時間を持っている
というのが老後一番の発見。仕事や子育てで慌ただしかった若い時代、時間を動かしているのは学校・会社や家族や友人で、自分で自由にできない筆頭が時間だった。身体も動くし周りから期待され自分の選んだ仕事に没頭し、「誰かのために忙しく生きる」のが人生で、それが幸福、なんて思っていた。有効に使っても無駄に消費しても時間の価値を考えることは滅多に無かった。昭和中ごろ生まれは誰もがそんな人生観だと思う。
昨日のブログで
その「時間の所有」のことを書くつもりだったのにすっぽり抜けているのに気がついた。70歳を越えてわかったのは、自由になる時間の多さと使い方次第で機嫌よく暮らせる発見。少し前までそのイメージはあっても実感は乏しかった。長い間の時間感覚はそう簡単に変えられない。意識できる新しい「時間」の使い方は、健康状態や経済状態、住んでいる地理的条件に制約されるが、そういう枠組みをむしろ「利用して」遊び続けることが天寿まっとうの最短ルートかもしれない。その予兆は「便利は実は不便、不便が実は便利」と思い始めたことだが、あらゆるところに遊びの種(少し関わると、うわっ、こんなに面白いんだ、と発見できること)が潜んでいるものだ。
ママヨさんが焼いたパン
をお世話になった方に届けたり、卓球台を作って家の中で遊ぼうと画策したり、身欠き鯡の甘辛煮を作ってウドンに乗せて食べたり、手作りのピザソース入れる密閉容器をやっと探し当てたり、正月残りの黒豆で「黒豆入り抹茶ゼリー」作ったりするのは何かと忙しいが、これ「時間の所有」が為せるプレゼント。買った方が安く済むことも多いが丁寧な暮らしが得がたい。畑地の雪だまりに、耳が長くて目のところに明かりを灯せるウサギ雪だるまを作ってみるかなとか、春になったら卓球台の脚を作り外でも遊べるようにしたいなんて思う。
画像は、焼きたてのアンパンとクリームパン。行き先確定パンにつき波風氏の口には入らない(涙) この2年間で2人の親しかった知人が72歳で亡くなった。波風氏の年齢は「まさかの時」が来ても不思議ではないのだ今月末に読書交流会『ほんのおつきあい』を久しぶりに開催予定。当地でコロナ罹患が増えたら中止だけど。