世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

キラ、またはその扮装をしたエーリク

2007-06-30 06:31:18 | 画集・ウェヌスたちよ

キラは、萩尾望都の「マージナル」に出てくる主人公です。
似てない分は許してください。萩尾ファンのヒンシュクをかうことは承知で、楽しんでやってます♪ コミックイラストばかり描いてた若い頃のことなんか思い出して。

キラにしては、かげりがなさすぎるので、途中からエーリクにしました。

マージナルは、わたしの感じ方としては、萩尾が生きていた最後の作品だと思っています。それ以後、萩尾望都は、完全に死んでしまった。なぜなら、彼女の絵は美しすぎたからです。この世界は、美しすぎるものが、生きられる世界ではない。

彼女の作品の中で、もっとも美しいのは、たぶん「銀の三角」でしょうね。父親に殺され続ける美しい少年を助けるために、この世のものではない女性が、さまざまに活動している。萩尾望都は、世間にはびこる、常識を装ったあらゆる苦しい呪詛と戦いながら、いかにして自分の魂がこの世で生きるべきかに、悩み苦しみ続けていたのだと思う。

彼女の作品には、すばらしいものが多いですが、時々、ひょっと、なにこれ?というものを描くことがあります。変だな、なんでこんなの描くの?ていう、萩尾にしては駄作としかいえない、ちょっとした短編がある。それは、世間の嫉妬を交わすために、女がよく使う手なのです。あまりに目立ちすぎると、絶対に誰かが、苦しいことをしようとするから。彼女は一度、大きな賞をとったことがありますが、その受賞後第1作で、それをやりました。

わたしは、賞をとったけど、それはたいしたことじゃないのよ。まぐれなの。ひどいのも描くでしょ? て感じでね。それで、世間の(たいていは男たちの)、きつい嫉妬をかわそうとする。でもその手は、たいていの場合、うまくいかない。美しいものは、目立ちすぎるから。

才能のある娘が、この世界で、人生を本来の美しい形で全うできることは、ほとんどありません。みんなこうして、つぶされる。この世界に染みとおっている、見えるが見えない、苦しい嘘の影が、常に彼女たちにささやいている。

「おんなは、あほなことをやめろ」

それに立ち向かおうとして、殺されてきた女性たちの数は、どれだけあるか知れない。
萩尾望都はそのひとり。

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いってしまった

2007-06-29 09:57:15 | 詩集・貝の琴

おとこのこが くるしいのは
おんなのこをいじめる
じぶんが いやだから

おんなのこが くるしいのは
そんなおとこのこの
くるしみが わかってしまうから

えいえんに しらない
かべのむこうで
おとこのこは
いわに じぶんのてを くぎうつ
そらからおちる さけびが
じぶんを くだいてしまえばいい

はたけをたがやす すきを
せかいをくだく ほのおにかえて
おとこのこはいってしまった
いたたまれない 愛のぬけがらを
おんなのこのもとに のこして

くろいしんぞうを そらになげて
あれがたいようだと いいはる
まぼろしのせかいに

いってしまった

コメント (2)
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あらざらむ

2007-06-28 09:32:11 | 歌集・恋のゆくへ

 あらざらむこの世のほかのかなしみを
              露玉を割るごと狂ひたり

               ならぬとぞ言ひたりし手を古枝の
                         ごとくくだきて去り行くか君

 君何に勝たむとぞせしまぼろしの
            にくきものみなわれにありしと

              君君にあらざるものをことごとく
                          苦しめたきと笑ひ狂ひぬ


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角笛を持つアデラド・リー

2007-06-27 09:58:34 | 画集・ウェヌスたちよ

オマージュっていったら、萩尾望都先生に失礼なのかなあ。
アデラド・リーは、彼女の作品「A-A´」(エー・エーダッシュ)の主人公です。
手元に本がないので、記憶だけで描いてますから、知ってる人がみたら、ぜんぜん違うと思うことでしょう。かんべんしてくださいね。

彼女が40代から50代に描いた作品の主人公は、このアディのように、だんだん無表情に凍り付いてきます。苦しいくらい、凝り固まっていくんです。若い頃には、エーリクやドミニクなどの、活発でかわいいお茶目な主人公もいたのに。まるで何かに魂を吸い取られていくかのように、死んでゆく。

アデラド・リーは生きているが、死んでいる。なぜなら彼女はクローンだからです。オリジナルの彼女は死んでしまい、その喪失を補うためにクローンの彼女が作られた。そこから起こる葛藤のドラマを描いた作品なのですが。

きっと作者自身も、生きていながら、死んでいるという状況だったのだろうと、推測しています。自分が本当にやりたいことは、必ずつぶされる。そういう世界だったから。
コメント (3)
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美しい人

2007-06-26 09:17:17 | 画集・ウェヌスたちよ

最新作です。シンプルですが、最近はこういうのばかり描いています。なんだか、バックに何もかけない。以前は、さみしいから何か描かなきゃで、花をいっぱい描いたり、月や星を散らしたりしていたんですが。

疲労もあると思うのです。ここのところ、疲れることばかり続いている。バックにサクラをいっぱい描いた作品がありますが、今見ると、かなり抜けている。無理してたってことなんでしょう。

体力が回復してきたら、また力作が描けると思うんですが、この、ほかにまったくなくなった、自分しかいないわっていう絵もなかなかいいと思うんです。

タイトルをつけるのも苦労しました。薔薇だとかドラゴンだとか、いろいろ考えては見たんだけど、どれもあてはまらない。要するにこれは、だれでもなくなった、ただわたしはわたしだという人。

何にもない。何にもないのに、美しいのは、そこに本当の自分がいるから。
何もないのに、そこにすべてがあるから。


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巧言令色、鮮し仁

2007-06-25 07:04:12 | てんこの論語
子曰く、巧言令色、鮮し仁。(学而)

先生はおっしゃった。口だけのことば、とりつくろう態度。うわべだけの顔がうまい人間は、美しくないね。

先日の、大リーグのニュースで、イチロー選手が、桑田選手の手をとって、深々と礼をしている写真を見ました。わたしはとても感動しました。うわべだけでなくて、彼は桑田選手の姿に、本当に感動していると感じたのです。

桑田選手のがんばっている姿には、わたしも胸を打たれます。よかったなあと思います。

若い頃、世間の疎ましい人たちに、美しい将来を苦しいほど汚されてしまった。それを彼は今、必死で取り戻そうとしている。そしてそれが、ある程度成功しようとしている。あれを、彼は自力でやったのだな。そのことに、イチロー選手は、深々と礼をしたのだと思います。彼は尊敬に足る選手だと。その姿はとても美しかった。どちらも。

今も。若くて美しい才能が、健全に伸びていくのは、とても難しい世界です。少しでもよさそうな芽が生えてくれば、なになに王子だのと阿呆みたいなラベルを貼って商品化する。本人も周りも、わけのわからぬまに、得体の知れない何かにされてゆく。

若い人をちやほやして人気者にし、人生を狂わせてゆく。もうやめてくれとわたしは言いたい。あれはみんな、うそなんだよ。みんな君たちを愛していないんだよ。

この苦しい世界。でも、何とかしようと、もがきながら必死に生きている人がいる。彼らがそうです。美しい人は必ず、自らの意志で自分の人生を、なんとかしようとしている。苦しい大人たちの、うわべだけのことばや態度よりも、わたしはそんな姿に学んでほしい。

あれが本当なんだよ。

愛はいつも、ことばが少ない。見つかりにくい。それを自分で探していくのが、君たちの本当の人生なんだよ。


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菜の花

2007-06-24 06:50:37 | 画集・ウェヌスたちよ

新聞連載させていただいた、12枚の作品の中で、一番気に入っているものです。

私の絵は自己流ですが、こちらから勝手に師とあおいでいるのは、見てもわかるとおり、サンドロ・ボッティチェリです。この絵も、首の曲げ方なんか、ヴィーナスにそっくりでしょう。

ほかに、若い頃に決定的な影響を受けたのは、漫画家の萩尾望都です。高校の頃のイラストは、ほとんど彼女のコピーでしたね。「ポーの一族」や「トーマの心臓」を、何度も何度も繰り返し読みました。

現在の私の書棚には、彼女の本は「訪問者」1冊しかありません。「マージナル」までは、ほとんどすべてを買い揃えていたのですが、いつかしら、見るのが苦しくなって、見なくなってしまいました。本棚にあれほどたくさんならべていた彼女の本は、どこに行ってしまったんだろう?

彼女の作品には、親に殺される子供、というパターンがよく出てきます。「銀の三角」のパントー、「マージナル」のキラ。どちらも、無慈悲なほど冷たい親に、抹殺されている。

若い頃、彼女の作品に心引かれたのは、わたしもまた、無慈悲な親のような存在に、常に抹殺され続けていたからでした。何をしても、完璧に認めてはもらえなかった。苦しいほどに、否定された。どんなにがんばっても、ないもののように黙殺されていた。あの絶望的な孤独が、親に殺され続けるパントーやキラに投影され、響いたのだと思う。そして響きすぎて、あまりに苦しく、本を手元に置くことさえできなくなった。

本を失ってしまったのは、あれらの物語が、あまりにも苦しすぎる真実を見抜いていたからだと思う。

才能のある娘は、絶対に社会から拒否されるのだと。

現在の彼女の作品を、時々書店で手にとります。でも、見ることはできない。彼女は今、完全に壊れていると思うから。彼女は、無慈悲な親に殺されてしまったと、思うから。

娘が、その才能で、よきものになることが、この世界では絶望的にできない。やろうとすれば、おそろしいほどに壊される。

彼女はそれを、自ら今、表現している。

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君子はこれを

2007-06-23 12:10:51 | てんこの論語

子曰く、君子はこれを己に求む。小人はこれを人に求む。(衛霊公)

先生はおっしゃった。君子は何事にも、自分自身を頼りとする。小人は、他人を頼る。

世間では、何事にも「NO」という人が多くいます。何事も「いや」。あれはだめ、これはだめ。何もかも、つまらない、くだらない。そういう人が、かなりいます。そして、こんな世界など、つまらない阿呆ばかりだからって、何もしない。

やってなんになるの? 努力してなんになるの? 馬鹿じゃないの? 

上段に構えて、世間を斜めにしてみている人は、世間を馬鹿にしないと、自分をいいものにすることができないからです。努力していないから、やるべきことをやっていないから、何もない。だから、他人を馬鹿にして、自信を失わせ、他人にやらせようとする。

そういう構造が、この世界にはできています。人間などみんな阿呆だよ、くずだよ、何にもならないんだよと言って、自分を見失わせ、だからおれの言うことをききなと、巧みなレトリックで言いふくめる。そして人は、世間体とか常識とか流行とか、なんだか正体のよくわからないものに、いつの間にか、何かをやらされてしまうのです。今は、それが当たり前の世界になっている。

みなが、人を食い、人の価値を奪い、どうにもならぬ阿呆にして、自分の道具にしようとする。そして、支配できる人間の数が多いほど、えらい人間になれるというわけです。
要するに、人を阿呆にしなければ、何もないからなのです。そうでなければ、えらくなれない。それはなぜか、自分など何もならないと思っているからです。こんなものは阿呆だから、他人の力を利用するしかないと思っているのです。

だけど本当は、人間は、なんだってできるものなのです。当たり前に自分にできること、それができる。それがすばらしいことだと、わかっていないだけなのです。

一匹の蟻が、一粒の砂を運ぶ。運べるだけの砂を運ぶ。それだけで、大木のような蟻塚ができることがある。それは、一粒の砂を運べる蟻がいるからです。それがすばらしい。

ほんとうにすばらしいことができる君子は、一回に自分に運べるだけの土を運び、ただそれを続けているだけなのです。


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あごかれの火

2007-06-22 11:39:58 | 詩集・貝の琴

燃やしてははならぬものを燃やし
あこがれの火を焚いた
くべこんだわらの中に
真珠の声をひそめた

だれにも言ってはならぬ
だれにも言ってはならぬ
炎に照らされて明々とうかぶ
その者の顔の中で
うずく傷が虫のようにうごめく

それはすべて
あってはならなかった
あってはならなかった
神の真珠を
薪だとうそをついて燃やした
その煙の中に
世界を巻き込んだ

おれはやってはいない
からっぽの乳母車を押しながら
さまよう女を追いかけて
薄闇の中を見失う

あ い し て い る

いかないでくれ

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やんぬるかな

2007-06-21 08:59:48 | てんこの論語

子曰く、やんぬるかな、われいまだよくその過ちを見て、内に自ら訟むる者を見ず。(公冶長)

先生はおっしゃった。なげかわしいことだ。わたしはいまだに、自らの過ちを見て、それが自分の責任だと考えるものを見たことがない。

人間は、失敗をするものです。生きとし生けるものの中で、まったく失敗をしないものなど存在しない。失敗をしないように見えているものは、ただ、失敗を失敗と認めて改め、そこを改善して次をやっていくから、結局は失敗しないというだけなのです。

ああ、失敗してしまった。おれはつまらんやつだと、そこですべてをやめてしまえば、それは失敗になって終わる。それは本当に愚かなことだ。その失敗を見つめていけば、苦しいことがわかる。自分のしらなかった真実が、そこに隠れている。そこを見つければ、すばらしいことができるようになるんだ。

だから、本当にすばらしい人ほど、よく失敗をしています。苦しいほどこっけいな失敗もします。あたーっ、やっちゃったよ。おれはこれだからな、なんてことを、たくさんやっています。けれどそれでは終わらない。失敗したのは、ここが悪かったのだから、今度はこうしてみようと、改め変えて、もう一度やってみる。すると、前回よりはよい結果が出てくる。そこを元に、今度はもっと違う試みをしてみる。そうして、人は、かなりすごいことができるようになるのです。

だから、失敗をそのまま失敗にして放っておくのは、とても愚かなことなのです。

しかし多くの人は、失敗をしてしまったということ自体が苦しく、それは自分が愚かな阿呆だからだと思い込んでしまい、自分を信じなくなり、何もしなくなってしまう。それですべてが苦しくなってしまうのです。

聖徳太子だとか、諸葛孔明だとか、後世の人にまったく完璧な人である、欠点など何もないと伝えられている人がいますが、それはほとんどが嘘だと言っていいでしょう。失敗をしない人間など存在しないのですから。これらの理想的君子は、失敗をしてしまった人間が、完璧になりたい、そうすれば自分の失敗で苦しまなくてすむという理由で作り出してしまった、幻だといえます。本当に本当の自分という真実の場所からたってみてみれば、これらの理想的君子は苦しい嘘だとわかってしまう。あるわけがない嘘をついているからです。

孔子ですら失敗をしています。そして孔子は、常に改善すべく、死ぬまで行動している。改め変え、改め変え、常によきものを目指して、何かをやり続けている。それが人間としての本当の姿でしょう。

不完全だからこそ、人は行動する。やり続ける。完璧なものには、もう何もする必要がない。努力する必要もない。それは虚無以外の何者でもない。

わたしたちは、常に不完全だからこそ、常に創造を続ける。失敗をし続ける。そういうものです。


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