世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

位なきを患えずして

2007-08-31 07:39:46 | てんこの論語

子曰く、位なきを患えずして、立つゆえんを患えよ。己を知らるるなきを患えずして、知らるべきをなさんことを求めよ。(里仁)
(しいわく、くらいなきをうれえずして、たつゆえんをうれえよ。おのれをしらるるなきをうれえずして、しらるべきをなさんことをもとめよ。)

訳)○先生はおっしゃった。偉い人になれないと嘆くのではなく、どうしてそうなれないのかを嘆きなさい。人に認められないと嘆くまえに、認められるにはどんな仕事をすればいいのかと考えなさい。

孔子のことばはいつも、まっすぐで、嘘がなくて、好きです。要するに、昔から、立派な人になりたいという人間はいっぱいいたんでしょう。どうしておれは偉くなれないんでしょう、なんてことをたずねてくる若者が絶えなかったのでしょうね。

孔子は嘘は言わない。偉くなれないのは、まだ修行が足りないからなんだよ、と本当のことを言います。けれども人間は、あまり努力をしたがらない。苦しいことはやりたがらない。なんとかして、楽にステータスを得られないかと考えて、何かとずるいこともやってしまいます。うそをついてでも、えらくなりたいなって考える人は、昔も今もたくさんいるようです。

偉い人っていうのは、何でも人にやらせることができて、自分では何もしなくていい人のことだと、多くの人は考えているようですが、ほんとは違います。偉い人は、人の三倍もいろいろなことをやる人のこと。普段は胸をそらしてえらそうなことを言っている人に限って、いざというときには何もやらない。何もできない。

ほんとうに偉い人は、あまり人の気づかない、何気ないところにいて、毎日こつこつと、何気ない、だけど大切なことを、きちんとやっている人です。そしてそういう人は、そんなに認めてもらいたいとは考えてはいません。うそみたいな立派な人になりたいとは、考えません。だってそんなものは、自分には考えられないと感じるものだからです。

ほんとうに偉い人は、立派なことを、自然に、毎日のように、喜んでやって、あんまりには、人には言わないものですよ。だって、みんな同じですから。みんな、何気なく大切なことをやって、それで、みんなが幸せになれるってものですから。自分だけが立派ではないと、立派な人はちゃんとわかっているものですから。だから、ほんとに立派な人は、もったいぶったり、おれはえらいんだぞ、なんてポーズをとることができないんです。みんな立派だと考えているからです。

自分だけでは、生きていけないんだと、ちゃんと知ってる人は、みんなを大切にするために、きちんと自分の仕事をしています。わかる人にだけ、わかってもらえればいいと考えます。それが幸せだからです。

そういう人が、立派な人だと、わたしは考えます。



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仁に里るを

2007-08-30 08:57:35 | てんこの論語

子曰く、仁に里るを美とす。択びて仁に処らずんば、いずくんぞ知たるを得ん。(里仁)
(しいわく、じんにおるをびとす。えらびてじんにおらずんば、いずくんぞちたるをえん)

訳)○先生はおっしゃった。愛の中に自分のすべてを浸す。それはすばらしく美しく、幸福だ。なぜみな、これをやらないのか。きっとなにもしらないのだろう。

昨日は、少し悲しいことがあって、更新ができませんでした。それはわたしにはとてもショックなことで、心の中を整理して、立て直すに、少し手間がかかりました。

時々、人はなぜ、愛でないことを、そこまで軽い気持ちでやってしまうのか、と考えます。最近、そのように、平気で人を傷つけたり、辱めたりする人と出会うという経験を、よく味わうからです。それをすれば、ある人が苦しむ、とても傷つく、ということを、わかった上で、それをしたいと考えてやる。そういう人が、たくさんいるのだということに、わたしは今、ひどく疲れて、消沈しています。

なぜそんなことをするのか。人を傷つければ、自分も傷つくのです。自分はそれをした人間なのだという重い影を負うからです。その影は人間にある種の匂いをしみつけ、人間に備わっていた美しさを完全に痛めつけます。自分の奥の、もっとも大切な部分が、空蝉のように空っぽになり、苦しい形にゆがむのです。

人が悪いことをするのは、たいてい、自分がいやだからです。自分がひどく小さく、愚かで、惨めに思えるからです。だから、自分以外の人間を、自分ではないという理由だけで憎む。すべての人間が、自分より美しく、賢く見えるからです。自分だけが、あまりにも、苦しく、つまらないものに思えるからです。

自分より美しいものがにくい。殺したい。つぶしたい。そんなものはいやだ。すべていやだ。なぜならわたしは、自分のこのすべての存在が痛いから。つらいから。にくいから。わたしはわたしであることが、いやなのだ。

自分という存在を憎むとき、その人は常に苦しみの中にいます。自分存在そのものが激痛になります。そして、自分以外のすべての人を憎み、苦しめ、殺そうとさえするようになるのです。そうすれば、自分が、ほかの人より強く、えらくなれると思うのです。

しかし、本来、自分というものは、すばらしく、美しいものです。なぜなら、自分は、自ら、愛することができるからです。それをするということを、自ら選ぶことができるからです。そして、愛を選び、その中にすべてを預け、生きるとき、それがどんなに幸福であるかを知ります。自分は、これができるものなのだということをしるとき、なんて幸せなのだと思います。自分は、自分なのだ。わたしは愛し、そのためにすべてをやることができる、というものなのだ。わたしは、わたしなのだ。わたしは、ここに、たしかにいる。それがわかるとき、自分存在すべてが、幸福になる。

愛の中にいない人は、これを知らないのです。わからないのです。だから、すべての愛が理解できない。だから、あらゆる手を使って愛を攻撃する。そして、際限なく、苦しい虚無のわなにはまりこんでゆく。何もない苦しみだけの、永遠の時間の檻に、自らむかってゆくのです。

平気で、軽々と、人を傷つける人は、愛を知らないのです。自分が、愛であるということが、まるでわからなくなっているのです。

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ホソヒラタアブ

2007-08-28 14:35:42 | 生命


一応、ホソヒラタアブ、としますが、図鑑を見てると、どうも違うみたいです。ネットで調べても、よくわからなかったので、もしご存知の方がいらっしゃれば、教えてくださいね。

これは近所の公園で、ヒメジョオンの花にやってきた、小さなアブ。ハナアブはどれも、かわいい顔をしていますね。キベリヒラタアブもそうでしたが、かわいくて、ずっとみてたくなります。

昆虫や花の写真を撮るとき、わたしはたいして技術などないのですが、一応心がけていることがあります。それは愛で撮ること。虫や花を、敬いながら撮っている、ということです。

木を撮るときは、そこにすばらしく大きな、えらい人がいると思って撮ります。花や虫を撮るときは、そこに、愛がいっぱいのきれいな人がいると思って撮ります。そうするとね、木や花や虫が、深くわたしに話しかけてくれている、という感じの写真になるんです。あ、こいつはわかってるって顔で、わたしをじっと見ている。

でもね、これがわかっていない人は、どんなに植物や虫を愛している人でも、写真の中の花や木が、いいひとなのに、わかってないなって顔をしてるんですよ。今まで、いろんな人の植物の写真や、昆虫の写真を見てきたのですが、これがわかってるって感じの写真を撮っている人は、一人か二人でした。



人間はだいたい、一番自分がすごいと思ってて、、木や花や虫や、自分以外のものすべてを、自分よりずうっと馬鹿だと思ってるものですから、肝心のことが何一つわからない。これはちょっと、問題です。

こんな小さなアブ1匹の中にさえ、苦しいくらい痛い、熱い愛がみっちりとつまっている。それがわかっていて、写真を撮ると、ほら、小さなアブが、すごく大きく見えるでしょう。生きてるって感じるでしょう。

なんてきれいなんだろって、思うでしょ。

そろそろみんな、これがわかってもいい頃だと、思うんだけどな。

 

 

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パキラ

2007-08-27 09:49:38 | 花や木

パンヤ科。Pachira glabra
南アメリカ原産の常緑高木。

昨日は、我が家にとってちょっと大きな買い物をしました。次男の誕生日が近いので、前からほしがっていたDSと、小さなパキラの鉢。ついでに、虫図鑑のソフトも買ってしまいました♪ 自分の楽しみ用に買ったのですけど、長男のDSを借りてやってたら、三男と四男にとられてしまいました。子供みたいな遊びはするなってことでしょうか。でも、けっこう気に入っています。次は、お花の図鑑がほしいですね。

画像は、昨日買ってきた、パキラの鉢です。前からすきで、買ってみたかったのですが、世話をできるかどうかが自信がなくて、買い控えていたのです。でも、買ってみたら、ほんとによかったと思いました。

パキラは、ほんとうにやさしい木です。天国から来たのではないかと思うほど。ほんとうにやさしい。何でそんなことをやってくれるのか。思いもかけないことを、軽く、そっとやってくれる。それをやってくれたら、痛々しく傷ついた人間の魂が、ふっとよみがえる。そんな大変なことを、気軽に、当たり前のようにやってくれるのです。

もし、人間に、同じことをやってもらおうとしたら、たいまいのお金を払ってでも、やってはくれません。いえ、できないことです。それほどたいへんなことを、パキラはやってくれるのです。そしてそんなパキラが、あちこちの花屋さんで、当たり前のように売られている。なんの文句も言わず、当たり前に。それでいいの?ほんとうにいいの?とたずねたくなるくらい。きれいに笑って、美しいことをするために、そこにいる。

パキラはそういう木です。人間は、そんな愛が、世界中に当たり前にあふれていることに気づかない。美しいものが、少しでも人々の苦しさを救うために、どんなことをしているか、まるで知らない。

苦しいことがありすぎるとき、パキラをそばにおくと、いいと思います。パキラは、ほんとうにいいことをしてくれます。美しいことをしてくれます。そして、何も言わない。人間が何も気づかなくても、いいよといって、いつの間にかいなくなっている。

この世界には、そういうことができる存在が、いるのです。

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ヤマトシジミ・2

2007-08-26 07:43:16 | 生命


夏休みもそろそろ終わりですね。昨日、今年初めてのハラビロカマキリの成虫を見ました。新品のりっぱなスーツを着込んだかのような、大人の翅をみると、秋がきてるんだなって感じます。

トップはヤマトシジミのオスです。表のきれいな青を見せてくれた貴重な一枚。どうしても裏側の写真しか撮れなくて、一度あのきれいな青色を撮ってみたいなあと思っていたのですが、朝になんとなく近所の空き地にいってみたら、チョウチョがみんな翅を開いていたのです。ラッキー!と思って何枚もとったのですけど、ピントがあったのはこの一枚だけ。ほんまにしろうとです。ごめんなさい、と。

ビンボーだから、カメラにお金なんてつかえないので、息子とお金を出し合って、思い切って買った、高めのデジカメだけが、アイテム。接写もしぼりもぴんとも、カメラまかせ。シャッター以外には、一個しかボタンおしません。トリセツもよまないので、いろんな機能があるんだろうけど、なんにもわかりません。カメラも悲しいでしょう。

おまけにおかしなものばかり撮らされるし、きっといつか、このデジカメくんも、前のデジカメくん同様、妖精に進化することでしょう。



花や虫について、ブログでいろいろ書いてると、おもしろいことがときどきありますよ。植物はね、わたしが何してるか、知ってるんです。ほんとよ。

ユリについて、先日書いたことを、ユリはよろこんでくれているみたいなんです。同じ空き地に、先日行ってみたら、例年になく、テッポウユリがいっぱい、きれいに咲いているのです。それはうれしそうに咲いているんです。

あ、気がついてるんだ、わかってるんだって、思う。こんなこと、経験したことのある人、きっとわたしだけではないでしょう。このヤマトシジミも、青い翅の写真を撮りたいなって思ってるわたしの気持ちに、そっと虫が寄り添ってくれたのです。ほんとよ。だって、それ以後は、どんなに追いかけても、翅を開いてくれないのです。

そんなのうそだって、思ってもいいけど、わたしはそのとき、とてもうれしかったのです。



愛はね、どんな小さなことでも、信じたほうがいいのよ。心底から信じて、うれしいって、いうと、愛がいっぱいよってくるんです。ほんとうにそうなの。そして、いいことが、いっぱいおこるんですよ。

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ツマグロヒョウモン・2

2007-08-25 07:44:38 | 生命


これは、ツマグロヒョウモンの幼虫です。ご近所の小さなミントの茂みで見つけました。食べてたのはミントじゃないと思うけど。ミントが生えてたことだけは覚えてます。子供が見つけて、おかあさん、写真とってといわれてとったものです。

いつもカメラを下げて、写真ばかり撮っているもので、子供の描くわたしの絵は、いつもカメラもってにこにこしています。どうにもこうにも、あほみたいににたにたわらいながら、撮ってるらしいです。

チョウやガの幼虫には、おもしろいものが多いですね。はっきりいって、親と子の姿がこんなにも違うのは、ほかにないのではないでしょうか。わたしたちは、これを当たり前だと思って、こういうものだと思っているけど、これってわたしは、まるで奇跡のようだと思う。いったい、この幼虫のどこに、あのかわいいチョウチョの姿が隠れているのか。これがあれと同じものだとは、とても思えない。でも、これはあれと同じもの。



これはツマグロヒョウモンのオス。オスとメスで、ずいぶんもようが違いますが、それはメスが、毒のあるチョウに擬態しているからだそうです。だからツマグロヒョウモンは、オスのほうが軽やかでかわいい。おんなのこみたいですよ。

私たちが今、考えている当たり前というものは、ずいぶんと小さくしなびている。そういう気がします。だから生きることはこんなにも窮屈で、絶望的に苦しい。何もかもが、痛みの中で粉々に砕けていく気がする。いつか、すべてがわからなくなって、みんな消えていくのではないか。

チョウは、小さなサナギの中で、かつての自分の姿をどろどろにとかし、ほとんど最初から作り直しているそうです。不思議だ。どうしてそれができるのだろう。なぜ君たちは、当たり前にそれをやるのだろう。

それがわたしたちにも、できないだろうか。いや、できるのだ。

わたしたちにはみな、それができるんだ。奇跡のような、信じられないことが。

幻の幕の向こうで、新しい世界のチョウが、まどろみの中で今、わたしたちの夢を見ている。

 

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アゲハ・2

2007-08-24 11:07:42 | 生命

 

これは、アゲハの三齢幼虫です。鳥の糞に似てますが、脱皮して終齢幼虫になると、かわいい緑の青虫になります。

青虫をかわいいなどというと、異論を唱えたくなる人はいっぱいいるみたいです。虫が苦手な人がいっぱいいるから。

虫が苦手なのは、虫が小さいからです。その動く姿が、心の中で常にうじうじとうずいている何かに似ているからです。つまりは、遠い昔についたまま、ないことにして放っておいてある、嘘のうごめきを、思い出させるからです。だから、嘘をついている人は、虫が苦手なの。

逆に、虫が好きな人は、嘘をつくのが下手な人です。だから、この世界で生きていくことがうまくできずに、傷ついて、疲れ果てて、泣きたくても泣けないような苦しいうつろを抱いているときに、ふっと近づいてきてくれる、虫に気づくのです。

虫は、神様からの手紙を、疲れ果てた人間のところに運んできてくれる。泣くなよ。そばにいるから。ずっといるから。愛してるよ。苦しいことはないよ。みんな助けているからね。



虫は、そうやって、人間が生きていくことを、助けてくれるのです。だから、こんなにもきれいな虫が、いっぱいいる。

虫が美しいのは、神様の愛です。それは美しい神様の心を、描くための文字なのです。一文字一文字に、苦しいほどかわいい、愛がかくれているんです。

 

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こいぬ

2007-08-23 09:10:22 | 珈琲の海


こいぬが生まれました。我が家の愛娘(柴犬・9歳)が、2匹のかわいい子犬を産みました。
 
といっても、うちの娘は、この年になるまで、子育てはまったくしたことがありません。朝見つけたときには、胎盤をつけたままもぞもぞ動いている赤ちゃんを前に、母親は呆然と立っているという状態。大慌てでへその緒を切り、お湯で赤ちゃんを洗いました。

獣医さんに電話して指導を仰ぎつつ、なんとか母親をなだめて、乳を飲ませました。母親も、落ち込んでいました。生んだ子の世話をちゃんとできなかったことが、とってもつらいのです。だから、ばつが悪そうな、すまなそうな顔をして、わたしを見上げます。時々牙をむいてしまうのも、いけないことをしてしまったと、犬も思っているからです。

「つらかったな、たいへんだったな」と声をかけて、頭をなでてやり、できるだけそばにいてやります。そうすると、最初は乳をやるのをいやがって、すぐに立ち上がっていた犬も、だんだんと落ち着いてきて、ゆったりと子供に乳をやれるようになってきました。

犬も人間と同じです。わかってるよ、愛してるよという気持ちを伝えてやれば、少しずつわかってくるものなのです。

うちの娘は、とってもいい子です。これからしばらくは、家族みんなで、こいぬの子育てです。
 
 


これは、センニチコウです。中学校のちかくの、畑のすみに咲いていました。小さくたって、弱くたって、強く生きていけるよ。みんなきみを、愛してるよ。そういっているようです。

 

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ヒマワリ

2007-08-22 09:23:25 | 花や木

キク科ヒマワリ属。Helianthus annuus
北アメリカ原産の一年草。日本には江戸期に渡来したそうです。なんだかうなずけますね。この明るさ、ルドベキアと似てます。比較的古くからいるせいか、日本の夏にすっかりなじんでいる。ヒマワリのない夏など考えられないほど。

キク科の花は、ヒメジョオンやコスモスなどもそうですが、少し男性っぽく、怒りっぽいのが多いです。いつも、少し冷ややかに人間を見ている。やさしく笑いかけてくれる花は、めったにない。少し離れたところから見ていて、これはまあ、いいことをやっている部類だな、と感じた人間には、ほお、という感じで見ている。けれども、これは少し問題があるなという人間には、厳しい顔を向けている。いやなやつ、と感じたら、強い拒否反応を示し、ときには攻撃性も見せてきます。

強い花がそろっているキク科の中で、ヒマワリはもっとも厳しい花。

太陽そのものの花を、高々と空に上げて、まっすぐに見ている。真っ正直に見上げなければ、苦しくなる。真っ向から見下ろしてくる。正しくなければ、その前に立つことすら難しい。ヒマワリは、正しくないことには、厳しすぎるほどに厳しい。いつも、苦しい、という顔で見返してくる。おまえは、何をしているんだと。

誇り高い正義の花。しかし今の時代、ヒマワリはいつも苦しい顔をしている。人間が、あんまりに苦しいものになってきているから。まるで、わからないものになってきているから。なんてことだ、という顔で咲いている。苦しい、を通り越して、泣いている。あんまりだ。こんなことになるとは。

真実があまりに苦しい仕打ちを受けている時代、バラは眠らざるを得ない。ユリは野で心を閉じなければ、生きていけない。ヒマワリは、孤高の高みで無言で叫ばざるを得ない。

完全に、苦しすぎる時代。けれど、花は咲いている。あまりにも厳しい、混沌の砂嵐の中で、ただ、咲き続けている。

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テッポウユリ

2007-08-21 13:19:20 | 花や木

ユリ科ユリ属。Lilium longiflorum
奄美、沖縄諸島が原産。九州、四国の一部で野生化しているそうですが、うちの近所でも、あちこちの空き地で、雑草に混じって咲いてます。アスファルトの隙間に根を下ろして、少しこわばりながら咲いている花もあります。

暑さでストレスがたまりがちなときは、更新の回数が増えます。ごめんなさいね。ネタが満載なもので、待ちきれなくて書いてしまうってこともあるんですが。

これ、正直に言って、わかるものもわからないものもあるでしょう。ランタナやつげ、ハマボウなどは、けっこうわかりやすいんですが、バラや、ゆり、つゆくさなどは、わかりにくいと思います。自閉症の詩人くらいしかわからない花は、たくさんありますが、ガザニアなどになると、わたしにもわかりにくいです。ガザニアに心寄せて、話を聴こうとすると、あなたにはまだわからないと、つっぱねられてしまう。花には、かなり、人間にはわからない高度なことを話しているものもあるようです。

テッポウユリは、ほんとは、この世界が苦手です。嘘がいやというわけではない。きれいに咲けないのがいやなのです。白いユリは、ほんとうに、澄み渡るように美しく、純粋に白くありたい。けれどもこの世界でそれができることは、とてもまれなのです。

ユリは咲いても、すぐに汚れてしまう。形が崩れてしまう。それがユリには恥ずかしい。苦しい。ユリの仕事は、純粋に白く、清らかにあることなのに、それがこの世界では、不可能に近いのです。

ではなぜ、ユリはこの世界に咲いているのでしょう。それは、人間がそれを必要とするからです。純真に白く美しいものの存在を、心のどこかでいつもほしがっているからです。その象徴として、ユリにこの世界に生きていてほしい。ユリの存在があれば、純真に白く清らかなものの存在を、人間は感じることができる。

人間にはそれが必要だとわかったとき、ユリは、汚れてしまうからと、咲かないでいるわけにはいかないのです。たとえ汚れてしまうことがわかっていても、咲かなければ。咲かなければ、つらい。それが、ユリの、純真さなのです。

ユリの、美しさなのです。

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