この黄水仙は、数年前にかのじょの家の庭に自然に生えてきたものである。種を植えた覚えもないし、近くに似たような花も咲いていないのに、いつの間にか生えてきて、かのじょの家の庭の一員になったのだ。
この花が咲き始めた頃は、かのじょはとても苦しい目に会っていた。裏側からの霊的攻撃に苦しんで、毎日地獄のような日々を耐えていた。そんな日々に来てくれた花を、かのじょは自分を慰めにきてくれたのだと言って、小さな喜びにしていた。
美しい黄水仙はかのじょを苦しみの日々を助けてくれた。
今年もこの花は咲いてくれたが、わたしは花を見ているうちに、奇妙なことに気がついた。
前にも、この花に会ったことがあるというような記憶が、かのじょの記憶倉庫から出て来たのだ。かのじょがこの人生で経験したことは、わたしも共有しているので、何となくそういうことがわかるのだ。
多分、子供の頃だろう。かのじょの子供時代は非常に苦しいものだった。その頃に、この黄水仙の魂の匂いがともにあったという感じが、かのじょの経験倉庫にあるのだ。つらい時に、つらすぎることにならないように、心を支えていてくれた何かがいて、その何かの匂いが、この黄水仙と同じなのだ。
一応かのじょの前世も調べてみた。そのときのかのじょは男だったが、確かに、あの水仙の魂の香りが、彼の周りにあった。この水仙は、だいぶ前から、かのじょを追いかけている。そしてかのじょの苦しい時を助けてくれている。
植物が、自分の咲く場所を変えてまで、特定の存在を追いかけるなどという話は、わたしも聞いたことがない。植物はそんなことは決してやらない。花も木も自分の生きている場所を中心に活動をするのが普通だ。
いつから、どのようにしてそういうことになったのか、そんなことはわからない。聞いても花は何も語らない。ただわかるのは、この黄水仙は、特別にかのじょを愛してくれているのだということだけだ。
地球に生きている花の中で、追って来てくれてまで愛してくれる花などほかにいない。あまりにも特別な愛だ。こんなことをするのはこの水仙だけだろう。写真を写しても、あまり多くを語ってはくれない。自分がかのじょを愛して見えないところから助けて来たことを、恥ずかしがってでもいるように、うつむいて何も語らない。
あまりにも深すぎる愛は、自らを恥じるように下を向くのだ。愛しすぎることが、相手を苦しめないように、だれにも知られないように、ひっそりと影から愛するものを助けてゆくのだ。
来年、この花が庭に咲いてくれるかどうかは、わからない。愛に気づいてしまわれたら、この水仙はそれを恥じて消えて行くかもしれない。
地球上の愛には、こんな愛もあるのだ。わたしが気がつかなければ、きっと永遠にだれにも知られることなどなかったろう。もうかのじょとこの花が会うことは二度とない。だから、誰かがわたしに教えたのだろう。
この美しい水仙に、追い水仙という名を、わたしはつけたいと思う。そしてかのじょの思い出の中の、ひとつの宝としたいと思う。