沖宮にも確か弁財天が祀られていて、一度そこで初詣したことがあった。沖宮は多様な神々を祀っていて、昨今は雰囲気が以前とがらりと変わってしまっている。一昨年(23年)の正月には古代信仰研究者と沖宮とその周辺を散策した。また沖宮とゆかりのある比嘉氏の書物も紹介していただき、目を通した。なぜか、その後2か月以上も風邪の症状が治まらず、声がかすれた状態で教壇に立ったりしていた。
去年の元旦はどうだったのか。辺野古の浜で初日の出を仰いだ。那覇から早朝車で辺野古に向かったのだった。今年は高台の小さな公園での初日の出になった。一人ではなく、太陽の光を浴びた。猫たちは太陽が好きでそれぞれに庭やその周辺で光を浴びた。
今年は静かな正月になった。しかし明るい兆しを感じている。
天久宮の弁財天が祀られた小さな社の前で手を合わせた。スクブンを成し遂げたい旨を祈っていた。なぜか少し感傷的になった。
元旦の朝の初日の出、太陽が顔を出し光の束が一直線に自らに向かってきた、その時心に念じたこと、実際手を合わせ言葉がこぼれたが、弁財天の前とはまったく違うことばが出ていた。どちらも自らの思い、意志、感謝、希望のことばに違いない。
昨日の午後、この間訪れたことがなく、気になっていた天久宮に参詣した。以前気になって訪れた外人墓地の近く、泊高校のグランドの傍の高台にある。その高台をもう少し散策してみたい。
琉球八社はすべて足を運んだことになる。
弁財天は芸術の女神!
Life is short, but Art is long!
You shall know the truth, and the truth will make you free!
祈り、信仰は人の思いの形。この世界、宇宙、自然界の魅惑と未知なるものへの畏怖と永遠の死への恐れ、有限と無限なるもの、不可解なものに囲まれているこの社会、嘘と偽りの企みの中に秩序もカオスも混在する。ハラーリーさんは物語という二語で説明する。どの物語を引き寄せるか、拠所にするかによって、生き方も変わっていく。事実は解釈にすぎないと、ニーチェは言った。
世界は人間の意志と表象である。ショーペンハウエル
「ショーペンハウアーいわく、世界は 意志と表象 の2つの側面から成ります。 ここで 意志 という言葉で人間の意志をイメージするとよくわからなくなります。 むしろ人間を含めた世界全体を織りなす実体が意志です。 意志は存在を維持しようとする盲目の衝動であり、これが世界を構成します。 宇宙も生物も人間の身体も、この意志が個別化した姿にほかなりません。 そしてこの意志がわれわれに現れたものが 表象 です。」世界は人間の意志と表象である。ショーペンハウエル - Bing
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ユウ君と一緒に横になるクロスケ
天久弁財天の小さな社の前の池には赤い金魚が泳いでいた。
こちらは岩を背にした社!
本殿は、正直みすぼらしい。再建立の基金造成の寄付を募っている。
天久弁財天の小さな社の前の池には赤い金魚が泳いでいた。
こちらは岩を背にした社!
本殿は、正直みすぼらしい。再建立の基金造成の寄付を募っている。
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ところで昨今、猫の事で分かった事があった。今家にミーちゃん親子4匹の他に庭に捨てられたと思っていた黒猫のクロスケと、たまに風来坊のように出入りしている大きなノラ君がいる。ノラ君に「おおきいちゃん」と呼んだりもしている。首輪をせずおっとりしているので、他の方々からも面倒を見てもらっているのらしい。どなたかが、もう老猫になっているノラ君を去勢してくれたのは、最近のことだった。
クロスケは小さくてとても愛らしい泣き声に思わず家の中に入れた。その時毛は薄汚れていたが、お湯で洗ったら、少しづつきれいになった。おとなしくされるままに従っていた。このクロスケを里親に出すために何度か頑張ってみたが、厳しかったので、家で引き取ることにしてもう2年になる。
そのクロスケだが、私はてっきり捨てられた子猫と思っていた。しかし、当時を思いだして家族が話した事に驚いた。子猫のそばに母猫がいっしょにいたと言うのだ。つまり母猫が子猫のために我が家まで連れてきたということだった。
人気のある猫の動画の中にノラの母猫が自らの子猫を人間にたくして去る姿があった。母猫が子猫のために、生きる術を人間にゆだねる姿に感動した。クロスケもまた黒猫の母親と連れ立ってここに来たのだった。母猫は家猫として生きる道を選んではいない。しかし、あえて子猫のために、猫が家と庭を出入りしているこの家を、子猫の助かる糧として求めてきたのだ。なぜか話を聞いて感極まった。クロスケは母親と離れてこの場所に来たのだ。
何気なく、クロスケの母さんはどこにいるのだろうね。などと声をかけたりしていたが~。そう言えば大きな黒猫をこの家の近くで見かけたことがあった。クロスケのことが心配でやってきたのだろうか。一度ドライフードを容器に入れて外に置いたことがあった。
しかしその時、母猫だとは思いつかなかった。
庭に野良猫がやってくるのはままあるゆえに〜。
クロスケが我が家にきて幸せかどうかは、何ともわからない。ミーちゃんは親子でグルーミングしている。しかしミーちゃんや子供たちがクロスケとグルーミングすることはない。身近で寝ることはあっても、身体をしっかり寄り添って寝ることはない。クロスケがミーちゃんを追いかけることはあるが、ミーちゃんが親しくする様子はない。黒子は今でもシャーと声を出し、明らかに拒絶反応を見せる。それでもクロスケはこの家に住みついている。
自ら距離を置きながら場所を獲得している。シーバは優しいので、身近で寝入ることをこばまない。
ノラ君に対しては、クロスケも前脚で顔をたたくそぶりをする。嫌がっていることはわかる。ユー君もたまには前脚をあげる。シーバのように前脚で顔をはたいたり、首元をかんだりはしない。
クロスケが家族愛を求めても得られないものがあることはあわれに思う。ミーちゃんとこの家で生まれ育った子供たちとの親子関係は深い。疎外感を埋めるためにクロスケに特別な接し方をしているのだが~。お腹の上に乗ってきても好きなように前脚踏みをさせている。
猫たちとの生活も4年半になる。あっという間の年月だ。コロナ狂騒曲が鳴り響いていた時、ミーちゃんが4月頃やってきて、8月には赤ちゃんを6匹も生んだのだった。大きくなるミーちゃんのお腹、そして出産、授乳と子育て、その一連の猫親子の姿を見守る日々は、社会の異風なカオスの中のオアシスだった。里子に出すつらさもあったが〜。
猫たちは癒しであり、共にある生活は、不思議な偶然の現在である。
クロスケのお母さんの話は、母親なるものについての思いが過る。