世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

消えぬ火

2008-01-31 09:53:57 | 画集・ウェヌスたちよ

「天使」の習作に、タイトルをつけてみました。

これ、ほんとうに苦しそうな顔をしています。とても苦しかったときに描いたからです。でもこれはまだ、ましなほう。明日から、あと2枚の習作を、それぞれタイトルをつけて発表してみたいと思います。

この天使は、あまりに苦しい目にあっている。けれども、その奥で、消えぬ火を守り続けている。沈黙に固まった目の奥で、生きつづけている火の痛みを、感じ続けている。

そういう意味です。

消えぬ火とは、目覚めた自己そのもののことです。本当の自分自身ということ。

それは、自分以外の自分には決してなれぬという真実の痛みを、すべてよしとすること。そしてその自分を、永遠に消えぬ火として掲げること。どんな苦しみがあろうとも、それが消えないであろうことを、理解すること。

わたしはわたし、あなたはあなた。

すべては愛。

愛の痛み。あることの痛み。そのすべてを、愛で、つつみこもうと、自らが決めること。それで、永遠に消えぬ火が生まれる。

消えぬ火。

その人は、決して消えない。



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忠信を主とし

2008-01-30 09:45:06 | てんこの論語

君子重からざれば威あらず。学べばすなわち固ならず。忠信を主とし、おのれに如かざる者を友とするなかれ。過ちてはすなわち改むるに憚るなかれ。(学而)

君子は、確固とした信念がなければ威厳がない。独善を防ぐために、積極的に学ぶ姿勢を忘れてはならない。真実に忠信を尽くすということを、人生の本義とし、よい友達と交わりなさい。失敗したら、反省し改めることを、怠ってはならない。

 *

お待たせしました。説教臭い「てんこの論語」も、一旦今日で終わりです。ごらんください。左の「最新の投稿」。タイトル六文字ですっきりまとめてみました。こういうアホなところにこだわるのが、わたしの自閉っぽいとこなんですが。どう、きっちりしてて、美しいでしょう。

さて。

このことばは、論語の中で、わたしの一番好きなことばです。人生をまっすぐに、正しく行くために、抑えておきたい大事なとこを、みんな抑えておいてくれてる。このとおりに生きれば、本当に美しく、幸福に生きることができるでしょう。

実際、わたしは、人生の分岐点で迷うとき、いつもここに要を置いていました。

「忠信を主とし」

すなわち、何が本当のことなのか。正しく生きるために、みなが幸せになるために、自分が何をするのが、ほんとうに正しいことなのか。

自分の真ん中にある、「本当の自分」のいうことと、違うことはしたくなかった。だから、相当に苦しいときも、そのことばに従って生きた。苦しすぎるときも、そうした。

バカなやつだと思うでしょう。昨今、自分にまっすぐ正直に生きることができるはずがない。説教臭い先生など、偽善の塊だと斜めに見て、世の中アホばっかりだと、身勝手に傲慢に生きるのが流行りだった。つっぱらかるのがかっこいいと、何もかもを見下していた。人生なぞテキトーにやるのがいい。お金や見かけだけの恋人や、有名なだけの本など、きらびやかな泡のような幻ばかり追いかける。ばかばかしいものばかり。みんなそんなもんなんだって思えば、自分がカッコイイ。

でも、わたしにはできなかった。いつも、なぜか、一生懸命にやってしまった。些細なことにでも、全力でやってしまった。みんな、バカだといった。冷たい視線をいつも感じていた。でも、自分を変えることはできなかった。

その結果が、自閉の、引きこもりです。バカですね。ほんとに。

今、この孔子のことばのとおりに生きれば、たいていこうなります。

でもやっぱり、わたしはこのわたしがいい。このわたしを捨てることだけは、絶対にしたくない。どんなに苦しくとも、やはりわたしは、この自分でいきます。

バカでいい。自分を捨てるバカだけにはなりたくない。わたしは、わたしだ。

どんなに苦しい状況でも、天にまっすぐに胸を張れる自分で、いられることが、わたしの本当の幸福なのだ。

これから、どんなことがあることやら、わかりませんが、やっぱりわたしは、こういうわたしで、変わらず、生きていくことでしょう。こんな自分が好きだから、好きな自分とずっといっしょにいることが、幸福だから、ずっとこのままでいく。

これからも、バカなてんこのブログと、おつきあいください。


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立つゆえんを

2008-01-29 10:04:30 | てんこの論語

位なきを患えずして、立つゆえんを患えよ。おのれを知らるるなきを患えずして、知らるべきをなさんことを求めよ。(里仁)

えらい人になれないと嘆くよりも、なぜそうなれないのかを考えなさい。ひとかどのものとして知られたいと嘆くより、そうなるためにしなければならないことを、やりなさい。

 *

孔子の元には、学んで、えらい人になりたい、出世したいと願う人間が、たくさん集まったのでしょう。勉強すれば、えらい人になれるといわれて、学びに来るものが、何度も何度も、孔子の周りで言っていたのでしょうね。「どうすれば出世できるんだろう。有名になれるんだろう。」

 *

三年学びて、穀に至さざるは、得易からず。(泰伯)

三年学んで、士官のことを考えないものは、めったにいない。

 *

えらい人になりたい。かっこいいやつになりたい。みんなにほめられたい。すごいやつだといわれたい。本当に、人間の心の中には、いつもこんな気持ちが、うずく虫のようにうごめいている。そして気づかぬうちに、そのためにあらゆることをしている。うそででもいいから、そうなりたい。そうなりたい。

努力し、学びを重ねていけば、いつかは自然にそうなれるものなのですが、努力の「ど」も終わらないうちから、そればかり言うのはどうしたものか。孔子は嘆息交じりに、弟子の質問に答えたんでしょう。そんな場面が目に浮かびます。

自分で、やらなければ、そうはなれないんだよ。

当たり前のことなんですが、それがどうしてもいやだという人間が、いるのです。もっと簡単に、えらくなりたいと。それでばかなこともやってしまう。

なぜそんなに、えらい人になりたいのか。それは、本当は、今の自分がぜんぜん偉くないからです。勉強ができていないし、いろんなことを知らないし、鍛錬すればできることも、やらないからできない。未熟なところばかり目立つ。こんなんじゃ、えらくなれっこない。こんなのはいやだ。だから、どうにかして、すごいことをやって、えらいやつになりたい。

要するにその人は、勉強が足らなくて、ちっぽけなことでつまずく自分がいやなのです。すごいことができる、えらい人、でっかい人になりたい。でもそうなるには、大変な努力をしなくてはいけない。「やれる」人というのは、みんなそういう大変な勉強をしている人なのです。苦しいことも、苦しいといわずに励んできた人なのですが、勉強の足りない人は、そこがいやなのです。

あっちに自分が負けているというのがいやなのだ。だから、至極簡単な方法で、なんとか勝とうとする。それが、バカになる。

そういうことをやめなさい。そして、まじめに励みなさい。そうすれば、えらい人に自然になれる。ごく当たり前のことなんですが、たいていの人間はこれを嫌がる。当たり前すぎて、いやなのです。もっとうまくやりたい。知恵をつかって、面白いことを阿呆みたいにやって、みんなの度肝を抜くような、どえらいことをやって、「すごいやつ」になりたい。

でもそれは、結果的に、すべてだめになる。嘘と、我欲だけでやることは、一時は幅を利かせることができても、いつか必ず、本当がばれる。そこのところが、何度失敗しても、わからない人がいっぱいいるのです。

なぜ、えらい人になれないのか。それは、えらい人になりたがるからです。それをやめればいいんですよ。なぜなら、そんなものは、結局は必要ないものだからです。えらい人になりたがるのは、それがなければ、自分が苦しすぎると思っているからです。バカみたいな自分だから、そんなものがなければ、何にもないんだと、思い込んでいるのです。

それは違うんですよ。

えらい人は、自分がえらいなんて、思っていません。みんなだれかのおかげで、自分のやるべき仕事ができるんだということが、わかっている。それで、えらい仕事ができるのです。みんな、同じ。えらい仕事は、まじめに自分をやっていけば、だれでもできることなんです。ほんとうは、みんな、偉いんですよ。そこを、いやだと言って捨ててしまうから、いやなことになってしまうのです。

それが、ほんとです。




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予においてか

2008-01-28 10:04:02 | てんこの論語

宰予昼寝す。子曰く、「朽木は雕るべからず。糞土の牆は、杇るべからず。予においてかなんぞ誅めん。」子曰く、「始めわれ人におけるや、その言を聴きて、その行を信ぜり。今われ人におけるや、その言を聴きて、その行を観る。予においてかこれを改む。」(公冶長)

弟子の宰予が昼寝をした。先生はおっしゃった。「腐った木は、細工物には向かない。臭い糞土は、壁塗りに使うことはできない。昼寝をするやつなんぞには、何を言っても無駄だ。」先生はまたおっしゃった。「わたしは最初、人のことばはそのまま真実だろうと信じていたが、今はことばだけでなく、その行動も見るようになった。宰予のせいでこうなったのだ。」

 *

有名な「宰予の昼寝」ですが、もちろんわたしは、これは孔子のことばではないと思っています。これは、後世の、少々短気な儒家が、論語の編集の折に付け加えたものだろうと思います。

古代の中国では、夜の明かりは、月星か灯明くらいしかなかったでしょうから、昼間に寝ることには、今よりはずっと罪悪感の強いものだったろうと思いますが、ここまで怒るのは、ちょっとおかしい。たぶん、弟子を怒ってしまった先生にも罪悪感があったのでしょう。ことばの大半は、怒ったことの言い訳になっています。

こんなことになったのも、みんな宰予のせいなんだ。

虫の居所でも悪かったのでしょうか。そういうことはありますね。それで、昼間っから寝ている弟子に当たってしまった。そうしたら、弟子の顔が、なんでそんなことで怒るの、この先生はあんまりいい先生じゃないな、て感じに見えたんでしょう。そこで威厳を正すために、言いつのってしまった。そしてみんな、弟子のせいにしちゃった。

それが本当はとても苦しかったので、これを孔子のことばにして、なんとか自分が正しい、にしたかった。というとこじゃないかな。推測ですけど。

 *

やんぬるかな。われいまだよくその過ちを観て、内に自ら訟むる者を見ず。(公冶長)

やれ、わたしはいまだに、失敗をしたら、自分が悪いのだと反省するものを見たことがないぞ。

 *

時代が進むと、儒家の先生にも、いろんな人が出てきたんでしょう。論語の面白いのは、こういう人間の、アホっぽいものもまぎれているとこなんです。ああ、昔の人は、こんなことやってるよ。て感じで。これはまだかわいいから、許せるほうですけど。

安心してください。孔子は昼寝くらいでは怒りません。孔先生だったら、だれかが昼寝をしているのを見かけたら、しょうがないなって感じで、笑うくらいですよ。
それに昔と今では、違いますから。

現代は、昔と比べれば、人類のストレスははるかに苦しいものになっています。文明が発達して、便利になっているというのに、人間は計り知れず苦しくなってきている。ありとあらゆるものが、激しく傷つけあっている。それも、魂の奥深いところまで、互いに傷つけ、つぶしあっている。自分の、あるいは他人の、存在そのものがいやだ、という人間が増えているのです。

こんな時代に、昼寝をするな、というのは、酷です。疲れきっているときは、自分を休めていいんですよ。がんばり過ぎないほうがいい。

もっとも優しい愛の神の膝元に甘えて、少し休んだほうがいい。

そういうときが、今はたくさんあります。

現代は、それが、人間にとって、とても大切なことのひとつになっています。


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上を語ぐべし

2008-01-27 09:56:46 | てんこの論語

中人以上は、もって上を語ぐべし。中人以下は、もって上を語ぐべからず。(雍也)

(ちゅうじんいじょうは、もってかみをつぐべし。ちゅうじんいかは、もってかみをつぐべからず。)

それなりの素養をもっているものでなければ、心の話はできません。

 *

少々我流の訳ですが。要するに孔子は、それなりに基礎ができあがっているものでなければ、難しいことを教えることはできないと言いたかったのでしょう。まだ段階の幼いものには、心の難しい問題は、理解ができないからです。

もっともこんなことを今言えば、差別発言ととられて、世間から抹殺されかねません。とにかく現代は、何でも差別発言になるのではないかというくらい、それに敏感です。それで返って、面倒なことになっている。

もちろん、卑劣な差別は悪ですが、なんでもかんでも差別だということにして、よいものまで悪いものにして、つぶしてしまうという現実がある。勉強の進んだものにたいして、あまり進んでいないものが、差別だから勉強をやめろ、という現実があるのです。これはあまりに愚かです。

難しい問題を解決できる才能と力量を持っているものが、力を発揮しなければならないところで、することができず、事態が難しいことになりきる、ということがある。それはそれは大変なことになるのです。

 *

君子は義に喩り、小人は利に喩る。(里仁)

勉強の進んだものは、義を先に考え、まだ進んでないものは、我利を先にする。

 *

心の問題をまだ理解するのが幼い段階の小人は、利を先に考えてはばかりありません。それをすればだれが困るなどと、まだ考えられない。まずは自分を生かすのが先。それはすなわち、子供の段階です。子供は何よりも、自分が生きることが真っ先ですから。だれよりも多く食べようとする。
自分がいちばんいい、でなければ、苦しすぎるから、なんでも自分のためだけにやってしまう。それが小人です。彼はまだ小さい。

その小人が、大きなことをしなければならない役を、ただかっこいいからというだけでほしがる。そのために、その仕事ができる勉強の進んだ人を、排斥し、つぶしてしまう。自分よりいいものがいると、困るから。それで、相当に困ったことになる。

孔子の発言は、差別発言ではなく、才能を持ったものを掘り起こし、よい教育を施し、多くの人間をよくするための仕事をする人材を育て上げたい、ということだったのです。そういう人が育ってこそ、まだ段階の進んでいない人たちも、それぞれにあった勉強が安心してできるようになる。

人々のために、社会のために、私利を考えずに、ただ「義」のために行動することのできる人間、それを育てたい。そのために彼は、よい人間を探していたのでしょう。

「義」によって行動すること。それは、この「心」の存在を感じ、その苦しみを理解している人間でないとできないのです。






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巳むに賢れり

2008-01-26 09:47:28 | てんこの論語

飽食終日、心を用うるところなきは、難きかな。博奕なるものあらずや、これをなすはなお巳むに賢れり。(陽貨)

一日中、飲み食いばかりで、ちっとも頭を使わないものほど、ひどいのはいないなあ。サイコロ遊びなんぞあるが、あれでも、なんにもやらないよりは、よほどましだ。

 *

昨日と違い、これは孔子の生の声、という雰囲気です。よっぽど、ひどい場面に遭遇したのでしょう。おもしろい人間はたくさんいるが、これはどうにもならん、というのも、中にはいたのでしょうね。

わたしもしみじみ思うことがあります。何にもしない人のほうが、悪いことをする人よりよっぽどひどい。悪いことをしてしまった人は、それは悪いですが、それでも、ここで何とかしなければいけない、というときに、何とかするための経験知識が、何かをやっている過程でそれなりに備わるもの。それは、ある程度、その人が学びをはじめたときに、役立つものとなる。とにかく、何かをやったということが、形になって残っている。バカなことでも、それはそれなりに、自分の頭と心を使ったということなのです。

何のためにそんなことをしたのか。そのとき自分は何を感じていたのか。すべて自分の中に残っている。それが、大事なのです。

だけど、なんにもしなければ、なんにもない。いったいなぜ、その頭がついているのか、何で生きているのか。考えることさえしない。いや、考えることから、逃げている。自分はなぜ生きているのか、ここにいるのか、そんな疑問から逃れるために、ただ飲み、食う。

なんにもない、なんにもしない、おれたちはなんのためにここにいるのか。そんなことをかんがえれば、苦しいだけだ。飲んで食って忘れろ。なんでもない、なんでもない、みんな、ばかばっかりさ。

ちょっと昔に、グルメブームなどありましたね。美食評論家だの、料理人漫画だの、流行りましたが、わたしはあれも、この一種だと感じていました。文明が発展し、人々の暮らしはかなり楽になり、派手になった。いい家、きれいな服、かっこいい車、かわいい恋人、かなり思い通りにできるようになった。さてそれで、何をするのか?と考えたら、ほとんど何もなかった。ほしいものはあらかた、手にいれてしまった。これから何があるのかと考えたら、もう何もない。

そうなると人は、食に逃げるようになる。肉体的感覚の中にしびれこんで、魂のあこがれを自ら殺そうとするのです。20世紀の末、日本人のほとんどは、そんな感じになっていた。幸せそうに見えて、ほんとうはとても苦しかったのです。

しあわせのはずなのに、なぜなんだ。苦しい、つらい、さみしい。

それをごまかすために、あらゆる美食を求める。フォアグラ、ヒレステーキ、職人のラーメン、大トロの刺身、一杯千円のコーヒー。迷いに迷った人間たちのなしてきた、麗しくも悲しい職人芸たち。すべて胃袋の中に消えていく。なんのために、それはあるのか。おまえは、いるのか。

心は、どこにいったのか。

わたしは、だれなのか。

なにもかもあるのに、なにもない。なにもない。

なにもない。

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十有五にして

2008-01-25 09:44:50 | てんこの論語

われ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲するところに従えども、矩を踰えず。(為政)

わたしは、十五歳のときに、学問を志した。三十歳になって、一人前に立つことができた。四十歳になると、仕事に迷いや失敗がなくなった。五十歳になり、何をするために自分が生きているのかを、知った。六十歳になると、人の意見に素直に従えるようになった。そして七十になると、自分の自由に振舞うことが、そのまま愛になった。

 *

このことばは、作りすぎの感じがあるので、孔子本人のことばではないと思います。けれども、人の人生を総合的に考える上で、とても参考になると思い、取り上げてみました。

多分、後世の儒学の徒が、自分の人生を振り返って語ったことばを、きっちりとしあげて、孔子にさしあげたのでしょう。堅苦しいですが、生真面目な人が作ったんだなという感じです。若い頃から一生懸命に勉強して、仕事もなんとか勤め上げ、年をとって、いいおじいちゃんになったんだな、という感じ。幸せな人生だったのでしょう。

こんな人生が送れたら、ほんとうに幸せだと、わたしも思います。

しかし、現代の人間は、ほとんど、学問の道を志す寸前の、15歳で、成長をやめます。それ以上、勉強することをやめてしまうのです。その理由は、前にも言いましたが、高校の教育課程で、世間の実態を、子供たちが知るからです。

まじめにやる人間はバカを見る。それが当たり前になっていることを、はっきりと知る。そしてそれから、人は学ぶことをやめてしまう。

もちろん勉強はしますが、それは人格を豊かにするための学びというより、人生をうまくやるために知識を吸収するという程度のものです。それでは、人間の人格は成長しない。要するに、ほとんどの人は、大人にはならない。幼児性を残したまま年齢だけが成熟し、「うまくやる」人間だけがのし上がれる社会に適応するために、バカばかりやるようになる。

それが正しい、になってしまっている。そういう現実の中で、自分の人格を肥やすための勉強を続けることは、至難の業です。よほど環境に恵まれているか、本人に強さがなければ、続かない。

まじめに勉強しようとするものは、徹底的につぶされる世界。自分よりよくなるものは、絶対だめだという人々が、社会の偉いところにいるという世界。だから子供たちはおとなしく、自己主張を極力せず、自分はバカですよという顔をして、何とか生きしのぐことを覚える。

子供たちが成長しない、あるいはできない世界。これは本当に苦しい。

勉強をして、自分を豊かにしたい人はたくさんいる。それをまっすぐに表明できない世界で、人々は今、どんな風に学んでいるのでしょう。

荒れ野にも咲く花はある。彼らはどこで、いったいどんなことを学んでいるのか。きっと苦しいことはたくさんあるだろう。でも、きっと、生きているだろう。

生きているでしょう。




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周して比せず

2008-01-24 11:09:48 | てんこの論語

君子は周して比せず、小人は比して周せず。(為政)

できた人は、だれにでもやさしいが、わかってないヤツは、特定の人間をひいきして、全体の和を乱す。

 *

論語をやり始めると、続いてしまいます。好きだからなんですが、最近和訳がきついですね。以前はもっとおとなしく、婉曲に婉曲に言ってたような気がしますが。たとえばこんなふうではないかしら?て感じに、やさしく、言ってましたね。さて、どうしてこうなったのか。

ええかげんにせえよ、と言いたいことが、たくさんあったからです。さてと。

このことばにあることは、和をもって貴しとする日本人には、自然に備わっている道徳、と言ってもいいと思います。風土的なものというか、文化的なものといいますか。子供の頃から、「みんなと仲良くするんだよ」といい聞かされて育ちますから。いつの間にか自然に、わかってくる。そこらへんが外国人に、自己主張がないなどと揶揄されるところではあるんですが。しかしわたしは、これは日本人のとてもいいところだと思っています。

日本人は、これを誇りにしていいですよ。なぜなら、これはある程度の教養の深まりがなければ、できないことだからです。

自己主張をしたいのは、人間だれしものことですが、それをある程度のレベルで押さえ、他者の考えに耳を澄まし、自己より高い愛の視点に己を持ってきた上で、全体の流れを決める。それができる人を、君子というのです。これは、書を学び、また社会的鍛錬を経た強さを持っている人でないとできない。

それを日本人は、文化として持っている。それはとてもすばらしいことだと思うのです。大切にしないといけない。

自己主張ばかりする人は、自分と意見の似た人をひいきして、集団に亀裂をつくり、争いを生じさせます。そうなれば、みなが苦しむ。結果的に、その集団自体を、破壊してしまいかねない。

誰かの我田引水的な意見を基準にして分け隔てをすれば、その集団内に、バカみたいなことが起こる。当たり前のことなんですが、今の世間には、これがわかっていない人が、けっこういるようです。

何でも、強く我を押し出す人がかっこいい、になってしまっている。それで、人間関係にいやな空気が流れてしまう。これは苦しい。いやなことでもやらなければならないのか、ということになり、何もかもいやになってくる。

バランスを考えない自己主張は、害以外のなにものでもありません。節度というものが大事なのです。なんでもかんでもやっていいというものではない。

大人になれば、好きなことをやっていいのではないんですよ。これはほんと。何でいまさらこんなことを言うのか、という当たり前のことなんですが、言わなければわからないのか?という方がたくさんいたので。

失礼ながら、少々きつく言わせていただきますよ。

派閥と力関係のみでやれば、絶対に破滅を招きます。全体をなんとかする愛の視点を無視し続ければ、すべてが瓦解する。その前に、対策をせねばならない。

さて、どうしますか?




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女子と小人は

2008-01-23 09:52:33 | てんこの論語

女子と小人は養い難しとなす。これを近づくればすなわち不孫なり。、これを遠ざくればすなわち怨む。(陽貨)

女の子と阿呆は、始末に終えません。親しくすればつけあがるし、かといって離れてしまったら、怨まれる。

  *

孔子のトップエラーとも言われるこの発言、しかし内心、このとおりだと思うことが、ないわけではないな?と思うことはありませんか。わたしは、ほんとに辛いとき、しみじみとこれを思い出します。

たぶん、孔子も、こんなふうに嘆息したいときがあったのでしょう。教養あり人の痛みの理解できる「中人」以上ならまだしも、勉強の進んでいない未熟なものは、ほんとうに、ことを難しくするということを平気でやりますから。

「女子」とはっきり言ってしまうのは、やはり孔子が男性で、そのへんのトラブルがあったからでしょう。昔も今も、女性は男性から、劣等なものとしてみられ、学ぶことを禁じられます。だから女性はよほど賢い人でない限り、「男に嫌われる」という理由で、至極若い頃に、学ぶことをやめてしまう。どうせ女はだめだからと、自分をやることをあきらめてしまう。

それが、男にとって、ときに大きな災いの種になる。

「自分」をやることを禁じられた女性は、「自分」がありませんから、そのないところに、奇妙なものが棲みつくことがある。それはとにかく、なにもかもをほしがる巨大な胃袋のような飢餓感。苦しみを紛らわすために、なんでもやってしまう、品性を欠いた魔物。そういうものが空っぽになった女性にとりつくことがあるのです。

「自分」がない、ということは、すさまじい苦しみなのです。自分がここに生きている価値が何もない、ということです。だからそれを失ったものは、とにかくあらゆるものをほしがる。男にとりつき、何でももってこいとささやく魔物にさえなる。彼女らは、立派な男、有能な男、金持ちの男をほしがる。そういう男でないと、セックスはさせない、という。

そこで男は、女とセックスをしたいがために、あらゆることをしはじめる。あくことのない女性の胃袋を満たすために、愚かでむごたらしい虚栄心を満足させるために、ありとあらゆるものを、奪ってこなければならない。

こうして、すさまじい苦界が、この世にできる。

「女はバカだ」と男が言ったのは、そうでないと、好きなようにだれともセックスができないからです。何もかもを奪って、空っぽの人形にしないと、困るのは、彼女たちを好きだという気持ちが、ばれてしまったらいやだからです。それは相手に負けるということだから。そうなったら、女に何をされるかわからない。だから男は、あらゆる手段とレトリックを使って、女性をだまし続け、「阿呆」にし続けてきたのです。しかしそれによって、男は女のために、あまりに阿呆なことをしなければならなくなった。

女性がバカだと、困るのは男性のほうなのですよ。孔子もよほど困ったのです。女性は学ぶものではない、という時代でしたから、本当に幼稚な段階で成長のとまった女性が、男性にいたいことをしてしまうということが、たくさんあったのでしょう。

もっとも、幼稚なのは女性だけではありませんが。男性も、よほど幼稚なことをします。女性のためにね。どちらにしろ、男性も女性も、要するに、お互いが好きだということを、素直に言えないから。それだけで何もかもが難しくなり、よほどひどいことになる、ということなんでしょう。男性もまた、「自分」に自信がないのです。女性に好かれるような男性になるには、よほどの勇気と力がないといけないのに、それができるものは、めったにいないから。男はつらい。

でも、未熟なのはどちらも同じ人間。素直に好きだといえないのは、等身大の自分の、ほんとの姿を知らないから。勇気を持って好きだと言ったら、はじめてわかるほんとの自分の力を、試そうとしないから。

好きなコには、素直に好きだといいましょうね♪ 




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やんぬるかな

2008-01-22 10:16:31 | てんこの論語

やんぬるかな。われいまだ、徳を好むこと色を好むがごとくするものを見ず。(衛霊公)

やれやれ、わたしはいまだに、恋をするほどの情熱で、学問に熱中するものを見たことがない。

 *

さてと。論語になると、閲覧数が平常にもどりました♪ これは察するに、絵の中の天使が、非常に美人だったからだと思います。要するに、くそまじめでお厳しい孔先生より、美女のごとき天使の顔を見るほうがよかったのでしょうか♪

昔も今も、人間は、お勉強より、レンアイが好き。男の子も女の子も、かわいい異性が好き♪

もっとも、それなりに異性に好かれるためには、お勉強もしないとだめです。なんにも知らないお子ちゃまは、相手にされませんから。それなりに教養を磨き、センスを磨き、「えらい」人になりませんと。ほんまにもう、いろいろと、人類は賢きことをおっしゃっていますが、究極の目的はほとんどみな同じ。「かわいい恋人がほしい」。すべての行動の原因は、ほとんどそれですね。

まったく同感だという人、手をあげなさい。

人間の幸福も、苦しみも、すべてはこの、男と女のことから生じる。エゴと愛のせめぎあう性愛の現実。奔馬のように、これをほしいと思う感情を抑えきれないのはどうしてか。快楽をむさぼらねば、生きることは苦しすぎる。これほしさのために、人間はあらゆることをしすぎる。欲深き人間の宿業を超えられぬ自分が苦しい。その苦しさを補うために、それがほしい。美しい女性が、あるいは男性が、ほしい。

これはあまりに苦しい。

その苦しさから一時でも逃れるために、愛がほしい。愛してくれる伴侶がほしい。だれよりも自分を愛してくれる、自分だけを愛してくれる女が、男がほしい。こんなにも、自分は、未熟で、ちっぽけだから。バカなことばかりしてしまうから。それだけのために、すべてをだいなしにしてしまうから。だから、愛してほしいんだ。

だれかに、はげしいほど、くるしいほど、愛してほしいのだ。あまりに苦しいから。

だから人は、愛をほしがる。性的欲望におぼれる。だれもがそのために、常に飢えている。生きることが、痛い。痛いことを忘れたい。そのために、恋をする。

イシベキンジロウさんの孔先生は、なげくばかりでしたが、わたしは一応女性ですので、この問題には深いところを見てみたいと思い、いつも考えています。人間が、この苦しみから解放されるためにはどうしたらいいのか。なぜこの世界に、男と女があり、セックスがあるのか。

ここはエゴの風吹きすさぶ世界。どんなに美しいものでも、立派なものでも、いつかは消えてゆく世界。あらゆるものが、他者を食わねば、生きてはいけない世界。ほかのものより自分が強くなければ生きていけない。弱肉強食の現実は、常に滅亡の危機を大きくはらむ。その世界で、男と女のセックスは、唯一、他者と自分が対等になるものです。お互いに、お互いが存在しなければ、得られない快楽がある。そこに、愛への入り口がある。のではないか。

それは、相手より自分が大きくなければ、生きていけない。相手を食わなければ生きていけない、世界に、愛の存在を導くための、創造の神のしかけなのではないかしら。

セックスという現実の中で、エゴと愛は対等になる。相手を好きにならなければ、それはできないから。

しかし人間は、恋というものの中にも、優劣の関係をつくりたがります。愛を支配したい。相手の魂と生活力を奪い、何もかもを支配して、それをいつでもしぼりとれる税金のごとき、簡単なものにしたい。男も女も、相手から奪うことだけに専念し始める。それで、恋愛とセックスの問題は、とても汚く、陰湿な問題になってしまった。

だから孔子も、なげくばかりだったのでしょう。

このへんで、男性も女性も、真剣に考え直さないといけませんね。





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