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世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

上部編・あとがき

2012-04-05 06:45:15 | 月の世の物語・上部編

月の世の物語・上部編は、以上12編で終わりです。お楽しみいただけたでしょうか。
何せ、想像を超えたとてつもない世界ですから、わたしも自由自在に思い切りやらせてもらいました。出てくる人はほとんど聖者ばかりと言う、とんでもないお話。
実際のところ、藍玉(アクアマリン)の地平なんて、あったらたまりませんね。想像してみましょう。地平というよりは、海だな。美しいけれど、実際、地球上ではありえません。作者はただ、楽しんで書いていました。言葉の世界で、聖者のように、自由に飛んでみたという感じです。そこのところを、おもしろく感じていただけたら、幸いです。

上部言語についてですが、これもおもしろくやらせていただきました。読む人には戸惑ったかもしれないけど、いやあ、楽しかった。「す」というだけで、全てが伝わるんです。おなじ「す」というだけでも、数十種類の発音があり、それぞれにこもる意味が微妙に違う。
上部言語は、発音そのものが大切で、とくに文法などはありません。ただ、「す」と発音するだけで、その発音の意にかかわる自分の気持ちがすべてそれにこもって、相手の心に伝わります。言ってみれば、テレパシー言語みたいなものですね。これは使いこなすのにも、大変な勉強が要ります。もちろん、段階の高い人ほど、発音力表現力ともに、巧みで豊かだ。そして、事実上、上部言語で、嘘をつくのは、不可能です。絶対に、ほんとのことしか言えません。要するに、そういうところなのですな。上部とは。

おもしろかったですか。一応、これで、月の世の物語は、完全に終わったと思うのですが、この物語は、実に、自在なことができる不思議な世界で、しかも生きているので、いつ、どこで、顔を出してくるか、わかりません。そのときはまた、別のカテゴリで、語りたいと思います。まあ一応、ルールとして、漢字一文字のタイトルがついていたら、「月の世の物語・余編」と、いうことにしといてください。書くかどうかは、未来のわたしにまかせるとして。

では、「てゅみ、るな、ちり」…ああ、楽しかったな。できることならまた、月の世の世界で思い切り遊びたいです。そのときがもしきたら、みなさんも一緒に楽しんでくだいね。読んでくださって、ありがとう。…と、わたしは、言ったのでした。



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2012-04-04 06:58:49 | 月の世の物語・上部編

ある休日のことだった。食後のお茶を飲んでいたある詩人が、突然、持っていた新聞をがさりと揺らした。

「ジュディス・エリル…、死んだのか」詩人はひとりごとのように言った。その視線の先には、一枚のモノクロの女性の写真とともに、小さな記事が書かれてあった。
「ジュディス・エリル、本名ジュディス・ピーターソン。狂乱の詩人とも呼ばれ、その女優並みの美貌と、激しく現実世界を批判する率直で魅惑的な詩の言葉は、多くの熱狂的な支持者を得たが、それと同時に巧妙陰湿なストーカーをも得た。彼女の人生は波乱の連続だった。…犯人はすぐに警察により捕まえられたが、黙秘を続けているという。夫クリストファー・ピーターソン氏は遺体にすがりつき、泣き叫んでいた。『これは嘘だ。現実なんかじゃない。こんなことがあってたまるものか。彼女が一体何をしたんだ!』…嵐のような人生を送ったひとりの詩人は、嫉妬に狂った男の、一発の銃弾によって路上に倒れた。享年…」

詩人は、深いため息とともに、言った。「四十八歳か…、まだ若すぎるじゃないか」
詩人は新聞をテーブルの上に置くと、自分の書斎にしている小さな部屋に向かい、乱雑な書棚の奥から、一冊の詩集を取り出した。「ミネルヴァの嘲笑」と題されたその詩集は、エリルの代表作であり、その詩人の生まれた国の言葉に翻訳された、ただ一冊の彼女の詩集だった。詩人はしばし、詩集をぱらぱらとめくりながら、エリルがこの世に残した詩の言葉の世界に酔った。

「…まさに、真実だ。エリル、君は本当のことを言い過ぎた。でも君のしたことは、まちがってはいない。君のような人が、必要なんだ、人間には。君となら、話があうと思っていた。本当に、生きているうちに、一度でいいから、君と話がしたかった。どんなにか、君にとって、生きることはつらいだろうと、思っていた。君みたいな人がこの世にいるんだってことが、わたしには、どんなに、嬉しかったか…」詩人は、詩集に向かって語りかけた。そしてぱたりと詩集を閉じると、顔をあげ、天に向かって祈りながら、一筋の涙を頬に流した。

部屋の片隅の、小さな机の上には、その詩人が書き散らした詩が、紙の山になって積っていた。その詩人は、エリルのように脚光を浴びてはいなかったが、何冊かの詩集を発表しており、静かな影響を一部の人々に与えてはいた。詩人はどの団体にも属せず、ひとりで活動していた。詩人は、陽だまりにいるときに感じる、金の湯を総身に浴びるような神より来る魂の歓喜を、色とりどりの珠玉のような言葉で語るのが好きだった。一部の批評家は、その詩人の詩に、あまりに素直すぎる、ここまで純粋に言葉を使うと、却って偽善に聞こえる、と批判した。詩人は、そんな一人の批評家のほんの小さな言葉にさえ、胸深く傷つき、しばし自分の詩を書けなくなったほどだった。詩人の詩の心を理解してくれる人は、本当に少なかった。たまに好意的に理解を示してくれる人も、微妙な言葉の彩の裏に、痛い毒のような嘘が隠れていた。詩人はその、むき出しの心臓のような痛い感性で、人々の嘘に敏感に気付き、それにさいなまれ、魂をいためつけられ続けた。詩人が、心より人に愛を示しても、人は決してそれを本当だとは受け取らなかった。人々は、ほとんど、愛を信じていなかった。多くの人は、表面上はいかにも美しく愛で飾りながら、本当の本当の愛は、決して信じてはいなかった。真実の愛を本当に信じていた詩人は、心を病み、病院に通い、医師に処方された薬を、毎日飲んだ。しかしその薬は、何の役にも立たなかった。この世界には、一筋の希望もないのかとさえ、思われた。孤独だった。暗闇の地上に、無理やり沈められた小さな星のように、詩人の魂はいつも、じくじくと痛み、嘘の刺に痛めつけらた傷から流れ出る血が、その胸から止まることはなかった。

その詩人にとって、ジュディス・エリルの名は、数少ない希望の一つであったのだ。遠い異国の人ではあったが、話をすれば、きっと心が通うと感じていた。同じ種族の匂いを、感じていた。本当のことしか言えぬ、あまりにも純粋な魂の持主であり、それゆえにあらゆる苦しみを浴びねばならぬ種族。そのエリルが、路上の銃殺死体となって、死んだ。なんという世界なのか、ここは。真実を語ろうとすれば、ここでは、あまりにも惨い目に会うのだ。だから、誰もが、嘘をつく。自分にも、世間にも、神にさえも、嘘をつく。それが、この世界なのだ。

詩人は、詩集を書棚に戻し、乱雑な書棚を少し整えると、ふと手を止めて、背を丸めて目を閉じ、再び、深いため息を、床の上に落とした。涙がにじむのを止めようとしたが、できなかった。半身をもがれてしまったような、冷たい喪失感が詩人を襲った。また薬を飲むか、と考えたが、そんなことをしても何にもならないと思いなおした。エリルのために、追悼の詩を書こうかとも思ったが、詩人の情感は鉛に抑えつけられているかのように動こうとせず、机に向かう気すら起らなかった。

詩人は目をあげ、窓の外を見た。庭に植えた小さな緑の木の葉が、午前中の若い日の光を浴びて風に揺れていた。詩人は、ふと、数少ない友人のひとりのことを思い出し、彼女の元を訪ねるために、外に出ようと思った。詩人は上着をとって、裏口から外に出た。

すると、不意に、その裏口の白い扉に、二つの青い瞳が、開いた。その瞳は、一、二度、小さくまばたきをしたかと思うと、するりと白い扉から抜け出し、詩人の後を風のように追い始めた。それは、金の髪の若者の姿をした、ひとりの聖者だった。聖者は杖からかすかな鈴のような清めの音を鳴らしながら、詩人の後を追った。

古い家並みの並ぶ古い町の、くねり曲がった細い道を、詩人は歩いていった。時々、町に住む近所の人とすれ違ったが、その人たちは、詩人を見ると、さっと顔の色を変えて詩人から目をそらし、あわてて通り過ぎた。詩人の胸に悲哀が流れた。詩人は、若いときから、なんとなく、気付いていた。なぜか、自分が、他人の心に触れると、その人の心が、まるで花の枯れていくように萎えていくことを。そしてそれから、その人の人生が、微妙に狂っていくことを。詩人は、まるで幻想のような思いを抱くことがあった。自分は、何かの鍵ではないのか。何か、人の魂の中に秘められた、秘密の部屋を開く、鍵のようなものではないのか。自分は、人々にとって、触れてはならない傷のようなものではないのか。忘れ去りたい思い出の影のようなものではないか。だから、自分は、人に嫌われ、顔を背けられ、さまざまな人から、批判を浴びるのではないか…。

詩人は、二十分ほど、町の中を歩き、やがて、人一人がやっと通れるほどの細い道に入っていった。その道の横には、古い時代からある、酒樽を作る小さな工場があり、その裏手の狭い空き地に、一本の細く小さな林檎の木が立っていた。なんでこんなところに、林檎の木があるのか。たぶん、誰かが、食べた林檎の芯を、ここに捨てて行ったのだろう。林檎の芯に潜んでいた、ある種が、何を思ったのか、芽生え始め、根を下ろし、この世に生れてきたのだ。何を好んで、こんな日も当たらぬところに生きることを選んだのか、それは詩人にもわからなかった。林檎が生きて行くには、その場所はあまりにも、さびしく、苦しかった。種のまま、ひとつのゴミとして土の中に死んでいった方が、幸せであったろうに。でも、彼女は、この世に生まれ、生きてゆくことを選んだのだ。

詩人は、林檎の木の前に立つと、彼女に心の中で離しかけた。
(友人をひとり、失ってしまったよ…。また、希望が一つ消えた。でも、彼女は勇気をこの世に残して行ってくれた。わたしは、まだ生きていけるようだ)
すると林檎は、かすかに枝を揺らした。林檎は、小さな花をつけていたが、滅多に実をつけることはなかった。生きることが、苦しすぎたからだった。実をつけられるほどの、光も、力も、その場所は与えてはくれなかった。それでも、時にかろうじて枝に灯る小さな実は、確かに赤く、林檎の誇りがかすかに光っていた。あまりにも小さな希望だった。ほんの小さな、自分の、証しだった。林檎よ、なぜ、ここに生きることを選んだか。それは彼女にもわからなかった。だが、ここで生きることは、確かに彼女に何かを与えていた。耐えることは苦しかったが、どんな苦労をしても、花を咲かせることは、嬉しかった。小さな自分の灯を見に、こうしてひとりの友人が時々訪ねてくれるささやかな幸せが、どんなにか自分を明るく照らしてくれるかに、彼女の魂は深く揺さぶられ、神への感謝に涙せざるを得なかった。

(ともだちはいますわ、ここにも。ほんとうに、生きるのは、苦労ですわね。でも、幸せもありますわ。あなたがいて、わたしがいて、やわらかに風が吹いて、時々、光が、ひととき、温めてくれますの。悪いことばかりではありませんのよ…)
林檎は答えたが、それは詩人の耳には、ただかすかな空気の揺らぎとしか聞こえなかった。しかし、詩人の胸に、確かに温かな光は映り込んだ。

詩人は、日陰にひっそりと咲く、小さな林檎の木に、自分の身を重ねてもいたのだろう。自分の本当の故郷は、本当はずっと遠い、はるかなところにある。詩人はいつもそう感じていた。そしてこの林檎の木の、本当の故郷も、遠いはるかなところなのだ。君も、わたしも、故郷を離れて、ひっそりと、世界の片隅で、孤独をなめて生きている。なんと、苦しいのか。でも、生きている。いや、生きて行こう。何かを、しなければならない。自分は、ここで何かをしなければならないのだ。それが何なのか、今はまだわからないのだが。

詩人は、何か辛いことや悲しいことがあると、いつもこの林檎の木のことを思い出し、ここを訪れては、林檎を相手に、沈黙の会話を交わした。決して言葉にはならないが、かすかな情感が、互いの間に流れていることを、感じていた。時には、特に用もないのに、風に吸い込まれるように、詩人が彼女の元を訪れることもあった。そんなときは、必ず、林檎が何かを詩人に与えてくれた。それははっきりと形に見えるものではなかったが、詩人の中にかすかに清らかな香りが忍びこみ、自分でさえ気づかなかった、深く、膿みかけた心の傷に、痛い薬を塗ってくれるのだ。そうして初めて、詩人は、自分の心が死にかけていたことに気づくということが、しばしばあった。

詩人は、手を伸ばし、その小さな林檎の木の、もう血の通わなくなった細い枯れ枝に触れた。この木も、多分、そう長くは生きられないことだろう。ほんのひととき、地上に灯る、命だろう。自分と、木の、どちらが先に行ってしまうかは、わからない。でもこうして、ふたりで語り合えている間は、神が与えてくれたその幸福を味わおう。この世界に、密やかにも流れている、神の愛の音楽に、二人で聞き浸ろう。詩人は林檎の木に語った。

オデュッセウス
タナトスの針の雨の降る
茨と石の荒野を 進むのよ

詩人は、エリルの詩の一節を思い出した。まさに、そのとおりだ、と詩人は心の中で言った。タナトスの雨が降っている。今も、この身に。

その詩人の様子を、金髪青眼の聖者は、ただ静かに見守っていた。悲哀を、ともに感じていた。聖者は、目を閉じ、なんということだ、とささやきながら、かすかに、苦い笑いに口を歪めた。この方は、何も知らない。この世に、自分が、どんな嵐を、起こしているのか。それが、どんなことになっているのか。人類が、あなたゆえに、どのような地獄を、これから味わわねばならないか。

聖者は、ふと、目を道の片隅にやり、そこに描いてある銀の紋章を見た。そしてそれが、怪によって少しむしばまれているのに気付いて、杖を揺らし、紋章を新しく書き直した。聖者はそうやって、詩人の周りに、ある種の特殊な結界を張っていた。詩人は、何も知らなかった。この詩人は、ある古い町の片隅に、ひっそりと住んでいるのだが、そこは本当は、全く別の世界であり、まるで地球世界とは別のところであるのだということを。この詩人だけが、地球上で、地球とは全く違う世界に住んでいながら、同時に地球上に存在しているのだということを。その違う世界からの秘密が、決して外に漏れ出さないように、結界は常に、詩人を見えない熊のように追いかけては、やわらかく包みこみ、その心臓が、地球上の凄惨な虚偽の毒薬に触れて死んでいくことから、かろうじて助けていた。

聖者は呪文をつぶやき、言語を切り替えると、ほろぉ、と上部の言葉で、ささやいた。すると、詩人も何かに感応して、ほぅ、ふっ、と言った。詩人はそれを、自分のため息だと思っていたが、実はそれは、こういう言葉であった。

「あなたは、彼方よりいらっしゃった」
「ああ、そうとも、わたしは、彼方より来た」

詩人は、林檎の前にしばし立ちつくし、沈黙の中で、愛のことばを交わしたあと、小さく林檎に頭を下げてから、その前から去って行った。林檎は、遠のいていく詩人の姿を目で追い、その背中に、透き通った光の、清らかな薄紅の翼があるのを、見た。

誰も知りはしない。きっとあの詩人でさえすらも。今は。

ここで、やらねばならぬことがある。詩人は歩きながら、心の中で、傷のように痛む常の思いを、また繰り返した。聖者がその後を、また密かに追った。

その頃、月の世の一隅の、ある小さな滝壺のほとりでは、一匹の鱒が、ついぞ泣いたこともないような女の涙を、しきりになぐさめていたという。

(完)



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2012-04-03 06:41:17 | 月の世の物語・上部編

星空であった。銀河の腕は、白い一筋の雲のように鉄紺の空を横切っていた。大地は黒曜石でできており、空よりも闇深く、暗かった。ただところどころ、アイオライトの小さな虫が、薄紫の光を放ってうごめいていた。それは一種の上昇性ウイルスであり、上部人はよく、このウイルスに感染し、自らの段階を一時少し高めるために、ここを訪れた。

今、その黒曜石の平原に、三人の上部人が現れた。一人は白い服を着ており、一人は黄色い服を、もう一人は緑の服を着ていた。三人はそれぞれに、アイオライトの虫に手を触れると、ぴりり、とそれに感染し、全身から薄紫の光を放ち始めた。
「おぅろ」と彼らはそれぞれに言った。それは「痛いが、これでひととき、段階を一つ上がり、語ることができる」という意味であった。三人は、天の銀河を見上げ、とぅるぅい、と祈りをささげると、薄紫の光を衣のように揺らしながら、それぞれ、黒曜石の平原の上に、互いに顔を向け合って座った。

「る、たた、みに、つるい、のな」と、白い服の上部人が言った。彼は、雄弁な演説をしたのであった。それに対し、黄色い服の上部人は、「い」と言い、緑の服の上部人は「ね」と言った。「い」とは、「得たり」という意味であり、「ね」とは「非なり」という意味であった。彼らの会話は、こういうことである。

「わたしは、ひとつの創造を試みてみようと思う。知っての通り、人類は地上に原子の火を焚いた。それは彼らが永遠に背負わねばならない罪だ。君たちにも分かっているように、現段階の神の御計画においても、彼らがその罪の浄化をやっていけないことはない。人類には、我々にはない新しい可能性もある。しかし、今ここで、このひとつの創造を行うことによって、多く人類を助けることができるのではないかと、わたしは考えている。つまりわたしはこのような、小さなひとつの星を、創造しようと思う」「得たり。それはいいことだ。確かに、原子の罪は重い。未来の人類は、永遠に近い長い時をかけてそれを浄化してゆく。それはできぬことではないが、その荷を少しでも軽くし、浄化の期間を短くしてやれることができるのなら、それは試みてみた方がよい」「非なり。わたしは反対だ。小さいと言えど、星を創造することは容易ではない。しかも、創造したからといって、神がそれを採用して下さるかどうかはわからない。星々の運行は神のお仕事である。君の考案する星は、確かに刺激的な影響を人類に与えるだろうが、それが神の御心にかなうものであるかどうか、わたしには判断ができない」

「つ」「をみ」「ほ、る」「もいぇ」「ね」「よな」「ふ」議論が続いたが、それは数分で終わった。結局、白い服の上部人は、星の創造を、試みてみることにし、他の二人も、それを手伝うことになった。

彼らは、薄紫の光をまといつつ、風に乗って空を飛び、鉛の光を放つ広い海に向かった。海は、たあ…、という声をあげ、レースの縁取りのように細やかな白い波で、灰色の砂の岸を静かになでていた。風にはかすかに星の匂いがした。「ふうる」と白い服の上部人が言った。「はあぅ」と緑の服の上部人が言った。黄色い服の上部人は、「る、とぅい」と言った。それは次のような意味である。

「海が泣いている。もうこれから起こることを知っているのだ」「創造の痛みを分かち合うことは、幸福だが、苦痛でもある」「そのとおり。だが、わたしたちは拒否されてはいない。神はもうご存じであろう」
青藍の空には石英のごとき白い月があった。月光は海に落ちて一筋の白い光の道を作っていた。だが海は水でできているのではなかった。それは、星々の憂いのたまった蒼い涙の海であった。ゆくあてのない悲哀の涙を、神はその清き御心によってこの海にかき集めた。それゆえに今も海は、たあ…と泣きながら、波騒ぐのである。それは、「あなたを愛している、だが」という意味であった。

白い服の上部人は、つ、と言うと、右腕を振り、手中に杖を取った。そして海風に立ち向かい、空に飛び出した。あとの二人もそれに続いた。彼らは月が海に落とす白いまっすぐな道を進み、やがてよほど沖合に出ると、突然、大きな海を割る谷間に出会った。谷間は海の巨大な亀裂であった。海は、滝のように谷を滑り、はるか下の奈落の闇に落ちていた。滝の音は、ああああ…、と聴こえた。嘆きの声であった。滝の落ちる奈落の底は、果てもない暗闇であったが、ただときどき、星から溶けた光より生まれた、小さな青い蛍が、星屑のように闇の中にうごめき揺れていた。
とぅい…、誰かが言った。ころの、もう一人が言った。とぇり、と最後のひとりが言った。
「神よ、導きを」「わたしたちは、やります。自らの意志によって」「すべては、御心のままに」と彼らは言ったのであった。

三人は海の谷風の上に立ち、杖を天に突き出すと、同じ呪文を声を合わせて歌い始めた。
「ああ、銀河をめぐる、清き水晶の笛よ。正しく我らの言を神に伝えよ。全ての愛のために我らは自らの愛を捧げる。我々は自らの創造主である。ゆえに創造する。この創造が、よきものであるために、はるかなるものよりの愛の声を請う。わが愛のために、祈りを分かつ者全てに祝福を与えたまえ。この幸福が、永久のものであることを知る者は我々のみではないことの、喜びの、なんとすばらしいことかと、我らは叫ぶ」
呪文は、こういう意味であった。その歌は、繰り返し流れてゆくに従い、光を強め、彼らを、不思議な魂の融合へ、何か、とてつもなく大きな、熱い歓喜の炉の中へと導く、強い流れの中に引き込み始めた。彼らの感じる歓喜は、瞬間、身を割るほどのものであった。彼らは、ああ、と声をあげ、胸震え、涙したが、すぐ、ぷぉう、と鳴き、自らを、歓喜に酔いしれる官能の調べからちぎり取った。

やがて、熱い呪文の唱和の中で、奈落の底から、きしるような叫びが生じた。かん、と白い服の上部人が叫んだ。それと同時に、奈落の底に光が生じた。つ、と黄色い服の上部人が続いた。するとその光が白いつぶてのように、こちらに向かって上って来始めた。「う」と緑の服の上部人が言った。するとその光は鳥のように彼らが囲む空域に現れて止まった。最初それは、姿のない光の煙のようなものであった。彼らはそれに杖を一斉に向け、また違う呪文を唱え始めた。
「よきものよ。生まれ来よ。使命を帯びし光となり、痛き灯りの悲哀を清めるために、その命を神の胸に預けんとせよ。ありしもの、あるべきもの、ありてあるもの、すべて、あなたの誕生を祝福する。あなたは愛である。ゆえに、存在する」
呪文はそういう意味であった。

三人の杖が光った。アイオライトの光の衣が、翻った。かすかに、鉄の匂いがした。光の煙は、薄紫にそまり、ぐるぐると回った。回っていくうちに、その中央から、銀のように光る、叫びによく似た風の裂け目が、次元の向こうからよじりだされた。白い服の上部人は、く、と叫び、杖をその光に向け、ほう、と声をあげて、その次元の裂け目を無理やりこじ開けた。そして一旦杖を消すと、まるで産道に手をつっこむ産婆のように、腕をその隙間に突っ込んだ。そして彼は、手の中に、必死にもがき暴れる鳥のような激しい熱の塊を捕まえ、無理やりこの世界にかき出した。彼は、い!と叫んだ。それは、「得たり!」という意味であった。

ずどん、という音がして、一筋の重い海の塊が滝に落ちた。突然、光が眩しくあたりを埋め尽くした。三人は同時に、光に全身を刺され、総身を矢で射られたような痛みに耐えねばならなかった。もちろん、耐えられぬ彼らではなかった。白い服の上部人は、ぬ、と言った。「やめよ」という意味であった。すると、光は一瞬にしておさまり、いつしか彼の手の中に、かすかに白い煙を放つ、小さな銀の星が一つ、つかまれていた。白い服の上部人の手は、次元の冷熱に焼かれて黒く焦げていた。彼は火傷にひりひりと痛む指を震えさせながら、ゆっくりと星を離した。小さな星は、三人が囲む風の空域の中に浮かび、ちらちらと虹色に光る透明な大気を身にまとい、もの言いたげな赤ん坊のように、くるくると回った。

白い服の上部人は、疲れ果てた。ずるりと足元がくずれたかと思うと、一気に奈落に落ちて行った。他の二人は、あわてて彼を追い、彼を捕まえた。生まれたばかりの星は、ただくるくると回るだけで、何も言わなかった。

んく、と白い服の上部人が悔しげにささやいた。「失敗か」という意味であった。ほかの二人は彼の体を抱き上げ、彼を滝の上まで連れ出した。星は在ったが、ただ回るだけで、何も歌わず、何もしようとはしなかった。風が沈黙した。海が苦悩した。何もかもは無駄だったかと、彼らがそう思った、そのときであった。

ふと、空の月が雲もないのに隠れ、青藍の空に透明な顔が現れた。おおう、という声が、どこからか響き渡った。くらん、と空が鳴った。白い服の上部人は、二人に体を支えられながら、目を見開いてそれを見た。ああ……

上部の空を突き抜けて、彼方より来るものがあった。それは、炎の衣をまとい、蒼い大きな風の翼を空に広げた、一人の光る天使であった。天使は雪のように白く燃える髪をなびかせ、瑠璃色の大きな瞳の中に、清らかにも熱い星の光を燃やしていた。天使はその痛いまなざしと指で、まっすぐに星を差し、「い」と言った。それは「すべてよし」という意味であった。すると星は割れるように驚き、慌てて振動を始めると、小さくも確かなリズムで歌を歌い始めた。それを見ていた、あらゆるものが、驚いた。真の天使は、まことに大きかった。三人の上部人たちも、その真の姿を見るのは初めてであった。

星は、天使の瞳に吸い込まれるように、天高くまっすぐに飛んでいき、あっという間に天使の胸に抱かれ、そのまま上部の空の彼方につれて行かれた。天使の姿は天の向こうに消え、青藍の空に月が戻ってきた。
「あい…」という声がどこからかかすかに聞こえた。それで上部人たちにはすべてがわかった。

星には、すでに神の空にその座標と軌道が準備されていた。運行もすぐに始まった。新たな音楽が世界に流れ始めた。それは三人の上部人たちの耳にも聞こえた。人類の未来の運命に、新しい色と光が混じった。それが、どういうことに導かれてゆくのかは、神のみぞ知ることであろう。やるべきことをやった彼らは、しばし静かに海風に浮かびながら、だれともなく、「い」と言った。
「終わった。これでよかったのだろう」という意味だった。白い服の上部人は涙を流した。それは星のように彼の目からすべり、海の奈落の底へ落ちて行った。

両手の黒く焼けた上部人を、他の二人の上部人が抱え、彼らは海の上を飛んで元の岸に戻ってきた。いつしか三人全員が泣いていた。「てぃと」…あれが、天使か、と誰かが言った。「くむ、ろん」…あのような人が、いるのだ。なんと、世界は、大きいのか。我々はまだ、なんと、小さいのか。

「ろぅ」白い服の上部人は、岸辺に身を横たえながら、言った。「はるかなり」と言う意味であった。薄紫の光の衣が、風に溶けて消えていった。

三人による星の創造は、こうして終わった。その星は、人類の運命に言を語りかけ、彼らの原子の罪にわずかながら善き影響を及ぼすはずであった。「とぅい」、と緑の服の上部人が言った。すべては、神の御心のままに行われた、という意味であった。



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2012-04-02 06:30:34 | 月の世の物語・上部編

果てしない藍玉の地平があった。空は薄紫であった。月は水晶に金を練り込んだ鈴でできていた。

ああ。

首府の長は、空色の髪を風になびかせ、一息の風を吐いた。悲哀の海は平らかに彼の胸の中で凪いでいた。微笑みはうっすらと唇から蘇ったが、瞳ははるか彼方を見ていた。なすべきことの多さと、はてしない道の行く手の、彼方に向かって消えていることが、一つの美しい幻となって彼の前に見えた。雲もないのに、時折、静かな雷鳴が、はるかな天の幕の向こうを、巨大な見えない鳥が渡って行くかのように、大気をくらくらと揺らした。

とぅい…、神よ、と彼はつぶやいた。今日、この日、地上であったことが、これから地球に起こすであろう運命を修正し、少しでも正しい道へと引きもどすために、多くの上部人たちを、彼は地上に放っていた。彼らは、もうすでに、様々な活動をしているはずであった。それがどれだけ、人類の未来を動かして行けるものか、今の彼には推測することもできなかった。ただ、やるべきことを、今できることを、いや、できなくてもやらなければならないことを、みな、やらねばならなかった。やらねば、ならな、かった。

今日、地上に、一つの、太陽が、落ちたのだ。人類が、太陽を、地球に落としたのだ。

ああ。

首府の長はまたため息をついた。涙が一筋流れた。涙はほとりと藍玉の地に落ち、そこに、ひとつの小さな空色の池を作った。彼は静かにそのほとりに座り込み、かすかな息を吹いて、その上に、金色の小さな睡蓮を咲かせた。睡蓮は心地よい乙女のような澄んだ声で歌い、長の悲哀に、かすかな希望の色を混ぜた。彼は睡蓮に、深い愛のまなざしを注ぐと、ゆるりと立ち上がり、また空を見た。そして、人類の運命を幻視した。血と、腐肉と、黒い臓物を突き刺した骨と、木の実のように握りつぶされた無数の眼球が、蛆と糞尿と灰のがれきに混ざってうずたかく積もり、天を突き刺すほどの巨大な山岳となって見えた。その山岳の奥では、怨呪の青い熱が氷のように熱く煮えたぎり、今にも噴き出しそうなマグマの塊となって蛇のようにうねりうごめいていた。地下を見ると、山岳の黒い根が、怪奇な迷路のように絡み合いながら、暗闇の中に果てしなく広がって伸びていた。

長は目を閉じた。すると、閉じた目の中に、今地上で起こっていることが見えた。太陽の中で、人類が燃えていた。大地が燃えていた。命が、心が、魂が、砕け散り、燃えていた。溶けるはずのない金剛石の愛が、割れるように響き、叫んでいた。太陽は地上に一筋の炎の巨大な柱となり、突き刺さっていた。そして、それを何とか清めるために、多くの聖者たちが、鳥のように群れ飛びながら巨大な紋章を書き、高い呪曲を歌いながら様々な魔法を行っていた。若者たちが多くの死者たちを導いていた。彼らには悲哀を感じることすらもうできなかった。それは、あってはならないことだった。そのあってはならないことを、人類はやった。やってしまった。それは事実だ。だからこそ、我々は、やらねばならぬ。やっていかねばならぬ。

空の向こうを、また、鳥の羽ばたく音がした。長は待った。何かが訪れてくるのを待った。そして祈った。救いたまえ。神よ、救いたまえ。なにとぞ、救いたまえ。人類を、救いたまえ。

ああ…

長は目を開き、また深い風を吐いた。涙はまた彼の目に灯った。彼は目を細め、今日、その太陽を、地上に落とした、ひとりの人類の姿を、幻視した。それは影のようにうすっぺらな、ひとひらの紙の人形だった。その人形には、灰色の石を張り付けたような小さな目が二つあった。目は落ち着きなく、何かに脅える虫のように、きょろきょろと動きながらも、何も見てはいなかった。その奥に、魂の気配はなかった。彼はもはや、生きている人間ではなかった。生きてはいたが、もう生きてはいなかった。魂が、逃げてしまったのだ。その人間であることを自ら放棄し、生きることを魂がやめてしまったのだ。もはや、彼は人間ではなかった。魂のない空っぽになった肉体を、無数の怪が操っていた。彼はもう、いなかった。どこにも、いなかった。どこに逃げたのか。それを追うことは、しようと思えばできようが、今の長にはそれをする気にはなれなかった。

誰かがいつか、彼を見つけるだろう。いや、彼自身が、見つけてもらおうと、何かに姿を変えて、誰かに呼びかけることだろう。無限の孤独の亀裂に挟まれて動けない魂を抱いて、彼は今、どこをさまよっているのか。

「ひ、とるぇ、のく」…人類よ。どこを、さまよっているのか。あまりにも深い、闇の中、おまえたちは、どこをさまよっているのか。神が、探している。おまえたちを、探している。神の目に棲む、清らかにも白い、あの鳥が、おまえたちを求めて、永遠にも似た長い時を、探し続けている…。

長は再び、地上を幻視した。人間の作った太陽が、地上を車輪のように転がっていた。人間が、町が、その炎に巻き込まれ、無残な薪となって一層太陽を燃え上がらせていた。力高い聖者たちが協力し、水晶の氷で大きな紋章をその太陽の上に描いた。するとしばし、太陽は動きを止め、少し、小さくなったかに見えた。しかし、すぐに、紋章は端から折れ始め、見る間に砂のように崩れていった。聖者たちはもう一度、紋章を描いた。しかしまた、紋章は崩れた。太陽は地上を転がり続けた。凄惨な死の黒い影を無数に吐きながら、その炎は地に深く沈みこんだ。聖者たちは、自らの段階を超え、魔法を試みた。より硬く青い水晶の複雑な紋章を描いた。もはや彼らも、息絶え絶えだった。だがあきらめなかった。紋章は、太陽を、ひきとめた。太陽は、しばしとまり、しゅ、と音をたてて、縮んだ。

「い?」…いけるか?と長は言った。紋章は何分かは、もった。だが、すぐにぐらつき、朽ちた木の倒れるように、静かに崩れて行った。太陽はまたふくらみ、地上を転がり始めた。

「ひ、どみ!」長は目を閉じ、叫んだ。…人類よ!とうとう、おまえたちが、神に見捨てられる時が、来てしまったのか!

そのときだった。空が、くらん、と鳴った。長は、はっと目をあげ、空を見た。月が振動していた。薄紫の空の幕の向こうを渡る鳥が、雷鳴のような音を鳴らしながら、ぐるぐると空をかき回し、見えない風の渦を天に起こした。そして、ひときわ高く、月の鈴がもう一度、くらん、と鳴ったかと思うと、その渦の真ん中から、小さな瑠璃の種がひとつ、落ちてきた。はるか空の彼方から放たれた瑠璃の種は、鉛直の糸をひくように藍玉の地にまっすぐに落ち、かちん、と音を立てて地に沈み込んだ。長は震えながらも目を見開き、全てを見ていた。瑠璃の種は、すぐに芽吹き、青く細いつるをどんどんと伸ばし始め、そのつるは枝分かれしながら様々な曲線や直線を複雑に交差させ、無数の不思議な図形を空間に描き、ほんの数分のうちに、藍玉の地平の上に、巨大な球形をなした瑠璃の紋章を描いた。

「ゑる!」長は叫んだ。とたんに、彼のそばに、数人の上部人たちが現れた。

「ふ」「い」「しゅ」「き」会話は数秒で済んだ。長は上部人たちに使命を言い渡した。すぐに上部人たちはそこから姿を消した。それと同時に、瑠璃の紋章もそこから消えた。

長は、地上をまた幻視した。太陽はまだ地上を転がっていた。長は息を飲んで、待った。数分の時間が、何時間にも感じられた。やっと、瑠璃の紋章が、太陽の上に落ちてきた。太陽が、止まった。瑠璃の紋章は、しばし何かを憐れむように震えたが、太陽の激しい熱の回転にも砕けることなく、氷のように静かに、太陽の中に、沈み込んでいった。すると、太陽は、まるで、肥大した心臓のように赤くなり、どくどくと、鼓動し始めた。ふしゅりと、空気のもれるような音がして、太陽が縮み始めた。それは、地に沈みゆく夕日のようにも見えた。風が吹いた。長は太陽の様子を見守り続けた。一瞬、時間が止まったかのように、太陽が凍りつき、それは風に憐れみを請うように青ざめ、くらりとゆれた。聖者たちが太陽を囲み、魔法の紋章を投げながら鎮めの呪曲を歌い続けた。そしてどれだけの時間が経ったのか、気がつくと、太陽の表面に、ところどころカビのように黒い点が現れ始めた。そして、よほど時間を待って、ようやく、太陽は冷めて黒ずみ、萎えていく毒花のように、だんだんと内部から崩れ始め、よろよろと枯れて、崩れていった。太陽は、消えた。

とぅえ!

長は震える声で叫んだ。…ありがたき、ありがたき神よ!

焼けただれた大地の上に、やがて、闇に染まる黒い雨が降り始めた。太陽が地に振りまいた毒をわずかにも清めるための、雨であった。それは、地球の骨まで届いた惨い火傷を、かすかにではあるが、癒した。怨念の熱さえも、おののくほどの、恐怖が、雨のもたらしたひとときの静寂の中に沈み、怪物のようなその恐ろしく燃える目をうっすらと開いた。聖者たちは呪曲を歌いながら、数々の紋章を雨のように地に落とし続けていた。大勢の若者たちも、呪文を歌いつつ、死者たちを癒し導き続けた。やるべきことはまだたくさんあった。だが、最もすさまじい難局は、なんとかのりこえることができた。神の救いによって。

長は目を細め、幻の向こうに見える風景にまなざしを深く投げた。大地の上を、暗黒のきつい愚臭と邪臭が、おおっていた。長い長い時間をかけてまた、これを清めねばならない。我々は、やっていかねばならない。ああ、やろうとも。人類よ。おまえたちが何者であろうとも、我々は、愛している。おまえたちを、愛している。おまえたちが、何者で、あろうとも。

月の鈴が、また、くらんと鳴った。長は、空を見上げた。空の向こうにある何者かが、月を揺らし、鈴と鳴らして、一節の曲を、長に教えた。それは新しい清めの魔法の歌だった。それを聴いた長の胸が喜びに震えた。おお、神は、見捨てない。人類を、見捨てない。決して、決して、見捨てない!

長はその、月の鳴らす歌を覚え、それを自らの杖に吸い込んだ。そして、神に深い感謝の祈りをささげると、すぐにそこから姿を消した。自らも、地球に、向かうために。

人類よ、愛している。おまえたちを。長は、聖者の姿をとり、月の世を経て、地球に向かった。青い世界が、眼下に見えてきた。人類よ、愛している。愛している。

長は、神の教えてくれた新しい浄化の歌を、杖から鳴らしながら、地球上の、黒い邪毒の闇に染まったある一点を目指し、鳥のようにまっすぐに降りて行った。

愛している。長の目は朱色に燃え、涙にぬれていた。神よ、導きたまえ。すべてを、ごらんあれ。長の体を大気の板が打った。長は呪文を高く吐き、杖をひと振りした。杖は一層高く鳴り響き、その音は何本もの牙のような水晶の青い浄化のミサイルと変わり、その闇の黒い一点に向かって、ひゅうと音を鳴らしながら落ちて行った。

水晶の光が、闇を打った。闇が、苦悶の、悲鳴をあげた。



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2012-04-01 07:31:27 | 月の世の物語・上部編

上部世界に、苦い邪の臭気を放つ、大きな暗い沼があった。そこは常に、黒い憎悪と怨念の熱に温められたぬるい泥の湯が、おおお…とうめきをあげながら、風もないのに、かすかに水面をゆらめかせていた。ときに、坊主のような灰色の大きな泡が、底の方から浮かび上がり、それは、しばし水面を漂ったかと思うと、おん、と言って、猛烈な臭気を放ち、弾け、消えた。それは、上部世界において、もっとも苦しいものを見ねばならぬところであった。ここを訪れる者はいつも、深い悲哀を、瞳に染めた。だれもが、来るたびに、「む」と言った。「もはや、これまでか」という、意味であった。だが、「ち」…いや、まだ…、と、だれかが、かすかな苦悶の声で答えるのだ。その声の主が誰であるのか、みな、知っていた。その苦しみの、どんなにつらいことか、はげしいことか、みな、知っていた。そして彼らは、そのかすかな声の主のために、何かをせずにはいられなくなり、心をかきたてられ、すぐにそこから姿を消し、聖者の姿となって、何らかの行動をとるために、上部から降りてゆくのだった。

今、ひとりの上部人が、その沼の水面上に片膝をついて座り、一つの、小さな薄紅色の炎を見つめていた。それは、一輪の、蓮の花であった。黒い腐臭を放つ汚れた沼の中で、その薄紅の蓮だけは、小さくも、清らかに、懸命に水の上に花を立てながら、かすかな歌を歌っていた。「つぁい」それを常に見ている上部人は、ため息のように言った。まだ、いける、という意味だった。まだ、助かる、という意味だった。彼は、あきらめては、いなかった。

この、黒い沼が、かつて、清らかにも青い瑪瑙の木に、無数の薄紅の蓮の花をつけた、巨大な大樹であったことは、今となっては、とても信じられないことであった。蓮は、人類の積み重ねてきた、苦くも醜い嘘を、ただ静かに見守りながら、何も言わずに見ていた。そして影から、静かな真実の石を、彼らの影に添え、彼らが、嘘の中に沈み、心凍えて死んでいくことから、助けてきた。蓮は、人類の嘘に、否と言えなかった。ただ、悲しく、目を細め、時に涙を流し、その憐れなことに、自ら苦しみながら、黙って、影から支えてゆくことしかできなかった。

「はぃ、ぬ」…なんという、忍耐の日々であろうか、蓮樹よ。蓮樹の管理人であるその上部人は、今、その大樹の中で、ただ一輪残った、蓮の花を見ながら、言った。涙をとめることは、できなかった。蓮は、今にも消えそうな蝋燭のともしびのように、かすかに風に揺れながらも、何とか耐え忍び、咲き続けた。時に、花弁がひとひら、命萎えた乙女のゆらりと倒れるように、はらりと落ちようとしたが、そのたび、蓮は、「の」…もう一度、と言って、花弁を再び立たせた。そんなことが、何度も、何度も、続いた。蓮は、咲き続けた。もう、自分の他には、蓮花はいなかったからだ。最後の蓮は、耐え続けた。耐えに、耐えに、耐え続けた。蓮樹の管理人は、涙をとめることができず、呪文で花に力を注ぎながら、神に祈り続けていた。「と、とぅい、とぅい…」…神よ、お助けを。今ひとたび、お助けを。あと、ひとたびだけ、お助けを。ああ、もうひとたび、お助けを…。

蓮は、咲き続けた。ああ!上部人が、あるとき、言った。とうとう、蓮の花弁の一枚がはらりと落ち、沼の中に、溶けていったからだ。管理人は、顔を歪め、唇を噛み、「んく」と言った。だめだったか、という意味だった。しかし、花はまだ咲いていた。花弁を一枚失いながらも、力弱くはあるが、確かに、歌を歌っていた。まだ、希望はあった。彼は、花を見つめ続けた。涙はとまらなかった。それは沼の中に落ちてゆき、一息、青い光となって沼の中に溶けて行った。それはしばし、魚のように、沼を泳ぎ、かすかな希望の光を一瞬、沼の奥に灯したかと思うと、すぐに闇に塗りこめられ、消えていった。

蓮花は、震えた。あまりにも、苦しい、と、あえいだ。管理人は、杖を揺らし、鈴のような音を鳴らすと、かすかにもささやくような、優しい声で愛の歌を歌い、花を、励まし続けた。そして、あらゆる悲哀の風から、その、ほんの小さな灯を、何とか守り続けた。今少し、今、少し、がんばってくれ…。「ふ、いゆ、まえ、とぅい」…神よ、蓮は、なんという、ことを、耐えねばならないのか。だが、花はそれでもいいという。この花は、それでも、いいという。神よ、なんという美しい花を、あなたはお創りになったのか。なんという悲しい花を、あなたは、お創りになったのか…。

管理人は、世界に、その一輪の蓮と自分以外には誰も存在しないかというように、ただただ、長い時を、蓮の前に佇み、愛の歌を歌い続けた。清らかな真実の言葉で、励まし続けた。蓮は、咲き続けた。ただ、ひとりだけで、長い長い時を、歌い続けた。そして、かすかな希望を、生み続けた。嘘を清め、人々の魂を支える希望の、ただ一つの光を、灯し続けた。それは地上世界に、確かな影響を、及ぼしていた。人々は、嘘の世界の裏に生きている、何か目に見えないものの気配が、常に自分を支え続けていることに、かすかながら、気付いていた。それが何なのかを、深く考えることは、滅多にしなかったが、彼らは、そのかすかなともしびを、心の奥で、信じ続けていた。それがこの、ただ一輪の蓮の歌であることを、人類が知るのは、はるかな、はるかな、未来のことであろう。

管理人は、愛の呪文を、やさしく歌い続けた。あなたは美しい、すばらしい、なんという清らかな希望なのかと、感嘆し続けた。花は、笑った。絶望にあえぐ、茎の痛みに耐えながら、笑った。「ぃ」…ありがとう、うれしい。と蓮は言った。そして、歌い続けた。何度も、何度も、繰り返し、かすかな声で、しかし、音韻を一つも外すことなく、確かな、正しい歌を、正しい音律で、歌い続けた。希望は、燃え続けた。

ああ! また、一枚の花弁が落ちた。管理人は目を閉じ、「ぬ」、と言った。…愚かな、なんと、愚かな。人類は、蓮の希望を、侮辱したのだ。なんと愚かな! 彼は叫びを飲み込み、こみあげる涙に言葉を震わせがらも、歌を歌い、蓮を励まし続けた。まだ、蓮は咲き続けていた。薄紅の光は、失われていなかった。

やがて、蓮は、ただ一枚の花弁を、残すのみとなった。歌は、まだ続いていた。灯は、今にも消えそうであったが、まだ、光を、残していた。その、一枚の花弁ですら、かすかな風にも、痛いといって、揺らめいた。だが、蓮は痛みに耐えた。最後の花弁を、支え続けた。「とぅい、ととぅい、とぅい…」神よ、お助けを。もうひとたび、もうひとたび、お助けを、お助けを…、管理人は祈った。そして、歌を歌い続けた。蓮は、希望を、歌い続けた。そして、光を、灯し続けた。「いゅる…」管理人は耐えられぬというように言った。いつまで、これが、続くのか、という意味だった。もはや、これまでなのか、という意味だった。

「をぅ…」かすかに、蓮が、ため息をついた。それと同時に、最後の花弁が、揺らめいた。そして、それが、力なく、黒い沼の水面に向かって、倒れようとした、そのときであった。

とん……

鋼の大地の、はるか、彼方から、清い、斉唱の歌が聞こえた。管理人は、思わずそこから立ち上がり、その歌の聞こえた方角に目を向けた。地平線の、はるか向こうに見える空を、清らかに白みがかった、薄紅の光が、照らしていた。

ゆ、という、神の声が聞こえた。「始まる」という意味であった。

管理人は、再び、蓮を見た。花弁はもうすでに落ち、小さな船のように、水面に浮かんでいた。蓮は言った。「し」…ああ、やっと、終わった…、と。

そして蓮は、沼の中に、よろよろと、溶けて、消えて行った。管理人は消えてゆく蓮の前にすがりつくようにひざまずいた。そして、涙して、言った。「ふぉう、る、もぇ」…蓮よ、あなたは、とうとう、やりとげた。耐え抜いた。なんという、つらい日々であったか。感謝する。最後まで、やりぬいてくれたことに、これ以上はないほどの感謝を、あなたに捧げる。

くぉん、という音が鳴り響き、世界に新しい風が吹くことを告げた。桜が、咲いたのだ。新しい時代が始まる。蓮樹の時代は、終わった。あの苦しくも、むなしい、虚偽の影の時代は、終わった。それはまだ、地上世界には、確かには、現れてはいないが、もう、時代は、すっかり、変わってしまったのだ。

管理人は立ち上がり、沼の中に、すっかり溶けてしまった、最後の蓮花の跡を、しばし見下ろした。彼女は、もうここにはいなかった。花の気配は、もうすっかり消えていた。あまりにも、苦しすぎたのだろう。使命が終わったと同時に、彼女は、帰って行ったのだ。彼女は、神の用意して下さった、柔らかな土のしとねの中に、たぶん、何千年もの間、小さな種となって、眠ることだろう。再び花咲く時がくることは、あるだろうが、それはよほど、未来のことであろう。彼女の疲れが癒えるまで、神は優しく、彼女を、やすらいの中に抱きしめることであろう。

ふと、風が、ひとひらの白い紋章を、彼の元に持ってきた。彼はそれを受け取り、それを読んだ。かすかに、人々の叫び声が聞こえた。
「ふ」…最初の風が吹いたか。彼は言った。桜樹システムは完成した。新しい時代の始まりとともに、地上に、ある人が、降りて行ったということが、その紋章に書いてあった。「ゆる、つ」…始まった。真実の鐘が地上に鳴り響く。しかしそれは、あらゆる嘘の沼に、大きな浄化の渦を起こすことになるだろう。

ほう…、彼はためいきとともに、周囲を見回した。美しき蓮樹のなれの果てである、黒い沼は、まだ泡を立て、臭気を放っていた。彼は目を歪めた。そして、高い声で、「ゑる!」と叫んだ。すると、それに呼応するかのように、何人かの上部人が、すぐにそこに姿を現した。

「のえ」「はり」「き、せ」「い」彼らは沼の上に顔を合わせ、しばし会話を交わした。そして、手はずを整えると、それぞれが沼の上の自分の位置に立ち、同時に、杖で沼の水面をたたき、こん、と高い音を鳴らした。すると、沼の上に、氷のように青い灯を焚く、何本かの青い欅が現れた。「ほぅ、み」誰かが言った。それを浄化せよ、という意味だった。それと同時に、欅の中に仮の魂が点った。

こん、こん、と、上部人たちは繰り返し杖で音を鳴らした。そのたびに、青い欅の木は増えていった。やがてそこに、一面を青い炎で埋め尽くされたような、静かな欅の森が現れた。沼は、欅の根元にまだあったが、かすかに変化は訪れた。欅は、沼の水を吸い上げ、それを清め始めていた。苦い時代の蓮の花の苦しみを、欅は味わった。なんと、美しい花だったのかと、欅も言った。たたえられずに、いられなかった。これを、なんと、表現するべきなのか。そのことばを、わたしはまだ、学んでいない。でも、自らに強いて言わせれば、かつてなき、かつてなき、あまりにも、すばらしい花であったとしか、言えなかった。蓮よ。感謝する。人類に代わり、あなたに、高い、感謝をささげる。欅は、言いながら、沼を、清め続けた。

やがて、空から、白い雪が、降り始めた。それを浴びて、欅は、青い炎を少しひかえ、その神の清めの中に自らを預けることにした。雪は、欅の森の中に忍び込み、その青の中に静かに染み込んでいった。雪は、氷ではなく、清らかな石英の光の粉であった。欅は、その雪の助力を受け、一層力強く、沼の水を吸い上げた。沼の水は清められ、だんだんと青くなっていった。上部人たちは、繰り返し、杖を鳴らし、歌を歌い続けた。

やがて、清めの儀式は終わった。いつしか、かつては沼であったそこに、白い石英の光と青い欅でできた、青白く燃える美しい森ができた。上部人たちは、森の隅に集まり、相談し合い、一つの魔法を、行なった。声を合わせ、呪文を、歌った。すると、森のあちこちに、薄紅の灯が、点った。それは少し、桃の実にも、似ていたが、色は、確かに、蓮の色であった。薄紅の灯は、青白い欅の森の中に、星のように灯り、あでやかにも、清らかな、幻想の図を描いた。沈黙のこもる、この浄化の森に、その幻の蓮の記憶は、おそらく、永遠に近い時を、点り続けることであろう。そして、人類がこれに気づくときまで、上部人たちは、この森と、蓮の記憶の灯を、守り続けることであろう。

沼の汚れをすっかり浄化するには、まだ時間がいるが、これですべては、終わったと同じだった。蓮樹の時代は、とうとう、終わった。

「りぃ!」ある上部人が言った。すばらしい、この上なく、美しい、と森の風景に感嘆したのだ。

彼らは神に感謝の祈りをささげた。ほう、と誰かが言って、杖を持たない方の手を舞うように揺らせ、手の中に、幻の、一輪の蓮の花を出した。蓮樹の管理人であった上部人は、それを懐かしそうに見つめ、悲しげに微笑んだ。なんという年月であったろう。苦しかったろう。蓮よ。彼は言った。「ふぃ、をみ」…眠れ。全てを忘れて、眠っておくれ。誰も、もう二度と、あなたを、苦しめはしない。

とん…と、また、遠くから、桜樹の声が聞こえた。それは、蓮への感謝の声だった。そうだ、桜もまた、耐えてゆくのだろう。そして、われわれもまた、これから、やってゆくのだろう。新しきことの、すべてを。

「ひ」人類よ、と彼は言う。「す、てぬ、ふ、くるぇ」…今は、何も知らなくてよい。蓮は何も求めはしない。だが、はるか未来、おまえたちがここに上がって来た時、この森を見て、何を、思うだろうか。かつての、苦しき闇の時代、一体誰が、自分たちを助けてくれていたのかを知って、おまえたちは、何を思うだろうか。

「ふ」と、上部人たちはいうと、管理人ひとりをそこに残して、消えて行った。管理人も、「ふ」と言って彼らに感謝し、見送った。彼はしばし、ここにとどまることにしていた。離れることは、まだできそうにも、なかった。あの、最後まで残った一輪の蓮が、忘れられなかった。

「とぅい、とぅい…」神よ、神よ、もうひとたび…、彼はささやいた。すると、森の上の空に、夢幻のように、巨大な薄紅の蓮の花が、浮かんだ。彼は、驚きとともに、それを見上げた。空の彼方から、からん、という澄んだ鈴の音が聞こえた。それとともに、かすかに、「す…」という神の声が聞こえた。蓮樹システムは、使命を完了した、という意味であった。管理人の目に、涙はまたあふれた。神はすべてをごらんになっていた。すべてを、認めて下さった。

蓮よ、おまえは、嘘に、否と言わなかった。ただそれだけで、人類を、助けた。あなたをたたえる。あなたを、この上なく、愛する。虚無の時代の希望はすべて、あなたが生んだのだ。

そして、桜樹の時代が、始まる。愛が、やってくる。水晶のように清くも硬い、真実の、愛が。人類はまだ、何も知りはしない、これから起こることを。…すべては、神の、御心のままに。

管理人は森の隅にたたずみ、ただ、蓮の幻を、それが風景の裏に隠れてゆくまで、見上げていた。



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2012-03-31 06:59:03 | 月の世の物語・上部編

「ほむ」と、白髪金眼の上部人は言った。彼は今、建設中の翡翠の大樹のそばに立っていた。大樹の周りには数十人の上部人たちがいて、それぞれに杖を揺らして、金の音をかき鳴らし、清らかな合奏をしていた。はあ…という風の精の声がそれに混じり、その合奏の音を不思議に組み立てて、細い光の柱を何本も鋼鉄の地に立てていた。その柱を基準にして、別の上部人たちが、呪文の魔法を行い、鋼の大地の奥から、緑の色をした翡翠の湯を泉のように呼びだし、それを冷やし固めては、大樹の礎を着々と創りあげていた。

白髪金眼の上部人はただ静かにその様子を見守っていた。ふぉう、と風のように彼はささやくと、視線を天にあげ、かすかに見える、神が虚空に描いた、大樹の設計図の、透明な音律で描かれた線のあまりにも繊細に複雑怪奇に交錯し、それが見事に美しい巨大な世界図の文様を描いていることを見た。彼は感嘆せざるを得なかった。これができれば、まことに、すばらしいことになる。神は、人類によって、これを行うのだ。しかし、本当にできるのか。今の人類の状況からすると、それはまるで不可能なことのようにも、思えるのだが。だが神は、実際にそれを、行うとおっしゃっている。ということは、これは、できることなのだ。しかしそのためには、我々も、相当なことを、せねばならぬ。より高い力が、必要となる。

「とるん」彼は腕を組み、考えた。桜樹のシステムは、すでに地球を動かし始めている。もはや、ほとんどの、動くべきものは、動き始めている。神の御計画は、着々と進んでいる。自分もまた、その一員として働いているが、はたして、人類はやっていくことができるのか。神はできるとおっしゃる。それは真実だが、それをすっかり信じようとすると、自分の中に、どうしてもかすかに何かが揺らぐ。現実の人類はそれほど、今、腐っているのだ。

彼は、建設中の大樹から少し離れ、その周りを少し散策した。翡翠の大樹の基部は、鋼の大地から泉のように湧きあがり、緑につやめきながら少しずつ膨らんでくる山のように見えた。ほむ、と彼はまた言い、手を顎にあてると、鋼の大地の下を見た。そしてそこに、未来を幻視した。もはやすでに、花霊の気配があった。何とも気高く、はげしく誇り高い智霊の気配がした。それは、菊花であった。この次の大樹には、菊が、真っ白な、菊が、咲くのだ。
これは、厳しすぎるのではないか、と彼は考えた。人類は、思った以上に、苦しい道を歩むことになる。それが本当に、彼らにはできるのか。

あぅ、と彼はつぶやいた。真実は深い、という意味だった。桜樹の時代を経た人類が、はたしてどのような成長を見せるのか、それは今の彼に予測することは難しかったが、とにかく前には進まねばならない。「ひ」…人類よ、と彼は言う。「こぅ、らぃ」…かつてない創造であるおまえたちが、その真の意味を知らず、今もまだ、罪の闇に己の影を焼いていることを、わたしは悲しむ。「なん」…とにかくは今、わたしはおまえたちのために、何かを求めてみよう。

彼は、つ、と言うと、そこを飛び立ち、風に乗って首府に向かった。そしてそこで、青い服を常人の服に着替え、聖者の姿をとると、杖を出し、月の世に降りて行った。そして月長石の平原に降り立つと、いつもより手順を少し飛ばした魔法で、言語を常人のものに切り替え、ふと、「む」と言った。…何を焦っている?と彼は考えた。呪文の音韻を飛ばすなど、普段の自分なら考えられないことだ。特に害はないだろうが、こんな自分らしくないことをするのは、快いことではない。これは何か、自分とは違う者が、自分に影響している。彼は考え、しばし目を閉じた。すると、魂の奥に、とん、と響く音があった。彼は目を開けた。なるほど、桜か。と彼は思った。どうやら桜樹のシステムが、何かの活動をするために、自分を選んだらしい。考えてみると、今からわたしがやろうとしていることは、いかにもわたしらしくないことだ。…が、ふむ、何か変化のあることをやることもまた、自分にとってよい学びにもなるだろう。

彼は、口の奥でかすかに呪文をつぶやき、自分を、通常の自分と、桜樹の影響下にある自分の、二枚に分けた。そして常に冷静に自分を見る本来の自分を自分の奥にしまい、桜樹の影響下にある自分を表に出して自分を行動させてみることにした。するとその自分は、ため息のように、言った。

「菊花の、大樹か…」彼の声は悲しげに青く、月長石の地をたたいた。彼は杖を振り、そこから姿を消した。そして、ある、小さな地獄の片隅に咲く、一輪の菊花の元を訪れた。

その地獄は、朽ち果てた石の神殿の遺跡の中にあり、昔、国に醜い淫らな戦争を起こし、神をたばかって間違ったことを国民に教え、多くの国民を腐乱の地獄に落とした王が、崩れ果てた神殿の真ん中に錆びた銅像となって立っていた。彼は、地の底から響いてくる国民の恨みの声を聞きながら、冷酷の風と苦い酸雨の中に永遠に近い年月を立っていなければならなかった。その銅像の背後、神殿の片隅の岩の隙間に咲いている、ほんの小さな一輪の白い菊花は、その罪びとをひそやかに、聞こえぬ声で愛し、厳しく過ちを諌めつつも、その苦悩を癒し続けていた。その一輪の菊花こそは、まことに、気高い花霊であった。踏みにじろうと思えば、いとも簡単にそれができるほどの、はかなくも、小さな、弱い姿を、彼はとっていたが、その中に、まさに鋼のように硬い意志と、水晶のように澄んだ誠と、まっすぐに自らを律する鉄の剣があることを、知る者は、月の世には誰もいなかった。

そう、菊は、彼であった。男であった。

「白菊よ」と白髪金眼の聖者は花の前に膝をつき、声をかけた。すると菊は、かすかに白い花弁を揺らし、答えた。「なんでございましょう。聖者の方」。

「尋ねたいことがある。あなたは、次の大樹のことを知っているか」
「ほう、あなたが、お聞きになりますか」と、菊は少し驚いたように答えた。「どういたしましょう、わたしは。神にお尋ねしなければ、判断致しかねまする。ほう、なぜ、あなたが、お尋ねなさる」
聖者はしばし沈黙し、杖を揺らした。すると、冷酷の風が少し弱くなり、酸雨が小止みになった。銅像が背後で少し安心したように深い息をした。だが聖者と菊の声は、銅像の彼の耳には、決して入らなかった。なぜならば、彼の耳には今、地の底から響いてくる国民の呪いの声ばかりが、泥のように詰まっていたからだ。

「菊花よ。あなたは気高い。そして、賢い。鉄のように、硬く、刃のように、厳しい。あなたは、人間を深く愛するが、その首を、打ちもする。あなたは、時に、残酷でありすぎる」
「確かに、そのとおり。わたしは、花ではありますから、人を愛しますが、人を殺すこともあります。しかしそれは、人にとって、その方がいいという場合のみです。人のように、自らの愚かな目的だけのために、殺したりなどしません。命を失うということは、人にとって、もっとも辛いもの。それを味わう方が、人にとって良いと、わたしが判断した場合、わたしは、遠慮なく、自らの刃を使います。わたしは、それが、できる、花です」

ん、と聖者は思わず、上部の言葉で言った。魔法の手順を飛ばしたせいだった。それは、まさに、という意味であった。

「人類は幼い。あなたの刃に耐えられるまでに、桜の道が、彼らを、導くことができるだろうか。桜とは、無償の愛だ。それは何も求めはしない。ただ愛のみで、愛するためにだけに、すべてを人類にささげる。人類はその愛に、驚きおののくであろうが、大いに助かるだろう。その愛を受けて、人類は試練に耐え、乗り越え、学んでゆくと、神はおっしゃる。しかしその次に、あなたが来る」
「確かに、あの方は、天女のごとく美しく、あり得ないほどに、お優しい。桜の道は、ただひたすら人類を愛し、人類を助けている。矛盾にもがき苦しむ彼らの魂に、繰り返し、愛をささやき続けている。しかし、人類には、わたしたちのような者も、必要です。桜は、全てを、愛のみを理由として愛しますが、人がそれを否と言うとき、何をするすべもありません。ただ、耐えに耐え、愛し続けることしか、できません。彼女に、唯一使える武器があるとすれば、それは、自ら退いてゆくことだけです。もちろん、彼女がその武器を使うことはないでしょうが、聖者の方、わたしは、考えます。彼らが、桜を侮辱し、それによって桜の愛を失うことが、もしあるとしたら、そのあまりの苦しさを味わうよりは、その前に、わたしのようなものが、刃をふるい、つるりと首を取ってやった方が、彼らの幸せというものではないかと。間違いを犯す者を、わたしは許しませぬ。遠慮なく、やりますとも」

聖者は、黙考した。そして清らかにも白い菊の花をじっと見つめた。この花が、大樹ともなれば、どのようなことが人類の身に起こるのか、今の彼には、それを想像することが、つらかった。だが、神の御計画にある大樹は、まことにすばらしく、美しいものだ。あれは、確かに、人類の、未来なのだ。

「聖者の方」と菊花は言った。「何もかもは、神のお決めになったことです。わたしは、ただ、その御心に従うまでです。そして神は、誰よりも、わたしがどのようのものであり、何をするものであるかを、御存じであり、決してそれを、とがめはしません。なぜなら、わたしは、常に、正しいのですから」
「まさに」聖者は言った。そして、深くため息をついた。「美しい花よ。あなたは、まことに、正しい。決して間違いはしない。人類は、あなたによって、大いに学び、やるべきことをやっていくことであろう」

聖者は杖を揺らし、ついぞ歌ったこともないような、やさしい呪文の歌を、菊花のために歌った。それはいつもの冷厳な彼の顔からは想像もできないような、美しい乙女のような声の、菊花の美と心をたたえる愛の歌であった。それは一息、風に混じり、かすかに、背後の朽ちかけた銅像の耳の、呪いの声を溶かした。

こん、と響く音があり、聖者は振り向いた。すると、銅像が、かすかに震えていた。菊花が、おや?と言った。

おお、おお、と言って、銅像が震えていた。聖者は立ち上がり、しばし背後から銅像の様子を見守った。ぎり、と音がして、銅像が、手をかすかに動かした。彼は、手をあげようとしていた。菊花は驚きの目で、それを見つめていた。

「こ、く、み、ん、よ」と、王は、言った。ああ、と彼はため息をついた。そして一息沈黙を飲んだあと、また、力をふりしぼり、かすれた声で言った。「こく、みん、よ…」。

聖者は、かすかに呪文を吐き、彼を背後から助けた。すると王の銅像は力を得て、雄々しく、右手を挙げた。そしてみずみずしくも高らかな声で、空に向かい、言った。

「国民よ。われは、あなたがたを、愛する。常に、思うている。すまなかった。愛していたのに、すまなかった。われは、永遠に、あなたたちに、仕える、となる」

菊花は、驚いていた。罪びとが、あまりに意外な成長を、突然に示したからだ。聖者は目を細め、彼の様子を、注意深く観察していた。

王の銅像はただ、手をあげ、全身をぶるぶると震えさせながら、目に見えぬ国民のために笑っていた。涙がとめどなく彼の頬を流れていることが聖者にはわかった。かろむ、と彼は上部の言葉でつぶやいた。「未知数のものがある。これは何だ。わたしは今、魔法の効力以上の変化を、この者の上に見ている」と彼は言ったのだ。

数分の静寂があった。王の銅像は、きりきりと音を立てて、足元から崩れ始め、やがて、一山の銅の砂となって消えた。するとそこには、いつしか白い服を着たひとりの男がぼんやりと立っていた。その男を、次の段階に導くために、管理人の青年が飛んできた。彼は聖者の姿を見て驚いたが、聖者が杖を揺らして、行けと言ったので、それに従い、小さく礼義をすると、黙って男を連れていった。

冷酷の風は消えた。酸雨は止んだ。青空がさえ、月は澄み、涼やかな薫風が吹いた。銅の砂は風にさらわれて消え、地獄は清められた。腐乱の地獄にいる国民たちにも、何らかの導きがあることだろう。
王が、全てを背負うと、言ったからだ。

「みごとですね!」と菊花は感嘆して言った。「あなたの愛の魔法は!」
聖者はただ、黙っていた。あの歌の魔法が、どのような変化を彼にもたらしたのか、手ごたえのある答えは彼の胸に確かにあった。だが、どうしても納得のいかない謎が残った。彼が知っている限りの、どのような紋章もはめこむことのできない、小さな空欄が見えた。

「人類よ」彼は言った。「おまえたちは、何者なのか」

菊花は、風に顔を揺らし、それに言った。「すべては、神の御心のままに。わたしは、わたしを、やります。人類は、耐えられるのでしょう。いつか、彼らの頭上に、わたしが下ろす、斧に」

「そうかもしれぬ、…いや、そうあるべきなのだろう」と聖者は言った。

彼は菊花に敬意を表し、礼を言うと、そこから去った。

「えぅ」、彼は、月の世の空を飛びながら、上部の言葉で言った。「やってみるしかない」という意味だった。そして彼は、地球に向かった。今日、あの王の中に見たひとひらの空欄が何なのか、それがどういう可能性なのかを調べるために、少し人類を試みてみようと、考えたのだ。

桜樹のシステムは、彼を用いて、確かに、人類のために何かをしようとしている。それはおそらく、桜樹の時代から菊樹の時代へ移るときに、人類を正しく導くための、何らかの布石につながることなのだ。聖者は、鏡を裏返すように、桜樹の影響下の自分を奥にしまい、代わりに本来の自分を前に出した。そして、冷静にさっきまでの出来事を思い返し、少し目を細め、ふ、と笑った。

「とぃ、み!」…菊樹の愛か。神は、すさまじいことをなさるかもしれぬ! 地球世界への門をくぐりながら、彼は冷たく言った。




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2012-03-30 06:51:41 | 月の世の物語・上部編

「そぃ」と、青髪の上部人は言った。青い髪の持主は、上部では珍しくなかったが、彼の髪は深く濃く、明るい月のもたれる宵の空の桔梗色に似ていた。

彼は鋼の大地の一隅に座り、呪文を唱えて、隣に一本の柳の木を立てた。そしてその枝に、月のように丸い銀の鏡をかけた。銀の鏡の中では、あるひとりの人類が、高い舞台に立ち、民衆に向かって、長い演説をしていた。青髪の上部人は、目をかすかに歪めつつ、じっとその様子を観察していた。

「にと」…何を見ている? 背後から声がした。振り向くと、黒い髪をしたひとりの上部人が、いつの間にか後ろに立っていた。彼は青髪の上部人の友人だった。ふたりとも、ついこの間まで地球にいて、何年かの月日を各地の地質浄化のために費やしていたのだが、このたびしばし休息を得るために、上部に戻ってきたのだった。黒髪の上部人は青髪の上部人の隣に座り、同じように銀の鏡を見た。

「よ、に」と、黒髪の上部人が言った。…ほう、選挙演説だね。大国の元首を決めるのか。「たりむ」…そう、なかなかにおもしろいぞ。嘘ばかりついている。見事なものだ。いや、嘘という言葉さえ、恥ずかしくて隠れてしまいそうだ。「いをん」…こいつは現職だね。今度の選挙に通るのは無理だろう。で、何がおもしろくて、こんなものを見ているのだ?

青髪の上部人は、苦笑しつつ、自分の額を指ではじいた。すると、銀の鏡に映る映像が変わった。鏡の中に、虹のようなとりどりの美しい色を織り込んだ夢のような絹のカーテンが現れた。カーテンの裾には、金糸を編み込んだレースの縁飾りが、細やかな花の模様を宝石細工のように並べて光っていた。黒髪の上部人が、顔を歪めた。友人が何を自分に示したいのか、すぐに気付いたからだ。そして、少し苦々しく目を細めて、隣の青髪の上部人を見た。「ゆの」と青髪の上部人は言った。…見ろ、見事だ。カーテンが翻る。すると、彼の言うとおり、銀の鏡の中でカーテンが翻った。するとその裏では、大きな鉛のロボットが、何百と群れをなし、たくさんの木の実のような赤いものをぐしゃぐしゃと踏み潰して地をのし歩いていた。踏み潰しているのは、命だった。無残な叫び声が、ロボットの足元から聞こえた。人の命がほとんどであったが、木や動物の命もあった。黒髪の上部人は苦しそうに目を背け、言った。「ふつ」…わかった。もうやめてくれ。

すると青髪の上部人はすぐに、鏡の映像を、元の選挙演説に戻した。黒髪の上部人は、はあ、と深い息をついた。「そにる、ちりね」青髪の上部人は言った。…気分を害したか?すまない。だがわたしには、少々こいつが興味深いのだ。見事だろう。彼は、まことにすばらしい歌い手だ。その言葉ときたら、本当に虹のように美しい愛を、見事に織りあげる。だが、裏では、邪魔者という邪魔者を、虫のようにつぶしている。特殊警察というものがある。権力とは毒だ。まさに、愚だ。

黒髪の上部人は困ったような顔をしながらそれに答えた。「ふる、ひぬぇ」…わかっている。これが人類の現実だ。こんなことに驚いていては、我々の仕事はつとまらぬ。しかし、君は実にきついことを言う。人類を愛してはいないのか? 
「ね、ひゅみ」…そういうわけではない。ただ、君より少し、彼らに対して抱く苦い思いが、多いだけだ。
「くゆ、ひ」…確かに。君のような人がいても、おかしくはない。それだけのことを人類はやっている。

黒髪の上部人はまた深いため息をついた。そしてまた、鏡に映る人類を見た。現職の候補は、演説を終え、大勢の民衆から喝采を浴びて、笑いながら手を振っているところだった。その笑いが、鉄でできている仮面に、ふたりには見えた。「ひ…」…これが人類か、と、黒髪の上部人が目を歪めながら、苦しそうにつぶやいた。

鏡の中の人間は、仮面に貼りつけた笑いをふりまきながら、大勢の人間と握手を交わしていた。その大勢の人間たちもまた、仮面をつけていた。嘘だった。すべては、嘘だった。何もかも、まるでおかしな芝居にすぎなかった。今も、こんなことをやっているのだ、人類は。今更驚くことではない。だが、青髪の上部人は、鋭い目で鏡を見つめると、ほぉう、と長い息を吐き、「ふぇぬ、もえ」と言った。それは、こういう意味だった。「…民主主義か。ふ、要するに、馬鹿の言うことを聞け、と言う意味だな」
それを聞いた黒髪の上部人は、思わず声をあげて笑った。「ゆぃ、るみ!」…全く、君といると、あきることがない!まさにそのとおりだ。だが自重はしたまえ。言葉が過ぎると、後に辛いことが来る。「ふ」…そんなことは、わかっている。青髪の上部人は言った。

青髪の上部人は、ふん、と息を鼻から吐くと、右手を横に振り、鏡を消した。そして、はぉう、と深い風を吐いた。彼は目を閉じ、眉に苦悶のしわを寄せながら、しばし動かなかった。悲哀の黒い幕が痛く彼の心に落ちた。黒髪の上部人は、悲しげに目を細め、彼の横顔を見つめた。同じ悲哀が、彼の胸をもふさいだ。

桜樹のシステムはもう、動き始めている。目に見えないところで、神は時代の車輪を回していらっしゃる。だが、地球に生きている人類は、まだ、何もわかってはいない。

「ちろ、ぬひ」と、黒髪の上部人が言った。すると、青髪の上部人は目を開けて、「ほろ、こり」と言った。彼らはしばし、風に静かに揺れる柳の木の下で、会話を交わした。

「人類も馬鹿ではない。あれがみな嘘だということくらい、とっくに気づいている。気づいていながら、やっているのだ。ほかに、何をやれることがあるのか、彼らはそれを知らないだけなのだ」
「ああ、確かに。今の彼らには新しい時代のページをめくることが、できない。誰かが教えてやらねば、自分が今やらねばならないことすら、わからないのだ。だから同じことばかり繰り返す」
「そう、だが、彼らは、新しいことを教えてくれる者を、ことごとく、殺してしまう。その者を妬み、憎悪をぶつけ、卑怯な方法で、いとも簡単に、殺してしまうのだ」
「愚かの極みだ。今まで、何人の希望の人がつぶされたか。人間が、魂に関する深い知識を積まないままに、すべてをまるっきり平等にしてしまったからこそ、こうなった。魂の段階の低い者ばかりが権利を振りかざし、自分より段階の高い者をことごとく妬んで殺してしまう。そのために、時代に新しい風を呼べる高い人材が、まったく地上に生きられなくなった。これが、民主主義の致命的な欠陥と言うものだ。時代を高めることのできる人間が今、地上に誰もいないのだ。時代は停滞し、だんだんと腐ってゆく。そして嘘ばかりがはびこり、嘘つきばかりが偉くなり、嘘だけで幻の世界をつくる。人類は気づいているだろう。このままでは、いつかはとんでもないことになるということに」

青髪の上部人が言うと、黒髪の上部人は、一息、沈黙を飲み、眉を歪めて、友人の顔から目をそらした。人類の未来の幻影が垣間見えた。彼の目に青い悲哀が霜のようにはりついた。

青髪の上部人は、緑の柳を見上げると、もう一度呪文を吐き、また鏡を作った。さっきの現職候補の姿が映った。夜になっていた。彼は、私邸の一室で、秘書と明日の遊説についての打ち合わせをしていた。その彼のそばに、ふと、灰色のスーツを着た体格の良い男が近づき、何事かをささやいた。現職候補はそれにうなずき、つぶやくように言った。それは、上部人たちにはこう聞こえた。
「ゴミは掃除しておけ」

すると灰色のスーツの男はうなずいて、すぐに彼のそばから離れた。上部人たちは悲しげにそれを見ていた。その意味はわかっていた。彼は、特殊警察に、一人の女を殺せと命じたのだ。その女がどういう人間なのかも、ふたりにはすぐにわかった。そして彼らが、どんな方法で彼女を殺し、それをどんな方法で秘密の中に塗り込めようとしているかということも、わかった。青髪の上部人は、く、と胸に声をつまらせ、頭を横に振った。黒髪の上部人は、氷のように青ざめ、悲しそうに鏡を見ていた。

「ちと」…もう、見るのはよそう。悲哀が増えるばかりだ。そう言うと、黒髪の上部人が右手を振り、鏡を消した。

「ぬみ」…愚かなのは、わたしの方か、と青髪の上部人は投げるように言った。「ひ、かや」…人類よ、おまえたちを全く憎むことができたら、わたしはどんなにか楽だろう。青髪の上部人が、喉をこするように言った言葉に、黒髪の上部人が答えた。「みる、えひ」…愛は、時に、苦しすぎる。我々は、愛だからこそ、苦しむ。君の苦い思いも、愛ゆえのものだ。人類を、愛することしかできないわたしたちの苦しみを、君はたぶん、わたしよりもずっと強く感じているのだろう。

青髪の上部人は目を伏せてかすかに微笑み、ただ「ふ」と言った。それには、友人への愛と感謝の意味がこもっていた。黒髪の上部人もまた、その彼の苦悩する横顔を、愛のこもった目で見つめた。柳の枝が揺れ、青い香りが沈黙の中に流れた。二人は心を共有し、黙って、空を見上げた。そこには、銀の魚の群れのような星が光っていた。美しい神の気配がした。時は静かに流れた。星の光は少しずつ彼らの悲哀を清めた。やがて、青髪の上部人は、天から胸に染みいるような愛が落ちてくるのを感じ、魂の奥に清らかにも痛い悲しみが刺さるのを感じた。彼は愛のガラスの中に深く沈みこみ、歓喜と悲哀の溶けた光の中で、あえかな卵が割れる音のように、かすかにも魂の奥からほとばしる声を出した。
「い、あめ、かり」…ああ、やらねばならない。たとえ可能性が、虚無よりも虚しくとも。愛は、やらねばならない…。

彼はもう一度呪文を唱え、鏡を出した。そして、例の現職候補を見た。彼は少し青ざめて、書斎の椅子に座っていた。何かよからぬことが起こったらしかった。「よ、ひみ」と黒髪の上部人が言った。…おや、失敗したらしいぞ。女が、どうやら、先手を打って逃げたらしい。青髪の上部人は、ほう、と言って目を見開いた。現職候補は目をあらぬ方向に向けながら、何かをぶつぶつとつぶやいていた。それは、「嘘だ、嘘だ、嘘だ…」と聞こえた。

「もく」「にれ」「じむ」…、ふたりは鏡を見ながら言った。
「マスコミだな。どこかの記者が嗅ぎつけたらしい」「おお、苦しそうだ。ばれたな、とうとう」「やれ、一気に崩れるぞ」「ああ、そう時間はかからぬ。彼は全てを失う」

青髪の上部人は額を指で弾き、鏡の映像を変えた。虹色のカーテンが無残に引きちぎれ、その後ろに、鉛のロボットが次々と倒れ、赤い炎の中にゆらゆらと燃えていくのが見えた。ほむ、青髪の上部人は目を見開いて言った。炎の上を吹く風の中に、ひとひら、桜の花びらを見つけたからだ。
とぅい…、神よ、と青髪の上部人は言った。黒髪の上部人もそれに和した。真実の時代は、もう地上に来ている。桜が、地上に何かの風を起こし始めている。

鏡の映像が、また変わった。書斎に、現職候補の姿はなかった。どこに行ったのか。ふたりはもう追わなかった。ただ、鉛のロボットを燃やしていたと同じ炎が、彼の私邸の柱の根元に、小さく灯り始めているのに気付いた。

ああ、幻が崩れる、という意味のことを、どちらかが、上部の言葉でささやいた。



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2012-03-29 07:18:26 | 月の世の物語・上部編

月は青みを帯びた蛋白石であった。空は青磁色であった。大地は黒い鋼だった。
今、その鋼の大地の上に、四角い、白と青磁色の碁盤模様の大きな薄い板が浮かんだ。それは、ひととき、ある目的のために生まれたひとつの舞台であった。数十人の上部人たちが、その舞台を囲んで、静かに様子を見守っていた。どこからか、ちりん、と言う鈴の音が聞こえた。それと同時に、白と青磁色の碁盤模様の舞台の隅に、一人の白い服を着た上部人が現れた。そして、それより二秒遅れて、その反対側の隅に、緑色の服を着た上部人が現れた。二人は、顔を見合わすと、同時にうなずき、舞台の上の、自分の定位置に、互いに向かい合いながら静かに座った。

一息の風が、はあ…、とかすかなため息を伝えてきた。静寂を少し和らげようとしたのだった。静寂に全く凍りついてしまえば、背景が、きりりと割れて壊れてしまうような気がしたからだ。空気は緊張して千切れそうな琴糸のようにはりつめていた。二人の上部人は、舞台の上で互いに鋭くまなざしを交わし合い、同時に、「ふ」と言った。「はじめる」という意味であった。石のような沈黙が、一瞬、落ちた。ほかの上部人たちは舞台を囲み、静かに見守った。

「てるに」と、白い服の上部人がきらりと言った。すると間髪いれず、緑の服の上部人が、「えぉみ」と言った。すると白い上部人が目を鋭くし、「かぉゆ」と言った。緑の服の上部人は、肩をかすかに揺らし、「るぁい」と答えた。彼らは、詩によって問答をしていた。それは、彼らにとって、剣を交えあう魂の真剣勝負のようなものだった。上部人たちはよく、こうして、真理を追うために、あるいは神よりの未来の言葉を探るために、詩の言葉を用いて対話し、戦うことがあった。彼らの交わした詩の対話は、以下のようなものである。念を押すが、最初の言を発したのは、白い服の上部人であった。

「緑の薔薇は、どこに咲く」「赤き泉の、ほとりにて」「赤き泉に、何は棲む」「青き翡翠の蛙棲む」「青き蛙は何歌う」「白き虹なす玉を吐く」「玉の言葉は何故に」「鉛の風の呼ぶ故に」「鉛の風は、何をする」「己の灰の影を拭く」「影は浄めて消ゆるのか」「消ゆるとすれば何痛む」「痛むと言うは、どの声か」「それは真珠を焼く煙」「焼いたものなら、あるものか」「消えしものなら歌はない」「歌は何を望むのか」「赤き泉の声ゆえに」「赤き泉はなぜ赤い」「緑の薔薇の見えぬ故」「緑の薔薇は、どこに咲く」「赤き泉の、ほとりにて」「赤き泉は、どこにある」「閉じし眼の、金の鳥」「鳥はいつ鳴く、いつ歌う」「神の眼の青む時」…

彼らはこうして、高い詩の言葉を、剣をあわせるように投げ合いながら、真理を追いかけ、未来を占っていた。戦いとは言うが、勝負がつくようなものではなかった。勝者も、敗者も生まれはしなかった。ただ、互いに戦ったという、喜びだけがあった。己の力を、同じ力で返してくれる相手がある、それが彼らの大きな喜びであった。彼らにとって、戦いとは、そういうものであった。
無粋なことではあるが、彼らの詩の言葉の戦いを、分かりやすく、以下に解説しておく。

「緑の薔薇はどこに咲いている。薔薇とは、真理の表現だが、それは緑ゆえに森にまぎれて、目には見えないのだ」「その薔薇は、赤い泉のほとりに咲いている。命のめぐりの源の、真の愛の泉である」「その愛の泉には、何が棲んでいる」「青い翡翠の蛙のような、愛らしい真実の心が生きている」「その心は何を語る」「とりどりの色をまといながらも、清らかに白い、素直な愛の調べを歌う」「その歌は、何のために歌われる」「鉛のように重い影を背負う者の、悲哀を、許そうとするために」「鉛のように重い影を背負う者は、何をしているのか」「自分の灰色の影を、消し去ろうと、懸命に布で影をぬぐっている」「影は、ぬぐって消えるものか」「消えるものならば、蛙の愛を呼ぶものか。影の痛みに泣くものか」「影の痛みは、何より生じた」「真珠のような愛を焼きつくし、すべてを失ってしまったのだ」「真珠の愛は消えたのか」「いや、消えはせぬ。それは決して燃えはせぬ。痛い火傷は負いつつも、真の愛は消えはせぬ」「その愛は、なぜ歌っているのか」「赤い泉の声にかきたてられ、歌わずにいられぬのだ」「泉の水はなぜ、赤いのか」「緑の薔薇の真実を、虚偽の風より守るため、真の紅を隠しているのだ。いつか真の蘇るとき、緑の薔薇にそれを塗る」「緑の薔薇は、どこに咲く」「赤き泉の、ほとりにて」「赤き泉は、どこにある」「それは人間の閉じた目の奥に棲む、愛の小鳥。それは影に眠る人間の魂の奥、真の愛の棲む、悲しくも静かな沈黙の檻」「その愛の鳥は、いつ、鳴くのか、いつ、歌うのか」「神の、清き愛の眼が、青い地球の上に、開くとき」…

ほおぉ…と、舞台を囲んでいた上部人たちから、歓喜の声がもれた。「んるぅ」と誰かが言った。「まさに、すばらしい。これは、真実だ。現実の地上世界も、まことに、そうなっていくだろう」という意味だった。誰かがそれに、「つ、ぃぬ、ろ」と答えた。「そのとおりだとも。どのように歌おうとも、我々はいつも同じ歌を歌っている。愛をたたえている。絶え間ない愛の美しい行いのすべてをたたえている。その表現の仕方は人によって皆違うものだが、そのたたえる歌の、これほど巧みなことを見るのは、実に、久しぶりだ」と彼は言ったのだ。

対話の勝負は、数分で終わった。しかしそれは、それを聞いていた上部人たちにとっても、また対話をしていた上部人たちにとっても、何時間もの時が経ったように、感じられた。それほど、深い、対話だった。彼らは互いに、深く語り合った。互いの愛に、深く入り込み、響き合い、剣のようにことばをぶつけ合い、その激しい痛みと、苦しみと同時に、己の中にみなぎる力の存在を感じる、高い喜びに、酔いしれた。これほどの力がある者がいるのだと、対話を交わした上部人たちは、互いに互いを見つめ、微笑みあい、喜びを与えあった。この戦いは、彼らにとって、存在する自分と言うものが何者であるかを知る嬉しさを味わうことのできる、幸福の一つであった。

「おり」「ちぬ」「ぃみ、と」…ふたりはしばし、舞台の中央で手を握り合い、会話を交わし、互いをたたえ合った。「すばらしかった。君の言葉はわたしの胸を激しく打った」「その言葉を、そのまま君に贈りたい。わたしも、かなり、痛かった。だが嬉しかった。君の力は、すばらしかった」「感謝する。また、戦おう。君がいることが、わたしは、嬉しい。君という人がいることを、神に、感謝する」「わたしも、ともに、感謝する」…

こうして、対話の勝負は終わった。二人の上部人たちが舞台を降りると、舞台はすぐに消えた。集まっていた上部人たちは、しばし、花が風に騒ぐように、それぞれに自分の歌を発し、そばにいる誰かを相手に小さな問答をした。愛とはなんとすばらしいものだろう。これほどたくさんのものがいながら、皆、自分たちは同じ、愛というものなのだ。それなのに、愛はみな、違う。何千、何億、何千億、数え切れないほどの、愛の美しい形がある、表現がある。創造は、無限の彼方まで広がっている。歌っても歌っても、歌はつきることがない。花が咲いて、枯れても、また咲き、歌うことが、永遠に途切れることがないように、歌は新しく生まれ続ける。新しいものは、次々と生まれ続け、無限に成長し、発展してゆく。なんという喜びか。そして時に、こうして、力の拮抗する相手とぶつかりあい、戦い交わすことは、実に、嬉しいことだ。痛くも苦しい、己の喜びの、叫びだ。

ほう、つ。やがて上部人たちは、対話の戦いの熱の名残を胸に灯しながら、それぞれ自分の持つ仕事の元へと帰るために、次々とそこから姿を消していった。今日交わされた詩の対話によって、占われた結果は、確かに、神の愛の物語からもたらされたものだろう。真実、その対話の結果の通り、やがて、地球に、神の真実の愛の眼が開き、人類が愛に目覚め、自ら歌い始めるときが、必ず、来ることだろう。その場にいた、誰もが、それを硬く信じた。そしてそのためにこそ、自分たちは、あらゆることを、やってゆくだろう。ただ、愛のために。

ああ、何もかも、美しかった。彼らは、この上ない幸福を感じて、帰って行った。

最後に、ただひとり、緑の服の上部人が、残った。彼は、自分の仕事に戻るまで、まだ少し時間があったので、今少し、対話の余韻に浸っていたかったのだ。彼は、微笑みながら、自分の右手を見た。そこに、白い服の上部人が、最初に、「てるに」と言った時、自分が受けた衝撃の跡が、青いあざとなって残っていた。あれは、痛かった。緑の薔薇とは、神が、人間のために、巧みに、嘘の彩の中に紛れ隠しておく、真実の愛の隠喩だと、彼はうけとった。それはどこにあるのか、彼は瞬時に「赤き泉のほとり」…つまりは、人間の奥にも確かにある真実の愛の中だと答えたのだが、はたして、それが的確な表現だったかどうかは、そのとき判断できなかった。だがその答えは確かに相手の胸の的を打ったようだった。快い反撃が、返ってきた。嬉しかった。

「ほむ」彼は言いつつ、青磁色の空に浮かぶ月を見上げた。そろそろ仕事に戻る時間がせまった。「りつ、ひ、よの」彼は言った。…幸福だ。ああ、人間に、この幸福を、教えてやりたい。この、真実の愛の、幸福の、どんなにかすばらしいことかを、なんとか、彼らに教えてやりたい…。

彼は、口笛を一節吹くと、そこから姿を消した。誰もいなくなったその場所に、しばし静寂が降りたが、風が、ふと、何かに感じて、震えた。見えない、何者かが、空気の向こうから、この場所を静かに見ている気配がした。それは一瞬、い、と言ったと思うと、白い月の光の中に、大きくて透明な顔をゆるりと出してきた。どうやら、上部人とは違う何者かが、ここで行われていたひととおりのことを、ずっと見ていたらしい。その透明な顔は、風にまばたきをすると、かすかに口の端をあげて微笑み、それだけで、魔法を起こした。

瞬時のうちに、鋼の黒い大地に、緑の薔薇の園ができた。苺水晶の砂利を底に敷き詰めた小川がその中にひとすじ、流れていた。その小川の源をたどると、そこには、紅玉を盛り上げたような小さな赤い泉があった。誰が魔法をしたのか。それはわからなかった。ともかくも、この美しくも不思議な奇跡を、上部人たちが見つけるのは、これから数日後のことだ。

風が驚いているうちに、透明な顔はどこかに消えていた。緑の薔薇は甘やかな香りを放った。風はやがて喜びの歌を歌い、麗しい緑の薔薇の園の上を快く流れ始めた。青磁色の空の彼方に、かすかに、鳥の羽ばたく音が、聞こえた。



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鹿

2012-03-28 06:30:08 | 月の世の物語・上部編

とぅ、おぅ…、なんということだ、神よ、なんということだ。

ひとりの若い上部人が、嘆きながら、天を見あげつつ、一筋の道を歩いていた。空は藍色だった。月は百合のように白く澄んでいた。行く手には、こんもりと青く広がる、胡桃の森があった。道は蛇が吸い込まれるように、その森に向かって細く伸びていた。上部人は、足元を少しふらつかせながら、その森の中に入っていった。とたんに、目に涙があふれ、足が萎えるように彼はそこに座り込んだ。悲哀が、重い石のように彼の胸の底に沈んでいた。それをどうにかしなければ、次の段階に踏み込めないほど、今の彼は傷ついていた。癒しを必要としていた。だから彼は、この森に来たのだ。

彼はしばし、森の隅にある一本の胡桃の木の幹にもたれ、座り込んだまま、動かなかった。頭の奥に、ほんのさっきまで見てきた地獄の風景がよみがえった。涙は止まらなかった。

夜だった。戦闘機が、蝿のように空を飛んでいた。火の雨が降った。町が、焼けていた。人々が焼けていた。魂が割れ叫んでいた。血が、ほとばしる泉のようにあちこちから噴きあがった。骨はがれきの中に砕けて散らばった。嵐のような悲哀が起こり、怨念と呪いの毒を生む苦悩が巨大な獣のように、黒くうごめき始めていた。

戦争だった。ある町を、空襲が襲ったのだった。彼は、数十人の青年と少年たちを率いて、その処理をするために、その町に向かったのだった。そして、すべての凄惨な出来事をその目で見、そこで起こったすべての暗黒の苦悩をなんとか浄化するための、最初の段階の仕事をしてきたのだった。

青年たち、少年たちは、破裂する爆音と炎の中を飛び回り、死んでゆく人々の魂を次々と導いては、彼らが怨念の黒沼に魂を沈める前に、月の世や日照界につれて行った。あまりにも悲惨な死に方をした人間の魂は、そのまま放っておいては、呪いの毒に犯され、いかにも簡単に怪に落ち、それからどんな害を世界にもたらすかわからないからだ。青年たちは、癒しと慰めと愛の歌を歌いながら、死んだ人の魂の怒りをひととき鎮め、悲哀を麻痺させると、行儀よく整列させ、死後の世界へと導いていった。若い上部人は、準聖者の姿を取り、彼らの指揮をとっていた。

戦闘機の群れが、轟音を響かせて去っていった。炎は町を焼き続けたが、一夜明けた時、それはようやくおさまりはじめた。所々で、大蛇が舌を出すように炎はひらめいたが、それもやがては風に消えた。燠火は炭になって崩れた家々の柱や鴨居の中で蛍のように静かに点滅した。生き残った人々の恨みと苦悩のうめきが風を泥のように染めた。町は焼きつくされた。残ったものはほとんどなかった。青年、少年たちは働き続け、苦悶の中に死にゆく人々の魂を導き続けた。それと同時に、愛の歌を歌い、大地の悲しみを癒そうとした。神が、上空ですべてをごらんになっていた。皆が涙を流していた。準聖者も泣いていた。

そのようにして、何日が過ぎたか。ようやく、焼け野原が落ち着きを取り戻し、生き残った人々が、心に傷を抱きながら、無理にでも自分を奮い立たせ、悲惨な現実を乗り越えようと、生きることに踏み込み始めたころ、準聖者は、青水晶の小杖を笛に変え、ひとつの長い呪曲を吹いた。美しい音律は焼け野原の上を流れる風を目に見えない青い光に染め、不思議な金の粉を町に振りまいた。少年たちが、豆真珠の粉を月光水にとかしたものを、生き残った人々の頭にすりつけていった。それは悲哀に沈む魂を少しぬくもらせる秘薬でもあった。

準聖者の吹く笛の音は、町中を、一定の法則の筋道を通って流れ、金の粉を繰り返し振りまき続けた。するといつしか、音律に青く染まった風の筋道に従って、焼け野原となった町の地の底から、青い百合の芽がちらちらと顔を出し始めた。もちろん、その百合は生きている人々の目には見えはしなかったが、百合は青い茎と葉を見る見るうちに伸ばし、一斉に白い花を咲かせ、町をまるごと囲んでしまうほどの、大きな白い紋章を大地に描いた。清らかに白い百合の花でできた、清めと鎮めの魔法の紋章であった。その紋章の効力で、凄惨な殺戮によって生じた大地の呪いと苦悩の黒い影を、何とかして清め、封じねばならなかった。そうせねば、大地の呪いは常に人々に復讐と攻撃を語りかけ、彼らの魂をもっと凄惨な殺戮の中に迷わせ、これから人々がここで生きていくことが、本当に苦しくなりすぎてしまうからだった。

紋章をすっかり描き終わると、準聖者は笛を口から離し、それを元の小杖に変え、紋章が完成したのをしっかりと目で確かめてから、深いため息を風に吐いた。これから、どういうことを、どれだけ長い間やっていかなければならないか、それが彼の心をしばし、暗くさせた。だが、やらねばならない。やらねば、ならない。そうせねば、人類の生が、地球が、とんでもないことになってしまうからだ。風が準聖者の頬を冷たく冷やし、それが涙でぬれていることを改めて教えた。彼は小杖を手に持ったまま、しばし何を考えることもできないほどの、痛い悲哀に打ちのめされた。だが、言葉と体は勝手に動いた。やらねばならない。彼は、青年、少年たちを導き、ただひたすら、惨い殺戮の後処理をやり続けた。それは、数か月ほども、かかった。

そのようにして、やっと事態が落ち着きを取り戻し始めたころ、準聖者は、あとを青年たちに任せ、ひととき、自分も安らうために、上部に戻ってきたのだった。

準聖者の姿から、元の上部人の姿に戻り、彼は自分の心を癒すために、この胡桃の森にやってきた。彼の受けた傷は、思ったよりもひどかった。あまりにも、苦しすぎた。彼は胡桃の幹にもたれながら、しばし、赤子のように泣いた。胸の奥にこもる悲哀が彼を重く苦しめた。彼は地に泣き伏し、叫んだ。「ひ、おゅ、ぬつ!」…人類よ、おまえたちは、おまえたちは、なんということを、したのか!

彼は地に伏したまま泣き続けた。すると、どこからか、ころん、という音が響いてきた。ころん、ころん、ころん…、その音はだんだんと増え、大きく響き、森を揺らし始めた。若い上部人は涙した顔をあげ、それを見た。胡桃の木に生っている無数の金の胡桃が、柔らかな光を放ちながら揺れ、鈴のような音を鳴らして、快い音楽を鳴らしているのだった。すべては、森の隅で泣いていた彼のために、胡桃の木がやっていることだった。その清らかな合奏は、彼の嘆きを優しく包み込んだ。そして、深い愛の言葉を語りかけた。若い上部人は、ふらりと立ち上がると、子供が母の姿を探して追うように、鈴の鳴る森の中を走り始めた。「あい、あい、あい」…わたしは、わたしは、ここにいる…。彼は言いながら、森の奥深くまで、走って行った。胸の中の悲哀が、走っていく彼の足に合わせて、石のように弾んだ。それは時折、彼の全身の骨に響くように痛んだが、森の深みに入って行くにつれ、少しずつ、その痛みはしずまってきた。やがて彼は、走ることに疲れ、ゆっくりと足をとめた。どこまできてしまったのかわからないほど、深く森に迷い込んでしまった。帰る道が、わからなくなった。でもそれでもよかった。森は、道は、生きているものだから、自分が求めさえすれば、いつでもそこから新しくできるものなのだ。

悲哀の石は、幾分小さくなっていた。彼は少しいつもの自分を取り戻し、静かに森を見回した。風に、胡桃の木はざわめき、彼に語りかけた。「いよ、てみ」…愛する人、悲しまないで。愛する人、苦しまないで。

上部人は、胡桃の木の枝に手をやり、その鈴の実を見上げながら、感謝した。あふぅ、と彼はつぶやくと、少し微笑みながら、ゆっくりと森の中を歩いた。ふと、どこからか、水の音が聞こえてきた。ほう、彼はつぶやきながら、その音のする方向を目指して、森を進み始めた。やがて、低く垂れさがった胡桃の木の枝の向こうに、一筋の清い川の流れが見えた。ほむ、と彼はつぶやき、胡桃の枝をくぐって、川のほとりまで来た。そして川辺に座り、その冷たい水に、手をくぐらせた。しびれるような冷気が全身をめぐり、痛くへこんだ魂の傷に、何か熱いものが塗られた。彼は神経に針がささるような痛みを一瞬感じ、ぅ、と言って、手を川の水からひっこめた。

百合の色をした白い月光が、川面を照らしていた。静かな時間が過ぎた。上部人は何も考えず、ただ微笑んで、川面にはねかえる月光に目を濡らしていた。喜びは、再び、かすかに蘇り始めていた。あい、と彼はまた言った。「ああ、わたしだ。わたしが、ここにいる」という意味だった。悲哀は消えなかったが、彼は幾分明るく微笑み、森を見あげた。そのときだった。

ふと、青い幕が、眼前に落ちた。胡桃の木の幹を、二十本も集めたほどの、太く青く長い足が一本、音を立てることもなく、目の前に静かに降りてきたのだ。上部人は、驚いて目を見張った。しん、という音がした。空気が驚いて、ガラスのように、固まった。風が、息を飲んだ。森が、凍りついたように黙り込んだ。

上部人は、おののきながらも、おそるおそる、上を見上げた。森の上高く、天に、とてつもなく大きな、青い鹿の、顔があった。鹿は、激しくも澄んだ瑠璃の瞳で、静かに、彼を見下ろしていた。その頭にある二本の角は、白い石英のように清らかに澄んで光り、優雅に曲がりながら複雑に枝分かれして伸び、そのてっぺんは月にも届きそうなほど、高かった。青い鹿は、一本の前足を、上部人の前に下ろし、ただ静かに彼を、見下ろしていた。

神であった。神が、いらっしゃったのだ。

上部人は、川のほとりに、ひれ伏した。そして「とぅい、とぅい」と繰り返した。神よ、神よ、神よ…

おお、ほおおおぅぅぅ…

神が、厳かに空に響く声で、おっしゃった。「… お こ な え …」と言う、意味だった。上部人は、あまりの驚きに、何をどう答えていいのかわからなかったが、とにかく、「とぅ、やぇ」と繰り返した。「神よ、御名に御栄あれ、御栄あれ」という意味だった。

しばし沈黙があった。空が、ざわりとゆれた、川面に、神の青い影が映っていた。上部人はただひれ伏し、息をひそめてその影を見つめていた。そのうちに、全身に満ちる熱いものを感じ始めた。魂の奥から、泉のように、歓喜があふれ出た。幸福が、鈴の割れるように、内部で叫んでいた。

神よ、神よ、神よ。なんということか。なぜいらしてくださったのか。わたしのためか。それとも、これから、わたしの、やらねばならぬことのためか。それほど、あなたは、人類を、愛していらっしゃるのか!

彼はひれ伏したまま目を閉じ、神に感謝と幸福の祈りをささげた。「ねに、に、あい、ふや」…何もない。わたしには、わたし以外の何もない。けれども、わたしは、わたしを、あなたにささげます。神よ。どのように苦しいことでも、やっていきます。神よ、わたしは、やります。道は、苦しい、そして長い。けれども、わたしは、わたしには、できます…、できますとも!

そうして、彼が、再び顔をあげたとき、彼は、一番最初にもたれかかった森の隅の胡桃の木に、まだ、もたれていた。ほぅ?彼は目を見開いて周りを見回した。夢を見たのか?しかし、胡桃の森に、かすかに青く清浄な神の香りの名残があった。天を見上げると、あの気高くも清らかに白かった巨大な枝角の気配が、月光をかすかに跳ね返して、透明な白い光の大樹の幻影を、空に描いていた。

神は、いらっしゃったのだ。確かに、いらっしゃったのだ。彼は、思った。胸が、愛に満ちていた。彼は震えながら、手に小杖を出し、それを笛に変えて、吹いた。清らかな音律が高く空に響いた。それに合わせるように、胡桃が金の鈴を鳴らした。胸の奥から次々と湧き出でてくる愛が、まだ冷たく残る悲哀を包み込んだ。彼は悲哀と喜びを同時にかみしめ、再び涙した。

風がふと、森の奥でさわりとささやいた。上部人は目を開け、笛から口を離した。「きの」…ああ、そろそろもう、地球に向かわねばならない。彼は言った。あの百合の紋章を、補修しなければならないからだ。彼は、その仕事を、これから、何百年かの間、やっていかなければならなかった。ほとんど毎日のように、紋章を補修していかねばならなかった。人間は誰も知らぬ、秘密の浄化を、ひっそりと、長い間、やっていかなければならなかった。人類が、戦争によって自ら作った暗闇の苦悩に、これ以上、落ちてゆかぬために。

上部人は立ち上がった。そして、神と胡桃の森に、深い感謝の意をささげると、呪文を唱え、すぐにそこから姿を消し、首府に向かった。悲哀は残っていた。だが、やらねばならないことは、やれる。きっとこの悲哀は、消えることはない。だが、愛は、やっていくだろう。わたしは、やっていくだろう。

「ひ」…人類よ。と、彼は言う。おまえたちのなしたことを、清めるために、どれだけの者が働いているかを、いつおまえたちが知るか、それはわたしの求めることではない。だが、わたしはやろう。神も、そしてわたしも、おまえたちを、愛しているのだから。

若い上部人は、準聖者の姿をとり、上部から月の世に降りて行った。そしてまた、地球に向かった。彼は知らなかった。胡桃の木が、彼の胸の中に、ひそやかに、自らの金の鈴を一つ、埋めてくれたことを。その鈴は、聞こえぬ金の音で常に彼の胸を清め、彼がこれから味わうであろう多々の苦悩と悲哀を軽くし、少しでも彼の魂の傷を癒そうと、長い時を、かすかにも確かに鳴り続けていくであろうことを。

愛はいつも、そうやって、ひそやかに、行なっているのだ。すべてのことを。



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2012-03-27 07:14:49 | 月の世の物語・上部編

「ふぃゆ」と、上部人はつぶやき、一息、口から風を吐いた。むん、彼は熟考した。はたしてやってみるべきかどうか。やってみても、結果は見えていることだが、あえてやってみることも、よいかもしれない。と彼は思ったが、一方で、また同じ結果を見るだけだという思いもあった。実験は、何度やっても同じだ。この幻想の魔法実験は、いつも同じ結末に落ちる。

「お、るぃ」、彼はまたつぶやいた。…しかし、真実を何度も見るのは、そう悪いことでもない。なぜこれを、度々わたしがやりたいと思うのか、そこに、何を求めているのか、本当はそれこそが、大事な問題なのかもしれない。彼はやはり、過去に何度も繰り返した実験を、もう一度、試みてみることにした。

「いゅ」彼は言うと、杖を振り、風を一息、糸のように巻き込んだ。大地は、青い鋼でできていた。空は、月のない鉄紺のはてしない虚空だった。星もなかった。暗闇の中で彼は自ら光を放ち、世界でただ一つの星のように、燃えていた。彼は杖に巻き込んだ風を、ふわりと青い玉に巻き、呪文でそれを燃やして、小さな白い月を作り、風の上に放った。小さな白い月は、鋼の大地の一隅を、青白く照らした。

その次に彼は、ある呪文と唱えた。「ないはずの大地よ、あれ」という意味の呪文だった。すると、小さな白い月の下に、透き通るはずのない黒曜石の、透き通った絹のようなひとひらの大地が、幻のように浮かんだ。それは、あるはずのないものを、あるとして仮定して、強引にこの世界に創りだしたものだった。それは存在するはずのないものだが、仮にあるものとして、一時、呪文によって、創られたのだが、本当は、創られてはいなかった。つまりは、創ったのだが、本当は創っていないのだ。あるはずのない、ものだからだ。しかし、それはあるものでなければならなかったので、仮にあるとして、そこに出現したのであった。だが、本当は、ないものなのだ。しかし、それをあるとしていなければならない、そういうものであった。だからそれは、実際に、目で見ることはできた。

上部人は、ひとひらの、ないはずの大地の上に、呪文で光の柱を立て、何本かの青い竹を創った。竹は、ないはずの大地の上に次々と現れ、いつしか青くしなやかな美しい竹の林となった。竹林は、彼が創りだしたひとときの白い月の光の下、それは美しく、清らかに、青く盛り上がった。んりぃ、と彼は言った。…おお、まさに、幻想的だ。美しい。さて、これから、何を試みてみようか。

彼はまた、杖で風を呼び、それを指でよじって、小さな光の糸を作り、呪文を吹きこんで、一匹の白いトンボを作った。そしてそのトンボを、竹林の中に放ってみた。彼はもう一度、風を呼び、またトンボを作った。またそれを竹林に放った。そうして彼は、同じような魔法を繰り返し、ほかにも、バッタや、タマムシや、透き通ったカゲロウなどを、何匹も作り、竹の森に放った。また、風に火を燃やして、黄金色の小さな花を、竹の根元に散らしたりもした。そうやって彼は、着々と、ないはずの大地の上に、美しい竹林の世界を創り上げていった。

水晶のような風が吹き、竹林を通り過ぎていった。涼やかな青い竹の香りが満ちた。やがて竹林の奥で、小鳥が歌い始めた。夜啼き鳥であった。また、影の中をすべる、瑪瑙の縞のような青いトカゲも現れた。それは黒水晶の小さな目に、月の光を宿して、竹林の影の中を、かすかな光の糸のようにもつれうごめいた。真珠を水に溶かしてその水面を切り取ったかのような、虹色につやめいた白い蛾が、花のように風に飛んだ。白い月の光は、竹林の中に透き通った布のように降り注いだ。竹林は、それはそれはみごとな、美しい世界となった。何もかもが、愛の光の元、つつましやかに命を営み、華麗にも端正な神の歌を語り始めた。

ゅる、上部人は目を細めながら言った。ほむ、と言った。彼は常に杖を揺らしながら魔法を行い、その大地の基盤を支えつつ、小さな竹林を創り続けた。竹林の中では、不思議な生と死の輪廻が繰り返され、静かな繁殖と殺戮が起こっていた。命は喜びと悲しみを味わった。それらの声は切なく、胸に響くものがあった。愛は幻想のような白い月から降り注いだ。そうして、光と影の彩なす見事な竹林の世界を、彼は魔法で織り続け、同時に大地の基盤を支え続けた。時々、魔法をする杖をもつ手に、氷のささるような痛みが走った。彼はそれに耐えて、魔法を続け、大地を支え続けた。しかし、痛みはどんどんと激しくなった。杖が、鉛のように重くなり、持っていられないほどになった。だが、彼は持てる力を振り絞ってそれを持ち上げ、骨にきしる痛みに耐えながら、魔法を行い、大地を支え続けた。竹林は在り続けた。多くの虫やトカゲや蛇や小鳥が、その中で動いていた。凄惨な死があった。幸福な誕生があった。月がすべてを許し、愛をふりまき、抱きしめた。あまりにも美しい世界だった。

上部人は、鉛よりも重くなった杖を、かろうじて両手で支え、呪文を唱えつつ、魔法で大地を支え続けた。どれほどの時間が経ったか、やがて、月が、ふと、陰った。う、と上部人は言った。月が、気付いた、という意味だった。彼は顔を歪めた。杖を持つ腕が、もう千切れそうだった。呪文を唱える声も、途切れがちになり、喉がかすれ、やがて、舌も凍りついた。彼はとうとう、ごとり、と杖を鋼の大地の上に落とした。それと同時に、あるはずのないものをあるとして仮定して創った、透き通るはずのない黒曜石の透き通った大地が、消えた。すると、あれほど、あでやかにも清らかに美しかった青い竹林の世界が、一斉に砂のように崩れ、霧のように砕け散った。そして、すべてが灰となって鋼の大地の上に流れ落ちたと思うと、一瞬、それは青白い光の炎をあげ、すぐに風に溶けて、消えてしまった。後には、何も残らなかった。ただ、小さな白い月だけが虚空に浮かび、静かに光っていた。

つぅ、と上部人は言った。やはり同じか、という意味だった。幻想の虚数魔法実験は、いつも同じ結果になる。常に、ないはずの大地をあると仮定する虚数の魔法を行っていなければ、どんな創造を行っても、すぐにすべてが無に帰する。だが、その仮定の魔法を、永遠にも似た長い時間を行っていくことは、少なくとも、自分にとっては、不可能だ。ないはずのものを、無理にあるとして行う創造は、結果的に、こうならざるを得ない。どんな大数にも、0をかければ全てが無に帰するように、大地があるはずのないものであれば、その上にある何もかもが、無いことになるのだ。

「ひ、みゅ、ぃ」彼は、無理な魔法を長い時間行って強い疲労を覚え、大地の上に腰をおろしながら言った。…一体なぜ、わたしはこうまでして、何度もこの実験を続けるのか、人類よ、おまえたちが悲しすぎるせいなのか。彼はしばし腰を鋼の大地に預け、白い月を消し、自らの光も消し、闇の中に溶けていくようにして、自分を抱えた。時々耳に忍び込む自分のため息は、まるで自分のものではないように聞こえた。悲哀は氷のように胸の中に凍えた。孤独の眠りに、彼はしばし目を閉じた。風が彼の額を、冷たく濡らした。時が過ぎた。

「くゅ」…ここにいたか。誰かの声が、上から落ちてきた。上部人が目をあげると、光をまとって、黒い髪と髭の聖者の姿をした上部人が、上空から自分のところに向かって降りてくるところだった。聖者の姿をした上部人は、鋼の大地に腰を下ろした上部人のすぐそばに降り立ち、挨拶をすると、しばし、ふたりで会話を交わした。

「るり」「てゅ、に」「ほみ」…
「交代の時間だが、疲れているか?」「いや、そうでもない。もうそんなに時間が経ったのか」「また例の実験をやっていたのか?何度やっても同じだろうに」「ああ、わかっては、いるのだが…」「君の気持が、理解できないわけではない。君にとっては、悲しすぎるのだろう、この真実が。それは、実に君らしいことだと、わたしは思う」「君の理解に感謝する。交代しよう」…

腰をおろしていた上部人は、立ち上がり、黒髭の聖者の姿をした上部人と、杖を重ね合わせた。すると、またたく間に、二人の姿が変わった。虚数実験を行っていた上部人は、飛んできた黒髭の聖者と、全く同じ黒髭の聖者の姿となり、代わりに、黒髭の聖者の姿だった上部人が、元の上部人の姿に戻った。彼らは、二人で、一人の聖者の姿を共有していた。そして、その姿で日照界に降り、若者たちの指導をするのが、今の彼らの大切な仕事のひとつであった。

「の、ゆぇ」…虚数の魔法は、体力を消耗する。本当に疲れてはいないか。無理をすることはない。引き続き、わたしがやってもいいが。「るち、る」…だいじょうぶだ。心配することはない。大事な弟子を放っておくわけにはいかない。「にに」「きと」「いふ」…

「今回は、何を創ったのだ、一体」「竹林を創ってみた。実に美しいものができた。だが、結果はいつもの通りだった」「すべて無に帰したか」「ああ、虚数の大地は、常に魔法を行って支えていないとすぐに消滅する。その上に、どんなすばらしいものを創造しても、大地を支える魔法が続かなくなると、みな塵と消える。いや、塵さえ残らない」「そう。だが、人類は、そういうことを今、実際やっているのだ」「ああ、そうだ。何万年と、同じことを繰り返している」「あるはずのない大地の上に、世界を作り続けている…」

「とぅい、とぅい、むえ、のる、ひ」黒髭の聖者の姿となった上部人が、ため息とともに、何もない鉄紺の空を見上げながら言った。…神よ、神よ、あなたは、今も、あの、重い魔法を、行い続けているのですか。人類を助けるために。虚数でできた、存在しない大地を、あるものとして支える、あの千本の指が奏でる音楽のように繊細な呪文と、長く重い忍耐の要る、恐ろしく困難な魔法を。地球と言う、壮大なる世界で。あまりにも、長い、長い時を。あなたには、それができるのだ。なんと、美しいのだろう。なんと、大きいのだろう。そしてそれは、どんなにか、悲しいことだろう…。

すると、それに答えるように、もう一人の上部人が、ある一つの詩の音韻をささやいた。「しき、いぇ」…登る者は、死ぬ。下る者は、生きる。

「しき、いぇ」黒髭の聖者の姿となった上部人もそれを繰り返した。そして悲しげに視線を大地に落とした。人類はまだ、虚数の大地の上に自ら築いた、幻の砂の山を登り続けている。その先に何があるかさえ、知らずに。あのまま登り続けていれば、いつかは、全てが無に帰する時が来る。その前に、なんとかしなければ、ならない。そう思うと、彼は、何かに焦る気持ちに、自らの魂を焼かれるような思いがしたが、深いため息でそれを吐き、平静を取り戻した。

「い」…では、行ってくる、と彼は静かに言った。もうひとりの上部人は答えた。「とる、ぃ、しゅ」…ああ、今はそうしたまえ。だが、君の思いを、神は知っている。何かのお導きがあるだろう。わたしも、君と心をともにする。きっと、そう遠くない未来、今まで君の試みてきたことのすべてを、役に立てねばならぬことを、君はせねばならぬだろう。「いむ」…ああ、ぜひ、そうであってほしい。

黒髭の聖者は、友人に別れを告げると、ふわりと大地から飛び上がった。疲れは残っていたが、仕事のためには、それを問題視することはできなかった。彼は空を飛びながら、再び言った。

「しき、いぇ」…登る者は、死ぬ。下る者は、生きる。
それは、遠いはるかな昔から、上部に伝えられてきた、神より持たされた詩のことばだった。そのことばを、聖者たちは常に、見えないところから人類に語り続けてきた。しかしその真の意を、魂の感性の中に受け取る人間は、ほとんどいなかった。そして今も、人類は登り続けている。あるはずのない、虚数の山を。

わたしも、やらねばならぬ。いつかは。この胸に焼けつく思いのすべてをぶつける、何かを。神の愛のために。そして、人類を、あの幻の虚数の山から、下ろすために。

鉄紺の空が、やがて青みを帯びてきたかと思うと、不意に空に白い月が点った。首府の光が、地平線の向こうに見えてきた。黒髭の聖者は、風に乗って首府に飛んで来ると、そこから日照界に降りていった。光に満ちる日の都が眼下に見えてきた。彼は空を下りながら呪文を唱え、言語を切り替えた。風に彼の灰色の衣服がはためき、それはかすかに、竹林の青い香りを放った。



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