≪夕焼けの赤にただ引き付けられてしばらく見つめていた!≫
何年前だったか、りんけんバンドのりんけんさんが、「やりたいと思ったことはすぐやらなければ、いつのまにかやらずに終わってしまうよ」のような事を話したことがある。「そうだ」と思った。『嘉間良心中』の舞台に向けてリハをしていた頃だからずっと前のことになる。30代のあの頃の事だ、あれから子供が誕生したりで人生二度の子供時代を体験しながらあっという間に時がたってしまった。思うに仕事のできる方々は、課題にすぐ取り組むのだと、感心する。そばに置いておかない。ずるずると日延べする傾向があるわたしの生きてきた人生のゆらりとは異なるのだと、ただ傍目に感心し、溜息をつく。
先日那覇市文化協会の仲田会長が正直なことばでお話しされた。昼食にお誘いを受けた時のことだ。「わたしの人生はなぞってきたのだと、よくわかるのよね」と先輩の彼女はポロリと話した。うないの30周年のシンポ≪12月10日午後6時パレット市民劇場≫でパネラーとして10分ほどお話しされるとのことだった。専門的に何かを追求してきたのではなく、那覇市の行政の場で実力を発揮してこられた女性である。先駆的な女性リーダーとして、行政に長けた方である。いわば政界に躍り出ても痕跡を残せる才能をもった方なのだと、身近でお話しして感じていた。実は彼女は郷里の先輩で、川沿いの家の前の道を歩いて中学、高校へ行かれた方である。お父様は優秀な方で師範学校の学生の頃、鉛筆に指の跡がつくほどの秀才だったようだ。しかし沖縄戦で戦死している。お母様も優秀な方ではじめて戦後地域の教育委員になった女性で、母子家庭で熱心に4人の子供たちを育てた方だった。
先輩という事は知っていたが、彼女が那覇市の教育長に抜擢された時も、「女性で凄い人がいるのだ」と思っていたが、身近でお話しする機会があるとは全く思いもよらなかった。お話しして、そのエピソードが面白いので、ぜひキャリアウーマンとして、書物にまとめられてほしいですね、と話すと、そんなことは露ほども考えていない、とのお返事で単純に「もったいない」と思った。女性のことばは表に出ていないのである。哲学者も含めて、女たちの声は、想いは、ことばとして多く表にでていないのが、現実である。お二人の御嬢さんたちを育てながら、行政府の中でキャリアアップした女性のお一人である。議会での発言もされてきた方だ。まっすぐに党派の色とは関係なく、筋を通してきた方なのだということが伺い知れた。それはよく知っている女性議員との関係性の在り様においても、感じられた。社会をよくしたい、地域の風通しをよくしたい、その思いはまっすぐだと感じた。未来思考である。資源のない貧しい沖縄の資源は教育、人材である、その信念はその通りだと同感する。
足元を掘れという、ニーチェの言葉を大事にしてきた女性でもある。文化と教育が大きな目標なのだということはすぐわかったが、彼女の姿勢ほどに、彼女の周りにいた「うない」の看板女性たちは、しかし、自らの足元にあまり配慮してこなかったような気配がある。戦後沖縄の歴史は紆余曲折がある。27年間(南アフリカのマンデラ大統領が監獄に入っていたのと同じ期間)沖縄は米軍の占領下にあったのである。それゆえに、戦前の66年間の近代化の過程でも同化(日本への)と異化(沖縄の独自性)は大きな課題で、生活≪政治≫そのものでありえたが、犠牲の上に始まった戦後もまたそうだった。制度の中では常に制度の恩恵に笑みを浮かべる者たちと制度から収奪される立場の人たち、制度の矛盾や問題に果敢に取り組む者たちがいる。その制度は政治と言い換えてもいいのだろう。理不尽な沖縄の戦後の姿があり、1972年の復帰後の日本化の過程もある。その中で行政や政治に携わることの意味が浮かんできた。←向き合うと何万語にでもなりそうで、ここで止める。仲田会長は先見的で進取の気性に富む女性である、そして琉球・沖縄の歴史や文化をないがしろにしない方だと、とりあえずピリオドを打ちたい。
≪実家の家の窓に映った夕焼け≫
元に戻ると、身近にいる、スマートな方々は鋭角に対象に向き合っていると、ただ感心させられる。対象にわたしのようにゆらりゆらりではなく向き合っている、のだと、反省させられる。さて「ゆらりゆらりのブログ」をやめて、論文の章に向き合わなければである。ゆらりゆらりとゆれてゆらりの後がたいへん。今から徹夜態勢、寝袋のお世話になるかもしれない今夜、山原の夕焼けは美しかった!
≪電柱のある光景≫