ミューズの声聞こゆ

なごみと素敵を探して
In search of lovable

このたびの東日本大震災で被災された多くの皆様へ、謹んでお見舞い申し上げます。

大震災直後から、たくさんの支援を全国から賜りましたこと、職員一同心より感謝申し上げます。 また、私たちと共にあって、懸命に復興に取り組んでいらっしゃる関係者の方々に対しても厚く感謝申し上げます。

ウォルター・マッソー

2024年09月23日 | ハリウッド

「未知への飛行」より。中央の大男がマッソー。

 

 きれいに髪を撫でつけ、タキシードへ黒のボウタイを締めて鏡をのぞき込むたび、「未知への飛行」(1964年)のウォルター・マッソーに似ていないだろうな、と心配したものだ。

極端な反共思想を独特の話術で披露してその場を支配する大柄な政治学者。怖いキャラクターだった。

「がんばれベアーズ」(1974年)の、お人よし監督と同一人物とはとても思えない。

 マッソーが一番怖かったのは、カーク・ダグラスとキム・ノヴァク主演の「逢う時はいつも他人」(1960年)だ。ダグラスとノヴァクがひっそりと逢瀬を重ねる中、その関係を察知してダグラスの妻にニヤニヤ言い寄ってくる隣人。唾棄すべきキャラクターだった。

 面白いことに、ダグラスは次作「脱獄」(1962年)でもマッソーを起用している。脱獄犯の自分をジープでヘリで、どこまでも執拗に追ってくる保安官役として。

 実を言うとそれ以前にダグラスは自身が設立した独立プロダクション、ブライナ・プロの記念すべき第一作「赤い砦」(1955年)へもマッソーをキャスティングしている。こちらもかなり嫌な悪役だ。

のちに生涯のライバルとなる名優バート・ランカスター唯一の単独監督作「ケンタッキー人」(1955年、ヘクト=ランカスター・プロ作品)で映画デビューを果たしたマッソーを観ての起用だった。抜け目のないダグラスらしい。さらに、自伝「くず屋の息子」にはまだ映画慣れしていなかった若い舞台俳優のマッソーへ映画撮影のイロハを教えたエピソードが披露されており、このへんがダグラスの嫌われるゆえんだ。

ともあれ、ハリウッド有数の気難し屋ダグラスが三度も使ったのは、よほど才能を認めていたからに違いない。また、ギャラも安かったのだろう。

 

「逢う時はいつも他人」より。ダグラス(右)の鉄拳制裁。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする