大陸のほぼ中央部に、台地状に盛り上がる山脈があった。連なる山々は裾に森を引きずりながら、それぞれにテーブルのように平らな頂上部を、天に向けて開いていた。
その山脈のふちの、少しとがった峰の大きな一つ岩の上に、今一人の聖者が立っていた。彼は黒檀のように黒い肌をしており、オーソドックスだが仕立てのよさそうな灰色のスーツを着ていた。黒い瞳から放たれる彼の視線は、山脈の下に広がる森の向こうの、原野にある青い水をたたえた湖にそそがれていた。気象を管理する精霊によって、その木々まばらな野と湖には定期的に雨が注がれ、湖がけして乾かないように、野の草木がみずみずしく、ちょうど良い具合に育つように、愛のこもった細やかな世話がされていた。
「精霊の管理は見事だ。天然システムのリズムを歌として感じて歌う。まさに、神はすべての存在の中に、甘くも豊かな素晴らしい真実を流し込む。ふむ」
黒檀の聖者は瞳に力をこめ、湖の一隅にある小さな人間の集落を見た。そこには、森の木で作った小さな船を頼りに、湖に出、骨で作った釣り針で魚をつり、湖の岸を耕してそこにパンのような味のする豆や野菜を育てて、暮らしている人間たちがいた。
まだ文明の明りを確かには知らぬ、原野の民族は、自分たちのことを、タロク、すなわち「わたしたち」という名で呼んでいた。
聖者は目を少し横にずらし、魔法の呪文を唱えた。すると、風景が、まるで変色したニスをはがされるように、その奥の真実の姿を見せた。青い光の点が、広い原野をまるですみれの花園にするかのように、あちこちに群れている。聖者は、その青い光が、すばらしく複雑な計算で組まれ、地に深く縫い付けられた、紋章を形作っているのを見て、感嘆の息をついた。ふむ。神の紋章はすばらしい。
聖者は快い笑いの声を、風に吐くと、言った。「これは確かに、あと五百年は見るに見られぬ。人類は、まったく、幸福だ。神はまことに、お前たちのために、なんでもして下さる」
黒檀の聖者は、幸福感と愛を深く感じながら、目を細め、もう一度、タロクの村を見た。そのとき、山の下の方から、誰かが登ってくる気配がした。目を下にやると、水色の制服を着た役人が一人、山を登ってくる。
「聖者さま、そろそろお時間が迫っています」黒い髪の白人系の顔をした役人は、黒檀の聖者の顔を見上げつつ言った。聖者は、「ふむ、そうか、ではいくか」と言って、峰を降りようと右手を振った。そのとき、聖者のすぐそばまで登ってきた役人が、少し驚いた表情を見せて、言った。
「聖者さま、その格好でいかれるのですか?」
役人の声に、聖者は右手の所作を止め、横目で彼を見つつ、言った。
「何か問題でもあるかね?」
役人は、聖者の灰色のスーツを見つつ、少し遠慮がちに言った。「その格好では、少し…、なんと申しますか、もう少し威厳のある恰好をしていただいた方が、その…」
「これでは威厳がないかね」
「ああ、その、たいそうすばらしいのですが、相手は文明国の民ではなく、まだだいぶ原始段階にある人間ですから、その、もう少し派手にしてみてはいかがかと…」
「なるほど」
そういうと聖者は、左手でパチンと指をはじいた。すると聖者はいつしか、灰色のスーツの上に、革製の上等なマントを着て、頭には、金の縁取りのついた、トルコ帽のような帽子をかぶっていた。マントの留め金は金とエメラルドを細工して美しい魚の形にしたものだった。
「ふむ。まだまだかな、羽根でもつけるか、いや、こうしよう」聖者はまたパチンと指をはじいた。するとその右目が金色に輝いた。「どうだね?」聖者が問うと、役人は苦笑いをしつつ、「とてもすばらしいです」と言った。
「よし、ではいこう」そういうと黒い肌に金色の右目をした聖者は、右手を振り上げ、風の中に飛び出し、峰を降りて原野の方に向かった。役人もそのあとを追った。
聖者は、原野の中で、一本だけひときわ美しい樹霊の気配を持つ大木の梢に、ひらりと降りた。役人も後に続いた。大木の根元から少し離れたところに、白い花をつけた野茨の茂みがあった。聖者は、ふむ、とうなずきながら、遠くから、精霊に導かれ、一人のタロクの若者が、ふらふらとこちらに近寄ってくるのを見た。
「彼の名は何と言ったかな?」聖者が問うと、役人は答えた。「パレ・アリ・ルツ…カケスのときの五日目の月という意味の名です。タロクは、原始的な太陰暦を使っていますので。カケスのときとは今の暦で、ほぼ六月に当たります」「要するに六月五日に生まれたのだな」「はい。呼ぶときは、アリと呼んでください」「うむ」
会話を交わしている間も、タロクの若者はだんだんとこちらに向かって歩いてくる。聖者はその若者の姿を見た。その姿は、ネグロイドの特徴が濃いが、肌は黒いと言うよりは褐色であり、胴が長く、体型はモンゴロイドに近かった。縮れた黒い髪を長く伸ばして、頭の後ろで奇妙な髷をつくり、それを木の櫛で飾っていた。獣皮で作った腰布をつけ、たくましい胸には、鳥の羽根と魚骨を細工したビーズを連ねた首飾りがあった。黒く大きな瞳は、何かをもとめて熱く輝いている。
「ほう。美しい」聖者が言うと同時に、若者は茨の茂みにたどりつき、そこによろよろと倒れこんだ。
「ま、まにまに、たる、と、くみ…」若者は茨の前に頭を下げ、うずくまりながら言った。それは「神よ神よ、わたしはここにきました、という意味の、タロクの言葉だった。
聖者は、数分の間、その若者を見つめた。若者が、茨の前で、神に対し、愛を捧げる、優れた動作をするのを、真剣に見つめた。そして、心の中で、よし、と言った。優秀だ。これならば、できる。
聖者は左手を上にあげ、ほう!と叫び、一陣の風を起こした。風は野の砂を巻き上げ、若者を取り巻いて一息の渦を巻いた。白い野茨の花が、かすかに香り、若者に愛を送った。野茨は彼にささやいた。
アリ、アリ、あなたはきょう、神に選ばれた。
若者は、かすかにその声を聞いた。精霊が彼の髪をなで、目の前にある大樹の上を見るように導いた。若者は自然に首を動かし、その大きな黒い目を大樹の上に向けた。なんと美しくも純真な瞳か。神の創造とはこういうものか。若くして使命を授かるものよ。愛しているぞ。聖者は、若者の素直な姿に、愛を掻き立てられつつ、心の中で思った。不覚にも涙が出そうになった。
若者は、大樹の上に、金色の光を見た。驚きのあまり、声が出ず、その姿勢のまま凍りついた。聖者は光の中から、ゆっくりと姿を現し、彼の瞳を見返した。若者は、その姿の、あまりにも不思議で、大きく、美しく、威厳があり、夜のような黒い肌に星のような金色の右目をしているのを見た。
聖者は重い声で若者に語りかけた。
「あなたは、神の使いの前にいる。礼儀をしなさい」
そうすると若者は、ふと我に返り、あわてて頭を地につけ、深い礼儀をした。聖者は若者の礼儀正しいことをほめ、続けた。
「パレ・アリ・ルツ、その呼び名はアリ、あなたは今日、神によって使命を授けられた。これから五十日の間に準備をし、妻と子供を連れて、湖より出る川を下れ。そして、七日間を歩き、初めてであったカケスの声を聞いたところに、家を作りなさい。そこにはあなたの子孫の楽園がある。木の実があり、ふしぎなきのこがあり、川からは魚がたくさん捕れる。庭を作り、妻とともにそこをたがやし、豆とばらを植えなさい。アオサギのときが来るまでに、すべてを終わらすように」
若者は、震えながら、金の右目をした神の使いの声を聞いていた。神の使いは、若者がその言葉を覚えるまで、三度同じことを言った。
「わ、わかりました。タル、タル、わたし、行きます。川下ります。つまこ、つれていきます」
若者は、地に額を擦り付け、震えながら言った。
「よし」と神の使いは言った。それと同時に、光は消えた。
若者は、神の使いの気配が消えても、しばしそこから動けなかった。彼の頬を涙が濡らしていた。すばらしい神の使いに出会えたことが、うれしくてならなかったのだ。金色の右目の神の使い、…マナ・カン・テクル、マナ・カン・テクル、と彼は繰り返した。
やがて、若者は精霊に導かれて立ち上がり、もう一度深く神への礼儀をすると、足元をふらつかせながらも、はやる心に追い立てられるように、村へと帰って行った。
大木の上から、彼の姿を見ながら、聖者は背後の役人に言った。
「なかなかにいい男だ。若いが、骨がある。良いものを選んだな」
「ええ、それは厳選いたしました。彼の使命は高い」
「これから彼は川下に向かい、そこで家を作る。やがて彼を追って、タロクの村から数家族が来る。そこで五百年をかけて、一つの部族を育てる。その部族の名はタロクではなく」
「はい、タロカナ…新しいわたしたち、という名になります。マナ・カン・テクルという名も、彼らの子孫に神話として伝えられるでしょう」
「よい名だ。おもしろい。神の御技はいつもそうだが」
聖者はそういうと、その風変わりな神の使いの姿を脱ぎ、元の灰色のスーツ姿に戻した。そして役人とともに少し上空に飛び上がり、若者がマナ・カン・テクルと叫びながら、村に向かっていくのを見た。
「さて、これでわたしの仕事は終わったな」
「はい、ありがとうございます。お手数をおかけいたしました」
「何のことはない。ふむ。上部の取り決めだ。若者や役人ではなく、我々が芝居をせねばならないのには、それなりのわけがある」
聖者と役人は言いながら風に乗り、野を離れて元の山の上に戻った。
聖者は再び、山の上から原野を見下ろし、呪文を唱え、目に力をこめて、大地に描かれた大きな青い紋章見た。それは、神が大地に描いた、守護の紋章であった。その紋章により、五百年は、あのタロクとそこからわかれた新部族は、ほかの人類に発見されることなく、この野で健やかに育てられる。聖者にはその紋章から香り立つ神の深い愛に感嘆せざるを得なかった。なんと美しいのか。紋章はどれもみな少なからず薔薇に似ているが、この複雑な紋章はまさに大地に描かれた巨大な薔薇の絵にほかならない。
「イングリッシュ・ローズ、か。ハイブリッド・ティもよいが。なんといったかな。その品種の名前」
「スノウ・アンダー・ザ・ムーンです」
「月下の雪か。清らかにも白い薔薇。人類はまさか、自分たちの生み出した薔薇の遺伝子が、改良因子として組み込まれ、新しい人類がここに生まれようとしているとは、思いもすまい」
「まさに、そのとおり。薔薇の品種改良も、神の導きでしょう。曰く、愛の遺伝子。アリはその因子を授けられたがため、自然に見事に、愛を行っていく。薔薇は愛の因子だ」
「ふふ。これより五百年の後、タロカナと現生人類の混血が始まる。タロカナ族の伝える因子は、罪業によって歪んだ現生人類の遺伝子を新たな方向に導いていくための、光となる」
「はい。それ以上のことは、神しかご存じではありません」
「われわれは、われわれのできることをするだけだ。しかし、なんとも、雄大だ。神の救いとは、こういうものか」
聖者は深くため息をつきながら、快い笑顔で笑った。人類の未来は、苦しくも、明るい。こうして、いくつも、何重にも、救いの種が、地上にまかれている。
聖者が役人に別れを告げ、姿を消した頃、アリは村にたどりつき、村の中を喜びに泣いて走り回りながら、神の御使いの名を叫び、使命を授けられたことを部族の人々に伝えていた。
「マナ・カン・テクル、右目が炎のような金だった。美しく、素晴らしい使いだった。タル、わたしはいく。川を下っていく。あいする、つまこ、つれてゆく!」
(月の世の物語・後の歌)