「今年3月中旬、彼はひょっこり僕の個人事務所へ顔を出した。
そして一枚の紙を差し出した。
理事長さん、こんなメニューができたのですが、よろしければご検討ください。
彼はこれまで会った銀行員の中で最もスマートな男だった。
そして相手も僕が法人の書類を渡すたび、理事長さんは銀行が求めるもの(資料)を分かっていますね、と感心顔で言ってくれていた。
僕はその紙を一瞥すると、実はそのメニューについては検討済みで、実際に申請するか、その際はどこの銀行にお世話になるか、考えているところでした、と隠さずに話した。
それではぜひ当行でやりましょう、やらせてください。
僕は言った、やるからには金額は上限ですが、いいですか?
わかりました、本気でやります。
その日から僕は提出する資料を作成し、必要な書類を取り寄せ、5日後には彼に渡した。
その一週間後、彼から電話があった。
内諾が出たとの報告だった。
そして4月第一週に融資が実行された。
なぜ(年度を越した)4月に入ってからなのかは、経営者なら分かる。
しかも僕ではなく、彼の提案だった。本当にスマートな男だ、とまた思った。
彼のおかげで、コロナ禍の中においても僕の事業経営上の悩みは全くなくなった。」
「8月末、その彼から急に転勤が決まったので挨拶に来たい、との電話をもらった。
翌日、来訪した彼に尋ねると、新しい赴任先は本店営業部だった。
それはご栄転ですね。驚きませんよ、あなたなら。
いえいえ、と珍しく笑顔で謙遜しながら、理事長さんの大きな話をいち早くまとめたのが上の心証を良くしたのでしょう、と応えた。
でも残念だな、あなたとはもう少し仕事がしたかった。僕は最後の仕事として、〇〇〇〇〇〇〇〇を行なおうと考えていたので。
彼ははっと息を飲んでから早口で言った、二、三日前にそのメニューの資料が当行にも回って来ていました。私はあまり詳しくないし、もちろん、手掛けたこともないのですが。
ええ、僕も一か月ほど前から、そのメニューが近々解禁されると知って、検討を始めたばかりです。取り組むならあなたと、と思っていました。
そうでしたか!ああ、残念だな、やってみたかったなあ、後任に申し送りますので、ぜひ当行にご支援させてください。
分かりました(笑)それではYさん、これでお別れです。僕はこの年齢ですから、あなたが支店長や役員になるところは見れませんが、引き続きのご活躍をここから祈念しております。
きびすを返した彼の背中に、ひょっとしたら羽根が生えているのでは、と僕は目を凝らした。」