山形新聞夕刊には、時折、藤沢周平没後10年の寄稿が掲載されます。9月27日(木)には、「藤沢周平のこころ」のシリーズに、地元在住の歌人で随筆家の牧野房さんによる文章が載りました。「郷里見守り人々に愛着」「あの優しさ作品に反映」「庶民の心根ひたすら描く」などの見出しは新聞社でつけたものでしょうが、内容はたいへん味わいの深いものでした。
小学校教諭であった牧野房さんは、1977年に川西町小松で実施された教職員研修で、藤沢周平の講演「雲井龍雄と清河八郎の二人を通して見た東北の明治維新」を聞き、「決して高ぶらない周平さんの人柄に接し強く心を打たれ」ます。このときのことを、作家は『周平独言』の中で、「土地の言葉」という文に記録していますが、これを読んだ牧野さんは、藤沢周平という作家に「いっそうの親近感を覚え」ます。
1985年の秋、牧野さんは山形文学会から『私の九月』という小冊子を刊行しますが、これには編集者の江口文四郎氏が序文を書き、江口氏や山形師範時代の文学仲間の松坂俊夫氏らは、ぜひ藤沢周平氏に贈るようにと勧めたそうです。「大分過ぎてから恐る恐るお送りしたところ、周平さんはすぐにはがきをくださった」そうです。この文面が、「エッセイ集はたのしみに読ませてもらいます。拝見していずれ感想を申し上げましょう。川西の講演会は、なつかしい気がいたします」というものだとか。作家にしてはずいぶん丁寧ですが、ここまではよくありそうな話です。
ところが、1987年の2月20日付けで、この随筆集に寄せて、便箋6枚に及ぶ丁寧な感想が届きます。牧野さんは、81年に夫を胃癌で失い、悲しみと苦悩の日を過ごしていました。この頃の文章に対し、著名な作家がどんなふうに書いたのか。
肺結核のため意に反し教職を退かざるをえず、結婚した悦子夫人を28歳の若さでガンで失い、「その寂寥感に耐えがたく小説を書きはじめた」という、作家自身の痛切な体験を思わせる、なぐさめの言葉です。そのトーンの切実さとともに、作家の心のあたたかさを感じとることができます。
そういえば、江口「文四郎」氏が序文を書いた「牧」野さんの本は、牧文四郎という主人公が登場する作品『蝉しぐれ』を連想させます。『蝉しぐれ』の連載は、昭和61年7月から62年4月まででした。西暦で言えば1986年7月から1987年4月にあたります。
小学校教諭であった牧野房さんは、1977年に川西町小松で実施された教職員研修で、藤沢周平の講演「雲井龍雄と清河八郎の二人を通して見た東北の明治維新」を聞き、「決して高ぶらない周平さんの人柄に接し強く心を打たれ」ます。このときのことを、作家は『周平独言』の中で、「土地の言葉」という文に記録していますが、これを読んだ牧野さんは、藤沢周平という作家に「いっそうの親近感を覚え」ます。
1985年の秋、牧野さんは山形文学会から『私の九月』という小冊子を刊行しますが、これには編集者の江口文四郎氏が序文を書き、江口氏や山形師範時代の文学仲間の松坂俊夫氏らは、ぜひ藤沢周平氏に贈るようにと勧めたそうです。「大分過ぎてから恐る恐るお送りしたところ、周平さんはすぐにはがきをくださった」そうです。この文面が、「エッセイ集はたのしみに読ませてもらいます。拝見していずれ感想を申し上げましょう。川西の講演会は、なつかしい気がいたします」というものだとか。作家にしてはずいぶん丁寧ですが、ここまではよくありそうな話です。
ところが、1987年の2月20日付けで、この随筆集に寄せて、便箋6枚に及ぶ丁寧な感想が届きます。牧野さんは、81年に夫を胃癌で失い、悲しみと苦悩の日を過ごしていました。この頃の文章に対し、著名な作家がどんなふうに書いたのか。
いくら死者をあわれと思っても、時に人は死者を忘れなければ生きては行けません。傷痕は消えずに残るにしても、取りあえず傷口をふさがずには人は生きては行けないのです
肺結核のため意に反し教職を退かざるをえず、結婚した悦子夫人を28歳の若さでガンで失い、「その寂寥感に耐えがたく小説を書きはじめた」という、作家自身の痛切な体験を思わせる、なぐさめの言葉です。そのトーンの切実さとともに、作家の心のあたたかさを感じとることができます。
そういえば、江口「文四郎」氏が序文を書いた「牧」野さんの本は、牧文四郎という主人公が登場する作品『蝉しぐれ』を連想させます。『蝉しぐれ』の連載は、昭和61年7月から62年4月まででした。西暦で言えば1986年7月から1987年4月にあたります。