あ・い・た・く・て という詩のことを書いたブログ記事(『工藤直子詩「あいたくて」』)。この5年間ほぼ毎日誰かが読んでくれていているが理由は不明。掲載詩集の巻末に、「なににあいたいのだろう・・・迷子の気分というのは昔も今もこれからもずうっとあるんじゃないかなあ・・・迷子の気分は、じつは、好きです。とても、なにかに『あいたく』なるから。そして『あえてうれしい』から。」と作者の言葉。
このブログも、手のなかににぎりしめていることづけを、誰かに手わたしたいからかもなあ。そうだろうなあ。
こだまでしょうか は東日本震災直後のテレビCMで流れ続けた金子みすゞさんの詩。
「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。
「馬鹿」っていうと
「馬鹿」っていう。
「もう遊ばない」っていうと
「もう遊ばない」っていう。
そうして、あとで
さみしくなって、
「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。
こだましょうか、
いいえ、誰でも。
「こだまでしょうか」と「いいえ、誰でも」が呼応しているが、「誰でも」は誰を指しているのだろう?ママヨさんは、自分が誰かに(誰にでも)かけた言葉がその気持ちとともに伝わり相手から反ってくると言う。ふーんと思いながら、「いいえ、〇〇さんでも」「いいえ、△△さんでも」「いいえ、ママヨさんでも」と読み替えているうちに合点。言葉の重さと重なる人間信頼を感じるね。ちらっと、「誰でもありません」(=それはあなたの心の言葉)というのは捨てがたいが。
小さな渦巻き(茨木のり子 詩)の一か所の言葉。
ひとりの人間の真摯な仕事は
おもいもかけない遠いところで
小さな小さな渦巻きをつくる
それは風に運ばれる種子よりも自由に
好きな進路をとり
すきなところに花を咲かせる
ずうっと昔、京都出身の教育家が、京都の教育の真髄が当地に伝わって教育の花を咲かせたと聞いたことがあった。愛媛で平均年齢75歳(当時)の方々が当地に来られてソーランを踊られた。その時に1度だけ、指導されている方とお会いし今も親交が続いている。「ふしぎな磁力でひきよせられた」という詩の言葉に立ち止まる。
この3つの詩のどれもと重なるご夫婦を思う。当地で、文化の渦巻きをつくられた方たち。今は閉じられてしまったが、そこに集った人々がいろいろなところで花を咲かせ芽を出そうとしている、いや出しているはず。この懐かしい感情の記憶は、我ながら詩のようにシンプルで美しい。画像は最後に訪れ帰り際に振り向いた時の、渦巻きの核『あとりえ華』。一番星が大きく光っていた。
波風氏の読書ジャンルに欠かせない『詩』。小説や評論では足りず、それを埋めてくれる感じ エンゲル係数減らそうとしたら、真っ先にオヤツがなくなった(涙)。ママヨさんは、カステラやパウンドケーキやアンパン、波風氏は、梅ゼリーや玉子プリンせっせと作る。別の係数が心配。