ミューズの声聞こゆ

なごみと素敵を探して
In search of lovable

このたびの東日本大震災で被災された多くの皆様へ、謹んでお見舞い申し上げます。

大震災直後から、たくさんの支援を全国から賜りましたこと、職員一同心より感謝申し上げます。 また、私たちと共にあって、懸命に復興に取り組んでいらっしゃる関係者の方々に対しても厚く感謝申し上げます。

銀河鉄道の夜(抄) 宮沢賢治

2017年07月22日 | 賢治先生

(前略)
  川の向う岸がにわかに赤くなりました。楊の木や何かもまっ黒にすかし出され見えない天の川の波もときどきちらちら針のように赤く光りました。まったく向う岸の野原に大きなまっ赤な火が燃されその黒いけむりは高く桔梗色のつめたそうな天をも焦がしそうでした。ルビーよりも赤くすきとおりリチウムよりもうつくしく酔ったようになってその火は燃えているのでした。
「あれは何の火だろう。あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだろう。」
ジョバンニが言いました。
「蝎(さそり)の火だな。」カムパネルラがまた地図と首っ引きして答えました。
「あら、蝎の火のことならあたし知ってるわ。」
「蝎の火ってなんだい。」ジョバンニがききました。
「蝎がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんから聴いたわ。」
「蝎って、虫だろう。」
「ええ、蝎は虫よ。だけどいい虫だわ。」
「蝎いい虫じゃないよ。僕博物館でアルコールにつけてあるの見た。尾にこんなかぎがあってそれで刺されると死ぬって先生が言ったよ。」
「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さんこう言ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見つかって食べられそうになったんですって。蝎は一生けん命逃げて逃げたけどとうとういたちに押えられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないで蝎は溺れはじめたのよ。そのとき蝎はこう言ってお祈りしたというの、
  ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命逃げた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしの体をだまっていたちにくれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなのさいわいのために私の体をおつかい下さいって言ったというの。そしたらいつか蝎はじぶんの体がまっ赤なうつくしい火になって燃えて夜のやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さんおっしゃったわ。ほんとうにあの火それだわ。」
「そうだ。見たまえ。そこらの三角標はちょうど蝎の形にならんでいるよ。」
  ジョバンニはまったくその大きな火の向うに三つの三角標がちょうど蝎の腕のように、こっちに五つの三角標が蝎の尾やかぎのようにならんでいるのを見ました。そしてほんとうにそのまっ赤なうつくしい蝎の火は音なくあかるくあかるく燃えたのです。
(中略)
「さあ、下りるんですよ。」青年は男の子の手をひきだんだん向うの出口の方へ歩き出しました。
「じゃさよなら。」女の子がふりかえって二人に云いました。
「さよなら。」ジョバンニはまるで泣き出したいのをこらえて怒ったようにぶっきり棒に言いました。女の子はいかにもつらそうに眼を大きくしても一度こっちをふりかえってそれからあとはもうだまって出て行ってしまいました。汽車の中はもう半分以上も空いてしまい、にわかにがらんとしてさびしくなり風がいっぱいに吹き込みました。
(中略)
ジョバンニはああと深く息しました。
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあの蝎のようにほんとうにみんなのさいわいのためならば僕の体なんか百ぺん灼いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが言いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり言いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くようにふうと息をしながら言いました。
「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ。」カムパネルラが少しそっちを避けるようにしながら天の川のひととこを指さしました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまいました。天の川のひととこに大きなまっくらな孔がどほんとあいているのです。その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニが言いました。
「僕もうあんな大きな闇の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」
「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるの僕のお母さんだよ。」カムパネルラはにわかに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫びました。
(中略)
「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」ジョバンニがこう言いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラの座っていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかっていました。ジョバンニはまるで鉄砲丸のように立ちあがりました。そして誰にも聞えないように窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫び、それからもう咽喉いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。

  ジョバンニは眼を開きました。もとの丘の草の中につかれて眠っていたのでした。胸は何だかおかしく熱り頬にはつめたい涙が流れていました。
  ジョバンニはばねのようにはね起きました。町はすっかりさっきの通りに下でたくさんの灯を綴ってはいましたが、その光はなんだかさっきよりは熱したという風でした。そしてたったいま夢であるいた天の川もやっぱりさっきの通りに白くぼんやりかかり、まっ黒な南の地平線の上ではことにけむったようになってその右にはさそり座の赤い星がうつくしくきらめき、そらぜんたいの位置はそんなに変ってもいないようでした。(後略)

※文中の一部を新仮名遣いおよび当用漢字/常用漢字に改めています。ご了承ください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする