神秘の降誕
聖母の戴冠
キリストの哀悼
書斎の聖アウグスティヌス
荊冠のキリスト
今回は、サンドロ・ボッティチェリの後半の絵を集めてみた。
どうだね、前半の絵とまるで違うだろう。これはもう別人の筆としか言いようがない。
天使と交代してその人生を引き受けたとたん、昔のような絵が全く描けなくなり、彼はそのことに生涯悩み続けた。無理もない。天使と比べられては人間はたまらない。
だがそのことと分けて絵を見てみると、また新しい発見が見える
硬く、生真面目な線だ。人類としてはかなり進んでいる。天使の後半の人生を引き受けることなど、ある程度進んだ魂でなければできない。サヴォナローラに心酔して絵を燃やすなどのこともあったが、後半の人生を、苦しみながらも、彼はなんとかがんばっている。
サンドロ・ボッティチェリの本霊がいつごろ交代したのかはこちらからはわからないが、これらの絵を描いた画家は、天使の霊魂が活動していた時代のボッティチェリとは別の画家として考えるべきである。
興味あるものはこっちの記事と比べてみたまえ。
聖母の戴冠
キリストの哀悼
書斎の聖アウグスティヌス
荊冠のキリスト
今回は、サンドロ・ボッティチェリの後半の絵を集めてみた。
どうだね、前半の絵とまるで違うだろう。これはもう別人の筆としか言いようがない。
天使と交代してその人生を引き受けたとたん、昔のような絵が全く描けなくなり、彼はそのことに生涯悩み続けた。無理もない。天使と比べられては人間はたまらない。
だがそのことと分けて絵を見てみると、また新しい発見が見える
硬く、生真面目な線だ。人類としてはかなり進んでいる。天使の後半の人生を引き受けることなど、ある程度進んだ魂でなければできない。サヴォナローラに心酔して絵を燃やすなどのこともあったが、後半の人生を、苦しみながらも、彼はなんとかがんばっている。
サンドロ・ボッティチェリの本霊がいつごろ交代したのかはこちらからはわからないが、これらの絵を描いた画家は、天使の霊魂が活動していた時代のボッティチェリとは別の画家として考えるべきである。
興味あるものはこっちの記事と比べてみたまえ。
フランツ・フォン・シュトゥック、「ヘラクレスとヒュドラ」
フランシスコ・デ・スルバラン、「ネメアの獅子と戦うヘラクレス」
レオン・ボナ、「若き日のサムソン」
グイド・レニ、「ゴリアテの首をもつダヴィデ」
アンドレア・マンテーニャ、「ゴリアテの首をもつダヴィデ」
アントニオ・デル・ポライウォーロ、「ヘラクレスとアンタイオス」
前に彼女が「男性」というテーマで、優しげながらもたっぷりと皮肉を込めた記事を書いていたが、私は今回、「戦う男」というテーマで絵を探してみた。いろいろ見てみたんだがね、ヘラクレスとサムソン、そしてダヴィデの3人しか見つからなかった。ペルセウスやテセウスなどはあまり好きではない。オデュッセウスは良い絵が見つからなかった。
男には誰しも、ここぞというところで、おのれを賭けて戦わねばならないときがある。その時のために、これらの絵のイメージが助けになるだろう。よく見ておくがいい。敵は獅子か、巨人か、それとも怪物か。何であろうと、戦わねばならない時は、男は勝利のイメージを胸に燃やしつつ、突き進んで行かなければならない。
尻尾を巻いて逃げて言い訳しているような男は男ではない。男ならやらねばならぬという場面にぶち当たった時、これらの絵のイメージはおおいに君たちの役に立つことだろう。
行動せよ、男性諸君。たとえそれが死の壁にぶつかることであっても。
かのじょの皮肉に負けたまま、何もしないでいるつもりかね。
フランシスコ・デ・スルバラン、「ネメアの獅子と戦うヘラクレス」
レオン・ボナ、「若き日のサムソン」
グイド・レニ、「ゴリアテの首をもつダヴィデ」
アンドレア・マンテーニャ、「ゴリアテの首をもつダヴィデ」
アントニオ・デル・ポライウォーロ、「ヘラクレスとアンタイオス」
前に彼女が「男性」というテーマで、優しげながらもたっぷりと皮肉を込めた記事を書いていたが、私は今回、「戦う男」というテーマで絵を探してみた。いろいろ見てみたんだがね、ヘラクレスとサムソン、そしてダヴィデの3人しか見つからなかった。ペルセウスやテセウスなどはあまり好きではない。オデュッセウスは良い絵が見つからなかった。
男には誰しも、ここぞというところで、おのれを賭けて戦わねばならないときがある。その時のために、これらの絵のイメージが助けになるだろう。よく見ておくがいい。敵は獅子か、巨人か、それとも怪物か。何であろうと、戦わねばならない時は、男は勝利のイメージを胸に燃やしつつ、突き進んで行かなければならない。
尻尾を巻いて逃げて言い訳しているような男は男ではない。男ならやらねばならぬという場面にぶち当たった時、これらの絵のイメージはおおいに君たちの役に立つことだろう。
行動せよ、男性諸君。たとえそれが死の壁にぶつかることであっても。
かのじょの皮肉に負けたまま、何もしないでいるつもりかね。
ラファエロ・サンツィオ、「ヴェールの女」
エドゥアール・マネ、「オランピア」
ヤン・ファン・エイク、「ヘントの祭壇画」より「聖母マリア」
フリーダ・カーロ、「茨のネックレスの自画像」
アルテミシア・ジェンティレスキ、「マグダラのマリア」
ピエール・オーギュスト・ルノワール、「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」
フランシスコ・デ・ゴヤ、「着衣のマハ」
ニンフたちでは、大体画家よりもモデルの方が重要である。
サンドロ・ボッティチェリ、「春」部分
レオナルド・ダ・ヴィンチ、「モナリザ」
ティツィアーノ・ヴェチェリオ、「イサベル皇后の肖像」
ジョヴァンニ・ベッリーニ、「聖母子と二聖人」より「マグダラのマリア」
ベクルックスの詩に、五人の女神という言葉が出て来るので、五人目を探してみたが、みつからなかった。「誕生」のヴィーナスを入れようかと迷ったが、やはり違う画家の作品が良いと思いとどまった。五人目の空席は、未来の画家にまかせることにする。
なお、モデルは女神とは関係ない。
「聖愛と俗愛」
「聖愛と俗愛」から「聖愛」
「聖愛と俗愛」から「俗愛」
「イサベル皇后の肖像」
「洗礼者ヨハネ」
「貢の銭」
ティツィアーノ・ヴェチェリオは分裂している。
彼の人生は天使と馬鹿の霊が二重支配している。よってその作品は、本霊である天使が描いたものと、その人生を横から奪って支配している馬鹿が描いたものの、二つに分類されてしまう。その境界はかなりあいまいだが。
よく見て感じてみたまえ。同じ画家が描いたとは思えないものがあるだろう。特にイエスの顔を描いた絵などは、まったくイエスに見えない。まるでわいろをとる宗教家のようだ。ティツィアーノにはイエスの顔がなかなか描けなかったのだ。イエスの運命があまりに惨すぎたからだ。だから彼の作品の中のイエスは、ほとんど馬鹿が描いていると言っていい。
「聖愛と俗愛」は、彼のそういう二重性を端的に表している。
ティツィアーノは肖像画や神話画などにはすばらしい作品があるが、宗教画にはほとんど見るべき作品がない。それは彼にとりついて彼の人生を奪っている馬鹿が描いているからだ。
ティントレット、「アダムの誘惑、またはアダムとイヴ」
ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル、「パンドラ」
ジョット・ディ・ボンドーネ、「キリストの逮捕、あるいはユダのキス」
以上の三つのテーマは、全くの虚偽なので、もう二度と描いてはならない。
過去に描いた絵は、芸術作品として価値あるものもできるだけ封じてしまいなさい。
とんでもない馬鹿な作品はもちろん処分すること。
絵画というのは人間の心に大きく作用する。
こういう絵を見て、男は女は馬鹿なのだと思い込むのである。
ユダの場合は、とにかく冤罪を晴らしてやりなさい。イエスを裏切ったのは、彼ではない。
他の弟子すべてなのだ。
ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル、「パンドラ」
ジョット・ディ・ボンドーネ、「キリストの逮捕、あるいはユダのキス」
以上の三つのテーマは、全くの虚偽なので、もう二度と描いてはならない。
過去に描いた絵は、芸術作品として価値あるものもできるだけ封じてしまいなさい。
とんでもない馬鹿な作品はもちろん処分すること。
絵画というのは人間の心に大きく作用する。
こういう絵を見て、男は女は馬鹿なのだと思い込むのである。
ユダの場合は、とにかく冤罪を晴らしてやりなさい。イエスを裏切ったのは、彼ではない。
他の弟子すべてなのだ。
ラファエロは安い。工房で大量生産された絵葉書美術だ。
きれいに描いてあるが、心に訴えてくるものがない。
ラファエロに学ぶと、人間は芸術を間違う。神のごとき剽窃者という異名があるが、おかしなことだ。神は剽窃などなさらない。まるごとすばらしく、かつてない創造をなさることができるのに、なぜ他者から盗む必要がある。
いろいろと作品を見ていても、ラファエロ本人が主な製作者となってかかわっている作品は、初期のものに限られる。ラファエロの真筆と言える作品は、師ペルジーノの真似を脱していない。それなりの個性は見えるが、どれも、どこかで見た構図ばかりだ。剽窃者と言われるゆえんであろう。
このようなラファエロを人間が必要以上にたたえるのは、やはり、レオナルドという傑出した才能があったからだろう。はっきり言ってしまえば、盛期ルネサンスは、レオナルドの独り勝ちだったのだ。それをみとめたくない人間が、ミケランジェロやラファエロを作り出したのである。
ラファエロの作品として人気のあるこの作品も、大勢の弟子たちが総出で作ったと言う感がある。美しく見えるが、人間の個性を感じない。才能ある画家が描けば、美しさの前に、強い個性を感じるものだ。それが工房の作品であろうとも、師匠の個性が強く出るものだ。
だがラファエロの作品にはそれがない。世間の順当な評価にこびる商売人の姿勢が見える。
つまりはだ。ラファエロの工房は「大勢」の弟子たちで成り立っていたのだ。その裏には、ラファエロをプロデュースしていただれかの存在がある。
まあこういうことは、わたしがあえて言わずとも、わかっているだろうが、そろそろ真実を見つめた方がいいのではないかと思い、言ってみた。
ラファエロはいつか解体する。なぜなら、ほとんどすべてが、彼の作品ではないからだ。
かのじょはこの芸術家がきらいだった。
だからめったには使わなかった。
なぜというに、この芸術家こそが、人間の狡さの象徴だからだ。
真実を告げれば、この芸術家の作品は、ほとんどが、裏の馬鹿の操作によってつくられたものなのである。こういう表現者はけっこういる。かのじょの好きな画家の中にも、けっこういるのだが、ミケランジェロほど、ずるい芸術家はいない。
人間は、天使には絶対に正当な評価をしないが、人間には、下駄をはかせまくって、天才を作り上げる。ミケランジェロが順当に人間に評価されているのに対し、レオナルドに対して人間は今も、歪んだ感情を持つ。これによって、ミケランジェロが、本当は、偽物だったということが、わかるのである。
今も、ミケランジェロの作品にケチをつける人間はあまりいない。だが、レオナルドにはいつも、歪んだ人間の気持ちがつきまとう。
要するにミケランジェロは、レオナルドをつぶすために、その対抗として人間がつくりあげた天才なのである。
信じられないかね? だが本当なのだ。
いずれあなたがたは、ミケランジェロの真実を見る。そのとき、彼の作品が、どのように見えるかは、お楽しみにしておくがよい。言っておくが、かなり、きついぞ。
人間というものは、本当に優れたものには、いくつもあらを探して歪んだ評価をするが、本当の馬鹿には、欠点など一切見ずに最高の名誉を与えるのだ。神のごとき、と。