志情(しなさき)の海へ

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国立劇場20周年記念公演「祝いの宴」は年頭の祝宴、休憩はさんで2時間、第二部の「祝寿の舞」が冗漫で、琉球王府時代の女性舞踊家は辻や仲島に実在していましたが~!

2024-01-14 02:21:14 | 琉球・沖縄芸能:組踊・沖縄芝居、他
20年を寿ぐ記念公演で第一部、「神歌こねり」「入子躍」人間国宝の「かぎやで風」、同じく5人の人間国宝がそろった古典音楽斉唱「ごえん節」「揚作田節」までは冗漫さがなく、スムーズに演目が流れた。新垣俊道が解説で紹介しているが、第二部の「祝寿の舞」は「辺戸の大主」でも良かった。新作の最後の踊の冗漫さが少々退屈だった。
 長者の大主にしても「辺戸の大主」にしても台詞に「聞き応え」がある。
言の葉、台詞(唱え)の大切さを失った作品は、味気ない。
眼玉は美男の佐辺良和(美里親雲上)と田口博章(玉千代)だが、それと女性舞踊家という設定のお二人、乙鶴(与那嶺綾子)と真鶴(西村綾織)である。

歴史修正主義ではダメなんですよ。王府の表の芸能は、若衆中心で、遊廓では少女たちが芸の中心で二才踊など踊っていた。時代によって演目は変わっても表の芸能は全部遊廓で披露されていたとみていい。
 ところで佐辺さんは演技、風格、唱え、踊りと安定した実演家だ。田口さんは以前から気になっているのは、美男で踊りも見ごたえがあるものの、彼の唱えにはいつも興ざめさせられる。喉から声がでているようで、きつい声音が、こちらまで窮屈な気持ちにさせる。
 唱えを大事にしない組踊役者は主役に抜擢するべきではないと考えている。
歌わない琉球舞踊家ならいいよね。組踊を視聴するために舞台を観るゆえに唱えがだめな実演家にはいつも興ざめしている。

しかし那覇市の劇場「なはーと」とは異なり、しっかり「神歌こねり」や「入子躍」「古典音楽斉唱」が冒頭で披露されたのは良かった。
 「入子躍」は歌三線が登場する前のアカペラの舞踊や音楽の形態が残されていて、貴重。「しぬぐ」などの祭祀芸能にも通じるところがある。壮観だった。復活させた又吉静枝さんや金城厚さん、原田禹雄さんは歴史的な快挙を成し遂げた方々だ。しかし何度も観たい躍りではなく、記念行事の時に観たい祭祀(祝福)芸能、歴史の痕跡を再確認する上で、重要。踊りの原型を見据える契機にもなっている。
 
人間国宝の皆様方の斉唱は、格をご披露されていて、荘重な中で、かといって若者たちの歌三線の華やかさはないが、聴きごたえはあった。お二人の人間国宝のかぎやで風も格をご披露されている。女性舞踊家が多い沖縄で人間国宝は一つの頂点として目標になっているのはいいのかもしれないね。ただ国の権威の象徴と切れない芸能のヒエラルキーがあるので、世阿弥がそうであったように、権威に芸を奉納する宿命は消えない。
 地域の奉納舞踊や演舞とは異なる。ヒエラルキーの世界になっている琉球・沖縄芸能である。

ピラミッド内部でしのぎを削る厳しさがある舞踊界のようだ。
 次の人間国宝はどなただろうか。琉球筝曲の人間国宝が誕生してもおかしくないね。上地尚子さんや山内照子さんが候補なのだろうか。戦前遊廓には多くの女性たちが筝曲をたしなんでいた。戦後もまた戦前の技芸に長けた先駆者たちが切り開いてきたのが事実だ。

女性たちの芸能史、歴史は無視できない。


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