人には、それぞれに、背負っているもの、生きていく中で考え、学んでいかねばならない課題があります。それは親子の愛憎の問題であったり、愛欲に関する問題であったり、病気の問題であったり、色々です。
心臓も凍りつく哀しみ、魂が割れるほどの怒り、私達は様々な感情の渦の中を、峨々たる山脈を乗り越えてゆくように、自らの小さな灯火だけを頼りにしてくぐり抜けていかねばならない。その中で、深く豊かな教養と感性の構造を、自己の中に営々と築いてゆき、少しずつ、人として完成していかねばならない。それが人生という魂を育てるための課程ではないかと、今は考えています。
そういう点から見れば、易々と人生を歩んできた人は、それほど幸せな人とは言えないのかもしれません。今、辛く苦しい壁にぶち当たり、思い悩んでいる人こそ、魂の成長期をむかえた幸運な人と言えるのでしょうか。試練は苦しいものですが、それは自分自身という、比類のないリアリティと対面し、深く語り合うことのできる絶好のチャンスでもあるのではないでしょうか。
(2004年3月ちこり30号、通信欄)
先日、インドの吟遊詩人(バウル)のグループがこの町に来るというので、その歌を聴きに行ってきました。バウルソングと言うそうなんですが、結構面白い経験でした。心身を揺さぶる歌と踊りのリズムの中で、忘我的な陶酔感に魂を放りこまれ、神との愛の交感に酔いしれるという感じでした。
その夜、私は不思議な夢を見ました。亡命者が私の家に助けを求めて来られ、軒を貸すつもりで家に入れると、その人は故郷からたくさん家族を呼んできて、私の家をのっとられそうになるという夢でした。一度目を覚まし、あ、これは今日聴いた異国の歌の影響だなと考えました。バウルたちの神々は、私を陶酔の輪に入れたいのだな。でも、私は入りたくないなあ、と思い、もう一度眠りにつきました。すると今度は、こういう夢を見たのです。
吟遊詩人のグループの人に、私がこう尋ねるのです。
「あなたがたの愛する神の名は、何とおっしゃるのですか?」すると。有無を言わさず追い出されてしまい、答えてもらえなかったのです。
目を覚まし、少しホッとしていました。私はバウルにはなりたくありませんでしたから。
多分、私の背後の見えない霊的な世界では、一夜のうちに何かの葛藤があったでしょう。というのも、あれから私は、バウルたちの歌が一向に思い出せないのです。あんなにすごいリズムと歌だったのに。何かの霊的なエネルギーが歌を通して私の心に入りこんできましたが、私はどうやらそれを排除してしまったようです。
芸術というのは、目に見えない魂の世界を、動かすものなのだな、そんなことを知った経験でした。
(2004年11月ちこり32号、コラム)
リンゴ(セイヨウリンゴ) Malus domestica
リンゴの詩を書くのは二度目ですが、今度のは青いりんごです。
店頭などでは、王林などの品種が、青リンゴとして売られてますが、「祝い」などの種類もあるそうです。
といっても、詩の中のイメージは、青空にとけているあわせ鏡のような地球のイメージなんですが。青空の向こうにあるもう一つの美しい地球。魂の地球。
それを香り深い青いりんごに託してみたかったのです。
苦しみの後で、一枚殻が脱げたように心が軽くなって、ひといきに越えられなかった壁を越えられるってことがあります。それは要するに、自分を知るってことなんですけれどね。
若い頃は何でもできると思っていて、どん欲にあれもこれもと吸収し続けていました。本を読むのが好きで、自分の中にいっぱい知識をほうり込むのが楽しかった。映画もアニメも好きだった。たくさんの人が群がるおもしろそうな価値の周りを、わたしも物欲しそうな目で跳び回っていた一人でした。
でも年をとって、ひとつもふたつも、山なんぞ越えてみると、今度は要らぬものを捨てにかかります。本当に必要なものしか、生きることには必要でないと思い始めます。だから本も、本当に魂に心地よいものしか読まなくなる。テレビで毎日のように叫んでいる歌や人のコメントも、心地よくないものは聞かない。
で、だんだん世界が狭くなる。いや、もともと広くはなかったんですけどね。
人生の折り返し点にさしかかると、人はそれまで自分に取りこんできたものを、深化させてみたく思うらしい。やたらと外に広がるのではなく、ひとつひとつを大切にして、見てみたくなるものらしいです。
そこにどんな美しい魂の暗号が隠れているのか。
知り尽くしていると思っていた季節と世界が、未知の不思議に満ちていることを知る。世界にこめられた愛の鍵のなんと無数にばらまかれていることか。
もうわたしも若いと胸を張れる年ではありませんが、また新しい学びの段階に、招き入れられたような感じもしています。おもしろいことが始まりそう。
これからだなあ、何もかも。
(2006年7月、花詩集38号。一応原稿は作成されたが、発行はされなかった。)
神秘の降誕
聖母の戴冠
キリストの哀悼
書斎の聖アウグスティヌス
荊冠のキリスト
今回は、サンドロ・ボッティチェリの後半の絵を集めてみた。
どうだね、前半の絵とまるで違うだろう。これはもう別人の筆としか言いようがない。
天使と交代してその人生を引き受けたとたん、昔のような絵が全く描けなくなり、彼はそのことに生涯悩み続けた。無理もない。天使と比べられては人間はたまらない。
だがそのことと分けて絵を見てみると、また新しい発見が見える
硬く、生真面目な線だ。人類としてはかなり進んでいる。天使の後半の人生を引き受けることなど、ある程度進んだ魂でなければできない。サヴォナローラに心酔して絵を燃やすなどのこともあったが、後半の人生を、苦しみながらも、彼はなんとかがんばっている。
サンドロ・ボッティチェリの本霊がいつごろ交代したのかはこちらからはわからないが、これらの絵を描いた画家は、天使の霊魂が活動していた時代のボッティチェリとは別の画家として考えるべきである。
興味あるものはこっちの記事と比べてみたまえ。
聖母の戴冠
キリストの哀悼
書斎の聖アウグスティヌス
荊冠のキリスト
今回は、サンドロ・ボッティチェリの後半の絵を集めてみた。
どうだね、前半の絵とまるで違うだろう。これはもう別人の筆としか言いようがない。
天使と交代してその人生を引き受けたとたん、昔のような絵が全く描けなくなり、彼はそのことに生涯悩み続けた。無理もない。天使と比べられては人間はたまらない。
だがそのことと分けて絵を見てみると、また新しい発見が見える
硬く、生真面目な線だ。人類としてはかなり進んでいる。天使の後半の人生を引き受けることなど、ある程度進んだ魂でなければできない。サヴォナローラに心酔して絵を燃やすなどのこともあったが、後半の人生を、苦しみながらも、彼はなんとかがんばっている。
サンドロ・ボッティチェリの本霊がいつごろ交代したのかはこちらからはわからないが、これらの絵を描いた画家は、天使の霊魂が活動していた時代のボッティチェリとは別の画家として考えるべきである。
興味あるものはこっちの記事と比べてみたまえ。