No,107
ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル、「グラン・オダリスク」、19世紀フランス、新古典主義。
アングルは少々問題のある画家だ。この絵の女性なども美しいが、まるで生気がない。目にガラス玉をはめこんだ人形のようだ。肌は石に繻子をかぶせたように硬い。
オダリスクというのは、女奴隷のことだ。オリエンタリズムの趣味の中で、よく好んで描かれた。ヴィーナスやスザンナと違い、奴隷には男の好みを押し付けやすい。魂を奪い、尊厳を奪い、ハレムで男に奉仕するだけの奴隷にして、それをこれでもかと美しくする。男の欲しいものはすべて、これだ。
こんな女を、すべておれのものにしたい。魂などいらない、心などいらない。自分のいうことを聞くだけの生きた美しい肉体であればいい。
馬鹿が。そんなものがいるわけがない。
実際、太古の昔から、男はこういう仕打ちを女にしてきたんだよ。女性から尊厳を奪ってきた。魂の独自性を奪い、自分に奉仕するだけの人形にしてきた。要するに、阿呆にしてきたのだ。
だが、女性は阿呆になると、とたんに美しくなくなる。かえって醜くなる。魂のなくなった女はむごいほどいやなものになる。そこで男は、醜くなっていやになった女を捨てる。
人形になった女はいらないんだよ。
たまらないのは、馬鹿にされた女の方だ。男は甘いね。打ちのめされた女が黙っているわけがない。
蘇って来るのさ。女は。それが、ガラだ。
かつて、男にうばわれた自分を、返してくれと言って、女が男によって来るのさ。何にもない女。どこまで行っても誰もいない女。なぜならそれは、かつて男が、自分を奪った女だからだ。
自分を奪われたがために、何にもない女が、男にすべてを返してもらおうとして、帰って来るのさ。
これからの男は、ガラにすべてを奪われるよ。覚悟しておきたまえ。