にも汚されぬ正しい光が秘められ、それは神の前に静かに目を伏せて祈る乙女のようにやさしく美しいかと思えば、愛を腐食させようとする怪を寄せ付けぬ聖者の怒りのように恐ろしく、そしてその上では、何物をも燃やさぬ静寂の炎が、青い花のようにあちこちで燃えていました。

途中、子供は雪の上を歩くのに飽いたように、大きく跳ね、空を飛び始めました。そして雪原の中ほどにある、水晶の柱のような氷柱の前に飛んできました。氷柱は、天を突き刺すように高くまっすぐに伸び、透きとおったその中には、一人の聖者が、目を閉じて座っていました。子供は氷柱のそばに降りると、「聖者さま」と声をかけました。すると氷柱の中の聖者は目を開け、子供を見下ろしたあと、静かな声で言いました。

「もう時間か」すると子供は、「はい」と答えました。聖者は氷の中で立ちあがり、ゆっくりと外に出てきて、雪原の上に舞い降りました。そして白い風景を見渡しながら、「ああ、治ったようだね」と言いました。子供はまた、「はい」と答えました。この聖者はたいそう年をとっておりましたが、姿は若者のようでした。髭もはやさず、髪を短く刈り、白いセーターとズボンを着用していました。一見普通の青年のように見えましたが、目は澄みわたる銀のように光り、容(かたち)良い唇はいつも不思議な笑みをたたえていました。

聖者は子供とふたり、しばらく並んで歩きました。そうして雪原を見回り、雪のしっかりと固まっているのを確かめました。彼は、先の月食の折り、何らかの原因で、月の原の一部が汚れてしまったのを、ひとりで治していたのでした。それはまた、彼の罪の浄化でもありました。

彼は月の原を清める仕事に入る前、大きなムカデを一匹殺しておりました。あるとき、神の愛を知らぬ、いえ、知ろうともしない愚かなムカデが、地上世界で恐ろしいことをやり、たくさんの人がむごい目にあって死んだことがありました。聖者はそのムカデの前に現れ、詩を読みあげ、浄化を試みましたが、ムカデは耳を貸そうとせず、神を侮辱することをやめませんでした。何を言おうと無駄だと判断した聖者は、穏やかな杖を刃に変え、その魂を殺したのでした。

それが神のため、また人々のためだったとはいえ、一つの魂を殺すことは、美しい愛の理想に反する罪にも当たりました。彼はその罪を償うため、食の折りに傷んだ月の汚(けが)れを、自分ひとりで清めることにしたのです。

「なんとかなったようだ」雪原の光に目を細めながら聖者がいうと、子供はまた「はい」と答え、どこから出したのか、長い杖を聖者に渡しました。聖者は杖をとり、それで風に聖域のしるしを描いて、しばらくはだれも雪原に近寄れぬように、結界を結びました。

子供は、ほっと息をつき、笑って悦びました。雪はまだ雲もない空から舞い落ちていました。「前よりも美しくなりましたね。とてもすばらしい。この雪の原に名前をつけてみたいな」子供が言うと、聖者は歩きながら、「君がつけるといい。そうすると、とてもいいことになるだろう」と言いました。子供は嬉しそうに胸の前に手をあて、「どんな名がいいかなあ」と、考えました。すると耳元で、舞い落ちる雪の一つがささやき、「つきのこのしろはら、はいかがでしょう」と言いました。すると子供は唇を突き出し、「ふうん、『月の子の白原』か。どうでしょう? 聖者様」と聖者を見上げました。聖者は笑いながら、「なかなかいい」と言いました。それでこの雪の原は、「月の子の白原」という名で呼ばれることになりました。子供は大喜びで、ぴょん、と跳ねました。

聖者は子供の無邪気さを悦び、彼をひょいと肩にかつぐと、小さな愛の呪文を歌いました。すると子供の胸の中を、おやさしい神の愛の流れがとおり、清らかな歓喜が体中にしみわたり、子供はいかにも幸せそうに、聖者の頭に抱きつきました。聖者は、子供を抱えて歌を歌いながら、月の原を、まっすぐに歩いてゆきました。




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2011-11-29 08:06:31 | 月の世の物語

古山の奥に、黒いなめらかな崖をすべる静かな白い滝があり、その下の滝壺に、一匹の大きな鱒(ます)が住んでいました。鱒は水の中から月を見て、何やら不安に似た予感を感じました。そこで水からひょいと顔を出し、月を眺めながら、またかな?と言いました。

一陣の風が吹き、月光の下に薄い影がゆれたかと思うと、滝壺の傍の岩の上に、一人の女が現れました。彼女は黒髪の長い美しい女で、黒い占い師の服を着ておりました。
「やれ、ついたわ」女が言うと、鱒が早速声をかけました。「やあ、今度は何をやらかしたんです?」すると女は、驚きもせず鱒を振り返り、「別に、ちょっと気に障る男(やつ)を一人、地獄に落としただけよ」と言いました。鱒は目をぴくぴくさせました。
「男ってのは美人を見ると態度がでかくなるわね、いつものことだけどさ。何を相談しにきたのか知らないけど、ぺらぺらと人の悪口ばかり言って、いかにも自分は偉そうにするもんだから、ちょっと頭に来たのよ」

「それでまたお役人に叱られたんですね?」鱒が言うと、女はとぼけたような顔で言いました。「怒られる前にもう来ちゃったわ。事前にやらされることがわかったからね」言いながら彼女は口笛を吹き、指をぱちんとはじいて、手のひらの上に小さな青い炎を作りました。女がその炎で自分の髪に火をつけると、あっという間に炎は全身を包み、その中で女はゆらゆらと姿を変え始めました。流れる黒髪は波打つ銀髪になり、白い肌は闇のように黒くなり、瞳は月のような金になり、背が樹木の伸びるようにすらりと高くなりました。彼女は元の姿に戻ると、最後に炎を全て口に吸い込み、少し月光を傷めるような朱い煙を吐きました。
彼女は古道の魔法使いでした。古道とは何億年の昔から使われている古い魔法で、今の時代に使われている魔法と違い、少しやり方が荒く、時々道理を外れることがありました。

女は久しぶりに自分の姿に戻り、重い荷を下ろしたかのようにほっと息をついて、両腕を伸ばして清い滝の水気を吸いました。鱒は変身の魔法が終わるのを待ちかねたように、尋ねました。「その地獄に落ちた人、どうなったんです」女はさっきとは違う声で、答えました。「蝙蝠になって穴の中を飛んでるわよ。今頃誰かが助けにいってると思うわ」鱒は、あちゃー、と言いました。「いくらなんでもそれはひどい」鱒が言うと、女は「少しは痛い目みなきゃ、わからないのよ、ああいうやつは」と平気で言いました。

「さてと」女は、周りを見回し、「ここらへんにちょうどいい岩はないかしら」と言いました。「岩がいるんですか」と鱒が尋ねると、女は、ええ、と答え、「かなりの大きさのが要るんだけど、あなた、心当たりはある?」すると鱒は、少しの間水の中に消え、もう一度上がってきて、言いました。「この滝壺の底に、かなり大きいのはありますよ」すると女は早速、口笛で水をはじきながら、鱒の言った岩を動かしました。鱒が大慌てで隅の方によけると、滝壺の底が、ばちんと音を立てました。ぎりぎりという岩の悲鳴が耳を刺したかと思うと、滝壺の水はいっぺんに爆発し、大きな緑色の岩が一つ、空中にゆらりと浮かびました。
「まあまあね、使えないことはないわ。時間もないことだし、これでなんとかするわ」
「少しはこっちにも気を使ってくださいよ」と鱒は彼女に抗議しました。滝壺は前より深くなり、水がひっくり返って、泥で汚れていました。女は、「あら、ごめんなさい」と鱒に謝ると、月光を糸の束のように手で縛り、方向を調整して、滝壺の上に光を集めました。月光は滝壺を金色に染め、それは泥といっしょに滝壺の底に金砂となって降りつもり、岩をむしりとったあとの傷を癒しました。水が元通りに澄んできて、鱒はほっとしました。

「それで、その岩、何に使うんです?」鱒が聞くと彼女は、軽々と岩を片手で持ち、「これで月長石をつくるの、それも三日間で、三千個」と言いました。すると鱒は表情を明るくし、言いました。「ああ、それはいいですね。月長石は月光をよく吸い取りますから、何かと役に立ちますよ」
「かなり難しいのよ。でもやらないとね。また怖い役人さんが頭に角を出してやってくるわ」言い終わると彼女は、また口笛を吹き、再び姿を変え始めました。鱒は魔法の邪魔をしないように黙っていましたが、心の中では、(ほんとの姿のほうが、ずっときれいなのになあ)と思っていました。やがて女は、また黒髪に白い肌の美女に戻り、片手で岩をかかえつつ、鱒に一言「ありがとね」と礼を言って、風の中に姿を消しました。鱒はほっと息をつき、まだ少し曲がっている月光をみて、(いい人なんだけどなあ…)と思いながら、少々模様替えされた滝壺の底に戻りました。



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2011-11-28 08:06:49 | 月の世の物語

「こちらですよ」と、青年は、後ろからついてくる白い服の男を、森の奥に案内しました。白い服の男は、半月島に住む研究者で、長い間、怪についての研究をしていました。彼は噂で、ある珍しい怪がこの森の奥にいるという情報を得、それを見るために、やってきたのでした。

突然目の前が広がり、小さな湖のほとりに出ました。二人が森を出ると、月がふと陰り、空気に腐った糞尿のような匂いが混じりました。研究者は少々嫌な予感がしました。青年は、月珠の光を灯し、「この水に入っていくんですけど、大丈夫ですか?」と言いました。見ると湖水は、どす黒くにごり、ひどい悪臭は、彼の鼻と目を痛く刺しました。研究者は少し気おくれしましたが、いけます、と言いました。青年は、慣れた様子で湖水の中にすっと入っていきました。研究者はあわてて後に続き、青年の後を懸命に追いかけました。

湖水は、底に近づくほど清くなり、やがて水底に小さな光が見えました。近付いてみると、それは巻貝のような形をした小さな家で、窓が二つと入り口のドアが一つあり、それぞれが金色に光っていました。

青年が家のドアをたたくと、「ようこそいらっしゃい」との声と一緒にドアが開きました。中から月の役人が一人出てきて、快く迎え入れくれました。「例の蜘蛛を見たいというのはあなたですか」役人は言いながら、研究者に問いかけました。研究者は役人に名と身分を名乗って、このたびの礼を言い、握手を交わしました。二人はしばし会話を交わし、早速例の怪を見せてもらえることになりました。

それはその家の地下室にありました。階段を降りていくと、大きな魔法のしるしが彫りこまれた重厚な木の扉があり、役人はその前で何かをつぶやきながら、ドアを開けました。最初、まぶしい光が彼らを迎えました。そこは、月光が壁と天井に何重にも塗り重ねてあり、昼の光ではないかと思うほど、強い月光に満ちていました。そして部屋の真ん中にある机の上には、一つの大きな水晶玉が鉄製の台の上に固定されており、その水晶玉の中には、見たこともないような大きな蜘蛛が、封じ込められていました。

「これは、女性じゃありませんね!」研究者は水晶の中の蜘蛛を一目見て、言いました。すると役人も感心しながら言いました。「さすがに専門家ですね。そのとおりです。」
「女性にしては大きすぎるし、女性の怪特有の悲哀がない。男は普通ムカデやネズミに落ちるものですが…、それにこの蜘蛛、もしかしたら死んでるんじゃないですか?」
「ええ、そのとおりです」役人は少しきつい目をして、言いました。研究者は尋ねました。「いったい何の罪でこうなったんです?」
すると役人は、語り始めました。

「その昔、地上世界で、多くの人間が神を侮辱し、何もかもを勝手にやりだした頃、彼は自らを神と称し、たくさんの人間をだまして自分の好き放題にやり、地上世界に恐ろしい悪と混沌の恐怖をもたらしたのです。そのおかげで、人間が地上で生きることが、とても苦しくなり、今でもそれが続いています。その罪で、彼は死後すぐに蜘蛛に落ち、それでもなお神に挑戦しようとしたため、ある聖者によって殺されてしまったそうです」そこまで言うと、役人は重い息をつきました。

「死んではいますが、存在は消えることはありませんから、死者の死者もものは考えています。お聞きになりますか?」役人が問うと、研究者は黙ってうなずきました。すると役人は、鉄の台にある小さなスイッチを押しました。すると、蜘蛛の思考が、音声に変換されて、聞こえてきました。

『つらい、つらい、なんでおれは、なんでおれは、馬鹿なんだ。いやだ。いやだ、いやだ。馬鹿がいやだ。みんな馬鹿になればいい、すべて馬鹿になればいい…』役人はすぐにスイッチを切りました。青年と研究者が、その言葉の毒気にあてられたように青い顔をしていました。役人は急いで二人の額に光の文字を描き、それで彼らを清めながら、言いました。
「このように、もう何万年も、この男は、すべてを呪い続けているのです」

研究者は清めを受けて一息つくと、役人に言いました。「彼はすさまじい存在痛に苦しんでいます。自分が存在すること自体が苦しいという存在痛は、人に冷酷な自己崩壊感の幻を見せ、その恐ろしさのあまり、自分以外のものを、自分ではないというだけで激しく妬み、それは世界に恐ろしい破壊をももたらします…」
「もちろん、知っています」役人は答えました。「この蜘蛛は、それを実際に地上で、すべてやったのです」役人は水晶玉に手をやりながら、役人の形式的な声で言いました。

しかし研究者は、蜘蛛を見て、どうしても胸につまるものを感じ得ず、言いました。
「神は、彼をお見捨てになったのですか?」
すると役人は首を振り、「全ては神の御心です。わたしにはわかりません。」と言いました。
「…永遠、なのですか?」と、また研究者が問いました。役人はただ「永遠です」と答えました。それは、この蜘蛛がこうして、水晶の中で、永遠に存在痛に苦しみ続けねばならないという意味でした。

研究者は重い石を飲んだかのように黙りこみ、水晶玉の中の蜘蛛を茫然と見つめました。役人はそんな彼の心をみすかしたように、一言、言いました。

「神を、甘くみてはいけません」。



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2011-11-27 08:47:15 | 月の世の物語

あるところに、青いこんもりとした欅の森があり、神が貝の砂を固めて作ったという、小さな白い図書館を守っていました。それは一見とても小さな建物ですが、その蔵書の数は星の数ほどもあるといい、小さな子供の絵本から、神の生まれた頃の世界の地図帳まで、ありとあらゆる文献をそろえておりました。

「お探しのものはありました?」黒い服を着た女性の司書が、まじないの言葉をつぶやきながら、本を探していた役人に問いかけました。すると役人はかぶりをふり、言いました。「なかなか。何せとても古い時代の言葉なものですから」その役人は、月のお役所で、不思議な古代文字を解読するためにつくられた、特別班の中のひとりでした。役人は、深緑の世界の賢い魚のことやら、それからもらってきた青い水晶のことやら、その中に浮かぶ金の文字のことなどを、司書に説明しました。
「たったの三文字なんですが、これを全部解読すると、百科全書四冊分くらいにはなるらしいんですよ。仕事は始まったばかりですが、今からもう頭が痛い」役人は、書架を見ながら少々長いため息をつきました。

「金の文字の浮かぶ青水晶ですか。なんだかとても美しい感じですね」司書が言うと、役人は「コピーを持ってますから、お見せしましょうか?」といってポケットから一つの小さな白い石を出し、それを指でくるくる回して、ふっと息を吹きかけました。すると石はあっという間に、猫の頭ほどの大きさの青い水晶になりました。
「まあ、お役人さんの魔法は、すごいですね」司書が驚きながら言うと、役人は、「幻ですが、手でさわれますよ。ご覧になってみますか」と言いました。司書は持っていた本を脇にはさみ、役人にすすめられるまま両手で青水晶に触ってみました。確かに、石に触っている感触がしました。少し軽いですが、重さもありました。そして、明かりに透かして見ると、その中には本当に、金色の複雑な文字が三つ、浮かんでいました。

「あら?」と彼女は首をかしげました。「よくわからないけれど、ほら、ここの二本の線を組んであるところ、どこかで見たような感じがするわ」司書が言うと、役人はびっくりしたように彼女を見つめました。司書は青水晶を役人に返すと、「ちょっとお待ちになって」と言いながら、奥の書庫に向かい、やがてそこから一冊の本を持ってきました。「この前から、ときどき背表紙の文字が光るようになって、気になってはいたんですけど」司書は言いました。
司書が持ってきたのは、くすんだ赤い色をしたハードカバーの薄い本でした。本の表紙には、比較的新しい時代の古代文字で題名が書いてあり、鳥と猿と花の模様が印刷してありました。「ごらんになってみます?」役人は、司書に渡された本を手に取り、開いてみました。すると本は強い光を発し、役人の顔を青く照らしました。

「おお」役人は思わず声をあげていました。その本の中の活字のほとんどすべてが、切り取った青水晶の紙をはりつけたように光り、微妙に震えていました。猿や鳥や子供を描いた挿絵がところどころにあり、それも微かに青く染まっていました。役人はしばらく、黙ったまま本を読んでいました。それは一人の子供が、猿と鳥といっしょに、船にのって冒険に出ていくという、子供のための物語でした。

本を読んだ後、コピーの青水晶を見てみると、役人にも、確かにわかるという感じがしました。理由は不明ですが、一つ目の文字の隅の、二本の金色の線の交差が、この物語の中にある何かと合致するのです。「なんだろう、この不思議な感じは」役人は、短い物語を何度も何度も読み返しました。

司書は、「お貸しいたしますから、役所に戻ってみなさんとお考えになっては?」と役人に言いました。すると役人は、はじめて隣に人がいるのに気づいたかのように、「あ、ああ、確かにそうですね。ありがとう」と言いました。

役人が本を借りて帰っていくと、司書は本の整理を始めました。と、彼女は、書架に並んだある本の中から、光る活字の列が、数珠のように連なって出てきて、空中で踊りだすのを見ました。司書はあわてて活字を捕まえ、元の本の中に戻しました。
「なんだか不思議なことが起こりそうね」司書はその本の中の青く光る活字の列を見つめながら、言いました。

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2011-11-26 08:37:05 | 月の世の物語

成層圏外にある、真空のドアを開き、少年は地球世界への入り口をくぐりました。下には、鮮やかに青く光る、美しくも恐ろしい、豊かな生命世界が見えました。少年は、その青を目指し、途中人工衛星をひとつよけ、まっすぐに降りてゆきました。

彼は、太平洋上のある地点に降り、しばし海の上に立って空と水ばかりの世界を見回していました。日の光はまぶしく、それはすべてをそれそのままの真実の姿に暴く、白く熱い神の光でした。少年は太陽と天地それぞれの神に拝礼しました。
「さてと、いくか」言うと彼は、するりと海に入り、海の中をまるで空から落ちるような速さで潜っていきました。太陽の光はすぐに見えなくなり、漆黒の闇を月珠で照らしながら彼はどんどん落ちていきました。そうして海底に降り立つと、「ここらへんだったと思うけど…」と、周囲を見回しながら言いました。

「どなた?」突然、彼に声をかける者がいました。少年が振り向くと、そこに大きな岩があり、その上に人魚のような海の精霊が寝そべって彼を見ていました。その者は、上半身は美しい人間の女性のようでしたが、下半身は魚というよりも、鰻でした。彼女は長い下半身を蛇のように岩の上にすべらせ、岩の上にひじをつきながら、彼を見ていました。少年は月珠を高くあげ、あたりを大きく照らしつつ、「やあ、こんにちは」とあいさつし、自分の身分を名乗りました。

「はじめまして、ですね。何度かここに来てるけど、あなたのような方に会うのは初めてだ」少年が言うと、人魚は答えました。「前に戦争があってから、ずっとここにいるの。戦争で死んだ人が、たくさん海に落ちてきて、それは後始末が大変だったのよ」
「知ってますよ。あのときは僕も駆り出されましたから。でも、あなたのような方がいた覚えはないな。どこからいらしたんです?」
人魚は、物おじしない少年の率直な言い方が気に入って、にこりと笑いました。彼女は岩の上に白い上半身を起こし、海草のようになびく髪で乳房を隠しながら、少年に言いました。
「前は別の海に住んでいたのだけど、どこからかお役人が来て、こっちに移ってほしいって言ってきたの。戦争で、とても酷いことになって、海の秘密が汚されてしまったから、それをずっとわたしが清めてるの」
「ああ、それは知りませんでした。大変でしょうね、お仕事は」
「ええ、とても」人魚は笑いつつ言いました。

「ところで、ご存じありませんか。ここらへんに、その戦争のときに亡くなって、未だにここにいる人がひとりいるはずなんですけど」
少年が尋ねると、人魚はするりと岩を降り、「こちらへいらっしゃいな」と言いながら、泳ぎ始めました。少年は海の底を駆けながら、彼女を追いかけました。彼女の長い髪に結び付けた白珠の飾りが、月珠の光を反射して、それはきれいに光りました。

一人の男が、水兵の格好をして、海底の泥の中に半分埋もれるように、ひざを抱えて座っていました。少年は人魚に礼を言うと、その男に声をかけました。
「こんにちは」男は、膝から顔をあげ、うつろな表情で少年を見ました。男の体は前に見たときより少し縮んでいて、少年は眉を寄せながらも、やさしく笑いながら、男に声をかけました。「そろそろ、次の世界にゆきましょう」。男は震え、かぶりをふりました。そして「もうずっとここにいる」と子供のように言いました。少年は言い重ねました。「でも、ずっとここにいると、罪になるんですよ。このままだと、あなたはだんだん小さくなって、最後は人間ではないものになってしまうんです」。

「みんな死んだ、みんな死んだ、みんな死んで、海の藻屑になった」男は狂人のように、ただそればかり繰り返しました。戦争で、よほど辛い経験をしたのでしょう。少年は、厳しい表情で男を見たあと、しばし目を閉じて考え、やがて決意をしたかのように、手で魔法の印を結び、月珠を指ではじいて男の額を打ちました。すると男は声も立てず、砂山が崩れるようにそこに倒れました。

少年は、月珠を拾い、倒れた男を抱えると、後ろで見ていた人魚に一礼して、そこを去ろうとしました。すると人魚はほほ笑みながら、「そんなことをすると、あとが大変じゃない?」と言いました。少年は、目を鋭くして、言いました。「わかってますよ。でもこれくらいできなきゃ、僕たちのような仕事はできませんから」

「大変ね、お仕事は」人魚が笑いながら言うと、少年は、「ええ、とても」と答え、男を両手で抱えながら、海をのぼり始めました。



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2011-11-25 07:02:42 | 月の世の物語

少年は、竪琴弾きと一緒に、暗く細長い階段を下りていました。手には、灯火代わりの月光水の入ったガラスの水筒を持ち、それを闇にかざしながら、少年は竪琴弾きを階段の行き着くところにある、黒い扉の前へと案内しました。

「ここですか、案外短い階段でしたね」竪琴弾きが言うと、少年は、「ぼくたちには、そうなんですけどね。罪びとが上ろうとすると、ものすごく長い階段になるんです。それこそ、永遠に上にたどりつけないのではないかと思うほど」と言いました。
少年は扉の取っ手に手をかけると、声を低め、「中にはかなりたくさんの蜘蛛がいますから気をつけてください」と言いました。そして少年は合図の口笛を三度鳴らし、扉を押しあけました。

少年が先に中に入り、竪琴弾きが後に続きました。中は墨を流しこんだような闇でした。蜘蛛の気配がどこかでかさりと音を立てました。少年は水筒の蓋をあけ、月光水を丸めて小さな玉をつくり、それを天井に向かってはじきました。するといっぺんに部屋は明るくなり、蜘蛛たちが突然の光に驚いて、ぎゃうぎゃうと声をたてながら逃げていきました。

蜘蛛があらかた姿を消すと、ふたりは、部屋の隅に座って、壁にもたれながら、眠っているように動かない、ミイラのような男を見ました。竪琴弾きは、少年に尋ねました。
「随分と長いこと、ここにいるようですね、この人は」
「ええ、かなり。この人は、前の人生で娼館を経営していたんですが、そのやり方があまりにひどかったので、いっぺんにここに落ちたんです。女の人を道具のように扱って、虐待したり、むごいほど屈辱的な仕事をやらせて、いらなくなったら平気で捨てていたそうです」
「ああ、それで蜘蛛がいるのか」竪琴弾きが言うと、少年は悲しそうにうなずき、「あの蜘蛛たちはみな、この人にむごい目にあわされた女性たちです」と言いました。

少年は、じっと壁にもたれたまま動かない男に近寄ると、水筒の水を布にしみこませ、彼の目を濡らしてみました。男は何の反応も示しませんでした。少年は表情を曇らせ、竪琴弾きに、「試してみてくれますか」と言いました。竪琴弾きはうなずき、少年と代わって男に近寄ると、竪琴を弾き、清めの歌を男に聴かせてみました。すると、風にそよいだように、一瞬彼の髪が動いたような気がしました。しかしそれだけで、後は、竪琴弾きが何を弾こうと、一切動かず、何の反応も示しませんでした。

「やはりだめですか」少年が言いました。竪琴弾きは、琴を弾くのをやめ、答えました。「だめですね。死んでます」すると少年は、とても苦しそうな顔をしました。
死者の住む世界にも、死はありました。それは地上の死のように、魂が離れ肉体が朽ちていくことではなく、たとえれば、ロボットが自分で自分のスイッチを切ることに似ていました。つまりこの人は、自分の罪の深さと苦しみに絶望し、自分で自分を生きることを自ら放棄してしまったのです。これを死者の死者といい、人として最も愚かな選択でした。彼は神よりいただいたあらゆる恵みと愛と光を、すべて拒否して、自ら消えていくことを選んだのです。

少年と竪琴弾きは、男をそのままにして、明かりを消し、部屋を出ました。彼が死んでも、彼の罪は残っているので、彼はまだそこにいて、蜘蛛たちの復讐をうけねばなりませんでした。階段は、降りてきたときより短くなっており、彼らはすぐに出口にたどりつきました。外に出ると、明るい林があり、心地よい月光が彼らの目から暗闇をぬぐいました。二人並んで林の中を歩きながら、少年は竪琴弾きに尋ねました。
「死んだ人は、やはり、二度と蘇ることはないんでしょうか」すると竪琴弾きは、「確かに、世間はそう言うね」と言いました。少年はとても悔しそうに、「やはり、もうこれで終わりなんですね、あの人は」と言いました。
すると竪琴弾きは、少年を元気づけるように言いました。
「なに、今の常識がそうだからと言って、未来永劫おんなじとは限らないさ。神は常に世界を新しく創造なさっているし、半月島の研究者の中には、死者の死者を蘇らせる研究をしている人もいるそうだ」

「へええ、そんな人がいるんですか!」少年は目を丸くして言いました。
「人間の中には、不可能を可能にしたがるやつがいくらもいるんだ。そしてそれは結構、世界の役に立っている」竪琴弾きがいうと、少年の表情が少し明るくなりました。
「希望は何も見えなくても、いつも未来はあるってことですね」少年が言うと、竪琴弾きは、それはなかなか上手い言い方だと笑いました。


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2011-11-24 07:51:17 | 月の世の物語
月の世にも、月食はありました。それは、地球世界のような道理で起こるのではなく、地球の運航を助けている、ある見えない星の神が、月の神のもとを訪れることで、起こるのでした。

「少し欠けてきましたね」青年は、大きく焚きあげた月珠の篝火のそばで、かしこまりながら言いました。そこはある湖の上で、小さな船を湖面に流し、その上で、彼はひとりの聖者とともに、篝火を守っていました。
「そうだのう」聖者は船の上に立ち、月を見あげながら言いました。月の世での月食は、滅多に起こることではなく、以前に起きたとき、青年はまだ生まれておりませんでした。ですから、月の世にあるほとんどのものが、ここでの月食を見るのは初めてでした。

月光がなくなれば、多くの罪びとが狂い、闇の怪がうごめき、月の世の道理が大きく揺らぐ怖れがありました。そこで、月の役人も、聖者も総出で月の世に降り、あらゆるところで、大きな月珠の篝火を焚き、食の間、決して月光を絶やさないようにしておりました。

青年がともにいる聖者は、白い髭と髪を長くのばし、瞳は灰色で眼光は見るものを縛るように鋭く、薄光を放つ白く古めかしい衣服をまとい、微かにゆれる船の上、青年に背中を見せながら、微動だにせずに立っていました。一見すると老人のようでしたが、声は若々しく、それを聞いているだけで、みずみずしい力が胸に盛り上がるような気がしました。青年は本当にこんな方がいらっしゃるのかと、聖者のそばにかしこまりながら、静かな感動を覚えておりました。

「おお」聖者が声をあげました。見えない星の神は、月の神の前で激しくゆれうごき、一気に月を隠してしまいました。月はまるで爪のように細くなり、残った光もまるで少しずつ崩れていくように、だんだんと消えていきました。

と、聖者は何かの合図をするように、右手に持っている杖で船の底を、とん、と打ち、その音は空高くまっすぐに響きました。それとほとんど同時に、月の世のあちこちから、同じような音が聞こえてきました。そしてそれを合図にするように、月の世に降りている各地の聖者たちが、大きく笑い声をあげました。青年はびっくりして、思わず聖者を見上げました。

聖者たちは布袋のように呵々大笑し、それは美しい斉唱となって、空中に響き渡りました。笑い声は月の世をも満たし、つられて多くの人々も笑い始めました。青年も思わず笑っておりました。すると、胸の底から、たとえようもない歓喜の渦が生まれ出て、いっぺんに全身を満たしました。彼はなすすべもなく、すばらしい幸福感の中に一瞬我を失い、篝火の下にへたりこみました。涙が流れ、船底に滴り落ちました。月の世にいる人々も、ほとんどが笑いながら泣いておりました。耐えきれずに地に伏し、神よ、と喉を割って叫ぶ者がいました。

見えない星の神は、とうとう、月の光をすべて隠してしまいました。青年ははっとし、篝火を動かし、一層高く光を焚きあげました。月食の前から感じていた暗闇に対する恐怖も、歓喜の中に消えておりました。
聖者の笑い声は、いつしか歌に変わっていました。太鼓の音がどこからか聞こえ、単調なリズムを繰り返しました。歌は、長い呪文を繰り返し、それは聖者の口から出る一筋のゆらぐ光となって見えました。美しい月の神をほめたたえ、見えない星の神のお働きに感謝し、すべてのものは美しく、愛に満ち、幸福であることを、聖者たちは不思議な詩の言葉で歌いあげていました。

歌は、どれだけ長く続いたものか、ふと気がつくと、隠れた月の光が、微かに細く見えてきました。おお、と月の世全体がゆれるような声があがりました。

やがて、見えない星の神は去り、まるで新しく洗いあげたような白い月が、地を照らしました。青年は篝火を下ろし、その光を休め、ほっと息をつきました。歓喜の震えが、まだ体に残っていました。そのせいでしばらく動くことができず、青年が気付いたとき、もう聖者は姿を消しておりました。彼は、今までに感じたことのないような寂しさを感じました。

こうして、月の世は無事に月食を切り抜けることができました。闇に暴れ出す怪もほとんど無く、人々の心が、暗闇を恐れて狂うこともありませんでした。見上げると月があるのが、こんなにうれしいことだったのかと、人々はしばし、語り合いました。




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2011-11-23 07:59:57 | 月の世の物語

あるところに、小さな果樹林がありました。そこの月は琥珀色に明るく、空の青はそのせいで少し蜂蜜色がかって見えました。果樹林には、一人の女占い師が小さな小屋を建てて、住んでいました。

ある日、女占い師が、イチジクのような形をした紫色の実を、籠いっぱいに収穫していたとき、誰かが彼女を呼ぶ声がしました。見ると、果樹林の囲いの入り口のところに、小さな包みを持った女がひとり立っていました。

「どうかなすったの?」占い師は籠を持ったまま駆け寄り、入り口の魔法を解いて、彼女を中に入れました。女は青い顔をしながら、占って欲しいことがある、と言いました。占い師は女を小屋の中に招き入れました。

女は茶色のきれいな髪を首の後ろで一つにまとめていましたが、今日はどことなくそれが黒っぽく見えました。輪郭も細くなり、肌の色が少し明るくなって、この前に会ったときより、微妙に目鼻の位置がずれていました。

占い師は、「ああ、あなた生まれ変わるのね」と言いながら彼女をテーブルの側の椅子に座らせ、自分はその向かい側に座りました。女は、「そうなの」と、不安げに言いました。
「きっと不幸な人生になるわ。わたし、前に生きていたとき、とても悪いことをしたんですもの」女が言うと、占い師は少し強い調子で、「何言ってるの」と言いました。「ちょっとやそっとの苦労は当たり前でしょう、人生なんて」
「でもきっと、彼女は許してくれないわ」女は、前に生きていた時、友人を裏切って彼女の夫を奪い、友人とその三人の子供をとても苦しめたことがありました。

「わたしが悪いのよ。あんなこと、しなければよかった。あのときはもう夢中で、自分のことしか頭になくて、ほかのことなんか何も見えなかったの」彼女は目に涙をためながら、言いました。占い師は、女の話を聞きながら、月星の記号を複雑に組んだ不思議な模様のカードを、手で繰り始めました。そして次々にテーブルの上にカードを並べ、それをめくったり、重ねたり、並べ替えたりしながら、しきりに口の中で何かをぶつぶつと唱えていました。

「そうねえ」占い師は、一枚のカードを取り出し、言いました。「やっぱり少しつらいことがありそうね」占い師が言うと、女は肩を落とし、「そうよね。そうなって当たり前のことをしたんだもの」と言いました。そして、布で涙を拭きながら持ってきた包みをほどこうとしました。占い師は、「ちょっと待って」と言いました。「苦しみを軽くすることはできないけど、自分で何とかできるようにすることはできるわ」そう言って彼女は、窓辺に干していた白い果物を一つちぎり、それを持ってきて、女の前で割ってみせました。その果物の中には、赤くて大きな光る種が一つ入っていました。
「これは赤瑪瑙ね。ここの果樹は、昔お役所の人が魔法で品種改良したもので、種がみんなこんな石になっちゃうのよ」

占い師は果物の中からその種を一つ取り出し、井戸の水で洗ってから、月光のとけた水の碗と一緒に、女に渡しました。「ちょっと苦しいけど、これ飲んでお行きなさいな。生きてるときにつらいことがあったら、この赤い石があなたに力を貸してくれるわ」
「ほんと?」女は心配そうに言いました。
「本当よ、でも、あなたがちゃんと自分の人生やらなきゃだめよ。石は助けてくれるけど、あなたの代わりはしてくれないわ」
「わかってる。わかってるわ」女はもらった赤瑪瑙の種を手のひらにのせると、思いきって口の中に放り込み、月光の水を飲んで一気にのどの奥に落としました。すると、まるで自分が石になったようなしびれ感が、全身を襲いました。女はしばし、のどを抑えながら、苦しげにじっとしていました。しびれ感は少しずつなくなり、ようやく楽になってくると、今度はなぜか目から涙があふれて、止まらなくなりました。

「あらいやだ、どうしたのかしら」女は布で顔をぬぐいながら言いました。
「赤瑪瑙が効いてきてるのよ。みんなひとりで生きてるわけじゃないからね。まあ、今度はがんばりなさいな」占い師は笑いながら言いました。

女が帰っていった後、占い師はお礼にともらった毛織のショールを肩にかけ、収穫したばかりの紫の実を、吟味しはじめました。一つの実を割り、中に水晶の種を見出すと、「おや」と彼女は目を見張りました。「何かいいことがありそうねえ」占い師は言いました。



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2011-11-22 07:52:59 | 月の世の物語

少年は、豆のさやのような形をした船に乗って、雲の上を羽のように軽く飛んでおりました。そこは、月の世をよほど離れたところで、深緑色をした空には太陽も月もなく、ただ変わった形をした星座が天頂にあって、それが電球のように世界を照らしていました。

「やあ、おばあさん」少年は船をある岩山の洞窟の前に止め、笑いながら、洞窟の入り口に座っている老婆に声をかけました。老婆は、魚と人間の真ん中のような顔をしており、長く裾をひいた白い服の下には、鱗におおわれた体を隠していました。何かはわかりませんが、彼女は何万年の昔の古い罪を持っていて、永遠の長いときを、ここで暮らしていなければならないそうでした。

「このまえ頼んだもの、できてますか?」少年は老婆に聞きました。老婆は、風にかすれた声で言いました。「頼まれたのは…、いつだっけね?」
「二百四十二年前です。お役所のしるしをお預けしてるはずなんですけど」
「ちょっとお待ち、探してくるから」そういうと老婆は、岩穴の奥に姿を消しました。少年は船に乗ったまま、しばらく待つことにしました。

少年はかけていた眼鏡をはずし、周りの風景を見まわしました。大地に一面綿のように敷かれた雲の上に、たくさんの岩山が、筍のように突き出していました。風にはかすかに薬香のような匂いがしました。

「このまえきたときと、ほとんど同じだなあ」少年は風景を見ながら言いました。
岩山はたくさんありましたが、その中で岩の色が微妙に違うものが五つありました。その五つのうちのひとつは、深緑の空の中に、巨大な船のように浮かんでいました。それは、松かさのような形をした、山のように大きな魚でした。全身は灰緑色で、岩を柔らかくした大きな胸びれや尾びれを蝶のように揺らし、動くたびに岩のきしむ音を空に響かせながら、山々の上をゆっくりと泳いでいました。
目は、頭の上に突き出した角のような突起の上に、ただ一つあり、それが星のように光って、くるくる回っておりました。あの光る目は、なんでも見ており、魚は、どこの世界のどんな小さなことでも知っているそうでした。
そんな恐ろしく深い知恵を持つ賢い魚が、ここには五匹いるのですが、今は他の四匹は山となって眠っており、あと一億年くらいせねば目を覚まさないと言われていました。

「あったよ、これだったかね」老婆は岩穴の奥から、猫の頭ほどの大きさの青い水晶をもってきました。その水晶の中では、複雑に組まれた古い時代の金の文字が、三つほど浮かんでいました。少年はそれを老婆から渡されると、文字の下に見覚えのあるしるしをすばやく見つけ、ああ、これだ、と言いました。二百四十二年前、月の世に様々な怪が暴れてその呪いに汚される者が後を絶たなかったとき、月のお役所が悩んだ末、ここの魚に、怪についての質問をしたときの、その答えでした。山の魚は空気の声ではなく、石の声で答えるので、一つの問いに答えるのに、相当時間がかかるのです。

「ありがとう、おばあさん。お魚さまにもお礼を言いたいんだけどどうしたらいいかしら」少年が言うと、老婆は、「わたしが代わりにやっとくよ。あれに声をかけるのは、一苦労なんだ。それよりも…」と言いながら、何かを請うように目を細め、手をこすりました。少年は、ああ、と言って、船の中から白い布袋を取り出しました。

「特別なんですよ。醜女の君がおやさしいから、こんなにたくさんくださるんです。ほんとはこんなことに使ってはいけないんですよ」少年は念をおしながら、老婆に白い袋を渡しました。その中にはぎっしりと月珠がつまっていました。老婆は大喜びで、それを一つ口の中に入れ、飴のようになめ始めました。老婆によると、それはそれは、涙の出るほどおいしいのだそうでした。

少年は水晶を船に載せると、老婆に挨拶をしてから、船を動かしました。
(さて、この石の文字を解読するのには、何年くらいかかるものかな)思いながら少年は船を高く空に昇らせ、遠くで泳いでいる魚に深く一礼すると、すっと方向を変え、まっすぐに船を走らせました。



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2011-11-21 07:37:58 | 月の世の物語

「なんでわしがこんなところにいなければならんのだ」
そこは深い密林の中の、小さな泥の川のほとりでした。仕立てのいい立派な服を着て、腕を組んで偉そうに川辺に立っている男が、頭に血を上らせて怒っていました。青年と竪琴弾きは、黙って顔を見合わせました。「蛙ですね」と竪琴弾きがささやくと、青年は黙ってうなずきました。森の木々が梢を分け、月が彼らを照らしていました。

「わしは世間のために人生をささげた男だぞ。人間なぞ、ほんとに何もわかってないのだ。わしがなんとかしてやらないと、馬鹿なことばっかりするんだ。なんでもかんでもやってやったのに、そのわしがなんでこんなとこにいるんだ」男は生きていたころ、ある町の議員をしていたことがあるそうでした。彼はそれなりの業績を残したつもりでしたが、それは多くが、彼の大言壮語を、部下が総出でなんとかしたものでした。つまり彼はほとんど何もせず、世間に文句ばかりを言って、自分は改革者だ、などと言って威張っているだけだったのです。家族には、靴の並べ方にさえ文句を言い、おれがいなければこんなこともできんのかなどといつも怒っていました。彼は自分をとても偉いと思っていましたが、実は誰も何も言わないだけで、周りの者には相当に嫌われておりました。

こういう類の者は、月の世に落ちると、たいてい蛙に変化(へんげ)するのが普通でした。密林の川のそばに落ちたのもたぶんその前兆でしょう。竪琴弾きは、琴糸をはじいて、いちいち彼の言葉を清めながら、ため息をついていました。そのそばで、青年はポケットを探り、ひとつの、銀色に光る玉を取り出しました。

「なんです? それ」竪琴弾きが尋ねると、青年は、「ちょっと試してみたいんだ」と言いました。それは、青年が古い記録をもとに作った、魔法の玉でした。水晶に銀を練りこみ、玉にして、聖域で七日間森の風に染めて作るのです。彼はその玉をくるくると手のひらの上で回すと、ふっと息を吹きかけ、文句を言っている男に向かって撃ちました。玉は男の額にあたり、男は、「あっ」と声をあげました。

玉は男の額にめり込み、きん、と音がして割れました。すると、白砂を流すような厚い月光が彼の上にいっぺんに降りかかりました。何もかもは一瞬でした。声を上げるひまもなく、月の光の中を、何か白い長いものがまっすぐに降りてきて、男を一息に丸のみにしたかと思うと、小さなものをすぐに排泄し、またいっぺんに、空に昇って行きました。

「なんです? あれは!」竪琴弾きが上を見ながら叫ぶと、青年も叫びました。「蛇神だ! 蛇神だ! あっちの世界から降りてきたんだ!」
「でもなぜ?」竪琴弾きはまだ茫然と空を見上げていました。青年は心を落ち着かせ、蛇神が排泄していったものを、手に取り上げました。それはなんとも、小さな小さな青蛙でした。
「おやまあ、なんともかわいらしい…」竪琴弾きが目を細めて言いました。
「でも、人がこんな小さな蛙になるのは初めてだ。どういうことなんだろう?」青年は割れてしまった玉を拾い上げ、手のひらの上で揺らしながら、少し耳に近付けてみました。まだ微かに風の音が聞こえ、聖域の澄んだ香りや光の音がしました。

周囲を見回すと、銀の粉が川の周りのあちこちに散らばり、星のように光っていました。それも微かに、聖域の香りを放っていました。
「…そうか、きっと、この玉のせいで、ここに仮の聖域ができたんだな」青年が言うと、竪琴弾きが尋ねました。
「でも、なんで蛇神が降りてきたんです?」
「さあ、それはぼくにもわからない」青年は割れた玉をポケットにもどしながら、言いました。

「それにしても、聖なるもののおやりになることは、厳しいですね」竪琴弾きは、蛙を見ながら言いました。彼は、蛇神に、ありとあらゆる虚栄と慢心をはぎ取られ、全身を清められた結果、そうなったのでした。蛙は青年の手のひらの中で、心細そうに震え、助けを請うように、けるる、と鳴きました。青年は、笑いながら、言いました。
「だいじょうぶだよ、お月さまが導いてくださる。しばらくはこの川で勉強するんだ」
そうして青年は、蛙を川に放しました。蛙は泥の川に浮かびながら、誰かを恋うように、けるる、けるる、としばし鳴き続けていました。



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