電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

手帳とスピーチ

2005年04月17日 10時57分20秒 | 手帳文具書斎
子どもが学校へ行っているとき、色々なPTA会長さんの挨拶を聞いた。挨拶の中身は型どおりのものが多いのだが、興味深かったのはその原稿の持ち方だ。一番多いのは、A4の用紙に印刷して、三つ折にして背広の内ポケットにしのばせるやり方。昔風に巻紙に書いて読む、なんてのはほとんど見なくなった。原稿なしで見事な挨拶をされる方もいたが、政治家とか学校の先生が多く、日常的に話をする機会が多いからだろう。印象的だったのは、壇上でバイブルサイズのシステム手帳をぱっと開き、片手に持ったままスピーチした方。教会の牧師さんの説教のようだった。これが小さなポケット型の手帳だと、まったくさまにならない。話も短く簡明な内容で、他人事ながらカッコいいなぁ、と感じた。たぶん、子どもたちも同じようなことを感じたのではないだろうか。それとも、こうした場面でシステム手帳を見ながらスピーチするというのは、礼を失することなのだろうか?
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宮城谷昌光『孟甞君』第2巻を読む

2005年04月16日 21時58分34秒 | -宮城谷昌光
講談社文庫で、宮城谷昌光著『孟甞君』第2巻を読了し、第3巻を読みはじめた。風麗を妻に迎えた公孫鞅は秦の第一次変法を行う。風洪は商人・白圭と名を変え、30歳にして学問を志し、翡媛もまた翠媛と名を改めて白圭の妻となった。窮地に陥った孫子を救い出すために協力した田嬰は、超文の父であることが明らかとなり、斉召は策謀により殺された豪商・斉巨の仇をうつ。前半の主だった登場人物がほぼ出揃ったのではないか。

少しずつ少しずつ読み進めても、二度目なので話の流れがわかるためか、途中でわからなくなる心配はない。かえって、物語の工夫、面白さが楽しめる。これまでのところ、どこから見ても主人公は風洪だが、しだいに田文の比重が大きくなっていく。このあたりの自然な転換は、実に見事だ。
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WEBサイト「物語案内」更新

2005年04月15日 22時59分33秒 | コンピュータ
WEBサイト「物語案内」を更新した。内容は「その他」のカテゴリーで、吉田秀和『私の好きな曲』、舘神龍彦『システム手帳新入門!』、「案内」のカテゴリーで「コンピュータとロボットを楽しむ本」、「何度も繰り返し読む楽しみ」の4件。特に『システム手帳~』などはどちらかといえば実用書で、物語案内としては本来ふさわしくないかもしれないが、自分としては手帳の個人史やシステム手帳のブームの盛衰などに、意外な物語性を感じてしまう。
同サイトのURLは、以下(*)のとおり。
(*): WEBサイト「物語案内」
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山形市霞城公園の桜の状況

2005年04月15日 18時09分54秒 | 散歩外出ドライブ
今日、霞城公園の中を歩いてみた。桜の芽は、色づいてふくらんでいるが、あと数日で咲き始めるかも、といったところか。来週にはたぶん咲き始めることだろう。
霞城(かじょう)公園というのは、山形市の中央部にある旧山形城、南北朝時代に斯波兼頼が築き、戦国の雄・最上義光(よしあき)が拡張した200ヘクタールに及ぶ大規模な平城で、最上57万石の居城だったが、明治になって二の丸が埋め立てられて陸軍の錬兵場になってしまい、戦後は公園として親しまれていたところだ。近年になって、山形市が中心になり、大手門や一文字櫓などの復元工事が行われているもの。敷地内には、写真のように明治期の近代建築である旧済生館が移築され、山形市郷土館として復元されている。大正時代に建てられた旧山形県庁も復元工事が行われ、山形県郷土館「文翔館」として一般公開されて親しまれているが、山形は戦災による焼失が少なく、古い歴史的建造物が大事に保存されていることが多い。なかなか歩く機会がないが、今日のように自分の足で歩いてみると、いろいろと発見がある。
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桜の芽がふくらんできた

2005年04月14日 21時47分14秒 | 散歩外出ドライブ
関東地方ではすでに桜の花も散っているのかもしれないが、東北地方ではまだこれから。市内の桜の名所も、ようやく芽がふくらんできて、楽しみになってきた。明日の午後は、霞城公園の中を通っていく用事があるので、桜の様子もわかるだろう。週末のお天気はどんな具合だろうか。
プロジェクトの報告書の〆切も迫っているので、お花見などしている余裕はないのだが、せめて近距離のドライブでもして、満開の桜の花の下で団子でも食べたいものだ。
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春眠曉を覚えず~いくらでも眠れる!

2005年04月13日 21時16分31秒 | Weblog
昨日は夜9時に寝て、今朝は朝6時に起きた。実に9時間の睡眠時間で、近頃の疲れも回復したようだ。春眠曉を覚えず、というが、実際いくらでも眠れるような気がする。特に、眠る前に文庫本を読むのが楽しみだ。今は、『孟甞君』を再び読んでいる。講談社文庫の第1巻は、風洪が田嬰の子どもを育てるようになる経緯。再読なので、物語の様子がよくわかる。一日一章の割で読み進んでいる。読み終えた後、眠りにつくのは実に気持ちがいい。
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旧山古志村のネコ生存に思う

2005年04月12日 20時02分03秒 | Weblog
新潟中越地震で被災した住民が一時帰宅した旧山古志村で、飼い猫が四ヶ月ぶりに生存が確認されたニュースは、驚きだった。四月の現在で2mの雪が残る中で、火の気もないつぶれた住宅で、よくも生きのびたものだ。飼い主も、一縷の望みを持っていたからこそ、雪上車で一時帰宅するとき、わざわざキャットフードを持参したのだろう。春らしく、心にあたたかさを届けてくれたようなニュースだった。

我が家にもネコが二匹いるが、飼い主たちの愛情や迷惑をものともせず、たくましく生きている。冬の間は自粛していたハンティングを再開したらしく、なにやら得体の知れないものをくわえてくるようになった。おねがいだから、家に持ってこないで!
写真は、資源回収に出す準備を邪魔する我が家のネコ。おまえも資源回収に出しちゃうぞ!といってもわかるわけないか。
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ガソリンの値上がり

2005年04月11日 20時46分41秒 | Weblog
このところ、急にガソリンの販売価格が上昇している。この三月末までは110円台だったのが、現在は120円台にまで上昇している。これは、しばらくぶりではないか。ずっと昔、昭和50~60年代には、そんな記憶もあるが、最近はリットルあたり100円程度で推移してきたので、ちょっとびっくりしている。
現在の車は、排気量の小さなもので、ぎりぎり満タンに給油してもせいぜい40リットル程度、今までは千円札を4枚も出せばお釣りがもらえた。それが、今度は千円札を5枚用意する必要がある。幸い、今の車は燃料消費率がたいへんよく、通年でリットルあたり14~15kmは走っている。エアコン不要の季節なら、それこそリットルあたり18km以上走る。また、今の通勤距離なら月2回の給油ですむので、その意味でもたいへんありがたい。

燃料消費率の統計グラフ

ともあれ、こういうガソリン値上げの時代には、燃費経済性のよい車が本当にありがたいと感じる。
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プロコフィエフ「ピアノ協奏曲第3番」

2005年04月10日 15時07分17秒 | -協奏曲
今朝は、早起きして地区の道路清掃に参加、午前中職場に顔を出し、午後からゆっくり休息、プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番を聞いている。
この曲、もともとアルゲリッチ(Pf)とアバド指揮のベルリンフィルの演奏するLP(MG-2128)で親しんだ。
LPは、1967年にベルリンのイエス・キリスト教会で録音されたもので、ジャケット写真のアルゲリッチもアバドも、とても若々しい。演奏も素晴らしいもので、アルゲリッチの豪快なピアノをサポートしながら、第二楽章のノスタルジックな表情づけなど、アバドの指揮ぶりは聞きやすく親しみやすいものだ。
一方、N響アワーで放送された、2001年のN響ヨーロッパ楽旅におけるロンドンのロイヤル・アルバートホールでの演奏をビデオで楽しんでいる。このときは、アルゲリッチ(Pf)とデュトワ指揮N響の演奏で、武満徹の「セレモニアル」(宮田まゆみの笙)とプロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」が放送された。34年の後、映像で見るアルゲリッチは、あいかわらず素晴らしいエネルギッシュな演奏を堪能させてくれるが、演奏の途中で指揮者に文句を言っているように見え、こわいおばさんになったなぁ、という印象を持った。
2003年の真冬、ゲイリー・グラフマン(Pf)とジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団のCD(CBS MYK 37806)を入手した。1966年にクリーヴランドのセヴァランス・ホールにて録音されたもので、このコンビ、1970年の来日時にも同じピアノ協奏曲第3番を演奏しているが、それまで実際に聞いたことはなかった。当時は単身赴任の夜間勤務だったので、週末の吹雪の夜、家に帰る途中カーステレオで聞きながら車を運転した。冒頭のクラリネット・ソロが一本に聞こえ、やがてハーモニーとなる。視界にはヘッドライトに照らされた粉雪が舞うばかりで、情緒性を排したようなセルのクールな演奏が実によくマッチする。ハンドル操作を誤れば雪の路面で大きな事故に直結する緊張感の中で、プロコフィエフの硬質の叙情、疾駆する厳寒のロマン性がよく理解できたように思えた。
以来、セルのプロコフィエフがお気に入りである。そういえば、セル指揮クリーヴランド管弦楽団には、「キージェ中尉」という素晴らしい録音も残されており、CD(SONY SRCR-2557)でも親しんでいる。あとは「交響曲第5番」をぜひ入手したいものだ。
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雪どけで河川が増水している

2005年04月09日 19時24分46秒 | 散歩外出ドライブ
次第に暖かくなり、山々では雪どけが進んでいるようだ。河川の増水も顕著になっている。ふだんは扇状地の伏流水地帯だが、雪どけの頃はさすがに川の流れも速い。周囲の山々も、なだれが頻発するころだろう。残雪を踏んで、春山を散歩するにも、あと少し待ったほうがよさそうだ。
写真中央の白い山は、奥羽山脈脊梁部にある北面白山か。河川は、月山や朝日連峰の雪どけ水を集めた寒河江(さがえ)川である。最上川に合流するこの川の下流には、堤防に沿ってサイクリング道が整備されている。
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中高生の教育に思うこと

2005年04月09日 10時16分43秒 | Weblog
学力低下や教育論が盛んである。自分自身の中高生時代を振り返ると、現在と連続している部分とともに、今では記憶の彼方にある不連続な部分があることに気づく。若い時分は、あまりそういうことに気づかなかったが、自分の子どもを育てて見ると、本人の意識はともかく、中高生が相当に幼い面も残していることを前提にしないといけない。知識や技能のある面では、大人顔負けの中高生がいることも事実だが、全体的な成長の過程はアンバランスな場合が多いからだ。

大学や大学院を出て上級公務員として経験を積んだ30代の文部科学省の諸氏は、統計的な裏付けを用いながらも、生徒だった自分の経験をもとに教育政策を立案せざるをえないだろう。それを助言する形の教員出身の教科調査官は、かつて優秀な中堅教員だったであろうから、自分の経験と指導力を前提にものごとを考えがちになる。どうしても、中高生を実際以上に大人として見た、理想論が政策となりがちである。
中学生に、現代文と共に日本の伝統的な古文や漢文の教材を与えて、我が国の伝統的な文化の価値を気づかせたいとする意図は、それだけから見れば善意から発するものだろう。しかし、古文や漢文を教材として扱うからには、先生は最低限の文法的な知識も教えなければ、本当に理解することは難しいと考えるだろう。教材の量は少なくても、限られた時間の中で古典領域の重みはずしりときいてくるはずだ。
その影響はどこに表れるか。おそらく、手間と時間がかかる作文の指導の時間の減少となっているのではないか。自分の家族や友人、身の回りのできごとや地域社会での体験などを文章に綴り、考える体験が少なくなっているのではないかと思う。地球環境問題や社会の在り方にたいして一人前の意見を述べるのに、自分の身の回りのことにはひどく無頓着なのは、私の子どもだけの特徴ではないのではないか。

「これは教えるべきだが、あまり深入りしてはいけない」などと制限を加えるようなら、それは必修科目とすべきではないだろう。総合的な学習の時間や学校行事で、百人一首かるた大会で盛りあがるのも一つの方法だし、中高生の必修の国語には、古典領域の教材は外してもよいと思う。古典は選択科目として、興味感心を持つ者が体系的に学習できるようにしたほうがよい。せめて、漢文領域を外したらどうだろうか。かわりに、地域社会や身の回りに取材した作文を通じ、事実に即して考える力を養う授業を重視できるようにしてほしいと思う。そうして、同じことが国語ばかりではなく、社会など他の科目にも言えるのではないか。理科の軽視も、そろそろ終わりにしていい頃だろう。

これが、中高生の子育てをほぼ終えつつある理系出身の父親の実感である。
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水仙の芽の成長の速さ

2005年04月08日 20時51分21秒 | 散歩外出ドライブ
タケノコの成長も速いが、水仙の芽の成長の速さもよく考えると驚異的だ。ほんの数日前にはこんな状態だったのが、今はもう一人前とはいかないまでも、半人前くらいの背丈にまで成長している。おそらく、あっという間に花が咲くのだろう。この成長の速さはすごい。
水仙の成長の陰では、細胞がどんどん分裂し伸張しているはずだ。成長の速さを後押ししているのが、豊富な雪どけ水なのだろう。凍結融解した人工培地に育つ E.coli の代謝が切り替わっているように、水仙の驚異的な成長の背景には、雪どけ水の代謝への影響があるのかもしれない、などと空想したりしている。

クラウディオ・アバド指揮ロンドン交響楽団の演奏で、ロッシーニとヴェルディの歌劇序曲集を聞いている。とりわけ、「運動会の音楽」である歌劇「ウィリアム・テル」序曲の前半部、チェロ独奏の部分がすばらしい。映画「トスカニーニ」では、大西洋航路の船の上で、病死した人を水葬する際の哀悼の音楽としても流れるのではなかったか。
昔、中学校の音楽の時間に、この「ウィリアム・テル」の序曲をレコードで鑑賞する際に、音楽の先生が曲の後半部、例の「運動会の音楽」だけを聞かせた。そのとき、本当はこの前半部もいい曲なんだよ、と話してくれたことをなぜか覚えている。いい音楽だったら、聞かせてくれればいいのに、と思っていたからだろう。初めて聞いたとき、本当に素晴らしい音楽だと思った。なぜ後半が「運動会の音楽」なのかわからない。
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サクランボの剪定が進む

2005年04月07日 22時05分43秒 | 散歩外出ドライブ
我が家で春一番早く咲く花は、クロッカスだ。雪が融けた陽だまりに、小さな花が点々と咲く。別に植えて世話をしているわけではないのだが、いつのまにか咲いている。
水仙の芽はまだ小さい。雪が融けた湿った土の中から頭を出しているくらいだ。これも、まったく世話をしていないのに、毎年何十年も、同じ場所で花を咲かせる。
この土地で生まれ育ち、よそで成人し、再び故郷に戻ってくる住人を見て、クロッカスや水仙はどう思っているのだろう。高速道路が通り、新幹線が走る故郷の、山々の姿はまったく変わらない。

サクランボの剪定作業が盛んである。まだ風が冷たく、野外のつらい仕事だ。ポットに持っていくお湯がありがたい。老父と手伝いの人たちが、話をしながら作業をしている。お天気が続いていることがありがたい。
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東北の盆地の春

2005年04月06日 20時35分04秒 | 散歩外出ドライブ
今日は、出張がらみで久しぶりにまともな時刻に帰宅できた。なんだかゆったりした気持ちになる。これが本来の姿なのだろう。
ここ数日、急激に暖かくなっており、春らしい陽気になってきた。今頃の気候の特徴として、ぽかぽか陽気が数日続くことが多い。そして、田んぼが冠水する四月下旬には、肌寒い日が続く。四月と五月の気温は逆なんじゃないかと思うほどだ。
日射量から言えば、五月の気温はもっと高くてもよいはずだが、意外に涼しいことが多い。これはやはり、集落が水田の中に点在するような形の地理的な特徴から、広い面積で連続的に蒸発熱が奪われるために、地域気温が若干下がると考えてよいのだろうか。
また、三月下旬から四月上旬は、視界がきき見通しの良い日がある。梅も桃も桜もまだ咲かないが、白い雪をいただく四方の山々と盆地の風景が美しく眺められる時期でもある。
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フランク/ショスタコーヴィチ「ピアノ五重奏曲」

2005年04月05日 22時24分40秒 | -室内楽
通勤の途中、フランクとショスタコーヴィチの「ピアノ五重奏曲」を聴いている。フランクのほうは、ヘ短調の三楽章構成の曲で、冒頭の弦の強奏がパイプオルガンの圧倒的な響きを思わせるものだ。フランクはピアノと弦の室内楽作品の中に、パイプオルガンの響きのイメージを持って作曲したのだろうか。
一方、ショスタコーヴィチの作品57は、ショスタコーヴィチの作品にしては晦渋さが少ない作品だ。私はあまりよいショスタコーヴィチの室内楽の聞き手ではないけれど、この曲とか、チェロソナタなどは親しめる。
エヴァ・ベルナートヴァー(Pf)、ヤナーチェク四重奏団の演奏、フランクの曲は1962年、スプラフォンのドモヴィナ・スタジオ、ショスタコーヴィチのほうは、1960年、プラハの芸術家の家でのアナログ録音である。音質は60年代初頭の直接音を重視した硬質なもので、現代のホールの響きをふんだんに取り入れた録音と比較するとずいぶん隔たりを感じるが、曲想にはマッチしている面がある。(コロムビアの25CO-2316)
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