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世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

五十にして

2012-08-21 07:21:00 | てんこの論語

子曰く、われ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲するところに従えども、矩を踰えず。(論語・為政)

先生はおっしゃった。わたしは十五歳のときに学問を志した。三十歳のときに一人前の学者として立った。四十歳で自分の心に迷いがなくなった。五十歳で、天が自分に与えた使命を知った。六十歳になると、人の意見を素直によく聞けるようになった。七十歳になると、自分の心の思うままにふるまっても、正しい道を決して踏み外さないようになった。

    *

少々詩的に整えられた匂いのする言葉なので、これは孔子自身の言葉ではないと推測しているのですが、わたしももう五十になったので、今日は、これを上げてみました。

五十にして天命を知る。

わたしが自分の天命を知ったのは四十代の頃ですから、そう大きくは外れていません。で、実際に、四十を越えて五十になってみると、やはり思うことがあります。何かが、今までと違うような気がする。今の自分は、四十代だった頃の自分と、少し違う。

最近よく思うのは、二十代や三十代や四十代のときに、無駄だと知りつつもやってきた努力を、怠らずにしてきて、本当によかったということです。

二十代最後の年に小説を書いて出版してはみたものの、誰にも認められず、あまり読んでももらえなかった。わたしなりに当時の自分の思いの丈をぶつけ、当時の表現力で、懸命に書いたものでしたが、結局は今、書斎の書棚の上の荷物となっています。最近久しぶりに読みなおしてみましたが、自分でいうのもなんだが、なかなかにおもしろかった。一日どころか半日で読み終わってしまった。これを書いた当時の自分が、今の自分とまるで違うように思えるのは、過ぎた月日がそう感じさせるのでしょうか。

三十代には、同人誌をやっていました。二十人ほどの会員さんといっしょに、十年くらいやったでしょうか。年に三回の発行で、三〇号以上出したと思います。いろいろ苦しいこともあったが、自分なりに誠意をもって、かなり有意義な仕事ができたと思う。同人誌をやっていての一番の収穫は、自分の文章力が高くなり、表現力が深まったことでした。要するにスキルがあがったのです。

四十代に入ると、二冊目の本を出版した。中編程度の童話でしたが、これもほとんど売れませんでした。これも長いこと読んでないから、久しぶりに読んでみましょうか。また別の自分が見つかるかもしれない。それと、「花詩集」という小さな詩のペーパーを作って、知り合いに配ったりしましたっけ。多分、ほとんど読んでくれてはいないと思う。読んでくれても、何も心にひっかかることなく、ゴミ箱に入ったんじゃないかな。ブログを始めたのもこのころでした。いろいろとやりましたけれど、なかなか、よい反応はなかった。わたしはいつも、ほとんどひとりでした。自分をわかってくれるのは、神様だけだと思っていた。でも、たとえ無駄だと分かっていても、誰もわかってはくれないとわかっていても、何かの行動を起こすことをやめることはできなかった。たとえ陰で馬鹿にされていたとしても、自分のやりたいことはやりたい。やらなければならないことは、やらなければならない。

そして今、五十歳。まあ、毎日、切り絵を切ったり、色鉛筆で絵を描いたり、物語を書いたり、いろいろとやっている。この年になって振り返って、初めてわかる。今までやってきたことが、決して無駄ではなかったことが。わたしは、実に豊かにものをもっていて、本当に色々なことを自由にやれる。わたしとして生きることの楽しさを、深く感じている自分がいる。今までやってきたことが、そのとき流した汗や涙や、出せなかった声や叫びたかった思いが、宝石のようにきれいな石になって、わたしの中に一杯詰まっている。

いつだったか、PTAの会長なんかもしたこともありました。あのとき、本当はとても苦しかったんだけど、他にやる人がいなくて、わたしがやったのでした。一年間、一応会長はやったけれど、いろんな人が助けてくれて、何とかなった。わたしはただ、みなに、ありがとうとか、おねがいしますとか、本当に助かりますとか、言っていただけだったのです。ほとんどはそれだけ。やらなければならないことはもちろんやりましたが、やったことのほとんどは、みなに、心から感謝して、どうかみなでいいことをやって、みながいいことになるようにと願っていただけでした。

あの経験は今もわたしのおもちゃ箱の中で光っている。たくさんの人が、愛で、助けてくれたのです。だから、本当に楽しい活動ができました。バザーなども、本当にみんなでできることをいっぱい集めて、本当にすばらしいことができました。

愛ならばすべてうまくいく。

愛ならば。

心の位置を正しくして、自分の本当の心が嫌だということは決してしてこなかった。物事をやるときは、いつも愛を忘れなかった。辛い時も苦しい時もあった。未熟さゆえの失敗もあった。そして今、わたしは誰かというと、田舎に住んでいるおばちゃんで、多少絵が描けて、文章が書けて、おもしろいことを考えたりすることができる。ああ、花の写真なども、けっこうよいのが撮れたりします。それはわたしが、花や木と心を通わせるということを、長い間やってきたから、花が時々、とても良い顔をして写ってくれるからなんですが。それに関しても、いろいろな経験があったなあ。

家族はいるけれど、友達はいるかな。友達と言える人がいないこともないけれど、向こうはどうだろう? わたしという存在は、薔薇と真珠と透明な魚の瞳の悲しみを練り溶かして作った、白い星の入り込んだ一つの小さな青い石の結晶です。あらゆるとうめいな百合の詩の合唱隊。

ちょっと、賢治を気取ってみたり。

ここで少し説教的になりますが。お若い方、馬鹿にされるのがいやだとか、かっこ悪いから、面倒だからといわずに、とにかく何でも自分でやれることはやっておいたほうがいいですよ。人や世間のために、あるいは自分のために、自分のやれることは、やっておいたほうがいい。苦しくても、寂しくても、失敗を恐れずに、あきらめずにやっていきなさい。そうすると、五十になってからがすごく楽しくなりますよ。



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君子重からざれば

2012-06-25 07:31:13 | てんこの論語

子曰く、君子重からざればすなわち威あらず。学べばすなわち固ならず。忠信を主とし、おのれに如かざる者を友とするなかれ。過ちてはすなわち改むるに憚るなかれ。(論語・学而)
先生はおっしゃった。君子は小さなことでおろおろしているようでは人に軽く見られる。勉強をすれば自分本位に偏りがちなものの見方を改善することができる。何事にもまことを尽くすということを、自分の心の柱とし、友人を選ぶなら優れて学ぶべき人を選びなさい。間違ったことをしてしまったら、すぐに反省し、それを改めなさい。

   *

これは、ある人に言いたいことなんですが、仮にその人を、Aさんとしましょう。Aさんは今、悩んでいます。大きな壁にぶつかり、その壁をどうやって乗り越えたらいいのかわからなくて、悩んでいます。とにかく今、大変なことになっていて、本当に困っているのですが、どうしていいかわからず、ただ毎日を、おろおろと過ごしているのです。
問題をなんとか解決したいのだが、どうしてもAさんにはそれができない。それはなぜかというと、理由は簡単、自分のしたことが、間違っていたのに、それを認めたくないからです。
実に残念なことなんですが、人間、多くの人は、こういうときは本当の現実に目をつぶる。そして毎日ただ、悩むだけで何もしないでいるうちに、状況はどんどんひどくなって、結果、だいたいは、本当に大変なことに、なりすぎてしまうのです。

自分の過ちを認め、素直に頭を下げ、自分のするべきことをする、つぐなうべきことはつぐなう、そういうことを、真心を持ってやれば、問題はたとえ全部とはいかなくても、かなりなんとかなるものなのです。本当に大切なのは、人にも自分にも、「忠信」をつくすということだ。真心でもって対応する。本当に正しいことをする。それがどんなに苦しくとも、自分のやるべきことを、正しい方向に求めてゆく。

学べばすなわち固ならず。…すなわち、正しいことを勉強していれば、自分本位に偏りがちな固い心を改め、しなやかに頭を切り替えることができる。つまりはです。いつまでも、なんでこんなことしてしまったのか。どうしてこんな馬鹿なことをしてしまったのかと、うじうじと悩んでいるよりは、すっぱりとその悩み迷う心を切り捨て、どこからみてもそれが正しいということをしなければならない。すなわち、ケチくさいプライドを捨て、土下座をしてでも謝って、全て自分で何とかしてみますと言って、自分にできることをすべてやってきなさい。

その壁を乗り越えられないのは、やはり、Aさん、どう言い訳しても、あなたが、自分のことしか考えていないからです。こんな恥ずかしいことをしてしまったという自分の過ちを、認めたくないのだ。できるなら、なんとかうまいやり方を考えて、自分の過ちをなんでもないことにして、自分のプライドも何もかも傷つかない方法で、上手にこの状況を乗り越えられないかと、虫のいいことを考えていませんか。

以下に再び述べます。
これは、あなたが、この問題を乗り越えるための、最後の方法です。はっきりと言います。先方の人のところに行って、頭を下げ、何もかもを正直に申し上げ、すべて責任はとります、できることは何でもやります、申し訳ありませんでした。…と、心より謝って来なさい。そして、迷惑をかけたその人のために、自分にできることはすべてやりなさい。

Aさん、言っておきますが、今のまま、何もしないでいては、後々に、もっと恥ずかしいことになります。

最近のわたし、だいぶきついですね。昔はもっと優しかったような気がするが。何か知らないが、わたしの中に、もう一人のわたしがいるようだ。そのわたしは、ずいぶんと、何かに腹を立てているようです。

とにかくだ。正しいことをまっすぐにするということ、間違いに気づいたら改めると言うことが、どんなに大事なことかということを、どちらの道を選ぶにしろ、Aさん、今回のことで、あなたは大きく学ぶことでしょう。





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君子は義に喩り

2012-06-12 07:25:43 | てんこの論語

子曰く、君子は義に喩り、小人は利に喩る。(論語・里仁)

先生はおっしゃった。君子は真っ先に正しいことは何かと考える。小人は真っ先に、自分が得することは何かと考える。

   *

少し昔のことですが、わたしは大きな壁にぶつかったことがありました。人間関係が嵐のような渦になって、とんでもないことが起こった。わたしはとても辛かったのですが、この状況を乗り越えることを考えるとき、何が一番大切なのかを、考えた。そして、自分の感情を引きちぎるような思いをしながら、正しい方向を選んだのです。それは、ぜんぶを自分ひとりで背負うということでした。それしか、その場を支える方法がありませんでした。物事を最も正しい方向にもっていくには、自分は頭の悪い振りをして、何にも知らないことにして、わたしひとり、馬鹿になって黙っていればいい。それで、かなりのことはなんとかなるはずだと、考えました。

たったひとりで、その状況を何とか正しい方向に向かわせることは難しかった。わたしにできることと言ったら、詩を書くことくらいだし、それを使って、どうにかして皆に正しいことを教えることができないかと考えた。…もちろんわかっていた。馬鹿なことだと。努力しても、何にも相手には伝わらないだろうと。けれども、できることはそれしかなかった。皆が幸せになるために、どういう心を勉強しなければいけないかを、なんとかして伝えようと、拙い詩ばかり書いて、みんなに見せようと配ったりした。でも、心は一切通じなかった。わたしは皆に馬鹿にされて、相手にもされませんでした。気持ちは、ほんとうだったのです。ほんとうに、なんとかよいことをしようと思っていた。けれども、わたしは非力だった。何もできなかった。わたしの望んだことは、ひとりでもいいからわたしの書いた詩を読んでくれて、気持ちを改めて欲しいということだった。でもそんなことは、この世界では、全く馬鹿なことなのです。わかっていました。やってもやっても、馬鹿にされるだけだと。わかっていても、それしかできることがなかった。

以下は、そのときわたしが書いていた詩のひとつです。「花詩集」と名付けてコピーして色々なところに配っていました。前のブログにも少し載せたのではないかな。

   *

「クロマツ」

辛そうですね
辛いですか

大きな壁が立ちはだかって
一歩も動けませんか
壁は そろそろ自分自身と
話をしなければならない
時がきたという印です

たいして疑問を持たずに生きてきた
自分というものについて
深く考えなおさなければならない
どこが悪かったのか
何を改めねばならないのか
何をするべきなのか

チョウチョウのように着飾って
ひらひらとうろつくだけでは
だれにも何も伝わりません
本当のあなたは何をしたいのか
何を求めているのか
ちゃんと考えているのですか
氷のような手で魂をもてあそびながら
こざかしい技と力だけで
すべてをつかもうとしてはいませんか

乗り越えられないのは
やり方を間違えているからです
正しいことを学びなさい
余計なものを脱ぎ捨てて
本当の心で飛びなさい
その時 初めて
すべては何のためにあったのか
あなたにもわかることでしょう

   *

今読むと、本当に馬鹿だったと思う。真っ正直にもほどがある。こんなもの、誰も読んではくれない。誰もわかってはくれない。それでもわたしは、やりました。私にできることの中で、最も正しいと思えることは、それしかなかったのです。わたしは、本当に、非力でした。正しいことを、詩にして書いて、かけらでも相手に伝えようとすること、それしかできることがなかった。だから、せめてもとやっていた。みんな、わたしのことを、ずっと馬鹿だと思っていたでしょう。多分、今もそう思ってる。いや、自分でも本当に、馬鹿だと思います。

花詩集は、34号まで出しました。それぞれに花をタイトルにした詩とエッセイを書いて、月に一回くらい出していた。ともだちに配ったり、町の掲示板にはってもらったり、学校の職員室で配ったりしました。読んでくれた人は、いたかもしれないけれど、きっと、伝えたい心はすべて、伝わらなかったと、思う。

何もかもは無駄だと知りながらも、やらねばならない時がある。かけらでも希望があるのならそれにすがってみる。これは「旗」の編にも書きましたな。極小の粒のような小さな希望の星をつかもうとしても、それは煙のように空気に溶けて消えてしまった。今思うと、おかしいくらいだ。やってもせんないことに一生懸命になっていた。それでも。

わたしは、正しい、ことを、したのです。それは子どもみたいなことでしたが。

これだけは、自信を持って言えます。まちがっては、いませんでした。不器用で、何ともへたくそなことしかできなかったけど、自分に嘘はつかなかった。

馬鹿だけど、最後まで本当の自分をやりとおした。心に重い荷を追って、疲れ果てても動かなければならなかった。そして、努力してやったことは砂の城のように、すべて崩れて消えて行った。何もかもは無駄だった。誰もわたしの心は知らない。でもそれでもいい。わたしは、正しかったから。自分に恥ずかしいことは、しなかったから。

あのとき、何が一番正しいのか。それを考えて、自分が何をやるべきか決意をしたとき、一羽のトンビが風に乗ってわたしのそばを飛び過ぎていったことを覚えている。まるで、見えない誰かが、その通りだ、と言ってくれているように。私は海辺の小さな空き地の隅に、犬と一緒に立っていた。今も覚えている。

だからわたしには人に尋ねることができる。
あなたが今、していることは、正しいことなのですか?



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これ知るなり

2012-06-10 07:14:08 | てんこの論語

子曰く、由、なんじにこれを知るを誨えんか。これを知るをこれを知るとし、知らざるを知らざるとなせ。これ知るなり。(論語・為政)

先生はおっしゃった。由よ、おまえに知るということを教えよう。知っていることは知っているとして、知らないことは知らないとしなさい。これが知るということ。すなわち、己を知るということだ。

   *

わたしたちは、世界の秘密について、神がこの世界に隠した無数の珠玉の秘密に関して、ほとんど何も知らない。だのに、地球のことならなんでも知っていると言う顔をして生きている。そして、好き放題のことをやっている。

本当は、地球の秘密の、目には見えないとても大切なことが、かけらでもわかったなら、この世界には、けっしてやってはいけないこと、やりすぎたらいけないこと、やると、あまりにも愚かだということなどが、それはたくさんあることがわかる。今の人間はそういうことはほとんど何も知らないから、その決してやってはいけないこと、やりすぎたらいけないこと、やるとあまりにも愚かだということを、たいてい、とても立派ないいことだと思って、やっているのだ。

人間が立派だと思ってやっていることの中には、少しも立派ではないということが、たくさんある。時に、人間が情熱を傾けて真摯に取り組んでいることの中に、そういうものがあって、そんなのをテレビなどで見ると、わたしはあまりにも苦しくて、目を閉じて顔を背ける。
それが遠い未来なのか、近い未来なのかわからないが、人間はいつしか、その真実に気付かねばならない。それがどういう形で起こるか分からないけれども。

大切なことを知らないと言うことが、どんなに悲劇的な滑稽劇を生むかということを、人間はいつか自分の目で見ねばならない。多分、それはきっと、たまらなく自分が、恥ずかしい。でも、人間は、乗り越えねばならない。

自分が知らな過ぎること、そして誤っていたことがわかったなら、それから逃げたりしないで、まずはそれを自分のよい体験だとしっかり受け止め、新しく学び始めることだ。これは当たり前のことだけれども。人間は知っていることは知っている。でも知らないことは全く知らない。そしてその知らないことは、無限に多い。それをこれから、人間は知らなければならない。

花にも木にも虫にも、小さな動物や、山や川や海にも、もちろん神にも、頭を下げ、教えを請うことだ。彼らはわたしたちの知らないことを知っているから。おもしろいことを教えてくれる。また時には厳しく、間違いを指摘してくれる。本当に知るということがわかったなら、礼義を整えて、この世界にある愛なる者すべてに、頭を下げねばならない。勉強させて下さいと、祈らねばならない。そうすれば、地球上の愛が、人間に様々なことを教えてくれるだろう。

真実を知るのは、惨いかもしれない。たぶん、人は相当に苦しむことだろう。それがいつのことかはわからない。でも、人は知らなければならないのだ。そこを、乗り越えねば、次の段階にいけないのだ。



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その奥に媚びんよりは

2012-06-05 07:29:51 | てんこの論語

王孫賈問いて曰く、「その奥に媚びんよりは、むしろ竈に媚びよとは、何の謂ぞや」。子曰く、「然らず。罪を天に獲ば、禱るところなし」(論語・八佾)

王孫賈が孔子に尋ねた。「奥の座敷でわけのわからぬ天の神に祈るより、むしろ、飯をたいて食わせてくれる竈を大事にしろということわざがありますが、どう思われますか」
すると孔子は答えた。「それは間違いです。天の下にいて天に恥じるようなことをすれば、他に祈るところなどどこにもありません。」

   *

資料によると、「その奥(おう)に媚びんよりは、むしろ竈(そう)に媚びよ」、というのは、衛という国の形式的な王である霊公にとりいるよりは、むしろ実権を握っている重臣(王孫賈)の方に媚びた方がいいのではないかという謎かけだそうです。
でもまあ、そんなことはおいといて。ここでは、奥座敷で高き理想の神に祈るよりは、ものを食わしてくれる台所の竈を大事にしろという意味にとります。つまりは、仁や義や礼などの人として生きるための大切な徳目を大事にするよりは、食うために必要なものやお金を大事にしろということです。

確かに生きるためには食べることも必要なことですが、人間としてより高く、平安に豊かに生きて行くためには、人としての、愛ややさしさという美徳を持っていることが必要だ。高くものごとを学んだ人は、一杯の粥にも神の愛があることを知っていて、人やものを大切にするということが、どんなに大事なことであるかがわかる。なにごとにつけ、本当に大切にすべきものを大切にするということが、とても大切なのだ。それを仁といったり、礼といったりする。

竈もなくてはそりゃこまりますが、それもまた愛が人に与えてくれたもの。人間はやはり、仁や義や礼などの、人が人として生きるために本当に大切な徳目を深く学び、それを自分の友として大切に心の中に持って、生きて行かねばならない。そうでなければ、嘘や悪いことが世の中にはびこって、社会に乱れが生じ、人々が生きることが、本当に苦しくなってしまう。ひどいことになれば、竈でたく飯すら、人々は得ることができなくなってしまう。

罪を天に獲(え)ば、禱(いの)るところなし。

大切なのは、もっとも大切なものが何なのかと言うことだ。この世界のすべては愛なのだ。天とは全ての存在が愛そのものであるということの孔子なりの表現でありましょう。孔子は愛たる実在の真実を、高き愛なるものの実在を、天と言うことばに感じ、表現したのだと思う。その真実よりも目先の食べ物の方が大事だと言ってしまえば、もはや祈るところもない。天を侮辱してしまえば、天の下のどこにもいくところがない。

「奥」で祈るもの。それは人として守るべき正しい愛の行ない方、表現の仕方を教えてくれる神なのです。人はこの大切なことを学んでいかねばならない。良き書を読み、良き師に習い、様々に行動し、失敗を繰り返しつつ改めつつ、体験を積んで、自分の心を豊かにし鍛え、それをしっかりと心につかまねなりません。
「仁」というものが何であり、それがとてもすばらしいものだとわかるには、それがあると、ほんとうに幸福で良いことが起こるということがわかるには、人間はまだ、若すぎる。もう少し、勉強しないと、多分、わからないと思う。

人は、人として守るべき徳目を大事にして、生きていかねばならない。人を愛し、正しいことをし、きちんとした礼儀を守って、本当に大切にしなければならないものを大切にせねばならない。人が、本当に大切にするべきものが何であるかをわかり、それを大切にできるようになれば、生きて行くことはだいぶ楽になるし、社会は美しく整えられて、みんなが暮らしやすくなるでしょう。

人として生きること。それは仁を心に灯し、義を友とし、礼に己を整え、真実に頭を垂れて、人生を学びながら、まじめに、正直に生きること。それが、自分の真の心に、最も心地よい、生き方であるとわたしは思う。

「まじめに、正直に。」愚直というかまるで馬鹿みたいに聞こえることばですが、今この言葉が、人間に一番必要なのではないかと感じています。

まじめに、正直に、生きていますか。みなさん。


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詩三百

2012-06-01 07:15:57 | てんこの論語

子曰く、詩三百、一言をもってこれを蔽う、曰く、思い邪なし。(論語・為政)

先生はおっしゃった。詩経三百篇、言葉や表現は様々にあるが、全ては同じことを言っている。それはただ一言、「心を正しくしていなさい」、ということだ。

    *

ずいぶんと私流の訳ですが、そこはご勘弁を。

「正しいことをしなさい。悪いことをしてはいけません」と、小学校では良く習いますね。だいたいの先生は、子供たちにそういうことを教えると思います。でもおとなになると、なんだかみんな、小学校で教わったことを忘れるみたいなんだ。どうしてかな。小学校の先生なら、きっと目をとがらせて怒るようなことを、人は大人になると、いろんな巧みな技術を使って、とても上手にやるようになるみたいなんだ。一体、どこでそういうことを習うんだろう。

本当に、多くの人は、おとなになると、上手に、悪いことやずるいことが、できるようになるようなのだ。それはどこで習うんだろう。学校や塾でもあるんだろうか。そんなところがあるのなら、ぜひに一回訪ねてもみたいものだ。どんな教科書を使って、どんな授業をやっているのやら。きっと面白いことを教えているのに違いない。

まあ、冗談はこれまでにして、久しぶりの論語です。

今の世は、真っ正直に正しく生きることよりも、裏でずるいことを賢くやって、よく言うように、「うまくやって」自分を得させることが、頭のいいかっこいい人のすることのように考えている人が多いそうです。みな、裏で、人にばれないようにやれば、なんでもしていいと思っているかのようだ。本当に、自分のやったことが、誰にも知られなければ、それでいいと思っているかのようだ。でも、誰も知らなくても、自分だけは、自分のしたことを知っている。人にばれたら恥ずかしいようなことを自分がやっている、ということを、自分は知っている。それは恥ずかしくないのだろうか。自分が苦しくないのだろうか。自分のやっていることを、自分で恥ずかしいと思うことはないのだろうか。

聞いてみたい。本当に、それをやって、自分は苦しくないのか。平気なのか。何の呵責もなく、そんなことをすることが、できるものなのでしょうか、人間は。
人間は知らないのだろうか。裏で自得のためにずるいことをできるということが、頭のいいって意味ではないことを。本当に頭のいい人、論語では知者と言いますが、そういう人は愛を裏切りません。愛を裏切ればどういうことになるかを知っているからだ。

「正しいことをしなさい。間違ったことをしてはいけません」

自分の本当の心が本当に喜ぶことをしなさい。愛を基本にして、世の中のためにも自分のためにも、正しいことをする。そこに幸せを見いだせる人間は仁者というものだ。自分の得ばかりを考えて、ずるいことばかりしてはいけない。その行為の醜さが、自分をどれだけ汚くして、苦しめてしまうものか。後々の自分の運命に、どれだけ暗い影を落とすものか。人間はまだそれがわからないか。

正しいことをしなさい。正しい心で、自分にも他人にも恥ずかしいことをせずに、詩経のような良い本を読んだり、良い師について学んだりして、人生をもっとまじめにやりなさい。それが当たり前のことにやれて初めて、人間は少し大人になれる。

人によっていろいろと表現の仕方は違うでしょうが、太古の昔から、賢い人々は常にこう言ってきたはずだ。
「正しいことをしなさい。嘘のないきれいな心で」

それが本当にいいことなのだと、心にしっかりとわかるまで、人間はどれだけの失敗をし、どれだけの月日を費やしてきたか。もう一度繰り返して言います。

「正しいことをしなさい。間違ったことをしてはいけません」



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人と歌いて善ければ

2008-04-19 11:23:27 | てんこの論語

子、人と歌いて善ければ、必ずこれを返さしめて、後にこれに和す。(述而)

孔子は、人と一緒に歌を歌っていて、その歌が気にいれば、いつも人に繰り返し歌ってもらい、それを覚えてから、みなと一緒に歌った。



何気ない日常の習慣を書いてあるような言葉ですが、なんとなくこれは好きです。孔子は音楽が好きだったらしく、その評論や、美しい音楽に心を奪われて、三月の間も食事の味がわからなかったなどの言葉があります。

人に対する厳しい言葉や、この世界の矛盾を嘆く言葉の多い論語の中で、孔子が音楽の話をするときは、なにやらほっと、胸のつかえが下りるような気がするのです。

音楽には、暮らしの中で疲れ、荒れてくる人の心を、心地よい愛の魂の世界になじませ、忘れていた我の感覚を思い出させる効用があるからでしょう。

わたしも、歌は好きです。今は病中ですので、よい声が出せず、歌うことはあまりないのですが、気に入った歌をかけて、それにあわせて踊ったりしています。歌ったり、踊ったりしていると、魂が喜びの中に上昇して、幸福感にあふれてきて、この世での苦しさを、ある程度消してくれるのです。

生きていくことは、楽しいことばかりではない。苦しいこと、悲しいこと、あまりに厳しすぎること、たくさんあります。耐え切れずに、つぶれそうな叫びを上げてしまうこともある。ありえない現実を前に、凍り付いてしまいそうなこともある。

その中で、決してこの自分を見失わずに生きるということを、善い音楽は助けてくれる。自分が、自分であることの幸福は、理論理屈ではなく、感性の踊る魂の世界で初めてわかることだからです。音楽はその感性の目覚めを助けてくれるのです。

詩に興り、礼に立ち、楽に成る。(泰伯)

詩を読むことによって人間の情感が目覚め、それを礼によって正しく整え、その充実と幸福を音楽の中に完成させる。

楽(音楽)は、芸術的自己表現といってもいいでしょうか。

好きな音楽に合わせて踊っていると、その音楽の中を自由の喜びのままに、ぴちぴちと泳いでいる、自分の魂の熱い実在を感じるのです。わたしが今、真実、わたし自身だ。その苦しいほど熱い喜びが、光のように爆発してこの胸に激しく満ちるのです。どんな苦しみも、これさえあれば、耐えられるだろう。わたしが、わたしであること。その喜びを自由に歌い、自由に踊る。

生きている中で、苦しすぎるほど苦しいことは、たくさんあるでしょう。激しい屈辱、激しい孤独、苦悩、悲哀、虚無感。そのつぶての嵐のような闇を抜けていくとき、人を導いてくれるものはただひとつ、この「本当の自分自身」です。どんな時も、この本当の自分が、もっとも心地よいという道を選んでいきましょう。それがどんなに厳しい道であろうと、その人はもっとも幸福なのです。

苦しみの中で、心を通わせられる友に出会ったら、みなで一緒に歌い、踊りましょう。あなたも、あなた自身か。わたしも、わたし自身なのだ。生きている。ここにある。すべてを感じている。

その美しい幸福を交し合い、喜び合い、愛の中に、すべての自己存在をたたえましょう。

祭りとは、本来そういうものだったのです。


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必ずや射か

2008-04-18 09:18:58 | てんこの論語

君子は争うところなし。必ずや射か。揖譲して升下し、而して飲ましむ。その争いや君子なり。(八佾)

君子は争うことはありません。あるとしたら、弓くらいのものです。道場に上がるときも下がるときも会釈して道を譲り合い、勝者は敗者を敬して酒を酌む。君子の争いというものです。



生涯において、戦う場面はいくらもあります。苦しいときに、戦わねばならぬものと戦うことは、ぜひともやらねばならないことだからです。戦わねばならないときに、戦えないものは、あまりに苦しい。

戦って、価値あるものと戦うものこそが、君子といえます。けれども、小人は、戦って勝つこと自体が、馬鹿みたいなものとしか戦わないのです。勝てて当然というものとしか、戦わないからです。

美しい戦いというものは、すべての存在を敬しているからこそ、できるものです。
なぜ勝者が敗者を敬して酒を酌むのか。それはその人の力や技の中に、たゆまぬ努力と精進を感じるからです。彼が正しく、自分と戦っている人だということを感じているからなのです。時の勝敗は、眼前の現象でしかない。まずはその時点での優劣にしか過ぎないのです。勝ったものも負けたものも、長い長い自分自身の道をゆく、ひとりの熱い感性の塊なのだ。愛すべき友なのだ。

熱い魂を感じるものが相手だからこそ、本気で戦って勝つことに意義がある。彼もまた己と戦い、精進し、いつかはまた自分を負かすだろうからです。美しい戦いに自己の力を燃焼し尽くすことができる。これは生きるものにとって、限りない幸福のひとつです。それであってこそ、勝利はすべての人のものとなる。

こうした戦いで得た自分の力は、いつか、本当に戦わねばならない相手と戦うときに、生かされる。絶対に負けてはならないものと戦うときに、生きるのです。弓であろうと、ボールゲームであろうと、そこで本気で戦うということを、やってきた者は、真の敵と向かい合ったときに、やってきたことがなんのためであったか、その意義が深くわかる。これはやらねばならない。そのときがきたとき、その人は自己の真価に目覚めて、ふるえるほどの幸福を味わうのです。

おれは、なんのためにこれをやってきたのか。これと戦うためであったのだ。

人類はみな、戦士だ。目の前に今、真に戦うべきものが見える。

それと戦うために、今、動き始める。




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不仁者はもって

2008-04-17 09:40:00 | てんこの論語

不仁者はもって久しく約に処るべからず、もって長く楽に処るべからず。仁者は仁に安んじ、知者は仁を利す。(里仁)

不仁な人は、つらいことにも幸せなことにも、長くは持ちこたえない。なぜなら、つらいことになるとすぐに音をあげるし、幸せなときには調子にのって馬鹿なことをして、すぐにだめになるからだ。仁者は、愛の中に安らぎ、知者は、愛を知っているので、愛のために行動する。そこには、長い安定がある。



なんだか、訳文の中にすべて言ってしまったような感がありますね。

たまには、日ごろの何気ないことでも、気楽に書こうと思うのですが、朝、論語を開くと、また書きたくなってしまうのです。ああ、ほんとうにそのとおりだなあって思うからです。

不仁者とは要するに、愛の勉強をしていない人のこと。思いやりだとか、愛だとかの、細やかな人間の心の美しさが、わからない人。なんでもかんでも、自分勝手にやっていいじゃないかと、平気で馬鹿をやれる人のことです。そういう人は、長いこと、人のために我慢したり、つらいことを耐えてがんばったりしたことがないので、どうしても、大事なところで、がんばることができない。

物事の深い意味を勉強していないので、表面的な現象だけを見てすべてを判断して、短絡的に行動して、あらゆることを、すっかりだめにしてしまうのです。最近、わたしが「馬鹿」というのは、こういう人たちのことです。

こういう人たちが、幸運にも地位や財を得ても、それを長く維持することは難しいものです。なぜなら、そういうものを持つと、彼らは自分のことだけを考えて、ほかの人たちをみんな馬鹿にしてしまうからです。自分の幸せは、いろんな人の助けがあってこそあるのだということが、わからないのです。自分は金持ちだから偉いのだ、貧乏人は馬鹿だから不幸なのだと、あからさまに言い、他人の妬みや拒絶を買い、少しでも落ち目になると、たちまちだめになってしまうのです。

けれども仁者は、愛を深く知っているので、人を深く愛します。人の幸せが、自分の幸せなのです。ですから、何でも人のためにやろうとする。そして、みんなを、愛の響きの中で、幸せにしてあげたいと願う。だから、愛の中に安らぎ、ずっと長く幸福でいることができるのです。お金がなくとも、えらい人にはなれなくても、愛に生きていることが幸せだからです。
それがわかっている知者は、愛によって生きることが、すべてよくなるということをちゃんと学んでいるので、愛のために、すべてをやります。そして、すべてをよくしていくのです。愛によってやれば、自分も人も、すべてが幸せになることがわかっている。だから、その幸福は長く安定するのです。

歴史上、権力が長続きしなかったのは、ほとんどすべてが、愛ではなかったからです。知と勇をもった強い人が、がんばって頂点に上り詰めても、すぐにだめになる。傷つけあい、殺し合い、奪い合ってきたからです。

諸行無常だとか、わびさびだとか、古くから日本人の感情の中にあるといわれる言葉ですが、これらは、人が、愛の響きを見失ってから、心の中に吹いていた悲哀の風の、別名です。愛を、いやだと言ってしまってから、その寂しさを紛らすために、自嘲的に使っていた言葉なのです。

馬鹿なことをしてしまったという悔いも、悲哀の中に酔って美しく言えば、かっこよいからです。でもほんとうは、常に苦しかった。

愛の中の幸福が、ずっとほしかったのです。

帰りましょう。もう。苦しかった。本当に苦しかった。

もっとも大切なものを拒絶して、自分ひとり偉いのだとかっこつけてきた。けれどもそんなのは、みな、嘘だった。ただ、馬鹿にして失ったものの大切さを、消し去るために、あらゆる馬鹿なことをしてきただけだったのだ。

橋を渡って、向こうにいけば、もう懐かしい本当の自分に出会える。もういい。すべては夢だった。

はかない露だまの中に描いた、痛い幻の世界だったのです。



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何かわれにあらんや

2008-04-16 09:58:29 | てんこの論語

黙してこれを識し、学びて厭わず、人に誨えて倦まず、何かわれにあらんや。(述而)

沈黙の中に思索をめぐらし、ただひたすらに学び、それを人に教えて飽くことがない。わたしは、こういうわたしが、大好きだ。



昨日、朝の交通当番の帰りに、近くの空き地を散策していましたら、少し変わったタンポポを見つけました。セイヨウタンポポだと思うのですが、筒状花がみな、舌状花のようになっていて、まるでほんとのキクの花のようになっています。

それが、今のタンポポの苦しみを叫んでいるように見えたので、わたしはその場に座り、タンポポに深くお辞儀をしました。タンポポを苦しめた誰かの変わりに、心から、謝りたくなったのです。

すると、苦しさの中にも、ほんのり笑ってくれるような、顔をしてくれました。少し、痛みが和らいだのでしょう。

タンポポは今、本当に苦しいのです。心からの愛で、みんなを大好きだといっていたのに、それを、まるっきり馬鹿だといわれてしまったからです。それがとてもつらいのです。がんばって、やろうとしても、どうしても、笑えない。馬鹿だといわれてしまったら、自分が本当に馬鹿なんじゃないかと思えて、タンポポは、タンポポでいることが、苦しくなってきたのです。

だから、ふと、自分以外の誰かになれたらと、そんな心がきざしたのでしょう。だから、いつもとはちがう、少し変わった花になった。タンポポであることが、今はとてもつらいから。

タンポポが、タンポポではないなんて、たまらない。そんなことになるなんて、信じたくない。だから、頭を下げて、謝らずにいられなかった。どんなにかつらかったろう。

冒頭の孔子のことばは、自分が、自分らしい自分であることの幸福を、素直に語ったものだと、わたしは解しています。わたしは、こんな人間なのだと。なんだかいつも、おんなじことばかりやって、人に馬鹿にされたりもするんだが、こんなわたしが、わたしは好きなんだと。たまらなく、幸せだと。

自分が、自分で、あること。ほんとうの、自分であること。それがもっとも美しい幸せであることを、わかっていることが、ほんとうの幸せなのです。

だから、タンポポには、タンポポであってほしい。

あなたが、あなたであることが、みんなの幸せなのだ。なぜなら、みな、同じ、「自分」というものだから。だから、みんな、あなたを愛しているんだよ。

何でもしてあげたいって思って、みんなを愛するのは、馬鹿なんじゃなくて、本当に大好きだからなんだ。愛しているのが、本当だからだ。あなたが、あなたの愛を、馬鹿だといってしまったら、痛すぎるよ。苦しすぎるよ。

タンポポを、見かけるたびに、わたしはいおう。あなたが大好きだ。あなたが大好きだ。

タンポポがまた、本当にタンポポの笑顔で、笑ってくれるように。



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