世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

2012-02-14 05:01:49 | 月の世の物語・別章

日の都の片隅に、大きなガラスの温室を備えた植物園があり、そこを、ひとりの女性が管理していました。温室には、地球上の熱帯や温帯や寒帯などに棲む植物が、何の不思議もないという顔で自然に肩を並べて咲いたり、薫ったり、葉や枝を伸ばしたりしていました。女性は日照界の水色の制服を身につけ、黒髪を長くたらし、切れ長の細い瞼の奥には、まっすぐに澄んだ美しい茶色の瞳を隠していました。

彼女は植物の霊たちをとても愛していましたが、中でも一番好きなのは、イネでした。なぜなら彼らは、常に愛をもって、自分の全てを与えるために地上に生きているからでした。彼女は日々、イネと語り合い、己自身を与えるという愛の痛みと喜びを、胸に深く吸い込み、魂に歓喜を覚えながら、学んでいました。

ある日、そこを、ひとりの人間の若者が、訪れました。彼は、地上で生きていたとき、一人の芸術家でした。彼はとても優れた才能を持ち、純粋に正しいことを信じていて、地上でまっすぐに絵画の道に励んでいました。しかし、その才能と美しさを怪や周りの人たちに妬まれ、彼は様々な惨いいじめに会い、結局最後は皆に馬鹿者とののしられて見捨てられ、酒と薬に溺れたあげく、何枚かの理想の女性像を地上に残して、孤独に死んでしまいました。

彼のような目にあった人々は、死後、よく自分をいじめた人々に復讐してしまい、その罪によって月の世に向かう者もいるのですが、彼はそうはせず、自分をいじめ殺した人々を恨まずに許したため、日照界の門をくぐりました。そして、日の都にある芸術の学校に通いながら、再び地上で生まれる日のために、日々学んで過ごしていました。

若者は、おずおずと温室の扉をくぐると、中にいる女性に挨拶をし、いつものようにスケッチブックを出して、彼女に絵を描かせてくれと、頼みました。女性は、戸惑いつつも微笑み、「いいですよ」と答えました。すると若者は大喜びで、温室の片隅に座り、スケッチブックに鉛筆を走らせながら、言いました。
「あ、いいです、ポーズはとらないで。自然に動いていてください。僕が勝手に描いていますから」若者は、幸福に満ちた素直な瞳で、温室の中で働く彼女の姿を追い、次々に、何枚も、彼女の顔や、何気ないしぐさや、イネに触れるときのやわらかな指先などを、描いていきました。

若者は、この日照界の女性に、恋をしていました。彼女にも、それはわかっていました。彼女は、人間の素直な恋心を、優しく受け止めながらも、心の中には、少し戸惑いを感じていました。彼が、彼女を見て、思わず感動のため息をつくときなど、どうしていいかわからず、思わず植物たちにふれようとする手が固まってしまいました。

罪びとの心を導くことも難しいことですが、人間の、素直な愛の心に触れていくことも、苦しいことでありました。彼女は、彼のために、自分を無いことにして、全てを与えねばなりませんでした。なぜなら彼が見ているのは、まだ、本当の彼女自身ではなく、彼女の向こうに見ている、女神のように美しい理想の女性像であったからです。

スケッチブックに十何枚かの素描を仕上げたあと、若者は、まだ幼さは感じるものの変わらぬ素直な明るい目をして彼女に近づき、仕上げた絵のいくつかを見せました。スケッチブックの中には、彼女が思いもしなかった、髪のかすかな乱れや、ほんのりとしたほほえみや、何かに驚いたときの瞳などが、とても豊かな技で、見事に描かれていました。女性はしばしそれを見ると、本当に、見事ですね、と素直に喜び、「ありがとう、いつも美しく描いてくださって」とお礼を言いました。若者は恐縮しながら、言いました。「これをもとにして、今度は油絵の完成作品を描いて持ってきます。すばらしい霊感を得ることができました。神とあなたのおかげです。絵が完成したら、ぜひ見てください」女性は微笑みつつ、ええ、もちろん、と答えました。若者は相変わらず、嬉しさを満面に表して、温室を去っていくまで彼女の顔からずっと目を離さずにいました。

若者が去っていくと、女性は微笑みを変えることはなくも、少し疲れを覚え、イネの元を訪れて、癒しを求めました。イネは、ほほ、と笑い、やさしく言いました。「あれでいいのですよ。あの若者は、あなたを困らせるようなことは決してしませんから」すると女性はあごに指をふれながら、目に悩みの色を見せて言いました。「わかっているの。でもむずかしいわ。男性の心って、時々、どうしていいかわからないくらい、わたしを悩ませるの。彼らはとても純粋で、深くわたしたちを愛してくれるけれど、ほんとうはどこかが違うってことを、わかっている人は少ないのだもの」「彼は、そんなに愚かではありませんよ。人間は確かにまだ若いけれど、彼は、適切な場所で、間違っていることは間違っていると、ちゃんと言える人です。あんな若者がいることが、人類の未来を本当に明るくさせるでしょう。あなたは何も悩むことはありません。あなたは、ただ、あなたでいればいいのです。そうしたら彼は、あなたから勝手に何かを得て、自らを創造してゆきます。男性が女性に求めているものは、ほんのごく簡単なことですよ。ただ、自らとして、ほほえんでいればいいのです」イネはやさしく言いました。

そして日照界の女性は、再び、日常の仕事に戻ってゆきました。彼女は温室の植物の霊たちと、日々、人間たちのことについて語り合いました。ある熱帯の森の野生蘭は、強く人間を批判しました。彼らの地球上でのものを知らなすぎることや、驕りたかぶっていることを見ていると、自分の方が恥ずかしくてたまらないと、彼は言いました。彼女は彼と語り合い、人間はまだ若くて学んでいる途中なのだと言いました。白い頂を抱く高山に棲むある黄金色の小さな花は、いつもため息をつき、人間が風を汚しすぎると嘆いていました。彼女は、本当にそうねと、相槌を打ちながら、どうにかしていかなければと、花と同じため息をつきました。温室の隅で、密かに咲いている薔薇は、彼女が話しかけると、少し困ったような微笑みを見せ、ただ静かに心を閉じて、何も言おうとはしませんでした。彼女は薔薇の心に触れると、彼らの心の傷がどんなに深いかを感じ、悲哀に沈まざるを得ませんでした。

このようにして、彼女は毎日植物と語り合い、彼らから得た人間に関する情報や感想などを記録してゆき、植物と人間のきずなを地球上でどうやって結んでゆけばいいかという課題に、日々取り組んでいるのでした。

あれからよほど日が経ったある日のこと、また突然、芸術家の若者が温室の彼女の元を訪れました。彼の手には、大きなカンヴァスが抱えられており、彼は相変わらず満面に喜びを表しながら彼女を見て、「できました!見てください!」と温室のガラスに響く声をあげました。彼はあれから少し日焼けして、肩のあたりの筋肉が増えていました。それは彼が、彼女の絵を描くために、上質の絵の具を手に入れようと、どこかで労働奉仕をしてきたからでした。日照界の女性は、微笑みを変えず、戸惑いを隠しながら彼の心を受け入れ、温室の隅に立てかけられたカンヴァスの絵に、見入りました。

そこには、澄んだ茶色の瞳に、イネの緑を映しこんで微笑む、美しい黒髪の女の姿が描かれていました。彼女は白い指をイネのまっすぐな緑の葉の中に差し込み、熱い憧れの色を表情に表して、ひたすらまっすぐに、何かを追いかけているようにイネを見つめていました。それを見た女性は驚いて、はあ、と思わず感動の声をあげました。

「すばらしいわ」と彼女は言いました。…ここまで、この人は、わたしを見ていたんだわ。彼女は、若者の才能と思わぬ魂の進歩に驚いていました。そう、わたしはいつも、こんな風に、イネに憧れている。確かに、イネのようになりたいと願っている。彼はそれを見抜いていたのだわ。なんてこと。わかってなかったのは、わたしのほうだったのね。彼がわたしに恋するのは、ああ、わたしが、イネを愛しているからなのだわ!

彼女は胸の感動を隠すこともなく、歓喜の心でしばしの間ずっと絵に見入っていました。そんな彼女の顔を、若者もまた、嬉しげに見ていました。やがて彼女は言いました。
「ありがとう、わたしを描いてくださって。とても、うれしいわ。わたしはいつも、こんな風に、イネを見ているのね」
「はい、それは美しく、愛に満ちた目で。僕はそれが嬉しくてたまらないんだ。こんな女性がいるんだって、嬉しくてたまらないんだ。それを表現してみたい。いっぱい描いてみたい。また地上に生まれることができたら、今度こそ、女性の本当の美しさを、地球上で表現してみたいのです」若者は、熱い心で彼女に語りかけました。日照界の女性は、男性の熱い心に触れると、まるで神に触れたかのように一瞬おののき、身の縮むような怖さを少し感じました。彼女は何かに揺れ動こうとする自分の心を律し、しばし自分を離れたところから見て、観察しました。そう、女性とは、こうして男性を愛してしまうものなのかしら。彼女は、自分の胸の中に、エロスが発した矢の傷のような痛みがあるのを、確かに感じました。彼女はその痛みを実感し、そこから魂を揺すぶる何か熱いものが動き出すのを感じていました。これが、恋というものなのかしら?

若者と女性は、絵を前にしながら、何も言わず、ただふたりでいることに、不思議な熱い幸福を感じていました。すると、突然神は、ふたりに何の予感も与えることなく、無理やりその魂を一つの器の中に入れて溶かしていまいました。あまりのことに、ふたりは茫然としました。女性は、今自分に熱く注がれている若者の視線に、全身を抱きしめられ、どうしてもそれにあらがえない自分の弱さに驚いていました。なぜこんなことがあるのか。なんという快楽。なんという苦しみ。一体なぜこんなにも、男と女は、恋の中に溶けあってしまうのか。わからない。でもここにふたりでいると、それだけで、もう他に何も見えなくなってしまうほど、あなたを、あなただけを、求めてしまうのだ。神様、わたしたちに、一体何をお与えになったのですか?若者は震えながら涙を流し、女性の横顔をひたすら見つめながら、自分を突き動かそうとする何かに必死に耐えていました。

やがて、温室の植物たちが、いつまでもふたりに浸っている彼らに、そっと声をかけました。もうそろそろ、お時間ですよ、おふたりさん。するとふたりは、はっと現実に戻り、同時に後ろを向いて、ずっと植物たちに見られていたことに気づいて、恥じらいの苦笑いを見せつつ、ほっと安堵の息をつきました。

「また、絵を描かせてもらっても、いいですか」若者は、カンヴァスを抱えながら、日照界の女性に言いました。「ええ、わたしでいいのなら」と女性は笑って答えました。

日照界の女性は、カンヴァスを持った若者が、手を振りながら去ってゆくのを、温室の入り口から見送りました。そして彼の姿が消えて見えなくなると、つかの間の恋の美酒の香りに少しの間ゆらめき、すっと背筋を伸ばして天を見上げ、神に祈り、すぐに平常の自分に戻しました。彼女はイネの元を訪れ、言いました。

「どうしよう、わたし、彼を好きになってしまったわ」するとイネはまた、ほほ、と笑い、「それはそれは。お気をつけあそばせ。恋とは、まことに苦しいものですよ」と言いました。

女性は、何かがおかしくてたまらぬというように白い歯を見せてイネに笑いかけ、今日起こった美しい出来事を思い返しては、ほおっとため息をつき、秘密の記憶の詩の中に、それを深く織り込んでゆこうと、思いました。



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2012-02-13 07:27:35 | 月の世の物語・別章

学校は、周りを楠の森に囲まれた、広い緑の庭でした。庭の隅には、街灯のような一本の高い月色灯が点っており、その下で、白い服を着たひとりの女性教師が立って、書物を開き、しばし不思議な音韻の呪文を歌っていました。

空には梅の種のような、ほんの少し欠けた月があり、薄藍の空に沈み込むようにかすかに青く染まった光を放っていました。庭のあちこちには、小さな水晶の結晶が、キノコのように生えており、それが月光を吸いこんで、月色灯とともに、緑の庭の教室を明るく照らしていました。

生徒たちは、教師を取り囲んで、自分の敷物を思い思いのところに置いて座り、しばし教師の呪文の歌に聴き浸っていました。

やがて教師は呪文を歌い終わると、生徒たちに語り始めました。生徒たちはみなそれぞれ、地球上で生きていたときの影を背負っており、表情にどこか歪みを見せ、ひざの上に肘をのせて面倒くさそうに斜めからこっちを見たり、目に強い反抗の色を見せながら、腕を組んで胸をそらしたり、馬鹿にするような目で女性教師の姿をなめるように見ていたりしていました。

教師は、石のように落ち着き払った静かな声で、生徒それぞれの名を呼びながら、それぞれにそれぞれの罪の意味を教えてゆきました。
「でも先生!」生徒の一人が声をあげました。それはモンゴロイド系の顔をした、少々頭の薄く禿げた黒髪の小男でした。
「それは、私がやったんじゃありません!裏から怪に操られたんです!」教師はその男の顔を見ると、静かな声で答えました。「ええ、そうですね。今地球上には、怪がたくさんいます。そして、人の人生を狂わせてやろうと、いつも狙っています。あなたの心には、いつも怪がささやいていました。憎い、憎い、ねたましい、ねたましい、と。でもあなたには、その声に反抗することもできたのです。結局は、あなた自身が、怪の言葉に屈して、それに従ってしまったのです。それを罪ではないとは決して言えません」

すると生徒は目をぎらつかせ、まだ何か文句を言いたげに、ぶつぶつと口の中で何かを繰り返していました。女性教師は、その生徒をしばし見つめると、右手で不思議な所作をし、天を指差して呪文を唱えました。すると、月色灯の上に、緑色に光る大きな紋章が現れました。それを見たとたん、生徒たちは一斉に緊張し、急いで姿勢を正して頭を下げました。中には指を組んで祈り始めるものもいました。
紋章は、月の世を導くある一柱の神の紋章でした。地球上では神を信じないという者も、ここにくれば誰もが神の前に頭を下げました。ここでは、実際に神の姿を見、その御業を見たことがない者はいないからでした。

教師もまた、その紋章に頭を下げ、深く感謝の言葉を述べると、また一定の儀礼の所作をして、紋章を消しました。生徒たちの間に、ほっとした空気が流れ、彼らはしばし呆然としながら互いの顔を見合わせました。ざわざわとし始めた生徒たちを、教師は鎮めると、さっきの小男を立たせ、自分の罪を述べるようにと、厳しく言いつけました。男は、苦しそうな顔をしながらも、仕方なく語り始めました。

「…はい。わたしは、会社で、ひとりの有能な部下に嫉妬し、彼の才能をつぶしました。それによって、彼は自分が地上で果たすはずだった仕事を果たすことができなくなり、結果的にそれは、多くの人を苦しめることになってしまいました」
「そうですね。あなたのしたことは、ごく簡単なことでした。ただ、その人のした仕事の、小さなところにケチをつけ、親切を装って余計な進言をしたのです。あなたは何度も繰り返し、そうやって彼を巧妙にいじめ続けました。そして、彼は自分の仕事全てをあなたに否定され、自分というものは馬鹿なものだと思いこまされてしまったのです。そして、本来やるはずだった仕事をすることが、できなくなってしまった。それは一見、たいしたこともないことのように思えましたが、実は大変なことだったのです。彼は使命を持っていました。地上に降りて学び、ある事業を興し、それによって、人類の罪の一部を浄化するという、大事な仕事をするはずでした。彼がそれをやれば、たくさんの人が、罪から解放され、生きるのがより楽になるはずでした。しかし彼がそれをやることができなかったため、いまだ人々はその罪の償いに苦しめられ続けているのです」

教師の言葉を聞きながら、男はうつむいて苦しそうにきょろきょろと目を動かしていました。いらだたしさが彼の足を妙な格好にねじらせていました。教師は男を座らせると、また続けました。

「このように、地球上には今、憎しみや妬み、孤独、悲哀、恐怖、さまざまな悪知恵を巧みな屁理屈に隠した偽善があふれています。地上で生きることはまことに苦しい。多くの人は、怪のささやきに負け、人生を失敗してしまいます。でも、中には、それに耐えて、何とか正しく道を歩もうと、あらゆる挑戦を続けている人もいます。彼らの存在が、地球上の生をかろうじて何とか支えているのだと言えましょう。では次の質問です、人類は、いつも、同じことが原因で、人生を失敗します。それは何ですか。答えてください」

教師は、庭の隅に座っている、きつい化粧をしたひとりの白人の老婆を指差しました。彼女は自分を何とか若く見せようと、少女のように髪を長くたらし、花模様の可憐な服を着ていました。老婆は答えました。「はい、それは、『NO』ということです」
「そう、そうです。NO、いやだ、きらい、だめだ。あるいは、『ちょっとそれはねえ』、『やめてよ、信じられない』、『馬鹿みたい、そんなこと』、『ほかにもっとちゃんとしたことはできないの?』、『まだそんなことやってるのね』…などなど、あなたはよく、自分の娘にそう言っていましたね」教師の言葉に、老婆は憎悪と嫉妬の混じった目で彼女をにらみながら、小さな声で震えながら答えました。「…はい、そのとおりです…」
老婆は、娘が自分より若く、愛らしく、未来と希望にあふれているというだけで嫉妬し、彼女の人生をずっと邪魔し続けました。娘はそんな母を憎み、やがてある男と結婚すると同時に、母親のいる実家には一切顔を見せなくなりました。そして母親が夫を失い、ただ一人残されて、病に落ちても、決して彼女に会おうとはしませんでした。結局彼女は、娘に見捨てられ、一人小さな家の隅で、娘を含めて世間の人皆を呪いながら、老い衰えて孤独に死んだのです。彼女の遺体が警察によって見つけられた時には、彼女はもう白骨に近い状態になっていました。

「人生の多くの失敗は、そう、『いやだ』と言ってしまうことが原因なのです。『おまえなど、いやだ』、『そんなことをするのは、いやだ』、『つらいのは、いやだ』…、人間はよくそう言います。そして全ての人を拒否して馬鹿にし、自分だけをいいものにしたがります。他人は馬鹿にして、自分だけが偉く、最もすぐれているのだと、思いたいのです。それはなぜでしょう。はい、次の人」
女性教師は、今度は別の、黒い眼鏡をかけた肩幅の広い褐色の男を指差しました。男は立ち上がり、それが法律だから仕方ないという感じの、事務的な言葉で返しました。
「はい、それは、人間がいつも、存在痛に苦しんでいるからです」
「そうですね。人類はいつも、存在痛に苦しんでいます。それは、この自分が、馬鹿で、必要のないものだと感じている、とても悲しい痛みです。怪はいつも、生きている者にささやき続けているのです。『おまえなど、いらない』、『おまえなど、馬鹿だ』、『はやく死んでしまえ』…。その声に心を侵された人々は、嘘の鎧で卑屈な自分の心を守り、巧妙な隠喩で他人を馬鹿にし、憎悪を隠して微笑み、皆と仲良くするふりをして、ひとりの部屋で胸の憎悪をぐつぐつと煮込みながら、誰かを罠にはめるための、巧みな知恵を編んでいるのです…」

教師は声のトーンを上げ、一息呪文を唱えて、その場に流れる不穏な空気を清めてから、続けました。「その地球上で正しく生きるためには、存在痛をなんとかしなければなりません。そして怪のささやきに負けぬため、愛を、しっかりと学び、それを実行する強さを身につけねばなりません。愛こそが、存在痛を癒すただひとつのものです。全ての不幸は、人が、人を馬鹿にすることから始まります。それは愛ではありません。人の存在を、丸ごと否定することなのです。真実の幸福は、人が人を愛することから始まります。みなさんに問います。愛を、知っていますか?」すると生徒たちは一斉に、「知っています」と答えました。教師は言いました。「では、愛を、実行することを、あなたたちはできますか?」すると生徒たちはざわめき、ため息をつき、あるいは顔をそむけ、あるいは下を向いて自分の膝をたたくなどして、それぞれの気持ちを表しました。彼らにとって、愛は、とんでもないものでした。地球上でそれをやれば、一斉に怪に襲われて、人生の全てを壊され、悲劇的な死に追いやられてしまう恐れがあるからです。ですから常に、外見は愛を装いながら、他人よりも賢く立ち回り、自分の人生だけを何とかうまく運ぶことが、一番大事だと考えるのが、彼らの当たり前になっていました。

教師は別に驚きもせず、その様子を静かに見守っていました。彼らの中のためらいや憎悪や不安やさまざまにうごめく暗い気持が、その場の空気を痛め、それが一斉に教師に対する嫉妬へと燃え上がり、ハエのように集合して群衆の暗黒に変化していくのを、月光や水晶の光が密かにさまたげ、静寂の中に散らしていきました。

そのとき、月色灯が、鈴のような音を歌い鳴らし、授業が終わったことを告げました。生徒たちの中に、ほっとゆるんだ空気が生まれ、彼らは肩の力を抜いて互いの顔を見あい、苦い歪んだ笑いを見せました。

「では、今日はここまで。次の授業は七日後です。必ず皆、ここに集まってください。来ない方は罪になります。わかっていますね」教師が言うと、生徒たちは一斉に、はいと答え、教師の合図を待ってその場から立ち上がり、敷物を持って次々と姿を消してゆきました。緑の庭に、生徒の姿がなくなると、教師はひとり月色灯の下で、ふっと息を落とし、右手で魔法をして白い碗を出すと、月光を汲んでそれに白い粉薬を混ぜ、一息に飲み干しました。

ああ、今日も終わったわ。薬を飲んで、生徒たちから浴びていた汚れを清めると、彼女は月を見上げながら誰にいうともなくつぶやきました。すると、楠の樹霊のひとりが、彼女に声をかけ、ねぎらいました。
「いつも大変ですね、先生」女性教師はその声に振り向き、笑顔を見せながら言いました。
「仕事ですもの。大変だなんて言ってはいられないわ。罪びとはいつも、形だけは立派に答えて、なかなか本当の進歩を見せてはくれないけれど、こうして繰り返しやっているうちに、何とか真実に導いていけるのではないかと、そう思ってやっているの」
すると楠の樹霊は、少し悲しげな目で彼女を見つめ、「…はるかな道ですねえ」と、慰めとも皮肉ともとれぬ言葉を言いました。女性教師はただ黙って、笑っていました。

やがて女性教師は、手に持っていた白い碗を消すと、薄藍の空に浮かぶ月や、常に生徒たちを照らし、励まし続けてくれていた水晶たちに礼をし、神に感謝の祈りをささげ、自分も少し休むために、そこから姿を消しました。

だれもいなくなった緑の庭の学校では、かすかに青い月光が、神さまだけが知っている本当の未来の秘密を言いたげに、小人のようにくすくすと笑いながら水晶の中に忍び込み、次の授業のための準備をし始めました。



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2012-02-11 07:22:08 | 月の世の物語・別章

月の世に、修羅の地獄はありました。そこには群青色の空の真ん中に、深くさげすむ歪んだ目の形をした細い二日の月がかかっており、たくさんの罪びとたちのやっていることを、いつも静かに見下ろしていました。

地上には深い森があり、罪びとたちはそれぞれに、木の棒や石や考えられる限りの使える武器を使って、常に他人と戦い、殺しあっていました。どのような原始的な武器でも、打たれた痛みはすさまじく、流血を見ることなどしょっちゅうでした。そして殺されても死ぬことはなく、三日後にはよみがえって、再び戦いを始めました。彼らは生前、敵と戦ってばかりいて、たくさんの人を殺しました。そして死後もそれを止めることができず、自分以外の者は全て敵だと言うように、会う者会う者、全てを攻撃していました。

今、その修羅の地獄で、一つの反乱が起こっていました。ある、最近死んだばかりの罪びとを中心に、生前縁のあった者たちが集結して、修羅の地獄を管理していた青年たちを攻撃しはじめたのです。彼らは一斉に青年たちに憎悪の瞳を向け、火のついた棒や石を投げられるだけ投げて、必死に彼らを殺そうとしました。青年たちは、何とか彼らを鎮めようとしましたが、彼らの首謀である罪びとは、かなりの知恵者らしく、巧妙に青年たちの裏を読み、思わぬところから攻撃をかけ、彼らを散々悩ませていました。

「やあ、どうだ、今の様子は?」乱を聞きつけて急いで降りてきた、茶色の髪をした一人の青年が、修羅の地獄の上空で、反乱で少し傷を負った同僚の、緑の目の青年に声をかけました。「やあ、君、休みはどうだったかい?」緑の目の青年は茶色の髪の青年を振り向き、少し息を荒げながら言いました。「ああ、友人と会ってきた。懐かしかったよ。それで今度は、こっちの友人の相手をしに来た」「それはご苦労なことだ。大変な友人だよ」緑の目の青年は、ポケットから小さな月長石のかけらを取り出すと、それを指でぽんと弾き、魔法で宙にひとりの男の顔を描きました。それはあごだけが奇妙に細長く伸びた、ぼんやりとした三白眼のどこか陰湿な感じのする男でした。

「二か月前にここに落ちた罪びとだ。彼は生前、テロリスト滅殺のための特殊部隊に所属していて、テロ組織の幹部を十人殺した。そのうちの四人は獄中での拷問殺。これがまた惨い。また暗殺活動中に関係の無い市民十六人を巻き込んで殺したこともある。結局は自分もテロリストに殺されたんだが、こいつがここで、自分が殺したテロリストたちと出会って、こういうことになった。要するに、どうして自分があいつらと同じなんだと言いたいらしい」「よくあることだ。自分が敵と同等だとは思っていないんだ、彼らは」「修羅の地獄とはそういうものだ。とにかく、彼らを鎮めるためには、この罪びとを何とかしなきゃいけない」「聖者様の助けは?」「いや、僕たちで何とかしよう。聖者様たちは今、地球の方で忙しい」。

修羅の地獄を管理する青年たちは、それぞれに、月長石でできた美しい短剣を持っていました。茶色の髪の青年は、胸を右手でぽんと打つと、その光る短剣を出して手に持ちました。そして下界の森を見渡しながら、反乱の首謀者である罪びとを探しました。「目印は、特徴的なあごだ。あれが修羅の森の木々を脅かす。たぶん木々が彼をみつけたら、何かの合図をしてくれるだろう。石が飛んでくるから、低空を飛ぶ時には気をつけろ」緑の目の青年もまた、短剣を持ちながら、森の木々の上を飛び、茶色の髪の青年に言いました。森の上には、同じように彼を探す青年たちの姿が、たくさん飛んで見えました。

茶色の髪の青年は、すいと低空に降り、しばし森の梢すれすれを飛びました。すると、ぐあお、と獣のような声をあげて、森に潜んでいた罪びとたちが一斉に彼に向かって石を投げ始めました。そのうちのいくつかを彼は短剣で跳ね返し、いくつかを、足と腹に受けました。木々の隙間から見える罪びとたちの顔は、憎悪に歪み、相手を殺すということだけしか考えていない、まるで魂の見えぬ獣よりも落ちた瞳をしていました。
「すさまじいな。修羅は人の魂をすりつぶす。まるで人間に見えない」茶色の髪の青年は言うと、呪文を唱え、月光を自分の周りに集めて、罪びとたちには自分の姿が見えないようにする魔法を使いました。そうして森に降りると、ほう、と梟の声真似をし、森の木々に合図しました。森の木々の樹霊たちは、その合図に応えて、かすかに枝をさわさわとゆらしました。

(かれは、かれは、石の中にいます!)樹霊のひとりが心の声で言いました。(石の中?)青年が返すと、(はい、かれは、かれは、まほうを、まねします。すこし、まねします、石にかくれる、まほう、つかえます。いま、いま、かれは、石の中を、いどうしています。つねに、せいねんたち、みています。にくしみに、もえています。ころそうとしています。ころそうとしています。ころそうとしています)と、木々たちは教えました。

ふと、上空から、おおう!と誰かの叫ぶ声が聞こえ、森がざわりとうごめきました。ほかの樹霊が、ほう、ほう、ほう、と声をたて、心の声で叫びました。(ちゅうい!ちゅうい!ちゅうい!ひとりやられた!右目、火の棒にやられた!ちゅうい!ちゅうい!かれら、目をねらう!目をねらう!)

茶色の髪の青年は、上空を驚いた目で見上げながらも、とにかく、森の中をあごの長い男が隠れていそうな岩を探し始めました。時に、罪びとが潜んでいる茂みのそばを通りましたが、姿を消している彼の気配には気付かず、彼らはただ、ぐるぐると吠えながら、目をきょろきょろとまわし、握りしめている石を投げつける的を探していました。

茶色の髪の青年は、木々の枝下を飛ぶように走りながら、森の中に点在する岩を一つずつ確かめ、例の罪びとの気配を探しました。上空を飛ぶ青年たちは、あるいは短剣で石を跳ね返し、あるいは鎮めのラッパを吹き、何とか罪びとたちの憎悪を鎮めようとしていました。森の中の岩を探して走っているうちに、茶色の髪の青年は、ふと、背後に不穏な気配を感じ、振り向きました。しかしその時にはもう遅く、あごの長い例の男が、「馬鹿め!それで隠れたつもりか!」と叫びながら、彼の頭めがけて火のついた棒を振り下ろすところでした。青年は頭に一撃を受け、うっと声をあげてそのまま地面に倒れました。そのとたんに、魔法が消えて、彼は罪びとたちの前に姿をさらしてしまいました。彼を見つけた罪びとたちは、目に狂気の笑いを見せながら一斉に彼の周りに集まり、嘲笑いながら彼を足で踏みつけたり蹴りつけたりし始めました。あごの長い男は、歯をむいて恐ろしい笑いを見せ、火の棒を彼の目めがけて突き刺そうとしました。青年は反射的に火のついた棒を左手でつかむと、右手で短剣を光る玉に変え、すばやく呪文を唱えて、それを爆発させました。

爆発は、森の木々をも巻き込んで、罪びとたちをいっぺんに吹き飛ばしました。茶色の髪の青年は、文字通り踏んだり蹴ったりの目に会った体をふらふらと立ち上がらせ、周りを見回しました。例のあごの長い男は、腰のところで体が半分に割れ、ずいぶんと離れたところに吹き飛ばされて倒れていました。他の罪人も、彼と似たような格好で、体に惨い傷を負い、あちこちに散らばって横たわっていました。森の木々が、一斉に叫びました。

「つかまえた!つかまえた!つかまえた!かれを、つかまえた!」すると上空を飛んでいた青年たちが何人か、茶色の髪の青年のところに降りて集まってきました。緑の目の青年が、参事の真ん中に茫然と立っている茶色の髪の青年の肩をたたき、言いました。「すまなかった。君ひとりにやらせてしまった」すると茶色の髪の青年は青ざめながらも、落ち着いた声で言いました。「いや、これが僕の仕事だ。それよりも、今回は、たくさんの罪びとを、殺してしまった」「死んではいないよ。修羅の地獄では、死にたいと思っても死ねない。どんなむごい殺され方をしても、三日後にはよみがえって、また殺し合いを始めるんだ」「わかってる。でも、殺したことには変わりはない。木々も傷つけてしまったし、お役所に行って、罪の浄化を願ってくるよ」「ああ、そうした方がいい。後の処理は僕たちがやる。…言っておくけど、君のしたことは、決して間違ってはいない。あの場合、仕方なかった。僕でも、あの状況に落ちたら、君と同じことをやったろう」「…ああ、ありがとう」茶色の髪の青年と、緑の目の青年が会話を交わしている間、上空を飛ぶ青年たちはラッパを吹き、呪文の曲を流しながら、罪びとたちに首謀者のつかまったことを教え、鎮まるように叫び続けていました。

こうして、何とか反乱は治まりました。あごの長い三白眼の男は、三日後には割れた体もつながって生き返り、何もかもを忘れて、また憎悪と狂気に燃えて、戦いを始めました。しかしもう、彼を中心に罪びとたちが集まることはありませんでした。なぜなら、彼は乱を起こした罪により、首から下が毛の生えた類人猿のような姿になって、人間の声を発することができなくなり、魔法も使えなくなったからです。

茶色の髪の青年は、罪を浄化するため、三か月の間、罪びとたちに混じって、巨大な石臼を回し、豆真珠の粉をひく労働をしました。それは時には管理人に奴隷のように扱われ、鞭打たれねばならない、とてもつらい仕事でした。

彼は重い臼を回す棒を額に汗を流して押しながら、今頃修羅の地獄では、あの細いさげすみの月の光を浴びながら、罪びとたちはまだやっているのだろうかと、考えていました。



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2012-02-10 07:35:51 | 月の世の物語・別章

天文台は、地下にありました。なぜなら地上に建てては、常に空を照らしている日の光の、眩しい気高さをおそれて、小さな星の光は身を隠してしまうからです。そこで星の運行を研究している魔法学者は、日の都のほど近く、山を越えて少し離れた平地の地下に、広い空洞があるのを見つけ、そこに魔法で金の天文台を造りました。

天文台に備えた水晶を磨いた大きなレンズの望遠鏡は、闇の次元を超えて簡単に空の星を透き見ることができました。魔法学者はそんな大きな魔法の天文台を、一人で造れるほど、かなり高い智と力を備えており、それゆえに高い誇りを持ち、氷のように冷たい横顔の奥に、愛の灯を、高い塔に処女を閉じ込めるように隠していました。

魔法学者は、女性でした。彼女は長い髪を丁寧に編みこみ、魔法学者のしるしである四角い帽子をかぶり、黒い道服を着ていました。彼女は、天文台の中にある大きな知能器のキーボードをカチカチと打ちながら、画面に映る小さな星を見ていました。それは太陽系をひそかに回っている、まだ誰も知らない名もない氷の小惑星でした。彼女はだいぶ前からその星が、妙な振動をして軌道を回っているのに気付き、それをずっと観察していました。

と、部屋の扉がぎいと開き、誰かが入ってきて、彼女に「先生」と声をかけました。振り向くと、彼女の助手であるひとりの青年が立っていました。彼は、首から下は普通の人間の男性のようでしたが、頭だけは狼のように耳を立てた白い犬の容をしていました。彼は普通に人間の言葉を話し、魔法学者に言いました。

「調査結果が出ました。星の振動の原因は、地球が発した惑星探査機でした。探査機に潜んでいた邪気が、たまたま軌道上に落ちて、星がその汚れをこわがっているのです」
それを聞いた魔法学者は、深々とため息をつき、言いました。
「やはりね。人類は愚かだわ」
「先生、それを言ってはおしまいです。確かに人類は、高い技術をあまりに無邪気に使いすぎますが、私たちの仕事は、星を調査することによって人類を助けることなのですから」
「無邪気にね。それはとても優しい言い方ね」
魔法学者は冷たく言い放ちました。すると犬の頭をした助手は、かすかに片目を歪め、彼女を見つめました。彼は思いました。女性とは、なんと不思議な存在だろう。母のように優しく全てを受け入れるかと思えば、物事を丸ごと冷たく切り捨てることもある。それでいて、その笑顔ときたら、花のように愛らしいのだ。

「このまま放っておいて、この星が汚れに触れてしまっては、地球の運行にも影響が出るわ。真空の精霊が軌道を清めているはずだけれど、それでも追い付かないほど、汚れてしまったのね」
「はい、影響は少ないとは思いますが、決していいことではありません。人類の運命にも、影をさしかける恐れがあります」
「太陽系の運行は、全て神がおやりなさっている。精霊でも清められないのなら、神がそれをおやりになるはず。だのになぜ、神は地球のために、それをおやりにならないのかしら」

犬の顔をした助手は、しばし魔法学者から目をそらして、それを言うべきかどうか考えました。しかし彼の口は彼のためらいを無視して開きました。
「それはたぶん、神が私たちにそれをやれと言っているせいではないでしょうか。神は私たちがその星を常に観察し、研究していることをご存知です。神は私たちなら、軌道を清められるだろうと、私たちにおっしゃっているのではないでしょうか」
すると魔法学者は、その答えは当然だというように驚きもせず立ち上がり、同じ部屋にある別の知能器の前に移りました。その知能器のキーボードの中の白いキーをカチリと打つと、目の前の中空に大きな天球儀の幻が現れました。透き通った天球儀のあちこちには、星座を表す紋章がたくさん描かれて、それぞれの色に美しく光っていました。魔法学者は、キーボードを右手でカチカチといじりながら、しばらく知能器を相手にゲームのようなことをして、天球儀の紋章を動かしたり、裏返したり、光の色を変えたりしていました。そして左手には細い光のペンを持ち、見えない紙に何かをしきりに書いていました。

犬の頭の青年は、魔法のち密な計算に熱中している魔法学者を見ると、ふとそこから姿を消し、どこかへ行ってしまいました。

よほど時間が経って、ようやく魔法学者は「ふむ」とうなずき、言いました。「確かにできないことはないわ。とても難しいけれど。神がこれをやれと私たちにおっしゃっているのなら、やるしかないわね」彼女がそう言ったとき、犬の頭の青年はもうそこに戻っていました。そして小さな白い紙を、魔法学者に差し出し、言いました。
「そのとおりだと思います。お役所からも、許可が出ました」魔法学者は許可証を受け取り、そこに押してある日照界の紋章を見つめながら、「あなたの気が利くことといったら、天才的ねえ」と、明るい笑顔を見せました。

魔法学者は息をふっと吐いて、手の中に厚い書類の束を出し、それを半分助手に渡しました。「これが呪文よ。今すぐに覚えてね」助手は受け取った書類を風のような速さでぱらぱらとめくり、光る目でそれを読んで行きました。そしてそれを三度繰り返した後、「はい、覚えました」と言って書類から目を離しました。そのとたん、書類は彼の手の中から消えました。

魔法学者は手に杖を出し、「では行きましょう、あまり時間はないわ」と言いました。そして杖を振って天文台の隅に次元のカーテンを作り、そこをくぐりました。犬の頭の青年も、その後に続きました。カーテンの向こうには、闇の中に星々が散らばる、宇宙空間がありました。魔法学者は目を光らせ、空間のあるところに、ひどく傷んだガラスの割れ目のようなものがあるのに気付きました。魔法学者は驚き、「計算以上に、ひどいわ」と言いました。

魔法学者と助手は、その割れ目の放つ汚れの悪臭に顔をゆがめながらも、そこに近づいていきました。そして事前に言い合わせた通り、声を合わせて長い呪文を歌い始めました。魔法学者は呪文に合わせて、杖を踊るように動かし、中空に数々の魔法の印と紋章を描いてゆきました。すると割れ目はそれに反応し、少しずつではありますが、小さくなってゆきました。しかし、半分ほどに割れ目が縮まると、どんなに呪文を歌っても、割れ目はそれ以上小さくならなくなりました。魔法学者は焦りました。彼女の計算では、長い呪文の流れの六割程度のところで、汚れはほとんどなくなるはずでした。しかし、呪文がその六割を過ぎて、七割、八割のところまで来ても、割れ目は一切反応せず、暗い口を中空に開けたまま、そこにありました。

呪文の九割を読み終えた時、魔法学者は、星が、軌道をわたって、だんだんとこちらに近づいてくるのに気付きました。いけない、と彼女は思いました。このままでは星が汚れに触れ、太陽系での役目を放棄してしまう恐れがある。危機を感じた彼女は素早く頭の中で計算し、ある魔法を行うことを瞬時に決めました。助手は、隣にいる魔法学者が、突然、予定とは違う呪文を唱え始めたのに気付き、叫びました。
「先生!いけません!それをやっては!!」しかしもう呪文は放たれた後でした。その呪文が割れ目の中に飛び込んだと同時に、割れ目はがしゃりとしまり、一瞬にして汚れは消えました。しかし同時に、次元の衝撃からくる反動が、絶対零度の冷酷な刃の破裂となって彼女に襲いかかり、彼女はその衝撃で自分の杖と腕を一瞬にして砕かれました。

自らの力を超える魔法を使い、両腕と杖をいっぺんに失い、それゆえに魔法の力をも全て失った魔法学者は、疲れ果て、力なく宇宙空間に浮かびました。助手は、飛びつくように彼女の体を抱き上げ、涙を流しながら言いました。
「なぜ、このようなことを!」彼がそれを言うと同時に、小さな星は無事に汚れの消えた軌道を渡り、通り過ぎてゆきました。魔法学者は助手の腕に抱きかかえられながら、言いました。
「愚かねえ、わたしも。愛には、かなわないわ」

助手は涙を流しながら、彼女を抱きしめ、そのままカーテンをくぐり、元の天文台へと戻りました。彼は彼女を天文台の隅の長椅子の上に寝かせると、ひとしきりそのそばで、泣き声をあげていました。

「なぜ、なぜ、神はこのようなことを…!」助手が泣きながら言う言葉に、魔法学者はやさしく答えました。「心配しないで、腕はまた再生するわ。時間はかかるけれど。魔法の力も、だんだんと戻ってくる。神の御心は、わかっているの。私たちは時に、愛を全うするために、自らの存在を賭けて挑まねばならない。そうして、今の自分を超えた自分の力が自分のどこにあるかということを、神に教えられるのよ」

魔法学者の言葉に、助手は頭を抱え、耐えきれぬというように、激しい嗚咽をあげました。
「愛は、愛は、このようにも惨いことを、人にさせるものですか!」
「私は自分の意志でやったの。誰に命じられたのでもないわ。愛を責めてはだめよ。あなたのためにならない。それよりも、助けてちょうだい。疲れたから、少しお水が欲しいの」
その言葉に助手はすぐに反応し、右手の魔法で、清い水の入ったガラスのコップを出し、腕のない魔法学者を助けて、それを飲ませました。

「ありがとう。おいしいわ。誰かに優しくしてもらうのは、ずいぶんとひさしぶりね」
魔法学者は、少女のように微笑み、ほんとうにうれしそうな顔で、助手を見つめました。助手もまた、涙を流しながら、笑ってうなずきました。

天文台の中で、二人はしばし沈黙の休息をともにし、ひそやかにも清らかな愛の、耳には聞こえぬ声を、交わしていました。



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2012-02-08 07:43:27 | 月の世の物語・別章

地球上の、ある川沿いの大きな町の、ある小さな家の二階の一室の中で、ある若者が、イヤホンで音楽を聴きながら、ベッドに横たわって雑誌を読んでいました。

その様子を、部屋の隅から観察しながら、二人の少年が、それぞれのキーボードを開いて、何かぶつぶつと会話を交わしていました。もちろん、彼らの姿は、ベッドの上の若者には決して見ることはできませんでした。

二人の少年は、ともに日照界の水色の制服を着ていましたが、一人は金髪に薄い色の目の白人系の少年で、もう一人は、肌の浅黒い今は滅びた大陸系古民族の顔をしており、両頬に小さな紋章の刺青を入れていました。

「…やっぱりおかしいね」金髪の少年が言うと、刺青の少年が画面に浮かぶ情報を何度も確かめながら言いました。「うん。誕生前の彼の人生計画では、こんな風になるはずはない。彼は髪も目も茶色だけど、本当は金髪で、背ももっと高いはずだ」刺青の少年が、キーボードのある赤いキーをポンと押すと、中から小さな白い玉が飛び出しました。彼はそれを手に取ると、白い玉を、ベッドの上の彼の方にかざし、玉から白い光を放って、ベッドの上の彼の頭を照らしました。そして小声で短い呪文を繰り返していると、ベッドの上の彼の頭から何かもやもやとしたものが出てきて、光はそれを吸い取り、静かに白い玉の中に戻ってきました。刺青の少年がその玉をまたキーボードに放り込むと、画面が切り替わり、色とりどりの不思議な記号が規則正しく並んだ、二重らせんの形の細長いリボンのようなものが現れ、それは目にもとまらぬ速さで、画面の中を流れてゆきました。

少年たちは、二重らせんのリボンの流れを凝視しつつ、しばし注意深く調べていきました。やがて、金髪の少年が叫ぶように言いました。「あった!ここだ」すると画面の流れが止まり、二重らせんのある部分が、傷つけられて赤く腫れあがり、じくじくと音をたてて妙な振動を繰り返しているのが見つかりました。「遺伝情報が書きかえられている。やっぱり」「怪のしわざだね」「そうだろう、でも、ちょっと待てよ」刺青の少年は画面を切り替え、ベッドの上の若者の魂生に関するページを開きました。画面の中を流れてゆく文字の列を、彼は何度も繰り返し、素早く読んでいきました。そして言いました。「彼は怪と契約したわけじゃなさそうだ。怪に、勝手に遺伝情報を盗まれてしまったんだよ。つまりは、他のやつのと入れ替えられたんだ」それを聞くと、金髪の少年は悲しげな目をして、眉をゆがませました。

金髪の少年は自分のキーボードを打ち、彼の人生計画を出して読みながら、言いました。「誕生前の計画では、彼は、音楽家になるはずなんだ。かなりの才能も持ってる。それほど売れはしないけれど、できる限りの努力をすれば、彼なりの愛をこの世で表現できるはずなんだ。でも彼は今まで、音楽家になるための努力を一切放棄している。自分の容姿に自信がないからなんだ。本来の金髪に背の高い姿であったら、きっと彼はもっと自分に自信を持って、彼なりの創造活動を始めたろうに」それを聞いた刺青の少年は、額に拳をあて、ふう、と深い息をつきました。

「また一人、怪に人生計画を狂わされてしまった」刺青の少年が言うと、金髪の少年は言いました。「このままでは、彼は人生計画にあった創造活動を何にもできないまま、人生を終えてしまうことになるね。また、地球上に咲くはずの愛の花が消えてしまう」「書きかえられた情報がどこに行ったのか調べても、今更元に戻すことはできない。肉体が完成してしまってから、書き変えてしまったら、大変なことになる」「ああ、彼の人生そのものが、もっと大きく狂う。それどころか、死んでしまう恐れもある」「このままの姿で、何とか、少しでも音楽の方に興味を持っていくよう、導いていくしかないね。何かを始めてくれるといいんだけど」彼らは同時にキーボードを閉じ、元の蛍石のカードに変えると、それをポケットに入れ、そこから姿を消しました。

二人は、しばしの間、空を飛びながら、会話を交わしました。「ほんとうに、怪は大変なことばかりやる」刺青の少年が言うと、金髪の少年は頭を振りつつ、ため息をつき、それに何も答えることができませんでした。刺青の少年がまた言いました。「今月ぼくらがここで見つけただけで、二百十三人だ。だんだんひどくなってきている。他の使いたちも、いろんなことをたくさん見つけてるだろうね」すると金髪の少年は少し息を吹き返したように言いました。「うん、たぶんね。怪は、こんなことを、本当に、ごく簡単にやってしまうんだ。後でどんなことになるかってこと、わかってるはずなのに」「どうしようもない。彼らには月の世の地獄の管理人でさえひどくてこずるんだ。彼らは自分以外の言うことは決してきかない。それでいて、その自分には全然自信がないんだ」「愛なるものを、侮辱しすぎるからだ」彼らは、地球の日照を浴びながら、遠くに見える高い緑の山を目指しました。

山は、人間によってアスファルトの山道を切り開かれ、頂上から少し下りて離れたところに、大きな建物と広い駐車場があり、そこから見える雄大な岩と水と緑の自然の風景を眺められる、かなり有名な観光スポットとなっていました。少年たちは、その駐車場にふわりと降り立ち、しばし、ちらほらと観光客たちの姿が見える周囲の風景を見ていました。そして彼らは何とも言えない胸苦しさを感じて、祈るように天を見あげると、駐車場を離れて森の中に忍び込み、まだ観光客たちが誰も知らない、古い時代に作られた小さな細い山道を進み始めました。山道は背の高い年経た木々たちに挟まれ、濃い森の香りと深い木々の嘆きが、水のように深くたまっており、彼らはその水をかき分けるように進みました。道はやがて上りになり、行く手に、不思議に澄んだ明るい日の光が見えてきました。それは地上の日の光ではなく、かつて日照界の役人が地上に呼び込んだ、日照界の日の光でした。しばらくして、彼らは、大昔、この山を信仰していた、今は滅びた古い民族によって作られた、小さな石組みの祠の前に立ちました。日照界の光は、その小さな祠の中から漏れ出ていました。少年たちが、その祠の前で一定の儀礼をし、神に感謝の祈りをささげると、祠から漏れる光が強まり、それは金色の幻となって、そこに小さな金のピラミッドを形作りました。少年たちはそのピラミッドに向かってもう一度頭を下げながら簡略な儀式をし、呪文を歌いながら、それぞれのポケットから白い玉を出して、そのピラミッドの中に放り込みました。するとピラミッドはすぐに全てを理解し、最初はかすかな、しかしだんだんと大きくなってゆく、不思議な音楽を流し始めました。

少年たちは、しばしピラミッドの前で礼儀を整えて座りながら、全てを見ていました。ピラミッドが流す音楽は、地上の人間の耳には触れようとはせず、はるか上空に流れ、空の風の中で、悲嘆に沈んで眠っていた精霊たちを揺り動かし、勇気づけて、活動を促しました。すると精霊たちは、あああ……、と一斉に声を合わせて目覚め、きょろきょろと周りを見回したかと思うと、ピラミッドの流す金の音を小さな珠玉に変えて、それぞれの耳に飾りました。そして少し勇気を取り戻した精霊たちは、再び活動を始め、人類の魂に、愛と創造を呼び掛ける歌を歌い始めました。

少年たちは遠くに動き始めた精霊たちの姿を見ながら、互いに顔を合わせ、少し希望に明るんだまなざしを、交わしました。金髪の少年が言いました。「悲哀はよそう。僕たちらしくない」すると刺青の少年が笑って答えました。「ああ、希望は僕たちの大切なとりえだからね。人類の未来は明るい。永遠に、いつまでも、こんな愚かなことを繰り返すはずはない」「そうだ。そのためにこそ、僕たちも、みんなも、がんばってるんだから。僕たちは僕たちの、できることをやるしかない」「ああ、神を信じてね」二人は微笑みあい、自然に手をとりあって、祠の前で、神の与えてくれた喜びの中、愛を交わしました。

やがて、ピラミッドから流れてくる音楽が消えると、ピラミッドはすぐに姿を消し、元の祠の形が現れました。日照界の光は、祠の奥に、真珠のように隠れながら、また活動を始めるときのための、静かな休息に入りました。少年たちは、祠の前で深く頭を下げ、祈りをささげ、神への感謝をしたあと、そこから立ち上がり、元の駐車場の方へと歩いて戻りました。

いつしか、日は傾き、空は夜に染まろうとしていました。今宵は月はないらしく、ただ白い明星だけが、西空低く、静かに燃えていました。と、刺青の少年が、どこからか、かすかな嘆きの声を聞きつけ、周りをきょろきょろと見まわしました。金髪の少年もそれに気付き、同じように、駐車場を見回しました。すると、ふと彼らは、駐車場の隅に植えられた、一株の赤い薔薇が、悲嘆に涙を流しながら、胸の破れるような声で繰り返しているのに気付きました。

「ちがいます。ちがいます。これはちがいます。ああ、こんなことが、こんなことが、あっていいはずはありません。まちがいです。まちがいです。真実は、真実は、こんなものではありません。どうか、どうか、だれか聞いて、だれか、わたしの声を聞いて。これは嘘なのです。みんな嘘なのです……」

少年たちは顔を見合わせました。その薔薇が、人間たちが平気でついている嘘に、深く傷ついているのを、彼らは感じました。刺青の少年が、口の奥でかすかな呪文を歌いながら、薔薇に近づきました。金髪の少年も、彼の後を追い、彼と肩を並べて、嘆き続ける薔薇の顔を覗きこみました。薔薇は一瞬、彼らの気配におののき、その小さな刺をとがらせて、それ以上近寄らないで、と言いました。わたしを、嘘で殺さないで。薔薇はふるえながらくぐもった声で叫びました。

刺青の少年が、明るく薔薇に微笑みかけ、言いました。「大丈夫だよ。君の声はきっと彼らの心に届く。いつかきっと、彼らも真実に気付く」「そうともさ。神は何もかもをご存じだ。君の心の叫びも悲しみも知っている。そして君が、どんなにか優しい心で、人間に問い続けてきたのかは、僕たちの誰もが知っている」
すると薔薇は、少し気持ちが安心したかのように、震えて、かすかに、こぼれるように小さな笑いを見せました。そして、一言、「苦しい…」、と言いました。

刺青の少年と金髪の少年はまなざしを交わしあい、うなずき合って、口笛で、ともに不思議な旋律を吹きはじめました。神に教えられた単調で美しい魔法の旋律は、薔薇の心の刺を癒すため、目に見えぬ秘密の歓喜の小屋へと薔薇の魂を導こうとしました。「やすみなさい、やすみなさい、めざめたころには、あさがきているよ。うつくしい、あさがきているよ」金髪の少年が歌いました。すると薔薇は、嘆いていた心の痛みが少しずつおさまり、沈黙の鎮もる神の小さな小屋へとだんだん魂を吸われてゆきました。刺青の少年が、つづきを歌いました。「のぞみはある。つねにのぞみはある。しんじていよう。みちを、しんじていよう。わたしたちは、まことのいのち。かみのあいする、まことのいのち…」。

彼らのささやく歌の中で、薔薇はやがて、瞳をとじ、やすらぎを顔に見せて、静かに眠り始めました。少年たちは、ほっとし、しばし、眠っている赤い薔薇の顔を見つめていました。

「美しいね、この花は」刺青の少年が言いました。「ああ、まさに真実の花さ。…そう、薔薇と言えば、昔、ここで、とても美しい愛を歌った詩人がいたっけね」「うん、彼も相当怪に悩まされたけど、がんばって、創造活動を行った」「…ああ、りっぱだった。彼の言葉は今も、人類の心に響いている」「そう、たいせつなものは、目に見えない…」二人の少年は立ち上がり、空に浮かぶ明星を見上げました。

「確かに、愛そのものを、見ることはできない。僕たちが見ることができるのは、愛が、永遠の永い時を行ってゆく、その美しい創造の活動と結果だけだ」「うん……」
少年たちはしばし沈黙し、ただ星に目を吸い取られていました。やがて、どちらともなく、言いました。
「…人類の未来は、明るいよ」「ああ、どんなに苦しくても、なんとかがんばってくれる人間は、必ずいる。そしてきっと、あの詩人のように、愛の花をここに咲かせてくれる」「信じよう。とにかく、僕たちは、信じ続けよう。人類を」「うん。そうしよう」ふたりは、星を見上げながら、言いました。

刺青の少年は、目を星から離し、キーボードを出して、記憶回路の中から、かつてその詩人が描いたという拙くも愛に満ちた、人形のようにかわいい男の子の絵を出しました。金髪の少年もそれを覗きこんで、ふふ、と笑いました。「…これ、やつにそっくりだ」「ほんと、彼は生きてた時、気付きもしなかったろうね!生まれる前、あいつが彼を導いてたってこと!」「こんなことが、あるんだなあ…、ふしぎだね」「これが、愛がつくった形ってものなんだね…」

少年たちはキーボードを閉じ、もう一度星を見上げて微笑んだあと、二人並んでふわりと空に飛び上がりました。彼らはそのまま、地球上で数カ月を過ごし、多くの人間の人生の状況を細かく調べては、導きの魔法を行い、やがて、たくさんの暗号記録を持って、一時の休息を得るために、日照界に帰ってゆきました。



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2012-02-07 07:33:54 | 月の世の物語・別章

ある小さなマンションの一室の、キッチンの隅で、若い女が一人、エプロンで頬を流れる涙をしきりにふいていました。彼女は、結婚したばかりの夫に、夕食がまずかったと叱られ、夫に口答えすることもできず、ただショックを受けて、一人声を立てることもなく、陰で静かに泣いているのでした。

その様子を、二人の少年が、隣の部屋から心配そうに見つめていました。彼女の夫は、居間のテレビの前で酒を飲みながら、ベースボールの試合を夢中になって観ていました。二人の少年がこの部屋にいることには、夫婦のどちらも気づいてはいませんでした。

「大丈夫だろうか?あんなことで、あんなに傷つくなんて。彼は、あんなに弱かったかな?」一人の少年が言うと、もう一人の少年が答えました。「彼は今女性だからね、多感なんじゃないかなあ。僕も女性に生まれたことはあるけど、確かにちょっとしたことでよく泣いてたよ」

少年二人は、泣いている若い女の中に、一人の赤い髪をした少年がいるのを見ていました。彼女は生まれる前、月の世で罪びとを導いていた少年でしたが、お役所の命で、二十数年前に入胎し、地球上に女性として生まれてきたのでした。
二人の少年たちは、居間にいる夫と、キッチンにいる女をかわるがわる見ながら、ため息をつきました。「…地球の男性は、女性を軽んじすぎるからなあ…」そう言いながら、少年二人のうちの一人が、キッチンの彼女の方に近づき、そっと、彼女の首にとりついていた小さな蜘蛛を捕まえて、呪文でしばりあげました。すると、女は少し体と気持ちが軽くなったようで、ふとエプロンから顔をあげました。少年は、彼女の魂にそっと近づくと、彼女の心の中でささやきました。(こんなことでくじけちゃだめよ。わたしは強いんだもの)すると女は、指で小さな涙をぬぐって、(そうね、まだまだこれからなんだから)と心の中で答え、少し微笑みました。

「おい、あまり余計なことはするなよ!役人さんに叱られる。彼はできるだけ自分の力で乗り越えなくちゃいけないんだ!」もう一人の少年が叫ぶように言いました。「わかってるよ。でもこれくらい、いいじゃないか。今の地球のひどさったら、ないんだから」蜘蛛を捕まえた少年は、唇をとがらせながら言い返しました。でも、もう一人の少年の言うことももっともなので、少し後ろ髪をひかれながらも、彼は彼女をそこに残し、二人でそっとマンションを出て行きました。

彼らは二人並んで夜空を飛び、マンションの隣町にある小さな山の麓の、短いトンネルのところに来ました。彼らの仕事は、人間が山に無断で開けたこのトンネルを清め、人間の代わりに山に謝り、そのトンネルが、山にとっていやなものにならないように、トンネルに意味のある美しい名前を付けて、よきものとすることでした。そのために彼らは数日かけて山の魂のために儀式を行い、長い慰めの呪文を、毎日読んでいました。そして、一生懸命、トンネルの名前を考えていました。しかし、なかなか良い名前が思い浮かばず、彼らは二人で考えに考え、考えるのに疲れて、ふと、近くに友達が生まれているのを思い出し、少し考えるのを休んで、そのマンションを訪れてみたのでした。

少年の一人は、トンネルの前に戻ると、呪文で縛り上げた蜘蛛に、もう一度呪文を振りかけ、月の世に帰るように命じました。すると蜘蛛は、ききっと声をあげ、少年の手の中からふっと姿を消しました。

闇空には高く丸い月が光り、静かに山を照らしていました。緑の山はそれは美しく、痛い穴をあけられながらも、それを自らの苦しいこととはせず、静かに微笑んで耐えていました。それは少年二人の心を、痛く苦しませました。人間はどうしてわからないのだろう。あらゆるものが、みんなこんな風に耐えていてくれることを。人間がいつか気付いてくれるのを、長い長い間、ずっと待ち続けていることを。

一人の少年が、目の前をライトを光らせながら通り過ぎていく車の列を見ながら言いました。「光る虫の道、てのはどうだろう?車って、ちょっと甲虫みたいじゃないか。美しいと思うけど」「そうだな。きれいな言葉だけど、どことなく、もっと愛がほしいなあ」「愛ねえ、どう言えば、愛が表現できるのかなあ。ここはもともと、人間が自分のエゴだけで造った穴なんだ。それを愛に言い換えるのは、難しいなあ…」少年たちは頭を抱え、腕を組みながら、懸命に考えました。たくさんの美しい言葉を考えて、いろいろと組み合わせてみたり、並べ替えてみたりしました。そうして、なんとか組みあげた名前を、山に問いかけてみました。しかし山は何も答えず、静かな沈黙でその名を拒否するのでした。少年たちはそうして、何日もの間考えて、いくつかの名をあみだし、そのたびに山に問いかけてみましたが、山はさっぱり受け入れてくれませんでした。少年たちは考えてばかりいるのに疲れ、また、例のマンションに住んでいる、彼女の元を訪れました。

若い女は、居間の隣の部屋に置いた、小さな机の前に座り、何かしきりに手を動かしていました。少年二人は、背後からそっと彼女に近づき、その手元を覗き込んでみました。「あ、刺繍だ!刺繍をしているよ!」一人の少年が声をあげました。彼女は、机の上に広げた刺繍の図案を見ながら、一針一針、丁寧に色糸を操り、紅い薔薇の花模様を白い布に縫いこんでいました。ふと彼らは、壁に、きれいなペルシャの猫を縫いあげた、刺繍の絵が額に入れて飾ってあるのを見つけました。彼らはそれを見て、ほお、と声をあげました。「いいじゃないか、これ、見事だよ」「うん、まだ若いけど、なかなかうまい。これ、ずっと続けていくといいな。そしたらとてもいいものができる」少年二人はしきりに感心し、しばし、彼女の、まだ少し不器用さを残しながらも、なかなかに上達した手の動きを見ていました。

「さてと」少年二人は、またトンネルの前に戻り、山に向かって儀礼をした後、二人で頭をふりしぼって考え始めました。目の前をひっきりなしに流れ、トンネルを出たり入ったりしている車たちは、まるで命のない石の塊が走っていくようで、とてもそっけなく、冷たく、山の存在をまるごと無視して通り過ぎて行きました。少年たちは悲しくそれを眺めました。「…いつか、人間がこれに気付いたら、今の僕たちと同じように、悩むだろうね」一人の少年が言うと、もう一人の少年がうなずきました。「たぶんね。彼らだって馬鹿じゃない。神がお創りになったすばらしい命だ。今は大変な時期だけど、彼らだっていろいろ感じて、進歩してるはずなんだ…」

少年の一人が、腕を組み、山を見上げながらため息をつきました。
「それにしても、難しい仕事だなあ。何にも思いつかないよ」「僕もだ。これはかなり時間がかかりそうだな」「なんでこんなこと、お役所がぼくらに命じたんだろう。先輩たちならもっとうまくやるだろうに」「そんなこと今更考えたって無駄だよ。とにかく、やれといわれたら、やらないとな」「ふうむ…」少年たちはしばし、いろいろと案を出し合いましたが、これといって手ごたえを感じるものはなく、やがて言葉を言うのにも考えるのにも疲れ果て、二人並んでひざを抱え、トンネルの前にうつむいて座ったまま、眠ったように動くのをやめました。

そして数日後、彼らはまた、マンションの彼女の元を訪れました。薔薇の刺繍はもう出来上がっており、壁に新しい額が飾られてありました。若い女は、彼らが薔薇の刺繍の見事さに感心している間、鼻歌を歌いながら背後で掃除機を動かしていました。
「きれいだねえ。これ、猫の絵より、上手いよ」「たしかに、上達してる。いいなあ。地球は、こういうところがすばらしいんだ。努力して、成長していくってとこが、とても気持ちいいんだ。僕も前に生まれた時、家具を作ってたことがあるんだけど、師匠について、毎日勉強して、だんだんうまくなっていくってのが楽しくってしょうがなかった」「いいなあ、それ、人間の美しさだね。ああ、それ、なんとかならないかな。トンネルの名前。美しい人間。人間の美しさ。これなんだよ。自分で作っていくってことなんだ。トンネルも、山にはとてもつらいことだけど、人間は確かに、苦労して造ったろうね」「それはそうだ。間違ってはいるけど、たくさんの人間が働いたろう」「トンネルができたことで、確かに流通はよくなった。ものの動きがよくなり、人間は簡単にものが手に入れられるようになって、暮らしは便利になった」「でもそれは半分悲哀だ。暮らしを便利にしなきゃならないのは、生きるのが辛すぎるからでもある」「うーん、そうだなあ」……

彼らがあれこれと語り合っている間に、時は過ぎ、女は買い物から帰ってきて、テーブルの上に買ってきたばかりの食物や本などを袋から出して並べました。少年の一人が、彼女が買ってきたその本が、料理の本であることに気づき、「お」と声をあげました。もう一人の少年もそれに気付いて、言いました。「彼、料理をもっと勉強するつもりなんだ。努力家だね。前からそうだったけど…」「へえ、夫に怒られても、反発しないんだ。あんなこと言われたら、悔しくて、却って意地を張る人が多いもんだけど」「あれは彼のいいとこだよ。ああいうのが、賢いってことなんだ」「賢い、か。賢い…、うん、賢いってことは、どういうことかな?」少年たちはまた考え始めました。「そりゃ、賢いってことは、常に愛から離れないってことだよ」「そうだよな。愛だよ、結局は。彼は、たぶん、怒られてつらかったろうけど、夫と喧嘩してみんなを不幸にするよりは、自分が努力して向上する方の道を選んだんだ」「…彼らしいね。賢い女性はよくそういうことをやるよ」「うん、美しい…なんかそこらへんに、何かありそうだな…」少年は唇をかんで考え込み、何かもやもやと頭の中に浮かんでくるものが何なのかを、探り始めました。

彼らは、彼女がベランダに降りて洗濯物を取り込み始めると、もう一度、薔薇の刺繍の絵を見つめました。彼女の上達はかなりのもので、糸の長さも張り具合もほぼ的確にそろい、色のバランスも見事で、薔薇の形は凛としてくっきりと白い布の中に浮かび上がっていました。それは、正しいことをひたむきに求めていた、彼女が生まれる前に少年だった頃の、まっすぐに澄んだ瞳を思わせました。

「…薔薇の入り口、というのはどうだろう?」ふと、一人の少年が言いました。「薔薇の入り口?」もう一人の少年が返すと、さっきの少年がもう一度言いました。「うん、今思いついた。薔薇は、真実の花だ。君も知ってる通り、薔薇の花霊は、最も真実を尊び、常に人間に真実を語りかけている。そして、人間の嘘に傷つきながらも、けなげに咲き続けている…」「うん、なるほど、真実か」「…そうか、わかったぞ、真実だ!トンネルを、薔薇の入り口と名付ければ、それは、真実への入り口となる。つまり、人間はあのトンネルを通って、真実への正しい道に入ることになる!」「おお!いいぞ、それ!つまり人間は、あのトンネルに入ることによって、美しい薔薇の真実に向かう道を走り始めるんだ!そしていつか、真実に目覚めて、あの山の愛と忍耐に、気付くんだ!」「よし、これだ!うまい!」「うん、とにかく、山に、問いかけてみよう!」二人はそういうと、マンションを離れ、山の方へと飛んでゆきました。

その夜、二人はともにトンネルの前で、一定の儀礼をし、山に対して深く敬意を表した後、トンネルの名を、「薔薇の入り口」と試みに名付けてみたいと、山に問いかけました。すると、山はそれを拒否せず、笑って答え、ああ、よい、と快く少年たちに言いました。そのとたん、まるで次元の幕が一枚剥がれたかのように、トンネルの光が清められ、前よりもぱっと明るくなりました。ひっきりなしに走ってくる車はみな、トンネルの入り口をくぐると、その光を浴びて、まるで生まれ変わったかのようにくっきりと新しい存在感をまといました。トンネルは、「薔薇の入り口」と名付けられたことによって、そこを通る者を真実の道へと導く新しい使命を与えられ、それによって、美しくよきものとなったのでした。

少年たちは喜びを顔いっぱいに表し、お互いに目を見合わせて、手を取り合いました。「やった!彼のおかげだ!」「うん、ほんとに!」「もう一度、会いに行ってこよう!」「うん、聞こえなくても、お礼だけは言いたい!」
二人は、もう一度マンションを訪れ、窓からそっと中に忍び込みました。夫婦は、シャワーを浴び終わり、寝巻に着替え、そろそろ眠る準備に入ろうとしていました。少年たちは、両側から女の耳に口を近づけ、二人声をそろえて、「ありがとう」と言いました。すると女は、何か聞き覚えのある声が耳に入ったようなくすぐったさを感じ、思わず首をかしげて、周りを見回しました。

「なんだい?びっくりしたような顔して」夫が問うと、妻はかぶりを振り、答えました「ううん、何でもないの。何か、聞こえたような気がしたのだけど、きっと気のせいね」

少年二人は、夫婦の寝室の邪魔をしないように、そっとマンションから抜け出し、空に飛び出しました。「彼、いい人生が送れるといいね」「ああ、また近くを通ったら、様子を見に来よう」「あまり余計なことはするなよ。彼は強いんだ。ここで生きることは苦しいけれど、きっと彼は、正しく生きていくよ。どんなにつらくてもね」「そうだ、人間たちだって、いつかきっと、みんな真実の正しい道を生き始める。あの薔薇の入り口を通ってね!」「いいなあ、それ…」。

二人は言葉を交わしながら、遠く下に見えるマンションの明かりに向かって、もう一度小さく合図を送り、そして、月の世に帰るために、星空へと向かって、高く飛んでゆきました。





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2012-02-05 08:05:07 | 月の世の物語・別章

「やれ、今度はまた、ずいぶんと暗いところに落ちたな」竪琴弾きは、頭上を覆う厚い木々の梢を透いて降ってくる、かすかな霧雨を浴びて、少々不快な冷気に耐えながら、鬱蒼とした森の闇の中を、月珠の光だけをたよりにして、歩いていました。「どうしてこう、僕が担当する罪びとには、変わった人が多いんだろう?」彼は、行く手をさえぎる太い木の枝を腰をかがめてくぐりながら、独り言を言いました。

やがて月珠が何かに気付いたかのように、きらりと光を強めました。するとその光を、小さな水たまりのような池が反射し、そのそばに立った太い木の幹を照らしだしました。その幹には、全体的に体が少し小さく縮んだ一人の男が、しっかりと腕をまきつけて抱きついていました。竪琴弾きはその姿を見ると胸に手をあて、おお、神よ、とささやきながら上を見上げました。男は、体の上半分は、頭の小さい貧相な醜い男でありましたが、腰から下はしっぽの生えた猿になっており、木に抱きついていなければ立って自分の体を支えられないような形になっていました。竪琴弾きはとにかく、背中の竪琴を前に回して左腕に抱えると、「やあ、久しぶりですね」と男に声をかけました。光の気配に気づいていた男は、その声に、おずおずと振り向き、「ああ、どうもぉ、ひさしぶりでやす、だんな」と恥ずかしそうに、にたにたしながら言いました。

「今度の人生は三十六年で終わりましたね。まずは復習しましょうか」竪琴弾きは池の近くに横たわった太い倒木の上に座り、竪琴を膝に載せました。霧雨はいつしか止んでいて、彼は体をぶるっと震わせ、冷たい雨の気を飛ばして衣服を乾かしました。そして琴糸をびんと弾き、目の前に何枚かの書類を呼び出して、それを手にして読みながら、言いました。

「先ず、あなたは生まれる前、怪と契約して、人生を他人から盗みましたね」竪琴弾きが厳しい声で言うと、男は木に抱きついたまま、へへ、へへ、と笑いました。「…それで本当はもっと貧しい家に生まれるはずが、怪に裏から操作をさせて他人と入れ替わり、とても裕福な家に生まれました。それで人生バラ色といきたかったのでしょうが、たいした才もないのに努力も勉強もせず、容姿的にもとりえはない上、つまらない遊びにばかりお金を使い、親の助けでなんとか学校を卒業して就職したものの、仕事も長続きせず、ぶらぶら遊んでばかりいて、しまいに家族にも嫌われて、結局は勘当同然でその家を出ざるを得ませんでした。それからあなたは都会に出て、ある街の片隅でやくざ者に拾われ、しばらく地下にある怪しげなカジノで働きました。しかしある日、ゲームで少々『危ない』人を相手にいかさまをやってしまい、それがばれて、チンピラ数人によって袋だたきにされ、それが原因で、路上に引き取り手のない遺体をさらして死にました。享年三十六歳と四カ月。…以上に間違いはありませんか?」
竪琴弾きが言うと、男は相変わらずにたにた笑いながら、「はい、そのとおりでやす。まちがいございやせん」と言いました。

竪琴弾きは、また琴糸をはじいて書類を手元から消すと、男の足を見て言いました。「その足はどうしたんです?」すると男は困ったような目で竪琴弾きの方を見て微笑み、わかってるでしょう?と言いたげに首をすくめました。もちろん竪琴弾きには、それを見たときからわかっていました。彼は怪に頼んで人生を変えてもらった代わりに、その足を怪にとられてしまったのでした。

「へ、おれ、馬鹿なもんで、なんもできなくてえ。金持ちになったら、ちょっとはましかなって…、へへ、へへ、なんとかしなきゃあって思ったんだけど、なんかおれ、なんもやんなくって、おれって馬鹿ばっかりで、なんでこんなことしかできないのって、始終そんなことばっか言われて、つまりその、つらかったですよ。それだけだな。へへ、じんせえって、つらいよなって、馬鹿だなおれって、へへ、すんません、だんな、なんもまともにできないんですよお。で、つい怪に頼んじまって…」

竪琴弾きは天を見上げて、また、神よ、とつぶやきました。そして男に向かい、「自分を馬鹿だなんて、言ってはだめですよ…」と言いかけると、男はそれをさえぎるように、言いました。「わかってやす、わかってやす、馬鹿なんですよ、おれ、わかってんだけどな。自分、馬鹿だって言って、自分で決めつけるのがいけないんですよね。何度も言われますよ。みんなに言われますよ。やめろやめろって。自分で自分を馬鹿にすんなって。だから馬鹿になるんだって。わかってんです。わかってんです。でもおれ、馬鹿なもんで、なんか、馬鹿だって言っちゃうんですよ。それで馬鹿んなって、馬鹿なことばっかりやっちまって…」
竪琴弾きは手を振り、もういい、と彼に言いました。でも男はへらへらして「つらいなあ、おれ。なんか、いやな感じだな。嫌われるんですよお。みんなに、嫌われるんですよお。つまんないことしかできないのに、陰でケチくさいワルばっかりやるって、言われるんですよお。女なんか、みんな、おれを見るとあっちへ行っちまうんだ。へへ、なんでかな。なんでかな。おれ、つらいなあ。いや、わかってんですけどね。馬鹿が、馬鹿だっていって、馬鹿んなって、馬鹿ばあっかりやってんのが、馬鹿なんですよね」といつまでも繰り言を言うのでした。

竪琴弾きはいい加減その男の相手をするのがいやになってきましたが、これも仕事だと自分に言い聞かせ、辛抱強く、語りかけました。
「では、わかっているのなら、勉強をしましょう。これまであなたは何度も地球に生まれてきましたけれど、ほとんどの人生は、だいたい似たようなもので、たいした勉強をすることもなく、ものごとを簡単にうまくやろうとして、そのためにいつも失敗して、若くして悲劇的に死んでいます。地球というところはね、ずるいことやうまいことをやって、自分だけ幸せになりにいくってとこじゃないんですよ。あそこで生きるには、強い力と正しい知恵が必要です。人類は厳しい環境を耐えて生き伸びながら学んでゆく中で、やがて強烈に愛を感じるようになるんです。それで人間は、愛を深く勉強するために、地球に行くというのが本当なんです。もっとも今は、それもだいぶすたれたような形になっていますが…」

男は相変わらずにたにたしながら、困ったような顔で、へへ、へへ、と笑いました。竪琴弾きは真面目な顔で彼の目を見つめ、言いました。「どうです?学校に行っては。月の世にはあなたのような人が勉強するための学校もありますよ。ここで罪をつぐないながら月を師として勉強するというのも道ですが、あなたのような人は、学校で直接、教師に習った方がいいと思うんですが…」
「へ、へへ、でもおれ、半分猿だしな。見られるの、恥ずかしいな。みんなに言われるな。何やってそんなことになったんだって。それ、ちょっといやかな。でも、行ったほうがいいよな。そうですよね。行ったほうがいいかな。でも、つらいしな。いや、行かないって言ってるんじゃないですよ。でもなんかな、おれ、猿だしな、馬鹿だしな…」

竪琴弾きは、深い大げさなため息をつき、もうやめろ、と言いました。男はにたにたしながら、へつらうような顔で、横目でじっと彼を見ていました。

竪琴弾きは、膝に乗せた竪琴を鳴らし、歌を歌い始めました。すると、暗い森の木々が不意にゆれ始め、頭上を覆っていた黒い梢が少し開いて空に口を開け、何かがむしばんだように深く欠けた、白い三日月が見えました。「あ、ああ、お月さま、お月さまだ、いいな、いいな、だんな、ありがとう、お月さま、好きだあ」男はそういうと、木の幹から体を離し、土の上を這いながら池の端に座り、お月さまの光をしばし浴びました。

竪琴弾きは、男が、月を浴びて泣きながら、「お月ちゃあん」と誰かを呼んでいるのを聞きました。それは、遠い遠い昔、彼の妻だった女の名でした。その頃彼の生まれた国の人々は、森の中に住み、木や葉っぱで作った簡素な家に住み、森で狩りをしたり木の実を採ったりなどして暮らしていました。

お月ちゃん、と呼ばれた女は、美しくはありませんがそれなりにかわいらしく、少し知的な障害を持っていました。それをいいことに、村の男たちはみんなで彼女を弄び、いじめたり馬鹿にしたりしていました。そしてとうとう村の男みんなに飽きられて捨てられてしまった彼女を、たまたま彼が拾い、そのまま妻としていっしょに暮らし始めたのです。

お月ちゃんは、自分が村の男たちに何をされたのかもほとんどわかっておらず、ただ自分を拾って助けてくれた彼を、純真に信じて、愛していました。それで、いつも彼のそばにより、彼のためにできることをすべてやりました。彼はそれが嬉しくてならず、お月ちゃんをたいそうかわいがりました。そんな彼を村の人は嘲笑いましたが、男は自分に自分の女ができたことが嬉しくてならず、ずっとお月ちゃんをかわいがり続けました。そして、自分が働いてできることは、みんなやりました。彼はお月ちゃんを愛していました。確かに、愛していました。

でも彼は弱く、知恵も力も足りませんでした。結局彼は、お月ちゃんを養うことができず、とうとう餓死させてしまいました。お月ちゃんを死なせてしまったこと、それは彼の心を深く絶望の底に落とし、彼もまた彼女の後を追うように飢えて死にました。

「お月ちゃん、お月ちゃああん」月を見上げて泣く男を見ながら、竪琴弾きは、小さな息を吐きました。男は、あれから何度も人生を地球で送りましたが、あれ以来一度も妻を持ったことがありませんでした。彼は女性が怖く、彼女らに会うとただへらへら笑いながら逃げてゆくことしかできませんでした。そんな彼を相手にする女性など、ほとんどいませんでした。彼も、お月ちゃん以外の女性を愛したことは、一度もありませんでした。

竪琴弾きはポケットから予備の月珠を出して、呪文とともにそれを池に放り込みました。月珠は池の水に溶けて、水面を鏡のように光らせ、それは地上に降りた小さな月のこどものようにも見えました。たとえまた森が暗闇に戻っても、その光が彼の心を照らし、愛しいお月ちゃんの面影を彼は見ることができるでしょう。それでとにかく、男の心がこれ以上暗い所に迷わないようにすることしか、今の彼にはできませんでした。

(彼は、愚かだけど、女性に意地悪をすることだけは、できない。それできっと、どんなに馬鹿をやっても、怪に落ちることはないんだな。結局は、あのお月ちゃんが、彼にとっての救いなんだ)
心の中でそうつぶやくと、竪琴弾きは竪琴を背中にまわし、立ち上がってその場から姿を消しました。すると、木々の梢がまた月を隠し、森はまた暗闇に戻りました。しかし、ただ池だけは、まるで大地の白い目のように光り、森の一隅を明るく照らしていました。男は竪琴弾きがいつの間にかいなくなってしまったのに気付き、子供のように、うわあん、と声をあげました。

「いやだ、いやだよお。みんな、みんな、行っちまうんだ。おれのことがいやだって行っちまうんだ。誰も、おれのことなんか、好きじゃないんだよお。誰もいないんだよお。だっておれ、だっておれ、なんも勉強しないからさあ。馬鹿だからさあ。誰も、誰もともだちいないんだよお。神様、神様、おれに、お月ちゃんをくれよ。お月ちゃんがいいんだよ。おれの女、くれよお。ずっとずっと、おれのそばにいてくれる女、くれよお。そしたらおれ、勉強するよお、まじめに、仕事もするよお。神様、神様、かみさまあ」

木々の陰に隠れてその様子を見ていた竪琴弾きは、また小さく息を吐いて、やれやれ、どうしようもない、と言いながらかぶりをふりました。そして竪琴の紐をにぎりつつ、辛抱強くつきあっていくしかないか、と自分に言い聞かせました。(次に彼に会いに来るときまでに、また月珠をいただいてこないといけない。醜女の君にはいつもご迷惑ばかりかけてしまうな)彼は考えながら、森の中を歩いて帰ってゆきました。

光る池のそばにうずくまりながら、男はいつまでも、「お月ちゃあん」と繰り返していました。



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2012-02-04 08:14:49 | 月の世の物語・別章

月の世の一隅に、深い杉の森に囲まれた小さな廃村があり、沈黙の微笑みの混じった白い月光が、人気の無い村を静かに照らしていました。昔ここでは、地球上で、決して伐ってはならぬ神聖な森の木々を伐り、架空の偽神のために神殿を建てた人々が、その罪を償うために働いていました。彼らは何百年かの間、森の木々のために働き、樹霊たちの愛の心に触れてゆくうちに、深く後悔し、木に感謝することを学び、罪を悔いあらためて許され、やがてみな、この村を離れていきました。
そして人々が去ったあと、杉の樹霊たちは、まだ人間には教えてはならない秘密の穢れを清めるため、ずっとこの静かな地獄にとどまり、歌を歌ったり、風を呼び込んだりしながら、長い時をここにとどまり、過ごしているのでした。

今、その廃村にひとりの青年が音もなく姿を現し、村の真ん中にある小さな空き地のベンチに座りました。するとすぐに、空き地の隅に小さな扉が現れ、その扉の向こうから、水色の制服を着た日照界の青年が現れました。彼の顔を見ると、月の世の青年は立ち上がって、「やあ」と明るく声をかけ、手を伸ばして握手を求めました。日照界の青年は、扉を消すとすぐにその手を握り、「やあ、ひさしぶり」と答えました。

「ありがとう。休みを合わせてくれて。迷惑をかけたんじゃないかな」日照界の青年が言うと、月の世の青年は笑いながら言いました。「いや、いいんだ。僕も少し休みたかったところだから。で、何だい?何か、僕に相談でもあるんじゃないかい?」すると、日照界の青年は、少し視線に影を見せながら、彼の隣に座り、背もたれに背中を落として、しばし、杉の梢の向こうに見える月を見上げました。
「月光はいいね。まるで心が清められるようだ。罪びとの心も、月を見たらそれは休まることだろうね」「…ふむ。まあね。いろいろとあるが、罪びとには確かに月は必要だ。だれかから聞いたことがある。月光を浴びていると、まるで気立てのよい美しい妻が、そばにいて寄り添ってくれているかのようだと」「…なるほど。そんな感じだな。本当に心が安らいでくる」。

月の世の青年は少し口をすぼめ、隣の青年を見て言いました。「言わなくてもわかるよ。仕事で、つまずいてるんだろ?君」すると日照界の青年はため息をついてうつむき、「ばれても仕方ないね。人はだれも、心に影が差し始めると、月光が欲しくなる」と言いました。月の世の青年は微笑み、やさしく言いました。「何があったんだ。言えよ」すると日照界の青年はしばし唇を噛み、沈黙したあと、小さく口を開きました。「ガゼルに、嫌われてしまったんだ。僕が、彼らに難しいことを教えすぎて。精霊たちにも、ちょっとやりすぎだってきつく言われてしまった」それを聞いた月の世の青年は、ははあ、と言って何かを言いかけました。すると日照界の青年はそれをさえぎるように、声を大きくして言いながら、顔をそむけました。「わかってるよ。君も言うんだろ?僕がイエスに影響されすぎてるって」「わかってるなら、少しは改めろよ。言っちゃあなんだけど、その髪も髭も、全然君に似合わない。イエスは素晴らしいお方だ。上部よりももっと上の方にいらっしゃる、清らかなお方だ。そんな高いところにいらっしゃる方の下手な真似をしても、滑稽なだけだ」月の世の青年は、遠慮会釈なく言いました。日照界の青年はしばし黙りこみ、瞳に悔しさを燃やしてじっと宙をにらみました。

ふたりの青年はしばらく黙ったまま、動かずにいました。やがて月の世の青年が口を開きました。「過ちて改めざる、これを過ちという」「それは孔子だ。イエスじゃない」「そんなことは知っている。でも今の君にはぴったりだ。みんなが君に同じことを言うのは、やはり君が間違っているからだよ。それは改めなきゃいけない」「イエスは美しすぎるんだ。そして悲しすぎる。僕は逃げられない。つらくて、悲しくて、僕があの場にいたなら、絶対彼の代わりに十字架につく。それで助けてあげたい。どうやってでも、助けてあげたい…」
月の世の青年は、日照界の青年の真剣な横顔を見つめつつ、少し困ったように眉を寄せました。そして助けを求めるかのように月を見上げたあと、しばしの間じっと考えて、少し話をそらして、彼の心を別の方向に向けようと思いました。

「君の仕事はガゼルの導きだけど、日照界では、地球上のすべての生命をみんな、そんな風に導いているのかい?」すると日照界の青年は大きな丸い目をして彼を振り向き、まさか!と言いました。「僕たちがお手伝いできるのは、全体のごく一部だ。たとえば魚類や昆虫類なんかは、とても僕らの手には負えない。僕らの感覚ではまだ彼らの魂を感じることはできないんだ。ほとんどは神がおやりなさっていると言っていい。僕たちがガゼルや象や鳥や人類の導きをするのは、仕事でもあり、学びでもあるんだ。神は僕たちに、一部の幼い魂の導きをさせることによって、命の真実を教えるんだ」「なるほど、教育しながら、教育されてるわけだ」「そういうこと。月の世でもそう変わりはないだろう?」「ああ、とてもいい勉強になる。罪びとを導くのは大変だ。地獄にはあらゆる悪や愚やおかしな言い訳や卑怯な悪知恵なんかがたくさんある。僕たちにはそれに対処する高い知恵と力が必要だ。罪びとは時々、とんでもないことをする。怒りを鎮めて、それに対処する心の強い制御力も必要だ」

彼らはしばし、自分たちの仕事について、熱く語り合いました。理想や愛についても、深く対話を交わしました。そして行き着くところはやはり、すべては愛だ、というところなのでした。日照界の青年は片手を拳にしたり開いたりしながら、少し興奮した様子で言いました。「そう、すべてはそれだ。世界は愛。すべては愛そのもの。イエスの言いたかったことはそれだ。存在のすばらしさ。今自分がここにあることの幸福、神の御心の真実。世界に存在するもの、それはすべて愛、ただ一種類の愛のみだ。そしてそれが、あまりにもたくさんいる。そしてひとつとして同じものはない。この奇跡。創造のあまりにも崇高な不思議。僕たちはほとんど何もわかっていない。でも愛はいつも導いてくれる。僕たちの目が真実を見ている限り、僕たちの前にはひたすらまっすぐな愛への道、すなわち神の国への道が続いている…」「そう、すべては同じ。そしてすべては違う。僕は僕、君は君、だが僕も君も、同じ存在というものであり、愛というものを共有している。愛の中で魂が共鳴し、神の幸福の中へ導かれるときの歓喜はすばらしい。僕たちは幸福だ。限りなく幸福だ」

青年たちは、月光を浴びながら、しばし、同じ愛の元、自分たちが同じ愛であることを感じ、共鳴しあい、語り合うことの幸せに浸っていました。こうして友がいることのなんと幸せなことだろう。ふたりは同時にそう思いました。

やがて、会話に一区切りがつくと、日照界の青年はひざに手をおいて、ふうと息をつき、月の世の青年は背もたれに大きく体を預けて、月を見上げました。

静寂がしばしの時を濡らし、月光に照らされた森が、今初めてそこに現れたかのように、彼らの目の前に広がりました。杉の樹霊たちもまた、彼らの会話に共鳴し、ひそひそと愛を語り合っていました。

「僕は僕、君は君、か…」と、日照界の青年がふとつぶやきました。月の世の青年は言いました。「そう、イエスはイエス、君は君だ」すると日照界の青年は口の端を歪めて痛いところをつかれたという顔をし、苦笑しました。
「僕たちは、神に学ぶ。日々、学ぶ。そして、いつも、追いかけている。あのように高く、美しいものに、いつかなりたいと、願う。そう、きっと、何万、何億年と、永い永い年月をかけて、僕たちが学び、あらゆる高い壁を超えてゆけば、やがて空高く飛んで、あの神のように美しい創造を行うことができるようになるんだろう。しかし僕たちは決して、神には追いつけない。永遠に追いつけない。だから、永遠に追いかけ続ける。イエスも、そういう方だ。僕たちが永遠に追いかけ続ける人。決してあの愛には、かなわない。彼と同じことはできない。でも、僕は僕だ。僕は学び、僕自身の創造を行い、より本当の僕自身になってゆく。君もそうだ。髪や髭を伸ばしても、決してイエスになれるわけじゃない。あの方はあの方だ。君は君だ。あの方は、君が自分の真似をするよりも、ずっと、君が君らしいことを喜ぶと、僕は思う」

月の世の青年は熱い心をこめて日照界の青年に語りかけました。日照界の青年は唇を噛み、茫然と目を見開きながら、月光の落ちた地面を見つめていました。心の中で、何かに縛られていたものが解放され、うごめき始めたような気がしました。やがて彼は顔をあげ前を見て、神の前に決意を述べるように、「そう、そのとおりだ」と言いました。そして静かにベンチから立ち上がると、さっと顔をひと振りして、その長い髪と髭を消しました。すると金色の短髪をきれいに整えた、青い大きな瞳の青年が、月光の中に現れました。

金髪の青年は、前よりも少し輪郭が硬質になり、少年ぽさがいくぶん消えていました。月の世の青年はそれを見て少し安心し、「やあ、君」とまるで今出会ったかのように彼に声をかけました。「ひさしぶりだ。いや、初めて会うのかな。」
すると日照界の青年は彼を振り返って手を差し伸べ、握手を求めました。そして彼と手を握り合いながら、「はじめまして、君。僕は日照界からきた、僕というものだ」と言いました。

ふたりは同時に吹き出し、おかしくてたまらぬように足をばたつかせ、腹をかかえて笑いました。笑い声は高く森に響き、木々の間をこだましました。

「じゃあ、そろそろ」「ああ、だいぶ時間が経ったね」やがてふたりは、微笑みを交わしつつ、別れを惜しみました。「またいつか会おう」「うん」。

友達がいるのは、本当にいいことだな。金色の短髪の青年は胸に温かさを感じつつ、月の世の青年に向かって手を振り、扉の向こうに去ってゆきました。そしてその扉も消えて見えなくなると、月の世の青年もまた、小さな呪文を唱え、そこから姿を消しました。

再び人気のなくなった廃村には、しばし、彼らの残した対話の熱が残り、そこに静かに、月が温かなまなざしを注いでいました。




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2012-02-02 07:54:32 | 月の世の物語・別章

日照界に、夕日の岸辺という海辺の小さな村がありました。岸辺から遠く海の方に目をやると、そこの太陽は、すぐにも水につかってしまうかと思うほど、はるか向こうの水平線すれすれに顔を出し、いつも西空を夕焼け色に染めていました。振り返って、反対側の東の空は、うっすらと夜の色に染まり、気配だけはあるが決して姿を見ることはできない月の光が、山並みの稜線をくっきりと白く照らしていました。

日照界で、ただひとつ、日の光と月の光を同時に感じることのできるこの海の磯には、月光薄貝という大きな白い薄貝が棲んでいました。その薄貝には珍しい習性がありました。山の向こうに光だけが見えて決して姿は現さない月が、満月になると、その白い貝は不思議な脱皮を行い、その抜け殻は、水面に蝶のような形の白く薄い皮となって浮かぶのでした。

職人は、暦を正確に読んで満月の日を選び、深い長靴をはいてその磯に入り、月光薄貝が脱皮するのを待っていました。岸辺をやさしくなでる波の音を聞きながら、職人は、一枚の月光薄貝が磯の底でぷるりと震え、白い貝の皮をするりと脱ぐのを見ました。彼はその白い皮をさっそく網ですくい、それを破ったり壊したりしないように、丁寧に扱いながら、腰に下げた籠の中に入れました。そうして、二十枚ほどの貝の皮を集めると、職人は仕事を終え、磯を出て、砂浜の向こうのゆるやかな丘の上にある、大きな工房の方に向かいました。

途中、職人は、何人かの女の職人たちが岸辺に立ち、バケツのように大きな銀製の碗をいくつか砂の上に置いて、それを斜めに立てて碗の口を夕日に向けているのを見ました。日の光は月光のように汲むことはできませんでしたが、銀の鏡の中に吸い取ることはできました。彼女らは銀の碗の中に十分に夕日の光が染み込んだのを確かめると、その碗の中に海水を注ぎ込み、月の世から取り寄せた豆真珠の粉をひと振りして混ぜました。すると海水は見事な夕日の色に染まりました。彼女らはその夕日の水を三日ほどかけてじっくりと煮込み、ただひと匙の、朱色の顔料を作るのでした。

職人は工房に戻るとその裏庭に周り、そこに夕日に向かって斜めに立ててある板の上に、月光薄貝の皮をその質や大きさによって分けながら丁寧に広げて並べ、夕日の光と風の中にさらしました。そうして三日ほど干しておくと、月光薄貝の皮は蝶の形をした、かすかに虹色を帯びた貝殻質の白い薄紙となるのです。職人は空の雲の動きを眺め、風や雨の気配などを気にしながら、今度は別の板の上にある干し終わった貝の薄紙を集め始めました。

工房の中には、たくさんの職人と三人の準聖者が働いておりました。職人たちはそれぞれ自分の作業場に陣取り、各々の仕事に集中していました。ある者は、顕微鏡をのぞきこみながら、糸のように細いナイフを使って、ごく薄い水晶や瑠璃の板を削り、星の形をした歯車や蚤のようなネジやバネなどを作っていました。またある者は、遠く月の世の天の国から取り寄せたという翡翠や瑠璃をすりつぶし、緑や青の絵の具を作っていました。ほかにも、かすかな月光をじっくりと時間をかけて碗に汲み、それに日照界でとれる綿の実を浸してごく細い光の糸をよる者がいたり、絹のような手触りのきめ細やかな土をこねて、指に乗るほどの小さな虫の形の器を、オーブンのような小さな窯で焼いて作る者がいたりしました。

二階では、三人の準聖者のひとりが、片隅で敷物の上に座り、古風な服を着て鼓をたたきながら、美しい声で呪文の歌を歌っていました。その歌声は、机に向かっているひとりの準聖者の霊感を高め、彼はその霊感に操られるように、半透明の薄紙の上に蝶の形と翅の文様を描き、型紙を作っていました。ひとつの蝶の型紙が完成すると、その準聖者は机を並べている隣の準聖者にそれを渡し、その準聖者もまた霊感を受けながら、その蝶の羽の文様の中にそれぞれしるしを書き、文様の色を指定してゆきました。

職人のひとりが二階に上って来ると、彼は深く準聖者にお辞儀をして、型紙を受け取り、すぐ下の階の自分の机へと戻っていきました。彼はその型紙を、乾かした月光薄貝の紙の上に載せ、極細のペンと写し紙を使い、薄貝の紙に傷をつけないように微妙に指先の力を調整しながら、準聖者の描いた蝶の形と文様を慎重に正確に薄貝の紙に写してゆきました。彼は型紙から写した文様に、一ミリの間違いもないのを何度も目と勘で確かめたあと、それを隣の机に座っている職人に渡しました。その職人は、書かれた蝶の形の通りに、薄貝の紙を細いナイフで丁寧に切り抜き、そして型紙を見ながら指定された通りに細い筆を絵の具に染めて蝶の翅に色を塗ってゆきました。彼の前には、瑠璃の青や、翡翠の緑、夕日の朱、金色の橘の実から吸い取ったという黄、豆真珠の粉でつくった白、月光を黒檀の密室でさえぎった闇から採取したという墨などの、さまざまな絵の具を入れた小皿が並んでいました。

職人は、蝶の文様に色を塗っている間は、息もしませんでした。少しでも息を吐くと、薄貝の紙が揺れて、微妙に文様の線から色がはみ出し、それだけでその蝶はもうだめになってしまうからでした。職人は一ミリどころか一マイクロの間違いも許されませんでした。ただ一心に蝶の文様を見つめ、描かれた線をけっしてはみ出すこともなく、顔料と水の量、筆に吸い取る絵の具の量、筆を動かす微妙な指の動きなど、職人は経験から得たほぼ神業に近い勘だけを頼りに、神よりの使命に動かされているかのように、貝の薄紙に色を塗ってゆきました。

ひと組の蝶の文様が完成するまで、職人はたくさんの時間を使いました。そして職人が、蝶の文様の裏も表も、まったく正確に塗りあげると、彼はそれを次の作業をする職人に渡し、そこで初めて息をしました。

色塗りの職人から蝶の翅を受け取った職人は、女の職人でした。彼女は、絹の土で形作り焼き上げられた小さな虫の器の中に、極小の歯車とネジとバネで作った小さな仕組みを入れ、それを黒い薄布で覆って光の糸と針で縫いこみました。そしてさっき受け取った薄貝の蝶の翅を、豆真珠の粉を固めた極細のチョークで仮に描いたしるしのところに、一ミリのずれもなく正確に縫いつけました。こうしてできあがった蝶は、最後にまた二階の準聖者のもとへ持ってこられました。そこで、鼓をたたいて歌っていた準聖者が、少しの間歌をやめ、職人らが作り上げた蝶を左手で受け取り、右手の人差し指ですいとまっすぐに宙に線を描き、それで細い光の筆を作りました。準聖者はその針金よりも細い光の筆をとり、蝶の両の目に、す、す、と白い光の点を描きました。すると蝶は初めて命を得たように、体内の歯車がかりかりとかすかに動きだし、翅をひらひらと動かし始め、木の葉のように宙に浮かびあがりました。職人と準聖者は、開けてあった二階の高窓から風が一筋忍び込んできて、蝶をまるで盗んでいくかのようにからめとり、工房の外へと導きだしてゆくのを見ました。

そうしてようやく完成した蝶は、夕日の歓迎を受け、じっくりと温められながら、風に導かれるまま、東の山を超え、そのはるか向こうにある高山へと旅しました。そこには高山の花々が季節をかまわず咲き乱れている、極楽の花園のようなところがありました。花園にはもう、工房で作られた蝶がそれはたくさん群れており、花々の中で、雌雄は互いに呼び合い、追いかけたり逃げたりを繰り返しながら、不思議な繁殖をおこない、透明な歯車で作られた目に見えぬ光の遺伝子を交換し合い、神の魔法の中で、これほど珍しく美しいものがあるのかと芸術家のだれもが驚きおののくほどの、見事な文様の蝶が、次々と新しく生まれ出てくるのでした。そんな蝶の数はみるみる増えて、蝶の群れは大きく大きく膨らんでゆき、まるで一つの生き物のように、花園の空を舞いました。

高山の花園に潜んでいた神は、その群れをゆっくりと操り、蝶の一匹一匹に描かれた文様が、一マイクロの狂いもなく正確に描かれているのをごらんになり、とても喜ばれました。そして、ほお、と感動の驚きを見せ、その蝶の群れを祝福し、その使命を認めました。

それぞれの蝶の翅に描かれた文様は、高き神の愛の思考より生み出された言葉の一つ一つの文字を、この世界に表現するために作られたものでした。その文字を、準聖者が神よりのことばとして霊感の中に受け取り、工房の職人たちが、その誠の心と磨かれた高度な技をかけて作り上げ、愛のしるしの下、皆で協力し合って、神の御言葉をこの世界にこれ以上には正確にはできないほど正確に写しとった、それはまさに神と人がともに作りあげた美しい工芸品でありました。そして、不思議な魔法の繁殖によって膨らんだ神の文字であるその蝶の群れは、神により書きあげられた、一巻の大きな物語の中の、ある一章でもあるのでした。

蝶の群れは、このまましばらく花園に暮らし、繁殖を繰り返しながら、十分に命として、言葉として機能する準備が整うと、いくつかの群れに分かれ、あらゆる世界に神の著された物語を伝えるために旅をしてゆくはずでした。人々には、その神の文字を正しく読むことは決してできませんでしたが、しかしその文様を見るだけで深く感動し、何かをせずにはいられなくなりました。そしてそれは、その人の生きる道を導き、まるで物語の一つの役を担うように、何かの使命に導かれ、学び始め、行動し始め、美しい愛へと向かう、自分のための自分の道を探し、歩き始めるのでした。そうして、蝶はあらゆる人の魂を、神の御心への道へと導き、人々の魂はそれを追って、大きく成長してゆき、人間の、いえ、あらゆる命たちの、大きな歴史の物語を、自分たちの力で創り上げはじめるのでした。

このようにして、命の歴史の物語、すなわち史(ふみ)は、夕日の岸辺の磯に棲む、一枚の白い月光薄貝が、自らの古い殻を脱ぎ、新しい自分へと生まれ変わることから、始まるのでした。



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2012-02-01 07:59:12 | 月の世の物語・別章

日照界に、中天に太陽を仰ぐ、果てもなく続く鬱蒼とした密林があり、今、水色のスーツを着た一人の青年が、翼もなく、その上を飛んでいました。彼の顔は、まるで太陽から焼け出されたかのように黒く、髪は僧侶のようにそり上げ、磨いた黒曜石のような丸い大きな瞳は、物事すべてにまっすぐな誠の光を隠して、ただひたすらに目指すものを目指していました。

彼は密林の中を流れる一筋の河のほとりに、鰐の紋章を描いた白い旗がはためいているのを見つけ、そこを目指して降り立ちました。白い旗の立っている河岸の少し向こうには、かなり大きな鰐の群れが河の水につかっているのが見えました。彼は旗を岸の土から抜き、それを振りながら鰐の群れに近づくと、大声で、「おおい!」と叫びました。すると突然、水の中から真っ白な大鰐が現れ、それが器用に立ちあがって青年の立つ岸に向かって素早く歩いてきたかと思うと、白鰐は黒い青年の前で、同じ水色のスーツを着た青年の姿に変わりました。その青年は、肌の黒い青年とは対照的に、白髪に近い金髪に水色の目の、薄紅のほおをした背の高い白い青年でした。

「やあ、だいぶ疲れてるようだね」黒い青年がねぎらうと、白い青年は額に手をあて、少しふらつきながら、うなずきました。黒い青年は呪文をつぶやき、白い青年に向かって癒しの術を行いました。すると白い青年はだいぶ元気が出てきて、一つフウと息をつき、スーツのポケットから白い小さな玉を出しました。「これが今月の鰐の指導記録だ。ちょっと見てくれないか。気になることがあるんだ」白い青年が言うと、黒い青年は自分のキーボードを出して、白い玉をその中に放り込みました。すると、画面に一匹の鰐の姿が現れ、その下に一連の文字の列がありました。
「セムハラシム 297769873QXKIDG」

黒い青年がその文字を読み上げると、白い青年が言いました。「それがその鰐の名前だ。少し前から、あまりものを言わなくなった。鰐は普通、キバ、クチ、クウ、などとよくしゃべるものだが、彼だけは何も言わず、なぜか森の方ばかり見ている。精霊といっしょに彼と同化してみて気づいたんだが、彼はどうやら、外界の存在を感じ始めているらしい」それを聞いて、黒い青年は目を見張りました。「外界の存在を?それは鰐にしては段階を飛びすぎていないか?」「そうなんだ。鼠や蝙蝠でさえ、外界と自分との境界を知らない。あり得ないとは思うが、鰐のように幼い魂が、外界の存在の大きさを知ってしまうと、恐怖を感じすぎて病気になってしまうおそれがある。ちょっと注意して彼を見ていてくれないか」「わかった。交代するよ。君は帰って休んでくれ」

黒い青年はキーボードをしまうと、岸に旗を刺して、さっそく白い大鰐に姿を変え、河の中へ入って行きました。白い青年は川岸から宙に浮かび、精霊の起こした風に乗って森の上を飛んでゆきました。

白鰐は、群れの中を静かに移動しながら、セムハラシムを探しました。鰐たちは、ゆったりと水につかりながら、…キバ、キバ、クチ、クチ、クイモノ、クイモノ、クイモノ…などとそれぞれにつぶやいていました。セムハラシムは、群れの中ほどで、半分水から顔を出し、じっと河岸の蒼い森を見つめていました。鈍い金色の目が、時に何かを求めているかのように、くるっと動きました。白鰐は静かにその鰐のそばにより、「セムハラシム」と呼びかけました。すると鰐は、自分が呼ばれたことに鈍く気づき、グ、と声をあげました。「セムハラシム、どうした?」白鰐は呼びかけてみましたが、彼は何も答えず、ただ森の方を見ていました。白鰐は、彼の様子を見守るために、しばらくこうしてずっとそばにいてみることにしました。

十日ほども、彼はずっとセムハラシムから身を離しませんでした。セムハラシムは時々、思い出したかのように、キバ、ということがありました。クチ、クチ、クチ、クククイモノ…。しかしすぐ、かすかな悲しみのようなものが彼の目の中を流れ、彼はまた森に目を移すのでした。(鰐に悲しみがわかるものだろうか?)白鰐は十日目に、もう一度、セムハラシムの魂に呼びかけてみました。

「セムハラシム、あれが何か知りたいのかい?」すると鰐はまた、グ、と答えました。その答えには特に意味はありませんでしたが、白鰐は試みに、言ってみました。「あれは、森というものだ。神が鰐やほかの獣たちのためにお創りになった。ごらん、君にわかるだろうか。森は君を愛している。すべてが、君を愛している。君は気づくだろうか。どんなにみんなが、君を心配しているかを」するとセムハラシムはまた、グ、と声をあげました。そして目をくるくるとまわし、かすかに口を開け、牙を見せながら、河の水から半身を起しました。彼は言いました。モ…リ…。

「そう、森、だ。意味はわからなくていい。言葉だけ、繰り返してみなさい。いいかい、森は君を愛している。そしてすべてを与えている。わからなくていい。繰り返し、繰り返し、練習しなさい。森、森、森…」
そのときでした。不意に、セムハラシムは横にいる白鰐に気付き、突然口を大きく開け、目にもとまらぬ速さで白鰐の腹にがぶりと噛みつきました。白鰐はあまりの痛さに、ぎいっと声をあげ、一瞬手足をもがかせました。しかしすぐに彼は自分を落ち着かせ、その痛みに耐え、セムハラシム、とまた呼びかけました。彼は、セムハラシムの小さな魂が、鈴のように震えて、おびえているのを感じました。白鰐は言いました。「セムハラシム、愛している」セムハラシムはそれには答えず、ますます牙に力を込めました。

白鰐がしばしその痛みに耐えていると、上空から密林の精霊が一人降りてきて、セムハラシムと同化し、その小さな魂を抱きしめました。そして精霊もまた彼に、「セムハラシム、愛している」とささやきました。密林の樹霊たちも、彼に愛を送りました。精霊の愛に抱かれて、セムハラシムの魂は次第に落ち着きを取り戻しました。そして精霊は、しばしその魂を胸に休ませ、彼の代わりに彼の口を動かし、白鰐の腹から牙を離しました。白鰐はずくずくと痛む腹に魔法を塗りつけ、苦痛を一時麻痺させると、精霊と同じように、セムハラシムとの同化を試みました。

「セムハラシム、愛している」彼はささやきながら、精霊とともにセムハラシムの魂を抱きしめました。なんと幼い魂なのか。なんとおまえは小さいのか。すべてを、すべてをやってやらねばならない。こんな小さなものが、こんな小さなものが、いるのか。すべてを、やってやらねばならない。彼はまるで神のようにセムハラシムの全存在を抱きしめ、自らの胸の奥からあふれてとまらぬ愛に泣きました。

セムハラシムは森を見つめ続けました。そして彼は、かすかに魂にしわを寄せました。それは、彼が何かを言いたいのに、言えないもどかしさを感じているからでした。白鰐の魂はセムハラシムの魂と深く共鳴し、彼が語りたい言葉を探し、それを代わりに、セムハラシムの口から言いました。

ナ…ゼ…

「なぜ?なぜと言ったのか、セムハラシム」白鰐ははっと自分に戻り、セムハラシムに問いかけました。セムハラシムはまた、ナゼ、と言いました。
(セムハラシムは疑問を持ち始めた。問いかけ始めた。たぶん、森が何なのか知りたいのだ。しかし、どうしても、知りたいということがわからない。言えない。彼は違う。何かが違う。鰐が、なぜ、なぜというのだろう?)

白鰐は、ずっとセムハラシムから離れずに注意深く観察し、それを体内の白い玉に記録してゆきました。

やがてひと月が経ち、白い青年が、空を飛んで河のほとりにやってきました。白鰐は、旗を持つ白い青年の前に立ち上がり、すぐに元の黒い青年の姿に戻りました。その姿を見て、白い青年は驚きました。彼の水色の服のあちこちに、セムハラシムが噛んだ牙の跡がたくさん残っていたからです。

「何があったんだ。ずいぶんひどい様子じゃないか」彼は黒い青年に癒しの術を行いながら言いました。黒い青年は黙って、白い玉を白い青年に渡しました。「セムハラシムは病気ではないようだ。ただ、どこかが他の鰐と違うだけだと思う」黒い青年が言うと、白い青年は白い玉を自分のキーボードに放り込んで、画面に映るこの月の指導記録を読みつつ、ひゅう、と口を鳴らしました。「君、ちょっとがんばりすぎだ。ここまでやったのか」

「師たる聖者がおっしゃったことがある。幼い魂の中には、これまでわたしたちが経験し、積み上げてきた知恵だけでは計ることができない変化を見せる者が時々いると。セムハラシムはその例ではないかと思う。もちろん、稀ではあるから、今僕がそう思うだけなんだが」黒い青年が言うと、白い青年はうなずき、「よし、交代だ、引き続き観察を続けよう」と言って、旗を岸に刺しました。黒い青年は、安心したようにほっと息をつき、初めて顔に疲れを見せました。そしてうつむきながら、まるで何かに導かれるように、言いました。「…一体、我々は、どこから生まれてきたのだろう?」白い青年は、変身をする前に、彼のその言葉に振り向きました。黒い青年は続けました。「セムハラシムのそばにいて、思った。我々は一体どこから来たのか。神が、お創りになったのか。それとも、どこからか、自然に生まれてくるものなのか…」

「それは誰もが持つ疑問だ。答えを知っている者はいない。神でさえ、ご存じではないかもしれない。わかっているのは、僕たちが今存在していて、ただ、愛さずにはいられないということだけだ」白い青年が言うと、黒い青年は顔をあげ、「そう、…そうだね」と言いました。彼らは、深い森の愛に囲まれているのを感じながら、しばし、自分たちが同じ愛の中にいて、魂が共鳴していくのを感じました。ああ、愛だ。君も、愛。そして、僕も、愛。みな、同じ愛なのか。それが、この世界に、こんなにも、たくさん、いるのか…。

黒い青年は、片手で顔を覆い、うっと喉をつまらせました。白い青年はその肩に手をやり、その心を共にしました。存在というものの孤独と、喜びと、それは皆が、当たり前に持っているものでした。皆、同じでした。悲しみも、苦しみも、幸福も、すべては皆、同じでした。

白い青年は黒い青年の名を呼び、「愛しているよ」と言いました。すると黒い青年は顔をあげて、ようやく笑い、「ああ、僕もだ」と答えました。そして白い青年は再び白鰐に姿を変え、河に入って行きました。黒い青年はそれを確かめると、ふわりと宙に浮かび、精霊に助けられながら、森の上を空高く飛んでゆきました。



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