世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

2012-03-26 06:41:23 | 月の世の物語・上部編

首府より少し離れたところに、一つの町があった。それは町というより、一つの大きな寺院のような建物であった。青ざめた白い光の柱は町にたくさん立てられ、空気のようなベリルを月光水に溶解させ、その化学変化から生じた煙を固化し、壁材として町を囲った。粘着材は一巻の物語の音韻であった。その物語は、古い古い時代の上部人が著した、真の存在の使命の意味を深く考察したものであった。それゆえにその町ではいつも、真理を正しく追う心に、焦るようにかき立てられる者たちが集まり、さまざまな議論や、考察や、計算や、創作が試みられていた。

町の真ん中には、高くも巨大な半球形の天井があり、上部を超えたまた上部から下ろされた、清い日照の明かりがその最も高い所に灯っていた。ために、町の中は、その外部より一層明るく、眩しい光に埋もれていた。その中の風景はまるで、人々が乳の中を泳いでいるようでもあった。彼らは光の中で、それぞれに自分で自分の座席や机を作り、時に珍しい書物を開き、新しい知恵を求めたり、ときに輪を囲んで議論し、魔法についての新しい知恵をみなで編み出すために、高き神よりの霊感を得ようとし、ときに、自らの魔法を用いて、光の壁に複雑な文様を組み合わせた一つの世界の設計図を描いたりした。

「おぅ、る、あふい」今その町の中の一隅で、ある上部人が言った。「実験をしてみたいのだが、ともに見てはくれないか。それほど珍しくはないものだが、今少し、それをやってみたい心がわたしにあるのだ」と彼は言ったのであった。彼の周りには、十人ほどの上部人がいた。彼らは黙ってうなずき、彼に「よし」という意を表した。するとその上部人は、得たりと思い、右の手を、す、と横に滑らせ、小さな青水晶の小杖を出した。彼はそれで、琴の糸を弾くような音楽を鳴らし、周囲の上部人たちの前に、一枚の白い蛋白石のスクリーンを出した。ほう、と誰かが言った。彼のやろうとすることがわかったからだ。他の誰かが、少し眉を歪め、目を少しスクリーンからそらし、よ、と不快の意を示した。スクリーンを出した上部人はそれに対して、頭を下げ、「ぃる」と言って陳謝した。

上部人は、青い小杖を、びんと鳴らした。するとスクリーンの画面に、一人の青い人間が、現れた。それは、人類という存在の全てを表現する紋章のようなものであった。ぉうり、と、誰かそれを指差して、言った。「苦しい。めずらしくもない。だが本当のことを度々と見るのは、ためにならぬことではない。何か君は、これによって新しきものを我らに示すのか」と彼は尋ねたのだ。実験を行うと言った上部人は、ただ、「い」と言った。「やってみねばわからないが、とにかく見ていてくれたまえ」という意味であった。

上部人はスクリーンの横に立ち、青水晶の小杖を振り、また不思議な音楽を鳴らした。すると画面の中の青い人間が、走り始めた。彼は、あまりにも苦しそうに、激しく息をしながら、走っていた。走っているのは、果てもない荒野であった。空は血に染まったような朱色であり、日も月もなかった。それは、世界が焼けただれ、全ては失われてしまったからであった。青い人間は、朱色の空の光を浴び、ほんのりと紫色に染まりながら、ただ、息を切らして走っていた。彼は、探していた。そして、逃げていた。上部人たちはすべてもう知っていた。彼が探しているのは、自分以外の人間だった。そして、逃げているのは、自分からだった。彼は、自分を、自分で背負うことをいやがっていた。なぜならそれは、とても愚かな、汚れた、恥ずかしくてたまらないことを行い、あまりにも小さく、つまらない、取るに足らない、ゴミのようなものでありながら、巨大な鉄のように重く、深い罪の影であったからだ。彼は、自分以外の人間を探し、どうにかして、そのいやな自分を、その誰かに押しつけられないかと、考えていた。彼は、自分存在を、他の存在に押し付け、すべて背負わせようとしていたのだ。それがために、他の人間を探していた。だが、もう、世界は滅びていたので、彼の他には誰も人間はいなかった。彼は、永遠に孤独に、自分以外の人間を、自分の存在をその人間に背追わせるために探し、走り続けているのだ。

「つ、むぃ」と、スクリーンを作った上部人が言った。「ここまでは、いつもと同じだ。怪の心象風景は、まさにこれそのものだ。ほとんどの人類の魂もまた、これと似た状況に陥っている」と彼は言ったのだ。「ぃの」誰かが言った。「これからどうするのだね?」と尋ねたのだ。スクリーンを出した上部人は、つ、と舌の奥でささやくと、また青水晶の小杖を振り、今度は、手元に小さなクリソベリルのかけらを出した。そしてそれを、一息の呪文とともに、スクリーンに放り込んだ。次に彼はまた小杖を振り、今度は小鳥の声を固めた、金の粒を出した。彼はまたそれを、スクリーンの中に、呪文とともに放り込んだ。そして次は、小杖を笛に変え、それで一息、彼の創作した不思議な音楽を鳴らした。

すると、スクリーンの中の青い人間の前に、ひとりの、白い人間が現れた。青い人間は、それを見て驚いた。自分以外の人間がいるなど、彼は思いもしなかったようだ。青い人間は、白い人間を見て、最初はただ、驚いて沈黙しているばかりだったが、やがて、その存在が確かなものであるとわかると、突然、口を開き、うるさい鴉のようにしゃべり始めた。彼が言っていることを聞いて、スクリーンを見ていた上部人たちは一斉に顔を歪め、うぉうぬ、と叫んだ。「不快なり。なんと愚かな」彼らは言ったのであった。

青い人間は白い人間を罵倒していた。それはそれは見事な、美しい彩を織るような見事な隠喩の歌で、白い人間を、侮蔑していた。それは恐ろしくも巧みな、饒舌にもほどがある長い詩曲であった。知恵足らぬものがそれを聞けば、いかにもそれは、人間存在をたたえる歓喜の歌にも聞こえるだろう。だが、その歌の裏には、ことのはの美の衣に覆い隠した、憎悪、恨み、妬み、あらゆる人間の影の苦しみがのたうち、うごめいていた。ああ、と誰かが嘆いた。神より学んだことのはの美を、彼らはなんということに使うのだろう。悲哀が彼らを襲ったが、彼らはそれぞれに自分をしばし植物の霊のように静まらせ、自分を癒し、そこにとどまり、黙って実験を見守った。

白い人間は、初め、自分がほめられていると思って、喜んでいたが、いつしか、自分が、青い人間によって、奴隷のように扱われ、彼の代わりに、彼のすることをみな、自分がやらされていることに、気付き始めた。そして彼は、疑問を持った。美しい言葉を語る青い人間に対し、初めて、「なぜだ」ということを言った。「なぜ、あなたは、そんなにもたくさんのことを言うのだ。あなたは、まるで次々とゴミを捨てるかのように、たくさんの言葉を吐くのだが、それは、とても、美しい言葉には、聞こえるのだが、なぜか、心に響かぬのだ。わたしは、萎えてゆくばかりだ。なぜ、美しい言葉が、美しいとわたしに響かないのか。それを聞けば聞くほど、わたしは苦しくなるばかりなのだが、それはなぜなのだ」白い人間が言うと、青い人間は、初めて、顔に憎しみを表した。彼は巧みな言葉で、反抗は許さぬ、と白い人間に言った。おまえは、おれだ。おれのことは、すべて、おまえがやるのだと、彼に言った。青い人間は、初めて、鞭を取った。そしてそれで、白い人間を打った。おまえは、いらぬものだ、と彼は巧みな隠喩で言った。おまえは、おらぬものだ、と彼は見事な詩で歌った。ゆえに、おまえは、おれだ。おれのすべてを、おまえは、負うのだ。おまえは、おれのものだ。青い人間は、憎しみに燃える目で、白い人間に言い続けた。

「おぅくるぅぅ…」スクリーンを見ていた上部人たちが、一斉に嘆いた。ある上部人が言った。「くぉぅ」、…こうならざるを得ないのか、やはり。「もん、ふ」…段階の問題だ。彼らはまだ幼い。技だけはかなり巧みだが、真の意味は何も分かっていない。「り、おる」…これから、どういう進展があるのか。実験はまだ続くのか?

スクリーンを作った上部人は沈黙したまま頭を下げ、しばし状況を見つめてくれるようにと、彼らに頼んだ。

青い人間は、白い人間を鞭うち続けた。そして己がやるべきことを、無理やり、すべて彼にやらせた。おのれが払うべき罪を、すべて、彼に払わせた。白い人間は何度か反抗を試みたが、青い人間ほど、強く憎しみを持つことができなかったので、ことごとくそれは、青い人間によって砕かれた。やがて彼は、疲れ果て、病に落ち、血も枯れ果て、とうとう、息絶えた。青い人間は、白い人間が、何度鞭うっても、動かないことに、よほど時間が経ってから、気付いた。白い人間が死んだのを、青い人間は認めたくなかったので、まだ、その骸を、鞭打ち続けた。その体が、朽ちて、骨が見え始めても、まだ、鞭打ち続けた。おれは、おまえだ。おまえは、おれだ。おれは、おまえだ。おまえは、おれだ……と、彼は言いながら、まだ鞭打った。しかし、それはやがて、終わらねば、ならなかった。青い人間は、認めなければならなかった。もはや、彼は動かない。行ってしまった。自分の元から、永遠に去ってしまった。

それを認めた青い人間は、ようやく鞭を振るう手を下ろし、ぐらりと揺れて前に倒れたかと思うと、地に伏して激しく泣いた。そしてしばらくして、ぎゃあ、と高く吠え、すばやく起き上がると、骸を抱きしめて、叫んだ。「愛している!帰ってきてくれ!!」

「ぬ」それを見た一人の上部人が吐き捨てるように言った。「愚かな」と彼は言ったのだ。

「何をいまさら、言うのだ」死んだ白い人間の魂が、青い人間の耳には聞こえぬ、風のような声でささやいた。そして彼は、本当に、世界の向こうに消えて行った。もう、決して帰っては来れないところへ、行ってしまった。

青い人間は再び、孤独になった。彼は、骸を抱きしめたまま、荒野に佇んだ。その目は、虚無のようにうつろだった。何を失ったのか。自分は何をやったのか。考えがよぎった。すると、それを待っていたかのように、スクリーンを出した上部人は、小杖を揺らし、手の中に、水晶の小瓶を出した。その中には、ちらちらと青く光る粉が微量入っていた。それは、ロードクロサイトを青く燃やし、浸食される魚類の眼から練りだした無残な悲哀を溶かしこんだ、一種の幻覚性碧青光を放つ、魂の劇薬であった。彼はそれを、瓶ごとスクリーンの中に放り込んだ。

変化は、すぐには起こらなかった。実験を見ている上部人たちは、静かに経過を眺めていた。青い人間の瞳の虚無の中に、わずかながら変化が見え始めたからだ。彼らはそれを見逃さなかった。それが何の予感なのかも、すでにわかっていたが、誰も何も言わなかった。

ああ…、スクリーンを出した上部人が言った。それに答えるように、変化は起きた。青い人間が抱きしめている骸が、かすかに動き、ことん、と地に落ちた。するとそれは、見る間に青い芽を出し、どんどんと茎をのばし、葉を伸ばし、つるを伸ばし、やがて一本の大きな薔薇の大樹となった。薔薇の木は透き通るような巨大な緑の塊であったが、花は一つもつけてはいなかった。青い人間はそれを見て、何かにつき動かされるように、薔薇の大樹を登り始めた。空には、いつしか、太陽があった。その朱色の光を目指して、彼は薔薇の木を登った。青い人間は、ああ、と叫んだ。彼は、何かが、わかるような気がする、と言いたかったのだ。彼は、薔薇の刺に全身傷つきながらも、何かに追い立てられるように薔薇の木を登り続けた。その間も、薔薇の木は成長を続け、彼が登れば登るほど、大きくなり、どんなに登っても、てっぺんにたどり着くことはできなかった。それでも彼は登り続けた。登ってゆくほど、薔薇の刺は激しく痛く彼を刺した。彼はそれが、かつて、白い彼に向かって、彼が言った言葉の化身だということに、気付いた。その痛みの、激しいこと、苦しいことに、やっと気付いた。ああ、と彼はまた言った。涙を流し、それを飲んだ。それはしびれるように苦かった。すると、薔薇の木の、彼のすぐそばに、ほんの小さな、薔薇のつぼみが一つついた。つぼみはまだ硬かったが、かすかに紅の光を、やどしていた。薔薇は語った。愛していたと。あなたを愛していたと。あなたを、愛していたと。

青い人間は唇を噛み、目前をはばむ、とりわけ大きな刺に、自ら自分の腕を、思い切り刺した。うああ!と彼は叫んだ。腕は裂け、その痛みは激しく彼の魂を揺さぶった。愛している、と彼は叫んだ。彼は自らの血を浴びながら薔薇を登り続けた。登って行くほどに、彼の青い体から、青い色がぽろぽろと干からびた皮のように剥がれ落ちて、彼はだんだんと白くなっていった。その青い色が、かつて自分が自分に塗った嘘だったということを、彼は思い出した。そしてとうとう、彼は薔薇の成長においつき、その木のてっぺんにたどり着き、太陽に手を伸ばし、それを、スイッチのように、押した。そのとき彼はすでに全身真っ白になっていた。

世界に、歌が、鳴り響いた。神が、始まる、と言った。荒野はまだ、荒野であったが、その奥で、眠っていた種が、ようやく彼を許し、うごめき始めた。
彼は、薔薇の木のてっぺんで鐘のように叫んだ。

わたしよ!わたしよ!わたし自身の、わたしよ!

涙が彼の頬を激しく濡らしていた。彼は幸福に震えていた。彼は気付いたのだ。自分が存在していることに。そして、何が何であろうと、すべてをやっていける者が、自分であるということに。

そしてどれだけの間、彼は薔薇の木のてっぺんに立っていたのか。風がふと、彼に気付けと言った。そして彼は気付いた。そして、彼は、スクリーンの向こうから、こちらを見た。彼は、自分を見ていた人たちに気づいて、驚きのあまり、彼らを見回した。そして、「あなたたちは、誰だ?」と、スクリーンの前にいた上部人たちに、尋ねた。

上部人たちは、ほお!!と叫んだ。

スクリーンを出した上部人は、小杖を揺らし、金色の紋章を描き、それをスクリーンに投げ込んだ。とたんに、スクリーンは消えた。実験は、終わった。

「ほぅむ、じゅ、れ、なき」と彼は言った。それは「これは、一つの試みである。実験とは言ったが、まだはっきりとそう言うのには恥ずかしいもののある、物語のようなものである。魔法計算もまだかなり甘いと思う。しかしわたしはこれをひな形に、もっとさまざまな魔法計算を行い、一つの計画を練ろうと思う。もちろん、今のわたしの段階では、実際に全てがこの通りにできるとは思えないが、かなり、良い結果を生むことができるのではないかと、考えている」という意味だった。
すると、周りの上部人たちは顔を見合わせ、それぞれに、「ほむ」「んぬ」「てな」「ぃるぅ」とざわめいた。おもしろい、と彼らは感じたようだ。中には、自分も協力してみよう、という者もいた。

彼の実験は、首府に提出され、再びそこで試みられた。そして、しばしの間、長たちによって審査が行われ、いくらかの改善点を示されて戻ってきた。それを受け取った上部人は、「をぅ」と自分にささやいた。まだ学びが足らぬ、という意味だった。しかし、やってみるべし、という印は、確かに押されてあった。彼は、改善点を見直し、もう一度実験を行い、魔法計算にもっと深く踏み込むべく、新しく学びを始めた。師を請い、教えを願った。

彼はそれから、数人の仲間とともに、何度も実験をやり直し、種々の新しい知識と経験を得、魔法計算を繰り返し、物語を練り直した。そしてそれが、実際の魔法計画として首府に認められ、行われることが決まったとき、それは、大いなる神の御計画の物語の中の、数行の対話の結晶となって、一つの明るい光を放っていた。



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2012-03-25 07:06:01 | 月の世の物語・上部編

上部世界に、はるかに広がる、青い水素の海があった。その白い波は雲のようにかすみつつ、遠い果ての岸辺で、虹色につやめく真珠質の崖を洗っていた。

その海の中央に、水晶の琴を打つ音律を固めた、小さな島があり、今そこに、ひとりの上部人が降り立った。彼は髪も目も青く、その顔は蝋のように白かった。白い服を着た彼が、黒みを帯びたその島の上にまっすぐに立つと、それはまるで一筋の光の棒のようであった。

海には、一匹の、巨大な炎魚が棲んでいた。それこそは、この上部世界に住む、稀なる女性の中のひとりであった。彼は、海に向かって、とん、と叫んで、炎魚を呼んだ。すると彼女は、すぐにそれに答えて、海からざわりと顔を出し、彼の顔を見た。炎魚は、文字通り、そのひれは燃え上がる炎であり、その鱗はその炎を結晶させて形作った丹色の珠玉のようであった。ただ、瞳だけが、透き通ったベリルのような緑であった。

彼は、これから果たさねばならぬ使命のために、仮に自分の姿を女性にしなければならなかった。彼よりももっと年経た上部人であれば、自力で女性になることもできるが、彼は上部人としてはまだ段階が比較的若かったので、どうしても彼女の助力を必要としたのだ。

炎魚には、呼ばれた時にはもうすでに全てが分かっていた。彼女は、島の上に立つ彼に向かって、真珠色の炎を吐き、るる、と歌った。すると、彼の身に、光が宿り、体に変化が起き始めた。胸に小さな丸みが現れ、陽根が消え、体内に小さな秘密の部屋ができた。彼はいつしか、長い青髪と透き通った青い瞳の、可憐なひとりの少女となっていた。彼女は、ほぅ、と言って炎魚に礼を言うと、炎魚は、ふ、と答え、水素の海の底へと静かに帰っていった。彼女はそれを見送ると、すぐに島の上から姿を消した。

次の瞬間、彼女は花野にいた。そこは、かつて数人の上部人が、やすらいを必要とする上部人のために、協力して創った野であった。どこまでも広がる緑の原に、色とりどりの珍しい花々が永遠に咲き乱れている。空は水色であった。月は真珠であった。彼女は、透き通る衣をまとい、貞女のごとくひざまずいて神に祈り、「とぅ、ほ」と言って、天に向かって、体内の部屋の鍵を開けた。すると神は、その部屋に向かって、蝶のように小さな一羽の白い鳥を放った。鳥は彼女の体内の部屋にまっすぐに入り込み、くるりと回って、小さな白い玉に変わった。彼女はすぐに部屋の鍵を閉めると、自分の腹を抱き、しばし受胎の幸福に浸った。胎内の玉はやわらかな絹の上に着床し、夢を見始めた。彼女は花野に横たわり、全身を大地に預けた。そして繰り返す神のささやきの愛撫を受けながら、歓喜の声でそれに答え続けた。

やがて、月満ちた。ある日、彼女を激痛が襲った。彼女はあわてて魔法を行い、花野の一部に穴を掘った。穴は深く、暗かったので、彼女は月光を呼び、穴の壁に塗って自分を照らした。痛みはどんどん激しくなった。望月のように膨らんだ腹が心臓のように波打っていた。ああ、ああ、ああ。彼女はあえいだ。その苦しみの声に、上部世界に住む風の精霊が引き込まれ、彼女を助けるためにやってきた。彼女は、三日も、苦しみ続けた。そしてとうとう、全身をみずから切り裂いて、一頭の、子牛を産んだ。その子牛は雪のように白く、額にはすでに、一本の小さな青い角があった。瞳もまた、澄み渡る青であった。

出産に疲れ果てた彼女を、精霊が愛で癒した。少し力を取り戻した彼女は、子牛を育てるために胸を開き、乳房を出した。乳は月光水のようにあふれ出し、それは花野に一筋の小川を作り、子牛は水のようにそれをがぶがぶと飲んだ。

月日はまた過ぎた。子牛は、若牛となり、母と精霊たちに守られ、十分に準備が整った。彼はそろそろゆかねばならない。すると、母である彼女の胸に激しい痛みが生まれた。若牛は、これから、月の世に降り、月光に溶けて、歓喜の音楽の元となる霊感の響きへと変身してゆくのだ。それは若牛にとって、自らは死んでゆくことを意味した。

う、と彼女は言った。それは、自分は何をしたのか、という意味だった。死なせるために、彼を生んだのか。こんなことなどあっていいのか。だが、彼女の心が、母としての悲哀に引き裂かれる前に、彼女は彼に戻った。

そして、ほう、と息をつき、冷たく厳しい男の目で若牛を見た。若牛は彼を見上げ、むぅ、と答えた。すべてはわかっているという意味だった。若牛はその澄んだ青い目で、母であった彼の目をしばし静かに見つめると、おお…と言いながら彼に背を向けた。若牛はゆっくりと花野を歩き、風に溶けていくように姿を消した。母であった彼は、若牛が、月の世に降り、月光の中に次第に溶けてゆくのを、次元を超えて見える目で、静かに見守った。遠くから、さざ波の音が聞こえた。まるで、子守唄のようだ。遠い炎魚の海も、あの者の運命を悲しんでいるのかもしれぬ。だが、悲哀は無駄だ。すべては神の導きの元、正しく行われてゆく。

やがて、若牛は、かすかに、かちん、と内部の音を立て、自分を壊し、死んだ。それと同時に、あまたの美しい歌が生まれた。向こうの世界にいる人々には、まだ聞こえぬ、新しい神の歌が生まれた。それは、長い長い月日を、目に見えぬ光の星として、月の世に在りつづけ、風に、花の香のように清らかな音律を深く織り込み、人々の霊感を刺激し、多くの新しい光の言葉を生み、魂の物語を、少しずつ、正しい道へと導いていく。

ああ、と彼は言った。彼の中で、すでに抜け殻となって横たわっている母が泣いていた。あの歌を、あの歌を、人々は、聞くことができるだろうか。わかることができるのか。それができるようになるとしたら、一体いつのことか。考えてはならぬ。だが、彼の中の母の心はそれにあらがい、彼を苦しめる。

うぉ、と彼は言う。「わが子よ」という意味である。涙が流れるのを、彼は自分に許した。自分の身を裂いて、全てを生みだすもの。女よ。我々は、おまえたちの苦しみを知る。そしてそのために、全てを行ってゆき、何度でも死ぬことであろう。

彼は呪文を唱え、服を常人のものに着替えた。そしてくるりと体を回し、杖を持ち、聖者の姿に戻った。それは灰色の髪と髭を整え、紺瑠璃の瞳に深い悲哀を灯した、背の高いひとりの老人であった。彼は杖を横に構え、ひゅう、と言うと、すぐにそこから姿を消した。

誰もいなくなった花野の上に吹く風に、光る文字が一つ書かれてあった。それは任務が完了したという意味の文字であった。風はすぐに首府の塔にその文字を運び、首府の長は、はあ、とそれに答え、彼をほめたたえた。



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2012-03-24 07:39:52 | 月の世の物語・上部編

白髪金眼の聖者は、首府の長に呼ばれ、上部に戻ってきた。彼はそこで青い服に着替え、杖を一旦手元から消し、光を骨組みに、歓喜の音律を壁材に、水晶の精を粘着材として造られた、白く光る高い塔に向かう。塔は首府の中央にある。

彼らは、月の世や日照界では、聖者または準聖者と呼ばれるが、ここでは単に、「上部人」あるいはただ、「人」と呼ばれる。

空はサファイアブルーに冴えていた。中天に光る月は黄金色であったが、それは数百億年前、当時の聖者、いや上部人数百人によって建設されたものだった。彼らは偉大な力を持って、上部世界を営々と創ってきた。月はこれからも何百億、何千億年もの間輝き、上部世界を支え続ける。このようにして、かつては、月の世の月もまた、創られたのだ。それを知っているものは、上部人以上の者だけだが。

しかし彼らにも不可能はある。月は創れるが、太陽はいまだ創れない。それをやれる方は、上部の天井を超えたところにいらっしゃる。世界とは、存在とはそういうものだ。いつも、上がある。限りなく、上がある。段階というものは、そういうものだ。

とにかく、今の彼は、上部人である。サファイアブルーの空の下、上部の首府は、水晶の振動の澄んだ香りに包まれ、物質を超えた空気ではない空気で作ったガラスのような透明な建物が鋼の大地のあちこちに生えていた。所々に木々が、青い焔のように燃えて立っていた。それもまた、上部人が創ったものだ。上部の木々は、仮の霊魂を与えられ、それが役目を終えて燃え尽きてゆくまで、存在の愛なるものの喜びを歌い、上部人たちが、時に味わう苦悩と悲哀を清め続ける。

白髪金眼の上部人は、首府の中央にある塔の前に立ち、ほう、と一声、息を吐く。それが合図であり、敬意と感謝のことばである。常人には決して聴こえる声ではないが、上部人は瞬時に彼が言ったことを理解し、塔の門が開く。彼は吸い込まれるように塔に入ると同時に、見えない風の台に乗って上に上がっていく。やがて彼の目の前に、朱色の服を着た首府の長があらわれ、ふ、という。彼は白髪金眼の上部人の真の名を呼び、その仕事を言い渡したのである。白髪金眼の上部人は瞬時にそれを理解し、また、ふ、と答え、すぐにそこから姿を消す。

彼が向かったのは、首府よりはるか離れたところにある、青い鋼鉄の平原であった。ひとりの若い上部人が平原の隅に立ち、青い炎を燃やして、鋼鉄の平原に緑の草原を創ろうとしていたが、空より吹く氷風の精に拒否を示され、かなり苦労をしているようであった。白髪金眼の上部人は彼に、ふぃ、と声をかけ、その労をねぎらい、指で氷風をかき混ぜ、彼の魔法に自分の光を注ぐ。すると彼は新しき力を得て、ようやく鋼鉄の平原にひとひらの草原を創った。彼は、ぽう、と答え、白髪金眼の上部人に感謝した。

さて、鋼鉄の平原の中央には、またとないほど清く、透明に澄んで美しい、巨大な水晶の大樹が、無限に向かって腕を開くように、無数の枝を空に広げて立っていた。白髪金眼の上部人は風のように飛んでその大樹に向かう。大樹の根元には、紫色の服を着て、黒髪を長く垂らした女性のように細いひとりの上部人が立っており、その木を見上げていた。白髪金眼の上部人は彼に、つ、と声をかけた。黒髪の上部人も、つ、と答えた。それには挨拶と感謝の意味があった。もうすべては、彼が来る前にわかっていたので、それ以上の会話は必要なかった。白髪金眼の上部人は、水晶の大樹の、まるで眼前を阻む広い崖のような幹の中に入ってゆく。

ふぉう、と彼は言う。水晶の大樹の中には、光に満ちた大きな空洞があり、その白い壁には、水晶の糸がもつれあうように絡み合った複雑な回路が描かれ、ところどころに、神の開けた鍵穴のような空欄があった。今、ひとりの黄色い服を着た上部人が、薄い蛋白石の丸い板の上に座り、空洞の高いところで風のように速く手を動かしながら、次々と口から光る紋章を吐きだしては、その紋章を、回路の中の空欄にはめ込んでいた。それは常人の目から見れば、まるで彼が何十本もの腕を持っていて、それで音楽に合わせて舞いを舞っているかのように見えるだろう。地上世界に、千手観音という架空の救済者の伝説があるが、もしかしたら、それはこの姿を、誰かが夢の中で見たのかもしれぬ。それほど、その姿はそれに良く似ていた。

白髪金眼の上部人は、自らも蛋白石の板を作り、その上に乗って上に上がってゆく。そして黄色い服を着た上部人に、る、と声をかける。それは「交代する」という意味であった。黄色い服の上部人は何も言わず、すぐにそこから姿を消した。それと同時に、白髪金眼の上部人は蛋白石の板の上に座って、もう彼と同じ仕事を始めていた。口から次々と光る紋章を吐き、複雑怪奇なパズルのような回路の空欄にそれをはめ込んでいく。彼の手は上に下に左に右に斜めに前に後ろに、関節などなきがように鞭のようになめらかに動き、かすかな水晶の振動の音楽に合わせて見事な舞いをしながら、目にもとまらぬ速さで正確に紋章を空欄にはめ込んでいく。

やがて、遠くから笛の音が聞こえた。ああ、と彼は言う。長い時間が経ったと笛が知らせた。もうそんな時がきたのか、と彼は思う。短い時間だと感じていたが、もう終わってしまったか。彼は口から一枚の細く緑色に光るチップのようなものを吐きだした。そしてそれを回路の一番高いところにある空欄にはめ込んだ。すると、上方から神の声が降り、それは、ゆ、と彼に告げた。「始まる」という意味であった。とたんに、樹木が水を吸い上げるように、回路に光がとおり、はめ込まれた無数の紋章が虹のようにきらめき出したかと思うと、くぉん、と音がしてシステムが動き始めた。はぁお、彼は言いながら蛋白石の板を下におろし、大樹から外に出る。そして、大樹を管理している黒髪の上部人にまた、つ、と挨拶をする。黒髪の上部人はただうなずき、大樹を見上げる。白髪金眼の上部人もまた、彼に並び、大樹を見上げる。

ほおう、と黒髪の上部人が言う。白髪金眼の上部人もまたそれに和する。神の光が大樹に降りかかり、それは上部世界に清い桜花の霊を呼び、水晶の大樹の枝々に紅水晶の小さな玉が無数に芽生え始め、それらは次々に、とん、とん、と音をたてて開き始めた。その美しい響きは空に冴えわたる清い謎の斉唱のようであった。ああ。どちらかが言った。それは感嘆の声だ。花は見る見るうちに満開となり、水晶の大樹はそれはみごとな、おそろしく澄んで美しい巨大な桜樹となり、鋼の平原に眩しい薄紅の炎を空高く焚きあげた。

すゆ、と白髪近眼の上部人は言った。黒髪の上部人もまた、すゆ、と言い、うなずいた。それはこういう意味であった。
「第一段階は、終了した」「ふむ、そのとおり。だがこれが地上に全く実現するには、数千年とかかるだろう」「もちろん。すべてはこれからだが、もうすでに終わっている」「神の御計画に、失敗はない」「もはやこの次の大樹も、創られ始めている」「ああ、我々はやらねばならぬ」「そのときがくれば、また、見事な愛の美しき花霊がここに呼ばれることであろう」

白髪金眼の上部人は、黒髪の上部人に別れを告げ、首府の塔に帰ってゆく。そして、使命を果たしたことを長に伝え、塔を出ると、また青い服を常人の服に着替え、杖を出し、聖者としての仕事をするため、月の世に降りてゆく。

く、と彼は言う。それは笑いであった。人間よ。悲しくも幼く、そして、見事な未来でありながら、闇をさまよう者たちよ。かつてなき創造であるおまえたちのために、神が何をなさっているかを、おまえたちがいつ知ることができるだろうか。

はう、と彼は言う。眼下に月の世の月の白い大地が見え始めた。彼は月長石の平原に降り立ち、一息呪文を唱える。上部の空気を脱ぎ、言葉を常人の言語に切り替えるための呪文である。彼は杖を振り、それと同時に姿を消す。

さて、彼がそれからどこに行ったかは、彼だけの問題である。



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