久しぶりに歩く首里の杜、壊れかけて、立ち入り禁止だった東家は修復されていた。時にそこにノートパソコンを持っていって論文に向き合ったこともあった。お弁当を広げたり、セミの愛の絶唱や彼らの忙しい求愛行動を見つめたり、ただ樹木間の移動を繰り広げる様子をしばらく眺めていたりしていただけだが~。イソヒヨドリの鳴き声に聞き惚れたりしていたのもなつかしい。
時は過ぎて、あの頃の博士課程のコミッティーメンバーの先生方は、ほとんどもうこのキャンパスに不在であるという事が、なぜか不思議に思えた。研究棟の光は24時間点いたままだ。新しい研究の徒が次々とここにやってきて、そして去っていく。過ぎゆく者のわたしたち。残されるのは記憶だけか~。
当時即興で書いた詩を練り直さなければならない。庭の昆虫たちや、小鳥たち、キャンパスの神とひそかに見上げたイソヒヨドリさんたちのことなど、詩は自在に時を刻む。それが普遍性を持つかどうかは、時がことばに、感応するのであろう。締め切りが迫っている。
練り直そうと思いつつ、いつも土壇場で向き合っている。詩集を読んではいたが~。それぞれのスタイルでそれぞれに今を、時を、実存を、愛を、怒りを、詠っている。
詩とは何だろう。戯曲も小説もある。今頃表現することに意識的になっている。呼吸し、五感を生きている現在の諸々が不思議の扉を開いている。
存在そのものの不思議がある。とりまく社会のもろもろの不思議、作られてきた法体系で縛られている不可視で可視的な縛りを、日常で受けているにもかかわらず、心はいつでも不思議に包まれている。
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