神里さんが南米で経験した事、2016年10月から1年間、文化庁新進芸術家海外研修員として、主にアルゼンチンに滞在し、ペルー、ブラジル、パラグワイ、ボリビアを旅したことが、戯曲(2018年「バルパライソの長い坂をくだる話」で岸田國士戯曲賞を受賞)や、このノンフィクションの土台になったこと、もちろんペルー生まれで2つの国籍を持っているという出自と家族のルーツが作品に反映されていることが分かる。『超えて行く』はネットで調べてみると安く入手できる。新しい作品が観たいと思い、なはーとの小劇場に行かなければ出会わなかった紀行エッセイだった。「バルパライソの長い坂をくだる話」は戯曲を読んだ。長い独白調の台詞が印象的だったと記憶している。家族の遺骨をあえて南米で散骨する物語だったような~。
世界のウチナーンチュ大会が開催されていて、「イミグレ怪談」を観た翌日もまたなはーとの大劇場に行ったのだ。その帰り際に国際通りを歩いていると、世界のウチナーンチュの皆さんのパレードが賑やかに行われていた。ブラジル、ペルー、ボリビアとそれぞれの国旗がはためき、音楽とダンスと歌が繰り広げられていた。ボリビアの皆さんのパレードがちょうど眼の前を通り過ぎていて、明るい音楽とリズム、ダンスが耳目を惹きつけた。懐かしさがこぼれた。
親戚が南米に移民していった。父母は南米を訪ねている。彼らが存命の頃は南米の親戚が訪ねてきた。ペルーの従兄弟たちはペルーから日本へ、沖縄へやってきた。祖父母はペルーでしばらく暮らし、現在は大阪で永遠の眠りについた。
なぜ、今、神里雄大の新作が「なはーと」で上演されるのか、世界のウチナーンチュ大会と関連しているのは事実だ。雄大の作品には南米の物語が刻まれている。移動、移民、超えるとは何かを問うているのらしい。以前銘苅アトリエで観た作品は琵琶湖の神秘的な物語だったような~。深堀りしたいとは思わなかった。物語の奥に日本の国のなりたちへの疑義が込められているようすだった。
さて今回の作品は、脚本を開くと「それぞれの生活言語で」と冒頭に書かれている。ゆえにと上門みきはウチナーなまりの台詞で語るし、笑うし、うなずいている。松井周と大村わたるも独自のセンスで語り、大声を出し、笑い歌い、踊る。
見出しがタイの幽霊、ボリビアの幽霊、沖縄の幽霊、そして第四部の構成。怪談と幽霊ゆえに構えて観ていたりした。途中でうつらうつらしていたりで、わけのわからなさが残ったが、移動する幽霊たち、国際通りを歩く三分の一が幽霊という暗示もある。幽霊と生身の人間たちが触れ合う物語が繰り広げられる。ヤモリは先祖の霊であるとか~。3人の飲み物は松井は美らラオ、上門はビール、大村は日本酒なんだ。なぜか泡盛が出ない。泡盛の先祖が美らラオだから、なくてもいい。原点回帰のところがある。現身と幽霊がいっしょに生活している舞台である。可視化できる存在と不可視の存在が共存している空間であり物語だ。3人は絡んだり絡まなかったりする。
タイの話にベトナム戦争や世界で最も多くの爆弾が投下されたラオスが登場する。夜だけやってくる美人の女性と暮らしたりもするのらしい。ボリビアは『超える』の書籍で綴られた物語、ファクト、歴史が浮かび上がっていく。移住地に移動する物語の過酷さ、歌・三線とすすり泣き、そして広大な土地を耕す光も~。
沖縄には幽霊が日本兵の幽霊も含めて多い話など~。なぞの女のマコさん。過去に囚われたまま殺され続ける幽霊がいる。セミに比喩された爆撃機の騒音も。その生きている人間と幽霊の境目がよくわからない現実そのものは仮想の空間で、リアルとシュールも境目がない。永遠の眼差しからするとこの現身がすべて死者、幽霊にも見えている。永遠の死者と生者。歴史は、歴史は消えない。消すまいと頑張るパッションがあれば消えないのか、実態としての美らラオがあり、原点と繋がっている今、過去、未来があり、ボリビアもこの今とつながっている。
3つのそれぞれの物語がつながる。そこから浮上してくるのは生存のシュールさなのか、明るさであり地獄であり、忘却の中の希望なのか。呪縛の怖さは描かれていない。沖縄では幽霊も妖怪も日常生活に溶け込んで共存している。この世とあの世の境目は曖昧だ。あの世はあると、信仰深い知人は語っている。
神里雄大は「戦争や地震などのあとには、幽霊の目撃談が増えるらしい。死者を思うことが、幽霊の誕生につながる。だとすれば、その存在はわたしたちの生活になくてはならないもののようである」とノートに書いている。「見えない隣人が国や地域を飛び越えたらどうなる?」という問いがこの演劇の発端だという。
わかるのはタイやラオス、ボリビアも縦社会の日本のシステムも沖縄と繋がっているという事。散文詩のようでメタファーが散りばめられて、いったい何が言いたいのだ?生存がいかに観念的なものか、という事かもしれない。物理的な痛みや残酷さや喜びがある一方で、観念を生きていることが、幽霊との共存を可能にもしている。美しく、快活な存在、囚われ犠牲となる存在。ボリビアの年金という現実は生存の根にある縛りを、国のシステムを喚起させる。