世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

なんぞかの詩を

2008-03-31 09:51:13 | てんこの論語

小子、なんぞかの詩を学ぶことなきや。詩はもって興すべく、もって観るべく、もって群すべく、もって怨むべし。邇くは父に事え、遠くは君に事え、多く鳥獣草木の名を知る。(陽貨)

君たち、なぜ詩を学ばないんだね。詩を読めば、人間の感性が目覚め、本当のことを見ようとするようになり、たくさんの人の気持ちがわかるようになり、その悲しみがわかるようになる。近いところでは、父母の愛がわかるようになり、遠いところでは、すべてを与えてくれている神の愛に気づくようになる。そして、鳥や獣や草木にさえ、愛を注ぐようになる。



勉強をして、自分を豊かにしようとするなら、まずよい本を読みなさいということです。難しいことではない、簡単なことから、ほんとうの自分は始まるのです。

勉強したくても、どうやったらいいのかがわからないという人は、とにかく、本を手にとってみましょう。本は、かなり、古いものにいいものがあります。時代を経ても読みつがれながらえている本には、真実があるからです。

生きている中で、壁にぶつかるとき、自分の限界や、過ちにぶつかるとき、そしてどうすればいいかが、わからないときは、先人の本を開いて、答えを求めてみましょう。なかでも、詩は、いいですよ。人間の情感を、理論理屈で武装することなく、素直に歌い上げているからです。

たとえば恋に苦しんでいるなら、万葉集でも開いてみますか。

ますらをや片恋せむと嘆けども醜のますらをなほ恋ひにけり (舎人皇子)
(男が、片思いなんかするもんかって思うけど、女なんて馬鹿だって思うけど、おれだって馬鹿なんだ、やっぱり好きなんだよ)

ほら、同じだって感じるでしょう。自分も同じ気持ちだよって、感じた人、いるでしょう。泣きそうになった人もいるでしょう。本当に、恋は苦しいんだよなって。

こうやって、人は、人の気持ちがわかるようになるんですよ。詩はほんとうにいいものです。たくさん読んでみてください。

もちろん、詩を読んでも、その恋がかなうってことはありません。むしろ、かなわないほうがいいんだよっていう方向に、やさしく導いてくれることがあります。もういいんだ。おれは、自分てものがわかったから。苦しんだぶんだけ、やさしくなれるから。

恋は、かなわないほうがいいってことのほうが、多いんだねって。痛みを微笑みに変えながら、乗り越えてゆく自分の気持ちをかみ締める。痛み、苦しみ、悲しみ、すべて、わかるようになった。それが、学んだということ。

愛が、わかったということ。

詩を読んでみましょう。ほんとうの自分への入り口が、きっとそこに見つかるでしょう。




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仁者は憂えず

2008-03-30 08:44:41 | てんこの論語

子曰く、知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず。(子罕)



前にもあげたことがあるので、訳文は省きます。今日は真ん中の「仁者は憂えず」についてです。

愛するものは、憂うことがない。悲しむこともない。それはなぜか。

それは、愛ならば、すべてが喜びになるからです。どんなにつらいことも、苦しいことも、愛ならば、耐えてゆけるからです。

愛することは、それそのものが、限りない喜びだからです。愛は美しく、すべてのものに光る意義を与え、何もかもを新しくする。すべてを喜びに満たす。愛ほどすばらしいものはない。だから、どんなことでも、やっていける。

ほかにはなにもない。ただ自分は、愛しているのだ。真実、それだけで、人は何もかもを喜びのうちに、やってゆくことができるのです。

普通、これを耐えることができるのか、ということを耐えていく人は、愛の人です。愛だから、耐えられるのです。なぜ耐えられるのか。愛のためならば、耐えることさえ喜びになるからです。

だから、仁者は決して憂うことがないのです。

何もかもが苦しいとき。八方塞で、つらいことばかりが世界を満たすとき。自分を愛で満たせば、耐えてゆくことができます。これはとてもきついですね。本当は、ここまで愛に満ちるには、相当に勉強をつまねばなりません。けれども、愛ならば、すべて耐えられるということを、わかっていれば、苦しいことを自分の力で乗り越えられるということが、増えるでしょう。

普段から、愛の練習をしておきましょう。何もいらない、ただ愛のためだけの愛の練習をしておきましょう。

友達が物憂げに沈んでいたら、心をこめてお茶を入れてあげましょう。やさしい言葉を添えて、友達の心が苦しくないように、そっと付け加えましょう。

これは愛の練習だから、何もいらないよ。

それだけで、きっと、なにもかもがよくなりますよ。


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過ちて改めざる

2008-03-29 10:02:59 | てんこの論語

過ちて改めざる、これを過ちと謂う。(衛霊公)

失敗をしても、それを改めない。これを失敗というのです。



旧ブログでも何度か取り上げたことがある言葉ですが、何度でも何かを謂いたくなってしまうのは、人間が失敗ばかりしているからでしょう。

失敗が悪いわけではない。人間はまだまだ未熟ですから、わからないところでつまずくのは当たり前のことなのです。問題は、失敗してから後のこと。

失敗をすると、自分がいやになって、自分は馬鹿なんだと自分で勝手に決めてしまい、失敗を直そうともせず、すっと逃げてしまう。そうすると、それからが苦しいことばかりになってしまうのです。彼は自分で自分を馬鹿と決めてしまったので、もう何もしなくなるのです。馬鹿が何をやっても無駄だと、馬鹿なことばかりするようになる。そしてみんなを馬鹿にして、いやなことばかりして、人に嫌われ、結局は人生そのものを失敗する。

それもこれも、失敗したとき、自分で決めたからです。自分は馬鹿だと。
だから馬鹿な人生になったのです。

けれども、同じような失敗をしても、自分は馬鹿じゃない、馬鹿になるのはいやだと思った人は、その失敗を何とかしようとします。どこが悪かったのかと考え、そこを改めて、次の段階のために生かそうとするのです。謙虚に悔い改め、迷惑をかけたことを心から謝り、やり直すことができる。そうすると、よりいっそう学びが進み、前よりもいいことを知り、いいことができるようになった自分になれる。

その人は、失敗したとき、自分は馬鹿ではないと、自分で決めたのです。だから、やったのです。

自分を馬鹿だと決めるのも、馬鹿じゃないと決めるのも自分なのだ。すべては、自分が決めることなのです。

この自分が、馬鹿なものだということほど、苦しいことはありません。自分の存在そのものが激痛になる。それが、ずっとずっと、長く続く。自分自身の、過ちに気づくまで。

失敗に気づいたら、すぐに改めなさいと、孔子が言ったのは、そうしなければ、人間が、二度と帰れないような暗夜の苦しみに深く迷い込むことを、知っていたからです。

過ちをしても、自分を馬鹿だと思ってはいけません。未熟だったのだと思いましょう。そしてそこから、学びましょう。自分はいけるのだ。またいっそうよくなるのだ。ここで負けたら、馬鹿なんだ。

人間はいつも失敗をする。そしてそこを踏み台にして、次の空に飛んでいく。




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觚ならんや

2008-03-28 12:42:22 | てんこの論語

觚、觚ならず。觚ならんや。觚ならんや。(雍也)

觚も、觚ではなくなった。あれが觚であろうか。觚であろうか。



觚(こ)とは、角のついた杯のことです。たぶん、昔は、角のついた杯のことを觚といったのですが、時代の流れからいろいろな形のものがでてきて、それらをすべて、人々は觚とよんだのでしょう。そういうことはよくあることですが、もちろん孔子がなげいたのは、觚のことではありませんでした。

この觚ということばに、ほかの言葉を入れてみたら、わかる。たとえば、

人も、人ではなくなった。あれが人であろうか。

男も、男ではなくなった。あれが男であろうか。

時代が、安易な方向に流れ、人々が本質を忘れていき、大切なものが嘘になってゆく。すべての人が、本来の自分を忘れ、幻のようにおかしなものになってゆく。自分は、昔、こんなものではなかったはずだが、いろいろとやっていくうちに、なんだかよくわからなくなってきて、まるで変なことをするようになってしまった。

人間とは、なんだったのだろう? 男とは、女とはなんだったんだろう。わたしとは、どんなものであったか。わからなくなり、はてしない虚空にあるかのような喪失感をごまかすために、あらゆる嘘を何もかもに塗りたくる。

あ ま り に も く る し い

なにもない。あ ま り に も 、馬鹿だ。これは。

觚ならぬ觚の苦しみは、角を失ったことではなく、觚ではないものになってしまったことです。觚は觚以外のものになりたかった。なぜなら、觚がいやだったからだ。小さくて、酒を注ぐしか能がない。そんなものよりは、鉄の剣のように美しく強くなりたかった。月のように高く超えたものになりたかった。そのために觚はあらゆる嘘を吐き出し始める。鉄の剣となるために、自分とそれの間にあって邪魔するものを、すべて馬鹿にして、つぶした。

そして世にも奇妙な剣となった。剣となった觚は、本当は何も切れないことをごまかすために、永遠に嘘を重ねなくてはいけなくなる。すべてが崩れてしまうまで、それをやらねばならなくなる。苦しいのは、それが当たり前となってしまったことだ。

嘘が本当になってしまった。そして、すべての存在が、なくてもいい馬鹿なものになった。あらゆるものが、酸の沼のような虚無感の中でのたうち苦しむ。こんな自分など、ないものになってしまえばいい。でもそれはいやだ。苦しい。くるしい・・・

馬鹿なことだ。答えは簡単なのだ。
觚は、觚なのだ。酒をくめ。自分の器いっぱいに、酒をくめ。何もないのではない。忘れていたのだ。本当の自分を。

わたしは、ひとつの觚だ。今、できることがある。

本当の自分は、当たり前に自分ができることを、自分でやる。そういうものだ。





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バーバ・ヤガー

2008-03-27 09:11:08 | 画集・ウェヌスたちよ

ひさしぶりに色をつけてみました。画材はアクリル。絵の具は久しぶりに使ったので、コツを取り戻すのに少し戸惑いました。モノトーンも美しいのですけど、猫を抱かせたら、色を塗ってみたくなったのです。

バーバ・ヤガーはロシア民話に出てくる魔法使いのおばあさんです。鳥の脚の生えた小屋に住んでいて、いつも森中小屋を走らせているそうですよ。そして、悪い子はシチューに煮て食べちゃうそうです。しかもその家ときたら、食べた人間の骨でできているそうです。おやまあ。寝物語に子供に話したら、怖がることまちがいなしですね。

日本の山姥のような、こういう妖精めいた魔女の話は、きっと世界中にあるんではないでしょうか。古いところでは、ギリシア神話キルケーとか、メディアとか。みな、人里はなれた森や島に住んでいて、魔法を使い、人を食うとか見ると石になるとか、怖い怖い話が飛び交っている。あれは魔女だから、近寄らないほうがいいよ。そんな人の話が、いつかしらおもしろい御伽噺になる。

お話のバーバ・ヤガーは老婆ですが、絵の中では若い女性にしてみました。この女性は賢く、才能あり、何かにつけ、目立つ。しかもかなり美しいので、女性や、おろかな男性の嫉妬をまねく。賢いバーバ・ヤガーは、それがどんなことになるかを知っているので、森に逃げる。

遠い昔のメディアやメデューサは、その才能や美しさを隠すことなく使ったので、社会の、多くは男性たちの嫉妬を買い、恐ろしい魔女や怪物にされてしまった。それでむごく殺されたりもした。だけど時代が進んで、先人の失敗に学んだバーバ・ヤガーは、そういう社会を捨て、自ら生きる新しい世界を探す。森で、木や花を学び、それを使って魔法のような仕事をし、人の病気を治したり、美しいものを作ったりする。賢い彼女は、あらゆることに自分を使い、面白いことができるということを知っている。

魔女だ、怪物だと、里の人間たちはあざける。けれども、苦しいことがあると、何かにつけ彼らは、魔女を頼りにくる。彼女が賢いことを、本当は知っているから。

昔から、こんな風に森に逃げた女性は、多くいたのに違いないと、わたしは思っています。賢くてきれいな女性は、生きていけない世界だから。魔女にならなければ、生きてはいけない。だから、自ら、魔女になった。

どんなによいことをしても、人間は絶対に、魔女に助けられたなんて、言わないだろう。彼らが勝手に作った多くの話を聞き流しながら、彼女はただ、自分の仕事をするだけ。

バーバ・ヤガーは、森に住み続ける。木や花や、小鳥や獣や、虫といっしょに。風に神様が流した、世界の音楽を聴きながら、猫のように、孤独に生きる。


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君子は泰にして

2008-03-26 07:52:41 | てんこの論語

君子は泰にして驕らず、小人は驕りて泰ならず。(子路)

立派な人は、何事にもおおらかで、決して威張ったりしません。未熟な人は反対に、いかにもえらそうにしますが、小さなことばかりにくよくよします。



要するに、表面的にえらそうな姿勢をとるひとは、たいてい自分の中身に不安がある人ということです。自分は、それほど学んでいない、人間的修養を積んでいないということは、自分ではわかっているので、それでも自分を何とかえらいものにしたいと考える人は、偉そうな態度を見せることによって、他人を圧しようとするのです。

それなりに勉強した人は、そんなことをする必要はないので、自然に風格が備わり、おおらかなやさしさを周囲の人に振りまきます。いい人だねと、みながほっと安心するような人は、だいたい、ちゃんと自分のすることはして、それが当たり前のように何も言わず、そんなことで偉ぶったりは絶対しないのです。

自分としてできることを、やるということそのものが、幸せだとわかっているからです。

ですから、人にあたるに、やたらと自分を大きく見せたがり、胸をそらしていばった姿勢でやる人は、たいてい、小人です。勉強していない。その自信のなさが、不安となってそういうことをする。その内部の苦しみを隠すために、あらゆるところで嘘をついている。その嘘の積み重ねが、崩れてくるのが怖くて、内心はいつもおびえている。だから、ちょっとした小さなところにも神経質になり、人を馬鹿にし、すべてを馬鹿なものにする。

彼らは、順境にはやたらと大きく出ますが、たとえそよ風でも逆風を感じると、とたんにあわて始めます。そしてなんとかして嘘を取り繕おうとしていろいろなことをします。けれども、一番大切なことは決してしません。それでいつも大変なことになる。

失敗をしたら、それを認めて悔い、すべての責任をとらねばと、行動しはじめるのが本当なんですが、小人はいつも、こせこせしたところで言い訳して、盗人のように、逃げるのです。

日ごろ、大いばりでいる人ほど、そういうことをしますよ。


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義を見てせざるは

2008-03-25 09:12:50 | てんこの論語

その鬼にあらずしてこれを祭るは、諂うなり。義を見てせざるは勇なきなり。(為政)

祭る必要のない神を祭るのは、ことあらばなんでもやってもらおうと甘えて諂うのである。人としてしなければならないことを見て、それをしようとしないのは、自分がないということである。



人生、試練は幾度もあるものですが、それに正面から立ち向かおうとはしない人に、いらだって言った言葉だと思います。自分でやろうとはしない。できることでもやろうとはしない。なんでやらないのだと。自分で自分を馬鹿にして、何にもできないと、何もやらない。

自分を馬鹿にしている人は、つらいことがあるときのために、神々に諂う。日ごろ祭っておりますので、どうか助けてくださいと。当然やるべき自分の努力は怠り、何でも神にやってもらおうとする。神々の苦い顔が思い浮かぶようです。現代では、保険に入るってことにあたるかな。いざというときのために、準備しておくのは、悪いことではないでしょうが、それで、人生を楽にいこうとばかりするのは、なんだか馬鹿みたいだ。

いったい、何のために生きているのか。何のためにその自分はあるのか。

きれいな服を着て、いい家に住み、かわいい伴侶と、かっこいい車と、豊かに暮らせる収入と、それだけあれば、まあいいや。なんにもしなくていいから。それでずっときて、突然、試練の壁にぶち当たったら、いったいどうしたらいいのかと、あわてるばかりで、なにもしない。何もできない。そういう人が、今たくさんいるようだ。

やらねばならないことは、たくさんある。今すぐ、自分ができることも、たくさんある。それなのに、やろうとしない。できるのに、やらない。それはなぜなのか。自分が、馬鹿になっているからです。何も勉強していない、何もやっていないから、何もできない。面倒なことは、みな他人にやらせてきた。人間はみな馬鹿だから、おまえは馬鹿だといって、命令すれば、たいていのことはやらせることができた。多くの人が、ほとんどそれだけで人生をやってきたのです。

そういう人が、初めて真剣な試練に出会うとき、だれも助けてくれない、自分だけでやらねばならない人生の課題に出会うとき、本当に驚きあわてる。何も自分ではやろうとせず、まずは誰かのせいにできないかとスケープゴートを探す。そうやって自分のしなければならないことから逃げるために、ずっともがき続けて、とうとう馬鹿なことになる。

いったいなぜこうなったのか。それは、自分を、馬鹿にしすぎたからです。すべての人間を、自分を含めて、馬鹿にしすぎたからです。

やらねばならないことは、やるのが、本当の人間です。それができるからです。その、本当の自分の力を信じずに、すべてをなんでもない馬鹿なものにして、何もやってこなかったから、そうなったのです。





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敝れたる褞袍

2008-03-24 09:47:36 | てんこの論語

敝れたる褞袍を衣て、狐狢を衣たる者と立ちて、恥じざる者は、それ由なるか。(子罕)

破れたぼろい綿入れを着て、立派な毛皮の服を着た者と並んで立って平気なものは、由だね。



礼を重んじた孔子にとって、衣服にかまわないことは、美徳のうちには入らないと思うのですが、少々これは、何かを皮肉りたかった含みがあると思います。

粗野で乱暴なことを、たびたび孔子にたしなめれれていた由(子路)ですが、巧言令色を何より嫌った孔子にとっては、こういう弟子の素朴なところが、好もしく見えることもあったのでしょう。

美麗な衣服を着て、格好だけでもえらく見せたがる者が、学問をさぼりがちであることに、孔子は苦い思いを抱いていたに違いないからです。手っ取り早く人に感心してもらうには、見栄えをよくするのが一番だと考える人は、昔も今もたくさんいます。人は何より、見栄えに一番だまされるからです。

最近では、衣服のデザインとか、布の材質などとかが、よほど発達して、たいていの人がそれを着るだけで、とてもかっこよくきれいに見える服があります。わたしも最近、ようやく美脚ジーンズとかいうのを買いました。なるほど、色といい形といいデザインといい、それをはくだけで、わたしの大根足がきれいに見えるのです。これはいいなと思う反面、少々まずいなと思うことがあります。

着るだけできれいに見える服があれば、人は自分の美しさにそれだけで満足して、それ以上の人間的努力を怠るだろうからです。この傾向は、若い人ほど顕著です。自分の若さ美しさを鼻にかけた若者が、年をとって見栄えの衰えた人を軽蔑し、だれも尊敬しなくなり、学ぼうとしなくなっています。見栄えがよければ、たいていのわがままは通ると思っているからです。

これは悲しい。もしそれなりの容姿であれば、それなりの勉強をして自分に力をつけ、何かができる立派な大人になれるだろうに、少々見栄えがよかったがために努力を怠り、楽しむだけで何もしなくなり、気がついたら何もできない大人になっている。勉強をしない人は、子供っぽいことを大いばりでやり、人を馬鹿にしてわがままばかりやってしまい、そして年をとって美貌を失ったときには、ほとんど何もなくなる。何もやってこなかったからです。

立派な人になるためには、勉強しなくてはいけないんです。それは昔から、ごくごく当たり前のことなんですが、それがいやだという人が、勉強したくないばっかりに、いろんなことをしてしまったという結果が、今のこの世界かな。

お若い方々、勉強しなさい。励みなさい。かわいいから、かっこいいからといって、油断していると、馬鹿なことになりますよ。




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君子は義に喩り

2008-03-23 10:56:30 | てんこの論語

君子は義に喩り、小人は利に喩る。(里仁)

立派な人は、義を先に考え、未熟な人は、自分が得することを、真っ先に考える。



「義」とは要するに、人としてやるべき正しきこと、ということです。ほんとうにいい人は、まず自分が得することよりも、みながよくなるために、自分が何をするか、何ができるのかを、考える。これは、小学校で習うような、とても基本的なことなのですが、大人になったら、これが馬鹿みたいな嘘になっている。おもしろいことですね。

子供にはきちんと教えるのに、大人になったらいつの間にか、嘘になっている。その転換は、どこらへんであるのでしょうか。

最近、人によく言われることなのですが、「おまえは何にもしない」と。それはわたしが、「悪いこと」や「ずるいこと」はなんにもしない、ということなんだそうです。それだけのことに、まったく目を丸くして、なんなんだこれは、という驚き方をされるのです。そして、それが本当に困るんだ、ということ言われるんです。

わたしは単に、わたしらしい生き方をしたくて生きているだけなんですが、(その結果が引きこもりなんですけど)彼らが言うには、一人でも正直に生きてる人がいると、自分たちが嘘になるからだそうなんです。

人間はみんな馬鹿だから、小人だから、自分の利ばっかり考えるものなんだと。そういう世界で生きるためには、悪いことやずるいことをしなくちゃ馬鹿なんだと。これが正しいんだよと。それが正しいってことにしなくちゃ、みんな馬鹿なことばっかりしてるから、つらいんだと。

だから、お前も馬鹿になれよ、みんな馬鹿になれよ、馬鹿ばっかりになれば、俺はつらくない。みんなおんなじだから。

問題なのは、これが、あまりにきつすぎる現実の問題に発展していることです。馬鹿が正しい、利に喩るほうが正しいにしたら、ひどすぎる問題が起きたのに、誰も何もしないということが起こったのです。義によって行動する人が、誰もいなくなったからです。

現実にひどい問題があるが、それを解決するためには、国家予算並みの報酬を人々に払わねばならない。そんなこと、誰もやらない。誰もやらないから、問題はひどくなるばかり、小手先で解決しようとしてもいたちごっこになるばかり。みんなずるいことや悪いことで切り抜けようとする。もっとひどくなる。もっとひどくなる。そしてとうとうひっくり返り、あふれかえる。

馬鹿になってしまった現実の前に、呆然となり、あわてるばかりで、何もできない。それが小人の結末というものです。「馬鹿がいい」にしてしまったら、どういうことになったかを、人は現実にありありと見ることになる。恐ろしいことになった。とりかえしのつかないようなことさえ、してしまった。

「義」によって行動した人はいたか? いました。ごくごく少なかったが。もはや苦しくなりすぎている現実の中にも、それはかすかに生きていた。

これからは、「馬鹿」にされていた「義」が、ようやく、動き始めることでしょう。さて。

馬鹿はいっぱいやりましたが、これから、これを、どうしていくべきか。

まずは、何をやりますか?



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羽衣天女

2008-03-22 10:08:43 | 画集・ウェヌスたちよ

童話民話シリーズ、今回は天人女房です。久しぶりに、かわいい女性の微笑が描けました。

こんなのを描くと、女の子はほんとかわいいなあと思います。花で飾ってあげたり、きれいな楽器を持たせてあげたりしたくなる。ほほえんでくれると、なんでもあげたくなっちゃうな。かわいくなりすぎてしまう。天女は悲しいことなどなにもない。ただ愛してくれるだけだから、どんなにかざってあげてもいいのです。

やさしいだけで、ほかはなにもない女の子。花がほころびて痛んでいたりすると、そっときて直してくれたりする。悲しいことがあったりすると、いつの間にか気持ちの痛みを直してくれていたりする。だれかが痛みを感じているとき、暖かいただ愛だけの喜びで、そっと何かをしてくれるものがいるとしたら、きっとこんな天女ではないかしらと思ったりします。

日本の羽衣伝説では、地上に降りてきた天女を見ていた男が、羽衣を隠して結婚するのですが、羽衣が見つかったらすぐに逃げられてしまいます。でも、似たような天女のお話が韓国にもあって、そちらでは面白い味付けがあります。

天女を嫁にしたら、子供が4人できるまで、逃げられないようにしろ、と進言するものがいるのです。なぜなら、子供が3人なら、天女は両脇に2人、足に1人子供をはさんで天に逃げてしまうからです。でも4人だと、どうしても1人は残していかねばならないので、地上に残ってくれるんだそうですよ。

それを読んで、わたしはなるほどなとうなずいたものでした。わたしにも、子供が4人いるのですが、死にたいほどつらいことがあったとき、もし子供が3人だったなら、死んでしまったかもしれないと思うからです。でも4人だと、たまらない。4人の子供を残して死ぬことなんて、とてもできない。どんなに厳しいことがあっても、とにかく生きねばと思います。

人生が厳しすぎるとき、死んだほうがましだと思うことは何度もありましたが、4人の子供たちが、わたしを生かしてくれました。ほとんど死んでるのも同然の暮らしだけど、それでもなんとか生きてる。

どんな苦しいことがあっても、子供たちのために、生きようと思う。それで、くるしすぎることだって、乗り越えられる。

とにかく、なんとかなるでしょ、で、今を生きています。


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