世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

放蕩息子の帰還

2014-05-22 06:13:41 | 虹のコレクション・本館
No,145
レンブラント・ファン・レイン、「放蕩息子の帰還」、17世紀オランダ、バロック。

何とも暖かい絵である。イエスの語ったたとえ話の中でも感動的な話だ。なくしたと思った息子が帰って来たと、放蕩の限りを尽くした息子の帰還を喜ぶ父親。

だがね、こんなやさしい父親は、イエスだけだと思った方がいい。中には厳しい父親もいる。

どの面下げて帰って来たんだ。しきいをまたぎたきゃ、こさえてきた借金を、一銭たりとも間違わず、払って来い!

不孝の限りを尽くしておいて、今さら息子ヅラするとは片腹痛い。下働きからやり直せ!

うむ。まあ、雷親父にもいろいろだ。

君たちねえ、もはや、この絵にあるようなやさしい父親は、いないと思った方がいい。いずれわかることだが、あなたがたは、こういう父親を、全て滅ぼしてしまったんだよ。

よほどのことがないかぎり、イエスは帰って来てくれないのだ。

放蕩の限りを尽くしたものは、それなりのつぐないをしてから、家に帰った方がよい。




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庭で編み物をする女性

2014-05-21 06:04:25 | 虹のコレクション・本館
No,144
ベルト・モリゾ、「庭で編み物をする女性」、19世紀フランス、印象派。

今日は女流に行ってみよう。

印象派は、対象を色や質の現象の塊としてとらえ、人間存在の本質に近寄ることを否んだ。ゆえに、おもしろい作品もあるのだが、中には見るに堪えないのもある。多くは男の、女性への歪んだ愛が見えるからだ。

しかしモリゾにはそれがない。印象派の描き方をしながらも、何げない女性の表情を絶妙にとらえている。それが心地よく心に溶け込んでくる。

この絵なども、庭で無心に編み物をしながら、家庭のことや子どものことをこまごまと考えている女性の心が現れている。見ていると、暖かい女性の心を感じて、ほっとする。

モリゾは女性故に、女性にしかわからない女性の心が描けたのだ。かのじょが描く女性の表情は、愛らしく豊かだ。愛されて育ったのだろう。いじめられていじけた心も感じられない。それがうれしい。

カーロなどを見ると、男によって虐げられて悲鳴をあげている女性の心を感じて、悲痛な思いもするが、これにはそれがない。

女性が、正しく守られて、心豊かに表現の翼を広げることができたとき、どんなものが描けるかということを、この絵は教えてくれる。




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レダ・アトミカ

2014-05-19 06:17:04 | 虹のコレクション・本館
No,143
サルヴァドール・ダリ、「レダ・アトミカ」、20世紀スペイン、シュルレアリスム。

これはあからさまな泥棒を描いてみた絵である。

見たらわかるだろうが、顔と体がまるで合っていない。ガラの顔に、他の女から盗んで来た体をくっつけて、レダのごとき美女にしてみたという感じだ。

男はよくこういうことをするよ。理想的な美女を作るために、いろんな女からパーツを集めてきて、理想的に美しい女性を作ろうとする。だがそういう人造の美女が、美しく見えることは滅多にない。

ダリの名声は、泥棒だ。他人の天の富を盗んでいる。そして、技術的にも芸術的にも、まだ学生ラインと言っていいこの才能を、大芸術家にしてしまった。

わたしだから言えるのだがね、ダリの作品群は、大学生の課題程度だよ。おもしろいことはしているが、めったにないしろものじゃない。それなりの技術はあるが、見る価値があるというほど卓越してはいない。

勉強がどれくらい進んだかなと見る、学生の作品によくこんなのがある。

たぶん、ダリは、ガラを美しく描くことによって、ガラに取り入りたかったんだろう。なにかおねだりでもしたかったんじゃないかね。そんな気分は、この絵に見えるね。




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フォンテーヌブローのナポレオン

2014-05-18 06:50:14 | 虹のコレクション・本館
No,142
ポール・ドラローシュ、「フォンテーヌブローのナポレオン」、19世紀フランス、アカデミック。

今回もナポレオンである。これは百日天下を終わってワーテルローで大敗した時のナポレオンだ。一時期と比べると、何となく背丈が縮んで見えるだろう。

これは画家がデフォルメしたわけではない。実際、縮んでしまったんだよ。盗んでいた美が崩れて、中の本当の自分が出て来たのだ。

体が縮むのを、昔から老醜のせいだとしてきたがね、本当は、本物の自分を生きている人間は、目だってわかるほどには、縮まないんだよ。年を取って、きゅうに小さくなったと見える人間はみな、偽物なんだ。

着ていた他人の美がなくなって、本当の自分が出てくると、たいていの人間は小さくなってしまうんだよ。

要するにこれは、ナポレオンの正体がとうとう出て来たという絵だ。

実体験として、こういう例を見たことはないかね。顔は似ているんだが、何となく、小さくなった。嫌な感じがする。馬鹿が出て来た人間はみな、こうなるんだよ。わかるかな。

ごまかせないんだよ。どんなにがんばっても、いずれはこうなってしまうのが、偽物の、人生なのだ。




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玉座のナポレオン

2014-05-17 06:10:02 | 虹のコレクション・本館
No,141
ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル、「玉座のナポレオン」、19世紀フランス、新古典主義。

いやあ、これは馬鹿の見本だ。よく、新興宗教の教祖がこういうことをするから、よく見るといい。知っている人は知っている。けっこうこういうのが好きなやつがいるだろう。

フランス革命は、ナポレオンで愚に帰した。大勢で王と王妃を殺して王制を倒した民衆も、結局はひとりの支配者にやりこなしてもらわなければ何もできない。何の責任も取らない。そういうことになったのだが。

実にこれは、偽物の男だ。顔も運も、すべて他人からの盗みなんだよ。

本来、ナポレオン・ボナパルトみたいなやつをやるはずだった魂から、まるごとだれかがその人生を盗んだのだ。だからこういうことになった。結局ナポレオンは、正体がばれて何もかもを失い、孤独に死んだ。

こういう男が、フランスを振りまわしたんだよ。馬鹿が一国の政治を狂わす見本だ。わかるね。こういうことは珍しくない。というより、こういうことばっかりだよ。

派手で見栄えのいい人生を欲しがる馬鹿が、シーザーのようになりたくて、誰かの人生を盗んだのだ。

本物の男がこの人生をやったら、フランスはまだましなことになったろう。

そういうことだ。人間の男はこれを見て、馬鹿の見る夢の結末を思い知るといい。




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恋文

2014-05-16 06:15:21 | 虹のコレクション・本館
No,140
ヤン・フェルメール、「恋文」、17世紀オランダ、バロック。


またフェルメールである。硬質な室内の風景の中で、恋文を届けられた女性の驚きの表情を描いている。

線遠近法も、ルネサンスの時代は、もっと無邪気に、多少いい加減に使われていたが、ここまで執拗に正確にやられると、背景の方が主役になってしまう。人物はふちっこに追いやられる。

推測だが、フェルメールは自分の絵を酷評されたのではないかね。例えば遠近法の不正確さなどをつかれたのだ。実際の風景はこんなものではないなどと言われたのではないかね。

だからここまで正確に線遠近法を極めたのではないかな。

レオナルドも線遠近法を採用しているが、彼の使い方はここまで正確ではない。「最後の晩餐」などの背景なども実際にはあり得ないものを描いている。人間ドラマを主体にしているからだ。実際にあり得る風景を背景に描いたら、あそこまで深い心理ドラマは描けない。

しかしフェルメールのこの絵は、恋文に驚いている女性の絵だということはわかるものの、どことなく、女優に演技させている嘘の風景だという感じがつきまとう。本当に恋文をもらったら、女性はもっと恥じらい、嬉しそうな顔をするものだろう。そういう人間のあたたかな心は一切描かれていない。

見えるのは、冷たい室内の風景だ。まるでそこに誰もいないかのような背景があり、人物は、幻のようだ。

フェルメールは、たぶん、心無い人間の冷たい批評に、芸術する心を殺されたのだ。
だからこんな絵になったんだよ。




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2014-05-15 06:09:52 | 虹のコレクション・本館
No,139
M.C.エッシャー、「滝」、20世紀オランダ、シュルレアリズム。

有名な絵だね。現実ではありえない現象を、正確な幾何学計算で描き上げる。おもしろい。

20世紀芸術は迷走を始め、なかにはとんでもないものもあるが、こういう世界はおもしろい。人間の思弁性を戯画的にしながらも、かなりきついところで理性の枠に押しとどめ、芸術の空を探っている。

エッシャーの作品の中には、人間性への問いかけがある。

流れてくる川が、永久にめぐっているという現実にはあり得ないような絵に見えるが、人間の愛が作用すると、こういうこともできるという面白さがある。誰にでも描けるようで、なかなか描けない。これを真面目にやって、いっぱしになった力量は買えるね。おもしろい。

これからも、おもしろい場面で使えそうな絵だ。

しかし実際、地球環境というのにはね、この絵にあるようなことが、行われているよ。不思議な愛が、何度でも愛を循環させている。そういうことを思うと、数式に支配されているような画面の中に、深い愛の秘密を感じるね。




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黒いケープ

2014-05-14 06:13:16 | 虹のコレクション・本館
No,138
オーブリー・ビアズリー、「黒いケープ」、19世紀イギリス、アール・ヌーヴォー、イラストレーション。

かのじょの切り絵による線刻派表現には、ビアズリーのこの絵が影響している。かのじょは中学の頃、一時期ビアズリーに凝っていたのだ。

細い線と墨で塗られた面だけで構成された絵だ。微妙な陰影などは一切排除する。
これが実に美しいと、かのじょは感じたのである。

墨が流れてくるようなスカートの線が美しい。彼女はこれに感銘を受け、自分でも表現を試みてみたのである。

ビアズリーのようにセンス良くは描けなかったが、もうひとつ好きだったボッティチェリなどの影響で、きりりとした線を使いながらも、少女らしいあたたかな線画をかのじょは繰り返し描いた。

芸術の発展は何から生まれてくるかわからないということだ。いつまでも、古典から学んだデッサン技術などにこだわっていると、大事な未来を見失うかもしれないよ。

レオナルドのように、人体を解剖してその構造を学び、正確に現実を映し出すということも大事だが、それにとらわれ過ぎると、表現の可能性がせばまってくる。

芸術の表現はいつも、魂がもっと自由に泳げる世界を探しているのだ。美しい空を探してみたまえ。

おもしろいものは、意外なところから生まれるかもしれないよ。




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レースを編む女性

2014-05-12 06:16:12 | 虹のコレクション・本館
No,137
ヤン・フェルメール、「レースを編む女性」、17世紀オランダ、バロック。

フェルメールは冷めた目で人間を見ている。その生涯は謎に包まれているが、生涯不遇であったことを考えると、人間に対して、あまりよい気持ちは持てなかったに違いない。

釘一本でさえゆるがせにしない完璧に近い遠近法の画面の中で、人間はまるでスツールか何かのように立っている。冷たいまなざしがそれに灯ることはあるが、暖かく見返してくれたりはしない。

モデルになった女性や男性にも、名前はない。どこかにいるだれか、興味もない見知らぬ他人だという風に、人間を描く。

こういう描き方は、印象派を経て、キュビズムやダダ、シュルレアリズムに流れていく。人間から個性を奪い、尊厳をはぎとり、物体、物質、形や概念としてとらえて描く。中にはおもしろい作品もあるが、それは芸術を腐食させてゆく原因にもなった。

わけのわからないものを描いたり作ったりして、それに抽象と名を付して、高尚なことにすればいいなどという芸術家が排出したのである。

いろんな画家がいろんな絵を描いているがね、ほとんど偽物だよ。おもしろいのはあるが、これは重要だと思うような作品にはなかなか巡り会えない。20世紀絵画はたくさんあるが、激貧の世界だともいえる。

その源流が、これだ。フェルメール。この画家は、人間を愛しつつも、痛いところで、確実に人間を拒否している。何かはわからないが、決定的に人間を信じられなくなるような、痛い経験をしたのだろう。

フェルメールが、名品としてもてはやされているということは、現代人の心にも、これと同じ心が流れているといって間違いはない。




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ヴィーナス

2014-05-11 06:06:38 | 虹のコレクション・本館
No,136
サンドロ・ボッティチェリ、「ヴィーナス」、15世紀イタリア、初期ルネサンス。

昨日と打って変わって、実に美しい女性である。長い金髪と、白い裸体を惜しげもなくさらしてくれる。女性の美しさを、惜しみなく見せてくれる。

女神と言われるゆえんだ。

ヴィーナスは、マルスやヘルメスと不倫をしたり、美少年アドニスとも恋をしたり、いろいろと奔放な恋愛伝説があるが、この絵の女神を見ると、そんな雰囲気は微塵も感じられないね。いろいろなうわさを立てられても、黙って笑っているという感じだ。男が、自分に持つ欲望をわかってくれる。そして、ある程度は、馬鹿なことを許してくれる。

闇に浮かび上がる白い裸体が美しい。これはどんなにがんばっても、コレクションから排除するわけにはいかないね。

工房作という話もあるが、ボッティチェリ本人が筆を使っていないと、これは描けない。

かのじょはこれが好きだった。これに、暗い墨のような泥の底に沈んでも、決して汚れない真珠のような、女神のイメージを重ね、それを目指して生きようとしていた。

どんなに辛くても、決して自分の美しさを、神が与えてくれた美しさを、泥に汚すことはすまい。

かのじょが目標とした女神のイメージがこれだよ。

これから、美しい女性の生き方を目指す女性は、この女神の絵のイメージを、目標とするがいい。

とんでもなく厳しいがね。




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