昔はあちこちに働かないオジサンがいた。広い道路の端で三角ベースをやっていたらボーっと見ていたオジサン、町内子供会に鼓笛隊を作ってお祭りに町内隅々を廻らせていた雑貨屋のオジサン(店番や配達は奥さん。子どもたちに「ご苦労さま」と配る菓子は当然売り物)、ぼくたちに正しく生きることを話してくれたPTA会長さんも全然働いてなかった。働いているはずだけれど、夕方に酒飲んで真っ赤な顔でヨロヨロしながら自転車に乗っていたオジサン(側溝に落ちて大怪我していた)や、橋の上から釣り糸を垂らして工場排水で汚れたウグイを釣っていたオジサン、中学校の野球部の練習を土手に座っていつも見ていた常連のオジサン。オジイサンより若くオニイサンではない働きざかりの働いてないオジサンたち。
このオジサンたちは、理由があって働けないのか、働きたくないのかは分からないが、どこか飄々としていて子どもに近い感じがした。こんなことを思ったのは、TVの朝ドラ『カムカム エヴリバディ』に出てくる、働かないトランぺッーター大月錠一郎の言動が妙に心を揺さぶるからだ。トランペッターとしての才能は抜群だが吹けない、描く絵が独特で面白い、言葉が優しくて深い、家業の手伝いが全く出来ない、しかし家族に信頼され、周囲にも「そういう人なんです」と愛されている。波風氏はこのオジサンにはハマってる(笑)。こういう生き方があったか・・・今からでも遅くないか・・・・・今目ざしているのはこれか?なんて思いながら。
働かないのはもの凄く悪いこと、仕事をやめるのは根性が無いから、退職後も働かないと悲惨な老後、なんていう言葉がまことしやかに語られている。70歳、80歳でカフェで接客やってますとか、器用な手先でミシンを使ってもの作りなんていう特殊な方々をTV番組で見せられ、「働きたいのに働き口が無い人をどう思っているのかなあ?」なんて思う。老人が「今も元気に働いています」みたいのが昔から苦手なのは、自分でアンチエイジングの宣伝しているみたいだからだ。どうして、(本音でなくても)働かないオジサンに早くなりたい、一日中遊んでいるオバサンになりたいと言えないのかなあ。
学校ごっこ、先生ごっこをやっとやり終えて(この打ち止め感が大事だと思う)、死ぬまで続く「働かないオジサンごっこ」という新しい遊びで、ついに「ヘンナオジサン」になれるかもしれないと思う波風氏である。
オリンピックが楽しみで無いのは商業主義・政治主義が鼻につくから。犠牲になる選手が可哀想。期間中、大事なことが隠されている感じもして今日、7000歩。前より疲労感少ない。録画してテレビ体操もやってみるかなラジオをステレオにしようともう1個スピーカをつないで感電した小学生の時。