世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

聖母子

2014-05-10 06:10:37 | 虹のコレクション・本館
No,135
ジョヴァンニ・ベッリーニ、「聖母子」、15世紀イタリア、盛期ルネサンス。

好きな画家のひとりなんだが、この聖母は女性ではないね。実に美しいが、これは聖女というより、男だよ。

男の、実に清らかな聖者の位に達したものを、女性に変換して描いたという感じだ。だから、美しいが、まるで女性らしさを感じない。ヴェールをとっても、長い髪はそこにない。たぶん、男のような短髪がある。

メッシーナの聖母などには、厚いヴェールの奥に、女性らしい匂やかな長い髪を無理やり隠しているような風情があったが、この絵の女性には、始めからその気配がない。

決して生むはずのない女性に、子供を与えているためか、まるで幼子イエスは教会の生誕劇に使う人形のようだね。

たぶん、ベッリーニは、身近に、聖母のモデルとできるような女性を見いだせなかったんだろう。ゆえに、ときに美しさを感じさせる、静謐な男を、女性に変えて聖母にしたのだ。

まあ、画家は、自分が美しいと感じるものしか描けないからなのである。彼が描くマグダラのマリアなども、美しく波打つ金髪を描きながらも、どこか色っぽさを感じないね。

淫らというのではなく、男も女も、女性を見ると、情感の表面が荒く揺れるような感覚を感じるものだ。要するに、動的になる。だがこの女性を見ても、情感は揺れない。まるで石のように静かだ。

つまりは、男だからだよ。

男を女にすると、こういうものになるという、一つの例かもしれないね。




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ヘンリー8世

2014-05-09 06:10:49 | 虹のコレクション・本館
No.134
ハンス・ホルバイン(子)、「ヘンリー8世」、16世紀ドイツ、北方ルネサンス。

この画家は、男を実に美しく描くので、結構好きなのだが、残念ながらこの王は偽物だ。実に男らしい風貌をしているがね、これは皮だけの男だよ。中身は全然別の男だ。

ヘンリー8世は好色なことで有名な王だ。男児ができないことを苦しんで、何度も結婚と離婚を繰り返し、それが原因でローマカトリック教会に破門され、イングランド国教会を作った。

これはどんなに言い訳しようと、男の馬鹿だよ。実にね。こんな男はね、本来もっと貧相な姿に生まれる。好色そうな雰囲気をしながらも、絶対に女が寄って行かないようなさえない醜男に生まれるのが普通だ。

それがこんな立派な風格をもった姿をしているのは、完全に盗みだからだよ。女を得るために、実質、他人から顔も、王位も、盗んだのだ。本当の王様は、別にいたんだよ。これは、本当の王様から、王様の人生を盗んだ馬鹿だ。

残念ながら、人間が知っている王様は、ほとんどみんなこんなのばかりだ。太古の時代には、本物の王様もけっこういたんだがね、馬鹿があらゆることをやりはじめてから、王様になりたい馬鹿ばかりが、王になるようになったんだよ。

これでは王制がすたれても仕方がない。

事実上、この王は、たくさんのいい女とセックスがしたいだけの馬鹿だったんだよ。こんなのは、たくさんいるよ。




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ジャンヌと天使たち

2014-05-06 06:06:53 | 虹のコレクション・本館
No,133
ハワード・パイル、「ジャンヌと天使たち」、19-20世紀アメリカ、イラストレーション。

マーク・トウェインの戯曲につけた挿絵らしいが、この絵に描いてあるジャンヌは、実像のジャンヌ・ダルクに一番近い。

かのじょはこんな雰囲気だったよ。かわいらしかった。経験に祈る姿が美しかった。

どこかの女優が演じるジャンヌのように、不遜で傲慢な雰囲気など微塵もなかった。若いのに、ものごしがやわらかい。それほど秀逸な容貌ではないのに、美しく見える。分厚い男にも見える。

一目見て、男がほれるような女性だったんだよ。

これが国を救った女性だ。
十代やそこらの女性が、ただで国を救えるわけがない。かのじょには、多くの人を魅了できるだけの美があったんだよ。

後の、魔女だの狂女だのという評価は、かのじょの実像を知らないから言えることだ。

ジャンヌを描いた絵はけっこうあるが、こんなふうに美しく描いてくれた画家がいたことが、うれしいね。

これからも、この女性のイメージは愛していってほしい。




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隠遁者

2014-05-04 06:12:45 | 虹のコレクション・本館
No,132
ピーテル・ブリューゲル、「隠遁者」、16世紀フランドル、北方ルネサンス。

ブリューゲルは人間ドラマの絶妙な切り口が面白いね。
ぼんさんが財布を盗まれとる。いや、こういうことはよくあることなんだが。

清貧を気取って、人間から離れた暮らしをしているような人間が、なぜか小金を持っていたりするんだな。で、金の匂いに敏感な人間が、よっていったりするわけだ。

金というものには、匂いがするんだよ。どんなに隠していても匂う。それはもう、絶妙なところで、馬鹿な金をだれかにすり取られて、悔しい思いをするやつもいるわけだ。体面上、焦って取り戻そうとするわけにもいかない。

いやあ、つらいね。

フランチェスコ・ダッシージの清貧は本物だったが、彼の真似をして宗教的生活を送っているかに見える者の中には、なぜかきれいなブランドスーツを着たりしている人がいるね。
いろいろと言い訳しているようだがね。

今も、絵に描かれるフランチェスコはださい格好をしているが、最近のフランチェスコはずいぶんと洗練されている。スタイル抜群だね。

どこから金をひねりだしているんだろうね。




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聖家族

2014-05-03 06:20:14 | 虹のコレクション・本館
No,131
バルトロメ・エステバン・ムリーリョ、「聖家族」、17世紀スペイン、バロック。

これは美しい家族像である。
やさしい瞳で子供を見つめる美しい母。子供を抱く暖かい父。イエスをこんな夫婦の子供にしてくれたことが、うれしいね。

スペインという国には、暖かい女性がいるらしい。それゆえにか、スペインの画家が描く女性はみなこのように、美しくも愛らしく、どこか暖かい。

パチェーコのアグネスもそうだったが、画家がこんなあたたかな美人を描くには、現実世界にもそのような女性がたくさんいなくてはならない。

画家の周りにも、こんな女性がいたんだろうね。

イスラームの影響もあるかもしれないね。イスラームの女性への過重負担は、よいことではないが、女性の乱調を戒めるに、少しよい薬になってくれるのかもしれない。やはり女性には、その乱調を戒める法というのも、必要だからだ。

家庭で太陽のように光ってくれる、愛にあふれた女性を描くことができるというのは、画家自身、そういう女性に育てられたということなのだろう。画家の自画像など見てみても、愛に包まれて育ったという跡が見える。

女性というのは大事だ。ムリーリョの母のおかげで、こんな美しい絵を描いてくれる画家が育った。




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岩の上のサッフォー

2014-05-02 06:05:11 | 虹のコレクション・本館
No,130
ギュスターヴ・モロー、「岩の上のサッフォー」、19世紀フランス、象徴主義。

これは、愛する男に心を受け入れてもらえず、岩の上から身を投げる寸前の女流詩人という図なのだそうだが、これを見ると、死ぬ寸前の頃のかのじょを思い出す。

何もかもに疲れ果てていた頃のかのじょだ。これでもかと難がふりかかってきても、勇猛に挑んできたかのじょだったが、もうあのころは、裏からわたしが支えていなければ、今にもぼろぼろに崩れていきそうなほどだった。

内面のかのじょは、こんなふうな感じだったよ。どんなに美しい詩を歌っても、誰にも理解してもらえない。どんなにがんばっても、だれにも笑ってもらえない。今にも崖の下に飛びこんでしまいそうだ。

サッフォーは古代ギリシャの詩人だが、女流ゆえに、正当に評価されているとは言い難い。その作品はほとんど残っていないので、今は評価のしようがないが、女流ゆえに、必要以上に削除されたり、曲解されたりしてきたようだ。

レズビアンの語源になったという、同性愛者だという伝説も、濡れ衣だ。女性には、裏側から操作されない限り、同性愛という現象はないんだよ。同性愛というのは、異様に女性を忌避する男のみに現れる現象だ。女性は、その本質的に持っている愛の性質上、あそこまでは、男を拒否することはできないんだよ。

女性に拒否されて、よく男は逆上するがね、それは要するに、普通女性はあまりにもひどい感じでは男を拒否しないからだ。それなのに拒否されるから、男は逆上するんだよ。

だが男というのは、ときに異様に女を拒否する。それは男が本質的に持っている攻撃性を転用しているのだ。ゆえに、男には同性愛という現象が起きてしまうんだよ。

サッフォーには気の毒だが、伝説というのはなかなかぬぐいがたい。この絵にも、どこか禁忌的な色がにおうのは、同性愛者の伝説が彼女につきまとっているからだ。またそれゆえにこそ、どこか崇高な美しさをも感じてしまうのだともいえる。性別を超えた愛のイメージを、添付したくなってしまう。

かのじょのおもかげを見てしまうのもそのせいだろう。




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サラディン

2014-04-25 06:13:04 | 虹のコレクション・本館
No,129
ギュスターヴ・ドレ、「サラディン」、19世紀フランス、ロマン主義。

美しい男性像を探そうと思えば、やはり肖像画ではなく、神話画や宗教画や、挿絵などを探さなくてはならないようだ。

この絵に描かれたサラディンは、とても体躯のたくましい美しい男に描かれているが、残念ながら、人類の男に、ここまでの肉体表現は無理なんだよ。

馬鹿が人工的に作る場合もあるが、どうしても眼光が弱く、風船を膨らませたような感じがして、すぐにしぼんでしまう。

ここまで厚い存在感を発するには、中にいる魂が相当に熱くなければできないのだ。

しかし、ムハンマドはこれよりすごかったよ。これを一回り大きくして、ひげをたっぷりとたくわえた美丈夫を想像すればいい。ムハンマドにそっくりになる。

彼なら、これくらいの男はできるんだ。

漫画やアニメなどで、人間はよくこんな男を描くがね、やっていることが実に幼い。女の子を意識したことばかりしている。

男の見本というのを、見たことがないんだな。もう少し勉強させんといかんね。




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若き日のサムソン

2014-04-24 06:14:42 | 虹のコレクション・本館
No,128
レオン・ボナ、「若き日のサムソン」、19世紀フランス、アカデミック。

秀逸な美しい男性像を探したのだが、なかなか見つからない。ヘラクレスの絵なんぞも探したんだがね、男はヘラクレスを描く時は、何とももっさりと描く。もっと男前に描いてもらいたいものだが。

獅子退治の仕事などは、ヘラクレスもやっているが、ヘブライの英雄であるサムソンもやっている。若いが、なかなかやるね。小手調べという感じで描いてあるが、これがなかなか難しい。

獅子というのは、男が向かう敵の象徴のようなものだ。強い。デカい。美しい。しかも威厳がある。王者のようだ。

若いガキが、男に目覚めて、最初に敵視するのが、こういうものだ。

もちろん、こんなものに正面から立ち向かえる男など、めったにいない。だからたいていの男は、いろいろな知恵を使って、獅子をやっつけようとする。

一番最初に思いつくのは、もちろん、大勢でやっつけることだ。こういうやつはいっぱいいるよ。

だが、ときに、自分一人でやろうとするものが出る。これが、すごいやつさ。

ヘラクレスも、サムソンも、それをやったやつだ。だから神話に残る。

大勢でなら、マンモスだって倒せる。だが、一人の、自分だけの力で、獅子を倒す。これほど、男の血を熱くするものはない。おれがおれだという、激しく痛い存在証明だ。

一度は、獅子に、ひとりで挑戦してみたまえ。これくらいやれねば、男ではないぞ。




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2014-04-23 06:12:16 | 虹のコレクション・本館
No,127
フェルディナンド・ホドラー、「昼(真実)」、20世紀スイス、アール・ヌーヴォー、象徴主義。

これはまたすばらしい絵だね。ホドラーはまっこうから描いている。これは何らかの使命が画家にあったとしか思えない。

美しいが、何もかもをそぎ落とされて、真裸にされ、なにもかもを見られている。それでも自分を恥じることなくまっすぐに前を見ている。

これを平気で見られる人間はいまい。

この絵の女性は、かのじょの霊的世界での姿に似ている。何となくわかるはずだよ。かのじょはいつも、真裸だった。嘘などつけないからだ。植物存在には、嘘をつけるものなどいないんだよ。

人間にはこれがわからないのだ。

これはまるで、石に生えたなめらかな不思議な木のようだ。

瞳は悲しげな真実の実だ。永遠に、こちらを見ている。

これは、あらゆるものを奪い尽くされた女というものを描いた絵だ。見るのは辛いかもしれないが、見たまえ。真実はいつか、白日の下に照らされるだろうと。

こういうことを、男は、女にしたんだよ。




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オランピア

2014-04-22 06:11:01 | 虹のコレクション・本館
No,126
エドゥアール・マネ、「オランピア」、19世紀フランス、印象派。

「草上の昼食」もこれも、ティツィアーノに学んで描かれたものだが、マネは何もわかっていないね。いいところのぼっちゃんだから、これが描けたのだろうが。

これがサロンで発表されるやいなや、物議をかもしたのは、人間に見たくない現実を見せてしまうからだ。

立派なよい女性が、苦界に落ちている。その姿をそのまま描いているのである。娼婦というものがどういうものかを、美化もパロディ化もせずそのまま描いてしまったのだ。

これを見たら、男は遊び女と平気で遊ぶことができなくなる。女性に、どんなことをさせてしまったのかを、まざまざと見せられるからだ。

マネ自身は、古典に学んだスタイルで描いたつもりだったのだろうが、これは何らかの見えない存在が、彼に描かせたのだとしか思えないね。

芸術作品の中には、時にこういうのがある。なんらかの見えない存在が、人間に何かを教えるために、人間に描かせるのだ。

この絵は、これからもしばらくの間、人間にきついテーマを投げかけていくだろうね。




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