電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

夏目房之介『漱石の孫』を読む

2007年10月16日 06時49分09秒 | 読書
新潮文庫で、夏目房之介著『漱石の孫』を読みました。夏目房之介氏というと、マンガ評論家で、手塚治虫の評論を読んだことがあります。本書を読むまで、まさか夏目漱石の孫だとは、思いもよりませんでした。『漱石の孫』という子どもの頃のトラウマから脱却するまでに30年かかった、という話を読むと、全くお気の毒というか、わが無名の先祖をありがたく思うほどです。

夏目漱石の熱心な読者ではありませんが、学生時代に東北大学の漱石文庫(*)の展覧会を見たとき、なんで漱石文庫が仙台にあるのだろうと不思議でした。大学で恩師にたずねたところ、「なんともはや!」なエピソードを教えてくれました。

なんでも、戦前に漱石の遺族が東大の図書館に文庫一切の受け入れを打診したのだとか。ところが東大では、(1)蔵書は別々にラベルをはって一般書籍の中に入れる(2)日記や書簡の類は引き取れないと答えたのだとか。あまりといえばあまりの回答に、それでは結構です、となって東大の線は消え、朝日新聞社にも相談したけれど、社屋が手狭で置き場所がない。困っていると、弟子の小宮豊隆が東北大学の図書館にいた関係で、東北大学で引き取りましょう、となったのだそうです。結局、東北大が図書館を増築し、漱石文庫のうち書籍や日記・書簡類を移送したところで、東京は空襲にあい、まだ搬送していなかった写真などの資料は失われてしまったのだそうな。

現在は、学生時代の試験の答案(*2)や日記、英国留学時代の書籍への書き込みなどを画像として見ることが出来るわけで、小宮豊隆と東北大の功績は大きいものがありますね。

本書で私が面白かったところは、第一に漱石の妻である鏡子夫人が孫たちと一緒にすわっている写真でした。なんともにこやかで、毅然としています。いわゆる悪妻のイメージは全くありません。そして第二に、「漱石のラブレター」「鏡子夫人のラブレター」の章でした。漱石がロンドンから夫人にあててラブレターを送っていること、それに対し、鏡子夫人も、当時としてはかなり熱烈なラブレターを返していること、などです。どうも、世間に流布している「悪妻」イメージは、弟子たちによるかなり一面的な思い込みによるもののようで、神経質で時に暴力的な文豪の夫にとっては、物事にこだわらない鷹揚な妻が、むしろ救いだったのではないかと思います。この夫人だったからこそ、漱石は7人の子(うち1人は早逝)をもうけたのでしょう。

漱石の息子で著者の父は、東フィルの初代コンサートマスターだったという話も面白かった。父親の最終学歴がブダペスト音楽院というのを見て、孫は文豪の祖父のくびきから解放される思いがしたのかも。

(*):東北大学附属図書館「夏目漱石ライブラリ」
(*2):夏目金之助君の学生時代、幾何学の試験答案97点
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ベートーヴェン「ヴァイオリン・ソナタ第7番ハ短調」を聴く

2007年10月15日 06時00分40秒 | -室内楽
ここしばらく、携帯CDプレイヤーに、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第7番と第8番を収録したCDを入れ、ずっと聴いておりました。とりわけ、ハ短調Op.30-2を、何度も何度も聴きました。いいですね~、この音楽 (^_^)9

第1楽章、アレグロ・コン・ブリオ。ピアノで示される第1主題は、いかにもベートーヴェン的。続くヴァイオリンのほうも、気合いが入ってないと奏することができません。ベートーヴェン特有の、大編成の音楽での押しつけがましい(?!)印象は後退し、二重奏による充実した音楽の、おもしろさのほうを強く感じます。
第2楽章、アダージョ・カンタービレ。静かに歌うようなピアノの後を、ヴァイオリンが心を込めて同じ歌を歌います。なんともすてきな音楽!ピアノのスタッカートの上をヴァイオリンもそれにならい、ヴァイオリンのピツィカートの後に、静かに終わります。
第3楽章、スケルツォ:アレグロ。小鳥が歌い交わすような、軽やかで楽しい、短い楽章です。でも、ところどころに、ヴァイオリンが同じ耳障りな音を執拗に反復するフレーズもあり、ヴァイオリンの音の特性がうまく使われています。
第4楽章、アレグロ。2分の2拍子のロンドです。スタッカートで歯切れ良く演奏される旋律に、散歩の時には思わず歩を速めてしまいそう。最後のプレストのコーダでは、思わず力が入ります。

1802年に作曲された本作品は、聴覚異常が顕著となり、ハイリゲンシュタットの遺書を書く直前の時期のものです。ベートーヴェン32歳、交響曲第2番や「テンペスト」ソナタと同時期の作品。ハ短調と言う調性からも予想できることですが、悲壮感や緊迫感といったものを併せ持つ、気分的にはかなり気宇の大きな二重奏ソナタです。

ヨセフ・スーク(Vn)とヤン・パネンカ(Pf)の演奏はここでも素晴らしい。スークはもちろんですが、特にパネンカのピアノは、素晴らしいの一語に尽きます。

下の写真は、ウォーキングの途中でたまたま見つけたオオマツヨイグサ。まだ咲き残っていました。夏の名残り、でしょうか。


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野鳥の楽園・古最上へ行く

2007年10月14日 05時41分22秒 | 散歩外出ドライブ
秋の空に誘われて、野鳥の楽園・古最上(ふるもがみ)へ行きました。古最上というのは、山形県を流れる最上川が中流域で蛇行し、三日月湖になって取り残された湿地帯の総称です。ここは、開発の手が入らず、野鳥の楽園となっています。

場所は、国道13号線の東根市蟹沢陸橋の交差点を西に折れ、同市立小田島小学校・保育所とさくらんぼナーシングホームのわきの農道をまっすぐ西に下ります。写真の大堀排水機場のところで最上川堤防に登り、左手に見える水門が目印。車の場合は、もう少し進めば河川敷に降りる道がありますが、当方は空き地にちょいと一時駐車し、堤防を歩いて降りました。



沼地へ続く道は、写真のとおりかなりでこぼこ道で、RV車なら大丈夫でしょうが、普通の乗用車なら苦労しそうです。



こんな道ですが、晴天でしたので、水たまりを避けてわきを歩けば、運動靴でも大丈夫でした。



沼地が見えてきました。こんな沼があちこちにあります。どれも、のんびりと水鳥が泳いでいます。アシ原からは野鳥が飛び立ちます。



これが目的地の古最上です。正面に見える山は葉山で、左手に月山が見えるのですが、視野からはみ出してしまいます。



四駆の釣り人は、車で入っています。中に一台、黒のスウィフトがありました。普通車でも入って来た人はいるようです。



「おじさん、釣れますか?」
「釣れるよ~。」



のんびりしてて、いいですね~。おや、釣竿の先に、つがいの水鳥が。



空を見上げると、渡り鳥が飛んでいきます。見えるかな?黒い点々がそれです。



さんざん歩き回り、本日のウォーキング歩数は1万5千歩。しっかり歩数も1万2千歩でした。散歩の音楽は、ヨセフ・スークとヤン・パネンカによるベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第7番ハ短調。いい音楽、演奏ですね~。最後に、野アザミの花をどうぞ。いい色です。


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プレヴィンとN響のモーツァルト「ピアノ協奏曲第24番」

2007年10月13日 07時04分37秒 | -協奏曲
今週は出張続きで、だいぶくたびれましたが、ようやく週末になりました。先の日曜夜の「N響アワー」を録画で楽しみました。今回は、アンドレ・プレヴィンがピアノと指揮の二役をした、モーツァルトのピアノ協奏曲第24番ハ短調です。

プレヴィンはだいぶ高齢のはず。生年は1929年らしいとのことですから、もうすぐ80歳といったところでしょうか。実年齢はわが家の老父よりもだいぶ若いはずなのですが、特に今回は、見た目に衰えを感じました。ステージを歩く様子も、なんだかあぶなっかしい。女優のミア・ファーロウと結婚した頃の意気軒昂とした感じは、もうありません。長年の喫煙習慣の影響か、それとも何か病気をした後のような感じです。

ビデオとはこわいものです。音楽は、素人にも16分音符をときどき取りこぼすところがわかりましたが、この年齢での弾き振りですからね。コロコロという運動機能的な音の楽しさはやや後退し、そのかわりに、ゆっくりとした楽章では素晴らしいものがありました。

若いピアニストが演奏する溌刺としたモーツァルト。高齢のピアニストが演奏する、一音一音を慈しむようなモーツァルト。円熟したプロの演奏家にとっても、モーツァルトの音楽の完璧な演奏というのは至難なのだとか。でも、モーツァルトの音楽はこんなにすてきなんですよ、と演奏家が懸命に表現していることは、素人音楽愛好家にも十分に伝わりました。
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擬態モードのネコ

2007年10月12日 06時54分30秒 | アホ猫やんちゃ猫
涼しくなると、とたんに活動的になったわが家のネコたち、お天気の良い日は、植木の陰で擬態モードでひなたぼっこをしております。昆虫じゃあるまいし、なにもそんなに良く似た場所を選ばなくても、と思うのですが、背景に隠れて判別しにくいことおびただしい。今度はアホ猫・カメレオンと呼びましょう。

一昨日・昨日にひきつづき、本日は置賜地方へ出張です。今回は同僚と一緒で、音楽三昧のドライブとはならない模様。世間話を楽しみながら、のんびりと出かけることといたしましょう。それはそれで、楽しいかも(^o^)/
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「峠のわが家」など世界の合唱曲を聴く

2007年10月11日 19時26分01秒 | -オペラ・声楽
昨日からの出張は、無事に終わりまして、夕方に帰宅しました。往復の車中、ロジェ・ワーグナー合唱団による「世界名歌集2」なるCD(たぶん東芝EMI?/HCD-1186)をエンドレスに聴いておりました。このアルバムは、「新・名曲の世界」というCDシリーズの分売もので、収録されている曲目は、

1 ジェリコの戦い
2 汝はそこに
3 エライジャ・ロック
4 時には母のない子のように
5 揺れよ、チャリオット
6 なつかしきケンタッキーのわが家
7 草競馬
8 金髪のジェニー
9 おお、スザンナ
10 夢路より(夢見る人)
11 おお、レミュエル
12 故郷の人々(スワニー河)
13 グレンディ・パーク号
14 ネリー・ブライ
15 オールド・ブラック・ジョー
16 スキップ・トゥー・マイ・ルー
17 峠のわが家
18 乾杯の歌
19 シェナンドア
20 オーラ・リー
21 アメリカ・ザ・ビューティフル
22 ドレミの歌(サウンド・オブ・ミュージックより)

の全22曲。いずれも数分程度の短い曲ばかりですが、リズム感と迫力のある「ジェリコの戦い」、「汝はそこに」「時には母のない子のように」におけるサリー・テリーのアルト・ソロの素晴らしさ、「シェナンドア」の男声の魅力など、堪能しました。

表題の「峠のわが家」は、祖父母の目覚し時計のオルゴールがこの曲でした。夕暮れにハンドルを握りながらこの曲を聴くと、たいそうなつかしい音楽です。

そのほかにも、おなじみの曲目がたくさん収録されています。とりわけ、個人的に酒席で愛唱している、「さーかずきを持て、さあ卓をたたけ」で始まる「乾杯の歌」が入っており、運転しながら大きな声で歌ってしまいました。なんとかして、この歌の原詞を知りたいものです。
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夜、妻とドライブ、本とCDを購入。

2007年10月10日 06時26分26秒 | 散歩外出ドライブ
夜、妻とドライブ。窓を開けると、涼しい夜気が入ってきます。涼しさを通り越して、寒いほどです。途中、郊外の大型書店に立ち寄り、本やCDを物色。本日は、

(1) モーツァルト ピアノ協奏曲全集、アンネローゼ・シュミット(Pf)、クルト・マズア指揮ドレスデン・フィル、DENON の紙箱全集。
(2) 奥山清行『フェラーリと鉄瓶』、PHP研究所。

(1)は、偶然お店にあった紙箱全集で、1977年にかけて、東ドイツのルカ教会で録音されたもの。(2)は、イタリアのピニンファリーナのデザイン・ディレクターだった奥山さんの本。面白そうです。

今日から明日にかけて、庄内方面に出張です。ホテルのネット環境は不明。もしかすると、定例の早朝更新はできないかもしれません。そのかわり、庄内往復の時間、車内でたっぷり音楽が聴けそうです。さて、何を聴こうかな~ (^o^)/

写真は、ご好評につき、再びわが家のイヌサフランです。撮影は10月上旬。日陰がちょうど花の上を横切った瞬間でした。


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藤沢周平『人間の檻~獄医立花登手控え(4)』を読む

2007年10月09日 06時26分54秒 | -藤沢周平
藤沢周平の立花登シリーズ全4巻中の最終巻、『人間の檻~獄医立花登手控え(4)』を読みました。おあきの危難を救い、旅立つ登とおちえとの約束を描きます。

第1話「戻って来た罪」、子どもをさらって殺す事件の裏に隠れていた30年前の出来事。事件そのものよりも、叔父の小牧玄庵の描き方がいかにも面白い。

叔父は極めつけの俗物で、つねに金持ちの商人、または名の聞こえた武家屋敷からお呼びがかかるのを待っているのだが、大金を懐に叔父の診療を乞いに来る病人は皆無で、寄りあつまって来るのは、大概が薬代の払いにも事欠く裏店の人びとである。勢い数でこなすしかないから、往診のもとめにもマメに足を運ぶというだけに過ぎないのだ。
しかし俗物根性というのは頭の中のことで、手は医者の本能にしたがって別に働く。払いが悪いからと、かりにも手を抜くようなことはしないから、叔父の評判がいいのも一面、真実を伝えてはいる。

俗物の叔父も世の人のためになっているという現実認識。こういった描写は、世間というものをよく知った人の描き方だと感じます。
第2話「見張り」、牢内で押し込みの相談をして行った奴がいる。女房の養生と遊び心で、酉蔵は見張りを引き受けた。どうやったら仲間から疑いを受けずに酉蔵を抜けさせることができるのか。
第3話「待ち伏せ」、叔父が倒れて、おちえは初めて不安を感じる。けちな盗癖のある父親・馬六の娘おかつは、多田屋の後添にと望まれるが、父親のことが心配だ。だが、多田屋の中で、馬六は昔なじみの男を見つけた。
第4話「影の男」、「甚介は無実だ」と男は言う。それは、自分に疑いがかからないための工作だった。知能犯に足がついたのは、女だった。
第5話「女の部屋」、大黒屋のおかみ・おむらが店の中で槌屋に襲われそうになり、手代の新介が槌屋を殺してしまう。新介はおむらを思慕していた。そして、寝たきりの大黒屋は真相に気づいていた。
第6話「別れ行く季節」、黒雲の銀次の弟が、おあきをさらい、うらみを晴らそうと登に呼出状を突き付けて来た。今は豆腐屋のおかみとなっているおあきは、かつておちえと登を争った娘だった。おあきの危難を救い、医学修行のために大阪に旅立つ登に、おちえは約束をしてほしいと願う。おちえの言う約束とは、娘にできる精一杯のことだった。

たしか、テレビドラマの最終回がこの場面だったように記憶しています。原作では、抑制された表現だけに、この甘美なラブシーンが静かな余韻を残します。見事な幕切れです。

それにしても藤沢周平は、おあきの描き方がうまい。蓮っ葉な女が修羅場を見せるほど、もう一人のヒロインのひたむきさ、可憐さが引き立ちます。おあきが、不幸の中にも幸せを見つけようともがく、でもいつも裏目に出てしまう、その間の悪さに、作者は同情を寄せているようでもあります。



写真は、10月初旬のイヌサフランです。
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休日にもかかわらず病院は

2007年10月08日 06時58分38秒 | Weblog
先日の朝、老父が腰が痛いという。一昨日から激しく痛むらしい。どうも、近所の畑仕事の仲間だった、同年代のバアちゃんが脳溢血で急死したのもショックだったようで、ちょっと元気がない。直腸ガンの転移・再発を考えたようだ。だが、それにしては便秘もないし、一昨日まではたいへん元気だったわけで、ちょいと違うような気はする。
とりあえず、直腸ガンの手術をした病院に電話をすると、休日急患受付に来るように、とのこと。すぐ車に乗せていったところ、幸いに外科の先生が当直だった。触診で痛みの部位を調べ、CTを撮る。大腸ガンの転移再発ではなく、坐骨神経痛ではないか、とのこと。整形外科の診察予約の手続きを取る。夜、痛みのためにほとんど眠れなかったらしく、点滴の間熟睡した模様。お医者さんの話に安心したようで、ずいぶん元気になった。現金なものだ。

そんな間に、看護婦さんが倒れたとのことで、ストレッチャーで運ばれてきた。さらに、交通事故の患者も運び込まれた。当直のお医者さんも、次々に新しい患者がやってくるし、対応する看護婦さんも大変だ。命を預かる商売なのに、素人目にも、あまりにもギリギリの生活のような気がする。休日にもかかわらず、病院は戦場のようだ。日本の医療制度は、アメリカのような「金の切れ目が命の切れ目」といったドライで殺伐としたものにはなっていない。その点では公平・平等で優れた面も多い。だが、当直などの条件を緩和する方策を取らなければ、そのうち外科や産婦人科の医者や看護婦さんは、なり手がいなくなってしまうのではないか。

写真は、裏の畑の片隅でまだまだ元気に咲いているマンジュシャゲ。今日は、近所のバアちゃんの葬儀に出席の予定。
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飯森&山響モーツァルト交響曲全曲演奏定期演奏会・第2回を聴く

2007年10月07日 06時04分13秒 | -オーケストラ
土曜の夜、山形テルサホールで、飯森範親指揮山形交響楽団によるモーツァルト交響曲全曲演奏定期演奏会の第2回目を聴きました。足かけ8年に及ぶと言う長期プロジェクトの初年度、聴衆の入りもほぼ満席です。コンサートマスターは高木和弘さん、そのお隣に犬伏亜里さん、ヴィオラのトップに倉田さんが入っています。女性奏者の方々は、色とりどりのきれいなドレスで、とても華やいだ感じです。

今回のプログラムの最初は、モーツァルト9歳のときの作品である交響曲第4番ニ長調K.19です。楽器編成は、オーボエ2、ホルン2と弦楽5部。旅から旅の生活の中、ロンドンで、大バッハの末子ヨハン・クリスチャン・バッハに会ったらしい。これも、彼の影響を受けた作品だといいます。後年のモーツァルトのシンフォニーとは比べられない、シンプルな音楽ですが、軽やかでエレガントで、楽しみました。

さて、次はニ短調のピアノ協奏曲第20番です。ピアノ独奏は、つい先頃クララ・ハスキル・国際ピアノコンクールに優勝したばかりの河村尚子(ひさこ)さん。笑顔がすてきな、とてもチャーミングなお嬢さんです。
第1楽章の出だしは、やや遅めのテンポで。素晴らしいピアノです。オーケストラの皆さんも、思わず力が入ります。おや?ふと気づいてしまいましたが、山響の弦楽の音の消え方が、違うみたい。ふわっとやわらかで、澄んでいる感じ。第2楽章、優美な調べが一転して、激しいピアノの訴えによりそうように、長いフルートの嘆きの音。再び優美に回帰してしずかに終わると、すぐに第3楽章へ。
第3楽章は速いテンポでたたみかけるように。単に明朗快活な楽章ではありません。河村さん、時にやや前かがみになって演奏します。カデンツァもちょっと違うみたい。ポニーがはねるような、リズムを強調したものでした。

鳴り止まぬ拍手にこたえて、河村さんのピアノのアンコール、1曲目のモーツァルトのソナタ(?)の次、2曲目は何だったのでしょう。曲名がわかりません。でも、本当に素晴らしかった。

休憩の後、交響曲第31番ニ長調K.297「パリ」です。こちらも3楽章だけの曲で、当時のドイツのオーケストラはあまり上手でなかったらしく、また実入りも少なかったので、モーツァルトはしばらく交響曲から離れます。訪れたマンハイムの宮廷楽団の水準が極めて高く、創作意欲がわいていた時期に、母とふたりで訪れたパリでできあがった曲だそうです。フルート、オーボエ、ファゴット、ホルン、トランペットにクラリネットを加え、クラリネットとファゴットの対話が楽しめる、ニ管編成の本格的な交響曲。私も実際に聴くのは初めてです。
弦楽がピリオド奏法をとり入れただけでなく、ナチュラル・ホルンやバロック・トランペット、バロック・ティンパニを用いた演奏は、楽章間のホルンの管の交換が大変そうです。気合いの入った演奏で、やっぱり弦の音の消え方が澄んでいるように感じます。スタイリッシュな3楽章が終わり、盛大な拍手。

おや?いつもと違い、アンコールがありました。なんと、交響曲第31番の第2楽章、これをオリジナルとは違い、エレガントなパリ版で演奏しました。なんとも一晩で二度美味しいとはこのことでしょう!

終演後のファンの交流会では、河村さんと飯森さんのインタビューが興味深かった。演奏するとき、どんなことに気をつけていますか、という問いに対し、河村さんはドイツの聴衆が白髪の人ばかりになりつつあり、若い聴衆を増やすように心がけている、と答えたのに対し、飯森さんは、いつも自然体なので、心がけていることは特にありません。ただ、聴衆の立場で、どんなふうに聞こえているかを常に考えるようにしています、とのこと。このとき、河村さんは真剣な顔で、「飯森先輩」の言葉を聴いていました。なんでも貪欲に吸収しようとしているのだな、と感じられました。

でも、飯森さんに「これから焼肉を食べに行きましょう」と誘われた河村さん、親指を上げて「やったね!」というポーズで喜びを表していましたので、けっこうおちゃめな女性なのかも。今回も素晴らしい演奏会でした。
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チャイコフスキーの死因を推理するには

2007年10月06日 13時46分53秒 | クラシック音楽
物事の原因を推理する場合、状況証拠に基づく場合と物的証拠に基づく場合とがあります。両者が一致した場合には、ほぼ原因を特定できたと考えてよいでしょう。しかし、両者が不一致の場合、物的証拠によるのがよいと考えます。
たとえば、ベートーヴェンの難聴の原因を、子どもの頃に父親に殴打されたためだとか、先天性の梅毒によるものだとか、伝聞などの状況証拠による様々な推理が行われました。でも、残された毛髪の分析などから、近年では鉛がクローズアップされてきているようです。そうすると、残されたカルテの記述とも一致すると言われ、特異な性格や習癖など、様々なエピソードなども、かなり説明可能になるのだとか。
昔、乗っていた車がハイオクタン専用エンジンでしたが、当時は四エチル鉛を含む有鉛ガソリンを使っていました。ガソリンスタンドのベテランは、有鉛かどうかを見分けるには、ちょっとなめてみると、有鉛は甘いんだ、と言っていたものでした。安ワインを甘く感じさせるために鉛化合物を入れる。当時はそんな手法が通用していたのでしょう。可哀想なベートーヴェン!

さて、チャイコフスキーの場合はどうか。強制自殺説(*)、コレラ説(*2)などがあるようです。毛髪などが残されて入れば、砒素は確実に検出可能だと思いますが、物的証拠は、残念ながらカルテしかありません。
それならば、出発点はまずカルテに置くべきだろうと思います。

お医者さんのカルテは、要するに客観的な観察した事実の記述と、それらを総合した診断の要約かと思います。病因について医学的知見に乏しい時代には、診断に誤りが入り込む場合はあっても、症状の客観的記述は時代の制約をこえて普遍的なものだと思います。コレラの死者は、体内の水分を失い、若い人でも老人のミイラのような顔貌に激変することが知られています。一方、急性砒素中毒では、コレラ顔と呼ばれる顔貌の変化はありません。そう考えると、多くの人が遺体を実際に見ているわけですので、急性砒素中毒を意図的にコレラと誤診断したのならば、その矛盾を突かれるはずだろうと思います。理系人間としては、コレラ罹患により肺水腫を併発し、これが直接的な死因になった、という「コレラ説」に傾きます。

さて、コレラ説を疑う客観的論拠は、主として次のような点です。

(1) 発病の日数が短か過ぎるのではないか。コレラは、通常五日ほどの潜伏期間が必要だとのこと。生水を飲んでからわずか二日ほどで発病するのはおかしい。
(2) 葬儀の際に、遺体に接吻を許している。コレラによる死亡なら、感染の危険のある行為ではないか。

Wikipediaの「コレラ」の記述(*3)によれば、口から入ったコレラ菌は、通常、強酸性の胃袋の中で大半が死滅し、わずかに生き残ったものが腸内で増殖して発病するのだそうです。その期間が、おおよそ五日というのが、いわゆる潜伏期間です。ですが、pHが1~2という強い塩酸酸性のはずの胃液も、胃が弱っているときにはpHが3~4にまで低下することが知られています。濃度で言えば100~1000分の1に薄まった塩酸と同じです。酢でしめたごはんや魚は長持ちしますが、100~1000分の1に薄めた酢では効果はないでしょう。同様に、コレラ菌も胃で死滅せず、小腸内で短期間のうちに大量増殖することでしょう。
実際、チャイコフスキーはコレラに感染する前に、すでに胃が弱っていたようです。にもかかわらず、周囲の静止をきかずに生水を飲んだと証言されています。これが、潜伏期の謎を説明できます。

次に、葬儀の際の接吻の問題です。同様にWikipediaによれば、感染力は非常に強いものの、主として排泄物と吐瀉物が原因であり、空気感染ではありませんので、通常の接触では感染リスクは低いとされています。しかも、葬儀の前に遺体を消毒した記録が残されているそうですので、これは問題にはならないのでは、と思います。

逆に、秘密警察に服毒自殺を強制されたのだとすると、なぜ逃亡しなかったのだろうと不思議です。チャイコフスキーのような知名度を持った人ならば、普通の庶民よりも逃亡や亡命の可能性は高かったと思われます。率直に言って、個人的な性癖が発覚したくらいで死ぬものでしょうか。周囲の人達が、助けてくれなかったものでしょうか。江戸時代の高野長英でさえ、あれだけの逃亡生活を送ることができたのですから、髭を剃り、髪型を変え、変装して群集の中に逃げ込めば、携帯電話などのない時代ですから、かなりの期間、逃亡生活を送ることは可能だったのではないかと想像します。この点、理系人間には理解できないところ(^_^;)>poripori

いずれにしろ、素人の推理でしかありませんので、あたっているかどうかは不明です。特に医学的な判断は、専門家の意見を伺いたいところです。謎の死をとげたチャイコフスキー。最後の曲の題名が「悲愴」。もうそれだけで、ロシア的憂愁の世界を連想します。チャイコフスキーの音楽は、聴くものの心をとりこにするところがあります。

(*):オルローヴァの「自殺強制説」を紹介する記事
(*2):Wikipediaの記事中に「チャイコフスキーの死因」の記述あり
(*3):Wikipediaの「コレラ」の記述
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万歩計とストラップ

2007年10月05日 06時02分52秒 | 散歩外出ドライブ
しばらく前になりますが、万歩計をまた落としてしまいました。どうも、台風の後片付の作業中に、折れた枝や葉にまぎれてしまったようです。
さすがに三度目ですので、万歩計を落とさないようにするためにはどうすればよいのかと思案しました。単純に、ストラップを付けてベルトに通せば良いのでは、と考えたのですが、では、どこにストラップを通す穴をあければよいのでしょう?

とりあえず、もう一個、万歩計を購入してみてびっくり。ちゃんとストラップ用の穴が、はじめからあいていました!
「見れども見えず」ですね~(^o^;)>poripori

写真は、先日発見した、台風9号のつめあとです。

今朝は、枕もとのラジカセで、大好きなフルニエ(Vc)とセル指揮クリーヴランド管による、R.シュトラウスの「ドン・キホーテ」(*)で目ざめました。妻が友人たちと小旅行を計画しているとのことで、朝早く出発。当方は懸案の仕事がたまっており、身動きが取れません。もっとも、女性だけのグループに参加できたとしても、お邪魔虫になるのが関の山でしょうが(^o^)/

(*):セル指揮フルニエ(Vc)のシュトラウス「ドン・キホーテ」~電網郊外散歩道
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「山形国際ドキュメンタリー映画祭2007」始まる

2007年10月04日 06時36分32秒 | Weblog
10月4日(木)から11日(木)までの1週間、第10回を数える「山形国際ドキュメンタリー映画祭2007」が開催(*)されるとのこと。手元のチラシによれば、応募総数1633作品、応募国・地域は109、インターナショナル・コンペティションが100、アジア千波万波が44と、世界三大ドキュメンタリー映画祭の一つです。山形市のアズ七日町(中央公民館)、フォーラムやミューズ(映画館)にくわえ、今年は市民会館でも上映予定とか。「高校生以下は入場無料」というのも、若い人たちにはうれしい話です。

きっと、多くの方々が、昨晩も初日の準備のために走り回ったのでしょうね。その方々の労苦に心から敬意を表します。

(*):山形国際ドキュメンタリー映画祭2007公式サイト
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モーツァルトのピアノ協奏曲第22番K.482を聴く

2007年10月03日 06時19分47秒 | -協奏曲
モノラル録音の音から急にステレオ録音の音に変わると、思わず新鮮さに感動します。昔のFM放送では、ステレオ放送が始まるときには、左右のチャンネルからステレオ分離信号が流れ、最後にステレオ音声が流れました。初めて聴いたときの驚きは、今も忘れません。

ロベール・カサドシュ(Pf)とジョージ・セル指揮コロンビア交響楽団(クリーヴランド管弦楽団)によるモーツァルトのピアノ協奏曲を集めた3枚組CD(SONY 5033902)のうち2枚目は、ピアノ協奏曲第18番と第22番にピアノ・ソナタ第12番をフィルアップしたものです。はじめの第18番はモノラル録音なものですから、演奏自体は優れたものだと思うのですが、正直に言って、ステレオ録音の第22番が始まるときの、オーケストラの圧倒的な見事さに感動してしまいます。

第1楽章、アレグロ。いかにもモーツァルトらしいオーケストラの始まりで、ピアノが入るとご機嫌な気分。転調しながらコロコロとよく動きまわる指が、さっそうとした若い作曲家兼演奏家を思わせます。カサドシュのピアノの音がきれいです。
第2楽章、アンダンテ。思索的な、と言えば良いのか、瞑想的な、というべきか、ゆるやかな楽章です。劇的な深刻さはありませんが、充分に美しいモーツァルトの緩徐楽章です。
第3楽章、アレグロ(ロンド)。軽やかなロンド楽章です。中間部のカンタービレの部分ではクラリネットが活躍し、再び華やかではやいロンドに戻りますが、このオーケストラ部の見事なこと!これは、コロンビア交響楽団と記載されてはおりますが、ほぼ間違いなくクリーヴランド管弦楽団だと思います。

1897年生まれのジョージ・セルと、1899年生まれのロベール・カサドシュとは、若い時代からの仲間だったのでしょうか、作曲をしていた点も共通。モーツァルトの協奏曲ではカーゾンなどとも録音を残していますが、一番多く録音したのがカサドシュとでした。クリーヴランドには彼の名前を冠したコンクールもあるのだとか。きっと気が合い、信頼できる相手だったのでしょう。演奏からも、大変に立派なオーケストラ部に対して、むやみに気負ったり対抗意識を燃やしたりといったレベルを超越した、信頼しきった感じがします。下世話に言えば、「あいつならまかせられる」という信頼感、なのかもしれません。

解説書には、第18番が1956年11月11日に録音されたのに対し、この演奏はそのちょうど三年後の1959年の11月13日に録音された、とクレジットされています。フィルアップされたソナタ第12番のほうは、1964年の録音です。
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傷痕は消えずに残るにしても~藤沢周平の手紙

2007年10月02日 05時53分18秒 | -藤沢周平
山形新聞夕刊には、時折、藤沢周平没後10年の寄稿が掲載されます。9月27日(木)には、「藤沢周平のこころ」のシリーズに、地元在住の歌人で随筆家の牧野房さんによる文章が載りました。「郷里見守り人々に愛着」「あの優しさ作品に反映」「庶民の心根ひたすら描く」などの見出しは新聞社でつけたものでしょうが、内容はたいへん味わいの深いものでした。

小学校教諭であった牧野房さんは、1977年に川西町小松で実施された教職員研修で、藤沢周平の講演「雲井龍雄と清河八郎の二人を通して見た東北の明治維新」を聞き、「決して高ぶらない周平さんの人柄に接し強く心を打たれ」ます。このときのことを、作家は『周平独言』の中で、「土地の言葉」という文に記録していますが、これを読んだ牧野さんは、藤沢周平という作家に「いっそうの親近感を覚え」ます。

1985年の秋、牧野さんは山形文学会から『私の九月』という小冊子を刊行しますが、これには編集者の江口文四郎氏が序文を書き、江口氏や山形師範時代の文学仲間の松坂俊夫氏らは、ぜひ藤沢周平氏に贈るようにと勧めたそうです。「大分過ぎてから恐る恐るお送りしたところ、周平さんはすぐにはがきをくださった」そうです。この文面が、「エッセイ集はたのしみに読ませてもらいます。拝見していずれ感想を申し上げましょう。川西の講演会は、なつかしい気がいたします」というものだとか。作家にしてはずいぶん丁寧ですが、ここまではよくありそうな話です。

ところが、1987年の2月20日付けで、この随筆集に寄せて、便箋6枚に及ぶ丁寧な感想が届きます。牧野さんは、81年に夫を胃癌で失い、悲しみと苦悩の日を過ごしていました。この頃の文章に対し、著名な作家がどんなふうに書いたのか。

いくら死者をあわれと思っても、時に人は死者を忘れなければ生きては行けません。傷痕は消えずに残るにしても、取りあえず傷口をふさがずには人は生きては行けないのです

肺結核のため意に反し教職を退かざるをえず、結婚した悦子夫人を28歳の若さでガンで失い、「その寂寥感に耐えがたく小説を書きはじめた」という、作家自身の痛切な体験を思わせる、なぐさめの言葉です。そのトーンの切実さとともに、作家の心のあたたかさを感じとることができます。

そういえば、江口「文四郎」氏が序文を書いた「牧」野さんの本は、牧文四郎という主人公が登場する作品『蝉しぐれ』を連想させます。『蝉しぐれ』の連載は、昭和61年7月から62年4月まででした。西暦で言えば1986年7月から1987年4月にあたります。
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