世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

2013-05-27 04:47:36 | 月の世の物語・後の歌

大陸のほぼ中央部に、台地状に盛り上がる山脈があった。連なる山々は裾に森を引きずりながら、それぞれにテーブルのように平らな頂上部を、天に向けて開いていた。
その山脈のふちの、少しとがった峰の大きな一つ岩の上に、今一人の聖者が立っていた。彼は黒檀のように黒い肌をしており、オーソドックスだが仕立てのよさそうな灰色のスーツを着ていた。黒い瞳から放たれる彼の視線は、山脈の下に広がる森の向こうの、原野にある青い水をたたえた湖にそそがれていた。気象を管理する精霊によって、その木々まばらな野と湖には定期的に雨が注がれ、湖がけして乾かないように、野の草木がみずみずしく、ちょうど良い具合に育つように、愛のこもった細やかな世話がされていた。

「精霊の管理は見事だ。天然システムのリズムを歌として感じて歌う。まさに、神はすべての存在の中に、甘くも豊かな素晴らしい真実を流し込む。ふむ」

黒檀の聖者は瞳に力をこめ、湖の一隅にある小さな人間の集落を見た。そこには、森の木で作った小さな船を頼りに、湖に出、骨で作った釣り針で魚をつり、湖の岸を耕してそこにパンのような味のする豆や野菜を育てて、暮らしている人間たちがいた。
まだ文明の明りを確かには知らぬ、原野の民族は、自分たちのことを、タロク、すなわち「わたしたち」という名で呼んでいた。

聖者は目を少し横にずらし、魔法の呪文を唱えた。すると、風景が、まるで変色したニスをはがされるように、その奥の真実の姿を見せた。青い光の点が、広い原野をまるですみれの花園にするかのように、あちこちに群れている。聖者は、その青い光が、すばらしく複雑な計算で組まれ、地に深く縫い付けられた、紋章を形作っているのを見て、感嘆の息をついた。ふむ。神の紋章はすばらしい。

聖者は快い笑いの声を、風に吐くと、言った。「これは確かに、あと五百年は見るに見られぬ。人類は、まったく、幸福だ。神はまことに、お前たちのために、なんでもして下さる」

黒檀の聖者は、幸福感と愛を深く感じながら、目を細め、もう一度、タロクの村を見た。そのとき、山の下の方から、誰かが登ってくる気配がした。目を下にやると、水色の制服を着た役人が一人、山を登ってくる。

「聖者さま、そろそろお時間が迫っています」黒い髪の白人系の顔をした役人は、黒檀の聖者の顔を見上げつつ言った。聖者は、「ふむ、そうか、ではいくか」と言って、峰を降りようと右手を振った。そのとき、聖者のすぐそばまで登ってきた役人が、少し驚いた表情を見せて、言った。

「聖者さま、その格好でいかれるのですか?」
役人の声に、聖者は右手の所作を止め、横目で彼を見つつ、言った。
「何か問題でもあるかね?」
役人は、聖者の灰色のスーツを見つつ、少し遠慮がちに言った。「その格好では、少し…、なんと申しますか、もう少し威厳のある恰好をしていただいた方が、その…」
「これでは威厳がないかね」
「ああ、その、たいそうすばらしいのですが、相手は文明国の民ではなく、まだだいぶ原始段階にある人間ですから、その、もう少し派手にしてみてはいかがかと…」
「なるほど」
そういうと聖者は、左手でパチンと指をはじいた。すると聖者はいつしか、灰色のスーツの上に、革製の上等なマントを着て、頭には、金の縁取りのついた、トルコ帽のような帽子をかぶっていた。マントの留め金は金とエメラルドを細工して美しい魚の形にしたものだった。
「ふむ。まだまだかな、羽根でもつけるか、いや、こうしよう」聖者はまたパチンと指をはじいた。するとその右目が金色に輝いた。「どうだね?」聖者が問うと、役人は苦笑いをしつつ、「とてもすばらしいです」と言った。

「よし、ではいこう」そういうと黒い肌に金色の右目をした聖者は、右手を振り上げ、風の中に飛び出し、峰を降りて原野の方に向かった。役人もそのあとを追った。

聖者は、原野の中で、一本だけひときわ美しい樹霊の気配を持つ大木の梢に、ひらりと降りた。役人も後に続いた。大木の根元から少し離れたところに、白い花をつけた野茨の茂みがあった。聖者は、ふむ、とうなずきながら、遠くから、精霊に導かれ、一人のタロクの若者が、ふらふらとこちらに近寄ってくるのを見た。

「彼の名は何と言ったかな?」聖者が問うと、役人は答えた。「パレ・アリ・ルツ…カケスのときの五日目の月という意味の名です。タロクは、原始的な太陰暦を使っていますので。カケスのときとは今の暦で、ほぼ六月に当たります」「要するに六月五日に生まれたのだな」「はい。呼ぶときは、アリと呼んでください」「うむ」

会話を交わしている間も、タロクの若者はだんだんとこちらに向かって歩いてくる。聖者はその若者の姿を見た。その姿は、ネグロイドの特徴が濃いが、肌は黒いと言うよりは褐色であり、胴が長く、体型はモンゴロイドに近かった。縮れた黒い髪を長く伸ばして、頭の後ろで奇妙な髷をつくり、それを木の櫛で飾っていた。獣皮で作った腰布をつけ、たくましい胸には、鳥の羽根と魚骨を細工したビーズを連ねた首飾りがあった。黒く大きな瞳は、何かをもとめて熱く輝いている。

「ほう。美しい」聖者が言うと同時に、若者は茨の茂みにたどりつき、そこによろよろと倒れこんだ。

「ま、まにまに、たる、と、くみ…」若者は茨の前に頭を下げ、うずくまりながら言った。それは「神よ神よ、わたしはここにきました、という意味の、タロクの言葉だった。

聖者は、数分の間、その若者を見つめた。若者が、茨の前で、神に対し、愛を捧げる、優れた動作をするのを、真剣に見つめた。そして、心の中で、よし、と言った。優秀だ。これならば、できる。

聖者は左手を上にあげ、ほう!と叫び、一陣の風を起こした。風は野の砂を巻き上げ、若者を取り巻いて一息の渦を巻いた。白い野茨の花が、かすかに香り、若者に愛を送った。野茨は彼にささやいた。

アリ、アリ、あなたはきょう、神に選ばれた。

若者は、かすかにその声を聞いた。精霊が彼の髪をなで、目の前にある大樹の上を見るように導いた。若者は自然に首を動かし、その大きな黒い目を大樹の上に向けた。なんと美しくも純真な瞳か。神の創造とはこういうものか。若くして使命を授かるものよ。愛しているぞ。聖者は、若者の素直な姿に、愛を掻き立てられつつ、心の中で思った。不覚にも涙が出そうになった。

若者は、大樹の上に、金色の光を見た。驚きのあまり、声が出ず、その姿勢のまま凍りついた。聖者は光の中から、ゆっくりと姿を現し、彼の瞳を見返した。若者は、その姿の、あまりにも不思議で、大きく、美しく、威厳があり、夜のような黒い肌に星のような金色の右目をしているのを見た。

聖者は重い声で若者に語りかけた。
「あなたは、神の使いの前にいる。礼儀をしなさい」

そうすると若者は、ふと我に返り、あわてて頭を地につけ、深い礼儀をした。聖者は若者の礼儀正しいことをほめ、続けた。

「パレ・アリ・ルツ、その呼び名はアリ、あなたは今日、神によって使命を授けられた。これから五十日の間に準備をし、妻と子供を連れて、湖より出る川を下れ。そして、七日間を歩き、初めてであったカケスの声を聞いたところに、家を作りなさい。そこにはあなたの子孫の楽園がある。木の実があり、ふしぎなきのこがあり、川からは魚がたくさん捕れる。庭を作り、妻とともにそこをたがやし、豆とばらを植えなさい。アオサギのときが来るまでに、すべてを終わらすように」

若者は、震えながら、金の右目をした神の使いの声を聞いていた。神の使いは、若者がその言葉を覚えるまで、三度同じことを言った。

「わ、わかりました。タル、タル、わたし、行きます。川下ります。つまこ、つれていきます」

若者は、地に額を擦り付け、震えながら言った。

「よし」と神の使いは言った。それと同時に、光は消えた。

若者は、神の使いの気配が消えても、しばしそこから動けなかった。彼の頬を涙が濡らしていた。すばらしい神の使いに出会えたことが、うれしくてならなかったのだ。金色の右目の神の使い、…マナ・カン・テクル、マナ・カン・テクル、と彼は繰り返した。

やがて、若者は精霊に導かれて立ち上がり、もう一度深く神への礼儀をすると、足元をふらつかせながらも、はやる心に追い立てられるように、村へと帰って行った。

大木の上から、彼の姿を見ながら、聖者は背後の役人に言った。
「なかなかにいい男だ。若いが、骨がある。良いものを選んだな」
「ええ、それは厳選いたしました。彼の使命は高い」
「これから彼は川下に向かい、そこで家を作る。やがて彼を追って、タロクの村から数家族が来る。そこで五百年をかけて、一つの部族を育てる。その部族の名はタロクではなく」
「はい、タロカナ…新しいわたしたち、という名になります。マナ・カン・テクルという名も、彼らの子孫に神話として伝えられるでしょう」
「よい名だ。おもしろい。神の御技はいつもそうだが」

聖者はそういうと、その風変わりな神の使いの姿を脱ぎ、元の灰色のスーツ姿に戻した。そして役人とともに少し上空に飛び上がり、若者がマナ・カン・テクルと叫びながら、村に向かっていくのを見た。

「さて、これでわたしの仕事は終わったな」
「はい、ありがとうございます。お手数をおかけいたしました」
「何のことはない。ふむ。上部の取り決めだ。若者や役人ではなく、我々が芝居をせねばならないのには、それなりのわけがある」
聖者と役人は言いながら風に乗り、野を離れて元の山の上に戻った。

聖者は再び、山の上から原野を見下ろし、呪文を唱え、目に力をこめて、大地に描かれた大きな青い紋章見た。それは、神が大地に描いた、守護の紋章であった。その紋章により、五百年は、あのタロクとそこからわかれた新部族は、ほかの人類に発見されることなく、この野で健やかに育てられる。聖者にはその紋章から香り立つ神の深い愛に感嘆せざるを得なかった。なんと美しいのか。紋章はどれもみな少なからず薔薇に似ているが、この複雑な紋章はまさに大地に描かれた巨大な薔薇の絵にほかならない。

「イングリッシュ・ローズ、か。ハイブリッド・ティもよいが。なんといったかな。その品種の名前」
「スノウ・アンダー・ザ・ムーンです」
「月下の雪か。清らかにも白い薔薇。人類はまさか、自分たちの生み出した薔薇の遺伝子が、改良因子として組み込まれ、新しい人類がここに生まれようとしているとは、思いもすまい」
「まさに、そのとおり。薔薇の品種改良も、神の導きでしょう。曰く、愛の遺伝子。アリはその因子を授けられたがため、自然に見事に、愛を行っていく。薔薇は愛の因子だ」
「ふふ。これより五百年の後、タロカナと現生人類の混血が始まる。タロカナ族の伝える因子は、罪業によって歪んだ現生人類の遺伝子を新たな方向に導いていくための、光となる」
「はい。それ以上のことは、神しかご存じではありません」
「われわれは、われわれのできることをするだけだ。しかし、なんとも、雄大だ。神の救いとは、こういうものか」

聖者は深くため息をつきながら、快い笑顔で笑った。人類の未来は、苦しくも、明るい。こうして、いくつも、何重にも、救いの種が、地上にまかれている。

聖者が役人に別れを告げ、姿を消した頃、アリは村にたどりつき、村の中を喜びに泣いて走り回りながら、神の御使いの名を叫び、使命を授けられたことを部族の人々に伝えていた。

「マナ・カン・テクル、右目が炎のような金だった。美しく、素晴らしい使いだった。タル、わたしはいく。川を下っていく。あいする、つまこ、つれてゆく!」

  (月の世の物語・後の歌)








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2013-01-19 07:15:37 | 月の世の物語・後の歌

スティーヴン・ディラック博士は、書斎の窓のカーテンをあげ、外の空を見ました。灰色の雲が重くどんよりと立ち込めて、遠くに見える高層ビルのてっぺんが雲に触りそうなほどです。
「雨がきそうだな」博士はつぶやくように言うと、カーテンを閉め、明るい書斎を見回すと、戸棚に飾ってある小さな金色の光るメダルに目をとめました。それは、博士がこの世にて行ったすぐれた業績を評価するために与えられた、まぶしい勲章でした。見ようによれば、キリストの頭部を飾る薔薇の形をした光輪のようにも見えるその勲章を、博士は、しばし誇らしげに見つめました。

スティーヴン・ディラック博士は今年で八十四歳。豊かに実りを得た人生を今、ゆっくりと振り返ろうとしていました。
彼は若き頃から医学の道を志し、思い心臓病患者を救うために、新たな治療法や手術の方法の研究に一生を捧げました。彼の考えた新たな治療法によって、多くの心臓病患者が救われました。彼は、この道の権威として崇められ、新たな伝説として、医学の歴史に輝かしい名を遺したのです。

スティーヴン・ディラック、心臓病の救世主。

「よい人生だったな。ほんとうに、よいことができた。たくさんの人が喜んでくれた。わたしは、満足だ。素晴らしい人生だった」
ディラック博士は、ゆっくりとため息をつきながら、言いました。

そのときでした。外の方で、どろどろと雷鳴が響き、書斎の窓をびりびりとゆらしました。

ドン!と空が割れるような音がしました。

雷が、すぐ近くに落ちたようでした。その音は、ディラック博士の心臓をも揺らしました。博士は全身から力が抜け、床に吸い込まれるように、自分の体が力なく倒れていくのを感じました。博士は床に倒れ、またその床を通り過ぎても倒れ、いつしか、青い奈落の中を、まっさかさまに落ちていたのです。

なんなのだ! これは!

博士は声をあげました。周りを見回しても、青い色一色しか見えません。下を見ても底のようなものは見えず、博士はどんどん落ちていきます。何がどうなっているのかわからぬまま、誰かが博士の耳元で叫びました、「この愚か者め!」

ふたたび、どこからか、雷鳴が響きました。それとほぼ同時に、体全体が何かにどんとぶつかって、博士は苦痛にうめきました。するとすぐ近くから聞き覚えのある声が聞こえました。

「おっと。よし、計算通りだ」

博士は、しばしの間くるくると目を回していました。すると聞き覚えのある声が言いました。

「だいじょうぶですか。あまりこんな乱暴な魔法は使いたくないんですが、今、竪琴がつかえないもので」

めまいがおさまってくると、博士はそるおそる顔をあげて、声のする方を見ました。ああ、と、博士はほっとした息をつきました。
「あなた、でしたか。どうなるかと思った」
気がつくと博士は、人一人をすくい上げられそうな、大きな虫取り網の中に、すっぽりとはまりこんでいたのです。虫取り網の太い柄の端は、竪琴弾きの手に握られていて、その竪琴弾きは、竪琴に乗って、青い中空をふわふわと浮かんでいるのでした。

「あ、あなたが、わたしを助けて下さったんですね」ディラック博士がいう言葉を、聞いているのかいないのか、竪琴弾きは少し困ったような顔をして細いため息を吐き、言いました。
「今回はいろいろと頭をしぼりましたよ。罪びとにもいろんな人がいるもので、そのたびにいろいろと工夫をするのですが。ほんとはこんなことに竪琴を使いたくないんです。魔法が細やかに使えなくなりますから」

博士は、網の中から顔をあげて、青一色の周りを見回しながら、言いました。
「わたしは、死んだのですね」
「ええ、そうです。十五分ほど前かな。突然の心臓発作で。遺体はもうすぐ家族の人が見つけるはずです」
「ここはどこです? 月の世ですか? でもそれはおかしい。わたしは人々のために尽くす、よい人生を送ってきました」
「まったくもう、お忘れですか」

そういうと竪琴弾きは呪文を唱え、手元に書類を呼び出すと、右手をくるりと回して、博士を指さしました。とたんに、博士の、立派な白い髭をした風格のある聖者のような姿は消え、そこに、無精ひげと髪をだらしなく伸ばした、骨と皮ばかりの貧相な男の姿が現れました。男は背が低く、顔も奇妙に歪んでおり、衣服も、元の立派なスーツから、あちこちが破れて汚れたくたくたのみすぼらしい衣服に変わっていました。

「思い出しましたか? それがあなたの本当の姿です」
「わ、わたし…は…」
「いいですか? 最初の予定では、あなたは普通のサラリーマンとして生きるはずでした。ある小さな会社の経理係として。そして、人生の後半の二十年を、妻の介護にあてて、罪の浄化をするはずでした。あなたは前の前の人生で、妻を見捨てて殺していましたから」
「そ、そんな…、あ、あれはみな、夢だったと、言うのですか? わたしは、心臓手術に関して、画期的な方法をあみだした。すばらしい勲章をもらった。欲も少なく、人々に尊敬され、すばらしい人だと称賛を浴びた。わたしは、すばらしい人間だったのです。あれが、すべて、夢だったと…」
「ドクター・スティーヴン・ディラック」
竪琴弾きが、深いため息とともに言いました。

「あなたは生まれる前、怪と契約しましたね。本当に、あれほど言ったのに。あなたは、妻に尽くす人生など嫌だった。もっと輝かしい栄光の人生が欲しいと言った。全く、怪はよい仕事をしてくれました。あなたのために。いいですか。あなたがあみだした画期的な方法。それはあなたのものではありません。怪が、他人の頭から盗んできて、あなたに与えたのです。そして、あなたの方が、先に世間に発表してしまったため、あなたのものになってしまったのです。本当は、本当にそれをあみだした人が、あなたの人生を歩くはずでした。その人が、数々の人を助け、勲章をもらえるはずでした。しかし、あなたに盗まれてしまったため、その人は、医学研究の道をあきらめ、他の道に進みました。あなたは、こうして、他人から栄光の人生を盗んだのです」

博士は、呆然と聞いていました。今、まさに、まざまざと思い出したからです。自分の本当の姿は、これだと。あの、恰幅のよい、聖者を思わせる白髭の紳士は、すべて、怪が作り出してくれた、偽物の自分だと。

「…ああ、たしかに、あれは夢だった。ほしいものすべてを手に入れた。だが、すべて、うそ、だった…、ほんとうの、わたしは…」
竪琴弾きは、悲しげに笑いつつも、厳しく言いました。
「これからも、あなたの名は医学の歴史に輝かしく残ります。あなたの業績によって、助かる命も増える。あなたはすばらしいことをした。けれども、残念ながら、それはあなたの功として、計算されません。その一部は、もともとそれをあみだした人の元に流れてゆき、大部分は、神が預かります。そしてあなたには、重く、他人の人生を盗んだという罪が残る」

「浄化をせねば、ならないのですね。何をするのですか」
博士は、網の枠をつかみながら、ぼんやりと言いました。すると竪琴弾きは、言いました。
「こんなやり方は、好きではないのですが。許してください。竪琴が弾けないので、少し乱暴になります」

とたんに、虫取り網が、がくんと揺れたかと思うと、博士はまた青い中空に放り出され、まっさかさまに落ちていきました。悲鳴を叫びながら、何十分と落ちていったかと思うと、博士はいつの間にか、大きな舞台の上にいました。見ると、目の前に大きなグランドピアノがあります。博士はもとの立派な白髭の紳士の姿に戻り、ピアノの前に座っていました。黒い素敵なスーツを着て、胸には輝く薔薇の勲章がありました。観客席を見ると、そこには何千という観客がいて、あこがれと期待に満ちたまなざしで博士を見ています。

ピアノを弾くのか?と博士が思っていると、耳元に竪琴弾きの声が聞こえてきました。
「鍵盤をよく見てください。数字が書いてあるでしょう」
博士は、ピアノの鍵盤を見てみました。すると竪琴弾きの言うとおり、白い鍵盤に、0から9までの数字が書いてありました。黒鍵には、星や月や太陽や花などの形をした、妙な記号が書かれていました。
「それは一種の計算機です。使い方は、ピアノ自体が教えてくれるので、すぐにわかります。では次に、目の前の楽譜を見てください」
博士は楽譜を見ました。するとそこには、二行の数字の列がありました。
「その数字は、上が円周の長さ、下が直径の長さです。あなたはこの舞台で、観客の視線を浴びながら、円周率の計算をせねばなりません。観客は奇跡を望んでいます。あなたが、円周率を割り切るという、奇跡をなすことを、望んでいます」
「馬鹿な! 円周率など、割り切れるわけがない!!」
「それはどうか。とにかくやらねばなりません。あなたはとても有能な人。頭のよい人。すばらしい医学博士。できぬはずはないと、観客は思っています。さあ、始めてください」

博士は、震えながら、1の数字を押しました。ポンと、ピアノが鳴りました。とたんに、観客席から感動の声があがりました。
「ブラヴォ!」
博士は、その声に支配されているかのように、ピアノを弾き、計算を始めました。

π=3.14159265…

「ブラーヴォ! ブラーヴォ!」

358979…

「ブラヴォ! ビューティフル!」

32384626433…

「素晴らしい!奇跡の人だ!救世主とは彼のことだ!」

観客の声に、博士は叫びました。「やめてくれ!やめてくれ!こんなことできるわけがない!! 永遠に、永遠に、割り切れるわけがない!!」

「そうです。永遠に計算し続けなければなりません。あなたにはそれができると、みな信じているのですから」竪琴弾きのささやきが、耳にはいのぼってきました。博士は呆然としながらも、ピアノをひきつつ、計算をし続けました。ピアノの奏でる音楽はまるでめちゃくちゃで、聞いているとまるで脳みそをかき回されるようなめまいを感じました。それでも彼は計算し続けねばなりません。指が、まるで自分のものではないかのように動き、ピアノの鍵盤を次々とたたいてゆくのです。

832795028841971693……

「…だめです! むりだ!! こんなこと、できるわけがない!! やめてくれえ!!」

博士は、もうたまらず、ピアノの鍵盤を、ばんと叩きました。するといっぺんに幕が降りて、博士はいつの間にか真っ暗な闇の中に立っていました。何も見えませんでしたが、博士は自分が、元の貧相な自分の本当の姿に戻っているのを、感じました。

「やれやれ、もう音をあげましたか」竪琴弾きの声がどこからか聞こえてきました。

「いいですか? あなたはすばらしい人なんです。地球世界では、あなたの名前は、ずいぶんと長く残ります。あなたは人格の高い人として尊敬され続ける。多くの学生があなたにあこがれ、あなたに続こうと、医学の道を目指します。だが」
「…そうです。みんな、うそです。わたしは、いやおれは、立派な人格者なんかじゃない。すべては、芝居なんです。嘘の芝居なんです。みんな、怪にやってもらったんです…。ほんとうのおれは、ほんとうのおれは、とんでもない、馬鹿なんだ…」
「それを認めますか?」
「…はい」

博士だった男は、うつむきながら、ぼそりとつぶやくように、答えました。すると、前方から、かすかな光が見えてきました。

「なんですか?」と、博士だった貧相な男が尋ねると、竪琴弾きの声が闇の奥から答えました。「とにかく、その光に向かって、進んでください。ほんとに、こんなやり方は、好きではないんですが」

博士だった男は、竪琴弾きの声に導かれ、ゆっくりと、その光に向かって進みました。近づいてみると、それは、暗闇にきりこまれた小さな扉でした。扉は、病院などによくある白い扉に似ていました。その扉には、縦に長い長方形のすりガラスの窓があって、光はその窓から漏れていたのです。

「その扉を開けてください」竪琴弾きの声が聞こえました。博士だった男は、おそるおそる取っ手に手をかけ、扉を開けました。とたんに、たまらぬ悪臭が流れてきて、男は歪んだ顔を一層歪めました。光に目が慣れてくると、扉の向こうには、信じられぬ景色が広がっていました。

そこは、十九世紀くらいの古い町のように見えました。白い漆喰の壁の家が、なだらかな斜面の上にたくさん並んでいます。ずいぶんと大きな町のようでしたが、人影は見えず、ただ、家の壁も道もそこらじゅうが糞尿で汚れており、蠅が群がりたかっていました。腐った牛肉の塊も、あちこちに落ちていて、それには白いウジが無数にわいていました。

男が鼻をつまみながら呆然としていると、また竪琴弾きの声が聞こえました。

「あなたは、これから、この町を、ひとりで掃除しなくてはなりません。なぜならあなたが地球上でやったことは、こういうことに等しいからです。あなたは、腐った一つの町を、きれいに清めたのです。ですから、できぬはずはありません」
「そんな、そんなことを、やらなくちゃ、いけないんですか?」
「もちろん、そうです。もうあなたは、それだけの称賛を受けてしまったのですから。勲章もね。言っておかねばならないことは、この町ではもう、あなたの正体はばれています。一歩だけ、町に入ってみなさい」

男は言うとおり、町に一歩足を踏み入れてみました。とたんに、鞭のような風が彼の頬を打ち、つぶてのような声が彼の耳を刺しました。
「この恥知らず! よくもあんな嘘がつけたものだ!」
「なんてことでしょう。あの人、あんな人だったの?」
「だまされた。すごいやつだと思っていたのに!」
「馬鹿な奴。とんでもないものを盗んだ!」
「盗っ人め! けち臭い盗っ人め!」

男は周りを見回して声の主を探しました。しかし人影はありませんでした。ただ、風だけが何度も彼の体を打ち、見えない人間たちの罵りをぶつけるのです。

「盗っ人め! 馬鹿が盗んだ! おそれおおいものを、馬鹿が盗んだ!」

男は震え上がりました。凍りついたように、そこから一歩も動けなくなりました。竪琴弾きの声が、冷たく言いました。

「このように、あなたには、二通りの選択が与えられています。永遠のπの計算、そして、糞尿の町の清掃。つまりは永遠の栄光と、永遠に似てはいるがいずれは終わりの来る、恥辱の労働。どちらに、行きますか?」

男は、糞尿にまみれた町を呆然と見ながら、黙りこみました。上を見あげるとそこにはフレスコ画のような明るい青が広がっていましたが、月は見えません。ただ遠い空の果てから、雷鳴が聞こえ、かすかに雲が光りました。竪琴弾きが、もう一度、言いました。

「どちらに、進みますか?」




   (月の世の物語・後の歌)





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2012-11-08 06:11:02 | 月の世の物語・後の歌

わたしは今、真っ暗な宇宙空間に、ひとり漂っています。ここが、地球からどれだけ離れているか、それはわかりません。ただ、炎のように光る渦巻き星雲が二つ、ぶつかり合って燃えているのが、遠くに見えます。その形は見ようによれば、右側が少し小さいハートの形に見えます。美しい金の炎の、愛の紋章だ。だがわたしは、あの星雲にゆくことはできない。あまりにも、遠すぎて。

なぜ、なぜ行くことができないのでしょう? わたしにはできないことなどないはずなのに。ああそう、わたしの名を、申し上げておきましょう。わたしの名は「エロヒム」。唯一絶対にして、全知全能の神と申します。この名は、もう何千年と昔になりますか、いやもう、時を数えることさえ、むなしいところへとわたしはやってきているのですが、神よりたまわったものです。

全知全能の神、エロヒム。それがわたしの名前。それを聞いた時、わたしは喜んだというより、茫然として驚いたものでした。全知全能、全てのことを知り、全てのことができる神、誰も自分を負かすことはできない。あらゆるものに勝利できる神。それはひとつの、男の見果てぬ夢というものです。わたしはエロヒム、決して誰にも負けはしない。全ては自分のもの。そういうものに、なったのだ。

なぜそんな名になったのかと、お聞きになりますか? はい、語りましょう。なぜなら、わたしは、人類に真実の幸福をもたらすためにきた、貴い人を侮辱し、そのために、地球人類の進化の道を歪めてしまったからなのです。はは、そのときは気付きませんでしたが、今のわたしにはわかります。わたしは、当然、敬い、大切にしなければその人を、侮辱した、それだけで、人類を滅びの道に導いたことになったのです。ただ、その人に「おまえはただの馬鹿だ」と言っただけで。それゆえにその人は、地球上で、正しく人類を導くことができなくなり、人類はその人に背を向けて、神への感謝も忘れ、全ての貴い霊への感謝も忘れ、好き放題のことをやり始めて、地球を荒らし始めたのでした。

地球上には時々、人類を導くために、高い世界から、高い使命を持った貴い霊が人間となって生まれてくることがあります。けれども、人類はその人たちを妬み、ほとんどの人を、殺してきました。なんとも惨い方法で。妬ましかったからです。その人たちが美しく、ものしりで、とても賢かったことが。自分たちと、ちがいすぎていたことが。

あのころのわたしは、膿んでいた。自分が、大嫌いでした。なぜならわたしは、人の目を盗んで、金や銀や玉などの様々な宝や、美女を、それはたくさん自分のものにしていたからです。その自分のものにする方法というのが、ほ、いかにも、汚かった。時には人の妻をも盗んだ。権力というのは、おもしろいほど使える、良い武器でした。言う通りにしなければ殺すと言えば、どんな美女も、わたしの寝所に身を投げたものでした。

馬鹿らしい。今思えば、なんと馬鹿なことをしたのか。わたしの欲したものの、虚しくも汚く、霞のようにはかないものであったことが、今ではわかります。ああ、かつて持っていた、金の宝剣と王冠。あれよりも、道端に咲いていた小さな白い野薔薇の方が、ずっと美しく、確かだった。なぜならば、野薔薇は、正しかったからです。わたしは、間違っていたからです。

さても、わたしはエロヒム。万物創造の神でもあります。そこで私は、その名の通り、万物を創造せねばなりません。その課題を、神から授かっています。わたしは愚かな人間ではありますが、この長い年月をずっと、何もしないでいたわけではありません。それなりのことを、しております。一人の力では、まあこれくらいしかできないだろうというだけのことは、してきました。なので、いまのわたしの目の前には、小さな岩の星があります。行ける範囲のところから、できるだけ物質をかき集め、それを固めて、丸めて、長い年月をかけて、重力を持つ、小さな星をひとつ、創りました。灰色の星です。所々に、紅色をした不思議な結晶があります。かつて、地球というところで生きていたとき、見たことのある宝石の類に、似ていますが、その光沢はまるでガラスのようだ。美しいが、どこか安っぽい。偽物の色がにおうのは、わたしのしていることが、まことに、拙いからでありましょう。

長い長い年月をかけて創った、小さな星は、創造主ひとりしかいない世界。わたしはときどき、この自分が創った星の上に座り、遠くに見える、金の銀河を見つめます。はるか遠い光。あそこに、だれか、いるでしょうか。ああ、地球という星は、わたしの、かつての故郷は、あそこにあるでしょうか。人類はまだ、生きているでしょうか。生きていてほしい。生きていてくれたなら、わたしはいつでも、飛んで行って、人間すべてのために、愛していると叫びたい。

はるか遠く、あまりに遠く、来てしまった。神の愛を侮り、真実の人を汚し、人々を侮辱して、自らのみを貴きとしてきた。それは、あの美しい愛の世界から、どんどん遠く離れて行くと言う意味でありました。今ならば全てが分かる。わたしは、傲慢に生きながら、愛の世界から、神の胸の故郷から、どんどん遠くへと走り去っていたのです。そしてとうとう、ここまで来てしまったのだ。ただひとり。

わたしの創った星は、何も言わず、ただ虚空に浮かんでいます。歌を歌いもせず、どこかに飛んでゆくこともなく、引力で何かと結びつこうとすることもない。わたしは、無音の世界に住んでいる。ときに自分で声を出さなければ、耳がなくなってしまったのかと思います。静寂は板のように凍りついてわたしを取り囲んでいる。なので、ここには今、何の音もするはずはないのですが。

「まあ、なんて汚いのでしょう。ここは」

後ろから声が聞こえます。女の声です。わたしはまるで、心臓が石になって音を立てて腹の底に落ちたかのように、驚きました。振り向くのが怖い。けれどもわたしはわたしの心を無視して、振りむいてしまう。何かの予感を感じながら。ああ。

これはたぶん、夢でしょう。いいえ、かつて、わたした地球で聞いたことのある小さな伝説を借りて、勝手に創りだした妄想でしょう。

「ああ、いやだわ。なんて寒いのでしょう」

そこに、わたしの創った、小さな星の上に、赤い薔薇が一輪、咲いているのです。わたしは驚き、震えながら、ゆっくりとその薔薇に近寄っていきました。ああ、もう知っています。この薔薇は美しいけれど、たいそう、謙遜ではないのです。高飛車で、とんちんかんで、いばりんぼで、みえっぱりで、そして、かわいいのです。

「なんでこんなところにきたのでしょう。わたしは、こんなにも美しいのに」
薔薇は冷たく言います。わたしは、涙を流しました。震えて、声が出ませんでした。何もいうことが、できないのです。なぜならわたしは神。小さな薔薇の相手など、するはずもないからです。

「ここ、いやだわ。寒い。だれかなんとかしてちょうだい」
薔薇は言います。わたしは何も言わず、神としての慈愛の元、彼女のために、おおいを創ってやります。おおいを、どうやって創ったか。それは、本当の神がわたしにくださった、白い着物を脱いで、創りました。わたしは裸で、一層寒くなりましたが、それでもよかった。薔薇が温かくなるのなら、それでもよかった。

「ああ、少しはましになった。それにしてもなんてさみしいところかしら。だれもいないのかしら」
薔薇は言います。どうやら薔薇には、わたしの姿は見えないらしい。わたしは少しさみしく感じましたが、それでもいいと思いました。薔薇は美しかった。わたしが愛するに、十分な心を持っていた。愛していると、わたしは、薔薇に何度も言いました。本当に、何度も何度も、雨のように愛のことばを浴びせました。薔薇は何も気づかず、小さな星にひとりで咲き続けることに、文句ばかりを言い、悲しんでばかりいました。

「わたしはこんなにきれいなのに、なぜこんなところで咲かなければならないのかしら」

わたしは裸で寒かった。けれど胸は温かかった。どこから迷い込んできたのか。小さな薔薇よ。すべてを、すべてを、おまえのためにやってやろう。わたしは、神のようにそう思ったのでした。そして、少しでも、薔薇がさびしくないように、聞こえぬ声ではありますが、美しい歌を歌ってやりました。薔薇は聞こえないようでも、わたしが歌うと、ほんの少し胸が安らぐようでした。

けれども、愛の日々はつかの間でありました。寒い星は、薔薇にとってとても酷な環境でありました。わたしは、できる限りのことをしましたが、薔薇の命ははかなく、いつしか、闇に溶けるようにその美しい花弁を散らし、よろよろと萎えて枯れて行ったのです。

薔薇が死んだ時、その命が、心が、この星から去っていったと知った時、わたしは、全身が二つに割れるほどの叫びを、虚空に上げておりました。世界が、割れるかと、思うほどの。

愛している、行かないでおくれ!

行かないでおくれ!

ああ!

全知全能の神にして、唯一なる、エロヒムよ。おまえにできることは、何なのだ。

時が流れました。風が吹きます。何かが、変わったようだ。ああ、わかっている。薔薇よ、おまえは、わたしのために、神が寄せて下さった、愛の手紙だったのだ。神よ。わたしは、間違っていました。罪を償います。孤独です。けれども神は、わたしを、忘れずにいてくださるのですね。小さな薔薇に託して、わたしを、愛して下さったのですね。

わたしの灰色の星には、ところどころ、ガラスのような、紅い小さな結晶がありました。わたしは、その結晶を集めて、何とか薔薇に見えるように、星の上に並べてみました。そうすると、遠くに見える、金色の渦巻星雲の光を反射して、薔薇は鮮やかな紅色につやめいて、まるで生きているように見えました。

わたしは時々、その薔薇を見つめます。そして微笑んで、胸に手を当てつつ、心から、優しい声を落とすのです。

あなたを、愛していますと。まるで、赤子を抱く母のように。

愛しています。ああ、皆さま。

わたしはエロヒム。永遠に孤独なる神と、申します。


 (月の世の物語・後の詩)


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