志情(しなさき)の海へ

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Amazonに石川沙央さんの『ハンチバック』を発注したのが7月21日、何と発送が大阪で29日、到着予定が8月5日で今日7時過ぎに届いた!

2023-08-10 03:25:00 | 表象文化/表象文化研究会
今まで何かと書籍に関してAmazonを利用してきたが、今回の事例で、失望した。台風の件もあるが、発注から発送まで8日間かかっていることが、気になった。手にしてみるとすでに第5刷目だ。7月21日に近くのツタヤと田園書房に☎したら、売り切れという事だった。それではという事でAmazonに申し込んだのだった。それが失敗だった。沖縄の大手のジュンク堂にでも☎すべきだった。書籍でこんなに待たされたことはなかった。同じ日に、手元にあった古いダンテ
の『新曲』を読んでいたが、やはり文字が小さく読みづらいと思って、全三巻を注文したらそれは早めに届いたのだった。それで「地獄篇」を読み進めていた所だった。
 ダンテの『新曲』を20代に読まなかったことが悔やまれた。ロマン派の詩人のお一人ブレイクの版画がいい。1824年にブレイクの『神曲』への挿絵は始められたという。ブレイクの詩と版画に関しては若い頃神田の古本屋で版画集と詩を購入したことがあった。しかしなぜ当時『新曲』を読まなかったのか、何十年も経て、読まなければと思いつつ、今になった。
 面白く、注釈も丁寧に読んでいると、学生時代に学んだ英米文学や、大学院時代に学んだ西洋演劇史やギリシャ神話や悲喜劇、アリストテレスの『詩学』やプラトンの『饗宴』など、が脳裏に浮かんできて、改めて過去に学んだ事柄を再学習しているような気持になり、何より、ダンテが生きた13世紀から14世紀のイタリアのフィレンチェを中心とする教皇派や皇帝派の争い、その内部の政争の凄まじさに身を置いて追放された流浪窮乏の中で膨大な叙事詩を完成させたことに驚く。
 以前読んだことがある『デカメロン』の著者ジョヴァンニ・ボッカッチョ(伊: Giovanni Boccaccio, 1313年6月16日 - 1375年12月21日)がダンテをかなり評価していた事も含め、死後ダンテの『神曲』が世界文学不滅の金字塔になったことは十分うなずける。ワクワクしながら読んでいる。
 そうした中で『ハンチバック』が届いた。配達した方に「ちょっとこの遅れは台風もあったけど、おかしいね」と話した後ですぐに読み始めた。20年間ネット小説(コタツ記事ライター的な?)を書いてきたという石川沙央さんゆえか、この間の経歴が小編小説のこの中に埋め込まれたイメージがした。よく若者と話したのだが、読まれる小説なり映画にしても、「エロ、グロに一筋の純粋な(ピュア―な)物語の筋があれば、行けるよね」の印象を持った。それに最近のホラー(怪奇さ)や無機質さやアイロニー、虚構性などが加味されたらさらに受けるのだろうか。
 横文字のネット造語が多いのは、ライト小説系、BLやTN(Teller Nobel)などをずっと書いてきた方だからだろうか。ネット上の彼女の小説が紙媒体で出版される日も、近いのだろう。
 冒頭と最後はハンチバック、重度障碍者の釈華さんの書いたR18小説になっている。ポルノ小説そのもので、エロ小説で、惹きつける。彼女はSNSで自らの願望を綴っている。高級娼婦になりたい。子供を妊娠して殺したい(中絶したい)と~。その彼女のサイトをずっとフォーローしていた介護者の田中は裸身の彼女を浴びせる。そして彼を通して釈華は妊娠することを思い立つ。1億5500万円と引き換えに。
 「釈華が人間であるために殺したがった子を、いつか/いますぐ私は孕むだろう。」で小説は終わる。
 エゼキエル書38‐39からの抜粋があえて挿入されている。
短編なので一挙に読み終えた。インセルやNN好きやNS好みなど、記号的なセクシャルな語が斬新に思えたが、ネット検索して知った。
 小説の中に以下のモナリザと赤いスプレー事件が取り上げられている。
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モナリサと赤いスプレー
1974年:東京国立博物館でスプレーを吹き付けられる
Photo: Photo Sadayuki Mikami/AP
《モナリザ》がルーブル美術館を離れたことは、ほとんどない。そのため、東京国立博物館に貸し出された時には150万人もの人々が押し寄せた。そのうちの1人が、展示初日に赤いスプレーを吹きつけようとした当時25歳の米津知子だ。同博物館はモナリザ展の混雑を少しでも緩和しようと、介助を必要とする人の入館を禁止していた。この措置が障害者差別だとして、開催前から障害者運動の活動家を中心に議論を呼んでいたが、米津は抗議行動に移したのだ。
しかし、20〜30滴のスプレー塗料が展示ケースにかかったものの、レオナルドの絵は無事だった。米津はその後勾留され、裁判が行われた。美術史家のペネロペ・ジャクソンによると、訴訟手続きに性差別的な点があったとする女性権利擁護団体が、裁判所の外で抗議活動を展開していたという。米津は1975年に、軽犯罪法違反で罰金3000円の判決を受けている。
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   重度障碍者、当事者としてのこの物語は、いろいろな意味で石川さんのこの間の人生の断片と想像の世界が絡み合って構築されているような不思議な暗喩に満ちている。一度さっと読んだのだが、また繰り返し読みたい。
 ネット小説や、Twitterの投稿、それをフォーローしていたインセルの介護者田中との絡みは、釈華の願望、ねじれた悪意と優位性、障碍者ゆえの生きるために壊れていく身体との闘い、時間との葛藤や軋み、健常者との大きな差異が浮き彫りになる。受賞speechで話した事柄は、作品の中に如実に表出されている。この間見過ごされたメッセージの意義は大きいに違いない。人は己の立ち位置、身体性、精神の枠(有限無限性)、檻の中に生きているのも事実なのだ。
 この時代を、社会を新たに映す優れた短編に出会った。
 ダンテの『地獄篇』をやがて読み終える途上にあって、残酷な亡霊たちの地獄のありようは凄まじく、それらが現世のあらゆる階層を問わずの阿鼻叫喚に落とし込まれる人間の写し鏡でもあることに、驚嘆しつつ読んでいるが、『ハンチバック』の中で描かれる物語の登場人物たちは皆地獄落ちになってしまう?釈華もまた赤子を殺す女に自覚的になる(なりたい)との発言は、地獄の亡霊になるのだろうか。ルサンチマンや呪詛もまた、地獄落ちなのか、ダンテの描く地獄の層は多くの人間を巻きこんでいる。
 美しく清い精神や心の実存はあやういものだろうか。そうではない。悪と善もまたコインの裏表に違いない。歴史の現在としてのこの社会、世界の中で生きるとは、自らの限界と無限性を生きることに他ならない、などと思ったりしているが、どうなのだろう。なんて人間は観念的でかつ物理的だろうか。
 生きるとはエロス(生)とタナトス(死)の振り子を生きていることであると言われる。その通りだと思うが、想像の翼は多様な物語に飛翔させてくれる。


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