日本の成り立ち、フィクショナルな幻影、幻想、欺瞞でもない大きな事なかれ的な廃頽が芯部で蠢いているようなそんな感じもして、70年前に起こった事柄がまだ真に捉え返されてないばかりか、戦後70年のこの長い(短い)時間の経緯が解かれていないのだという思うに至る。ことばとことばが自由に放たれることのない空気・場を生み出すしらーっとしたものが漂っているような気配がしている。
徹夜でやっと修正英文の論稿を送ったが、査読もあり、結果は年明けだろうか?それにしても修正してもさらに手をいれたので、まだまだ訂正が必要かもしれない。論稿を印刷に入れてからも訂正が続いたりする自分自身のダメさ加減に、あきれたりしているが、それでも続けないと後がない。とりあえず英国の国際学会で発表したテーマを幾分論としてまとめたので、後は本題のテーマにひたすら取り組むだけだが、もう立ち止まりはできない。時間はあるようでない、という事実が前にある。後は構成にそって主軸の論を掘り下げ実証を編んでいく作業がまっている。そして完成の暁には☆と乾杯したい。時の流れが速い。ついていけないものが残されていく。PCの前でゆらりとしているとあっという間に日が暮れたりする。そして明日がくる。明日は研究棟に籠もらなければ、冬が12月と共にやってきた。
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私事片々
2014/11/25~
・いったい、いつからニッポンは「いまのように」なってしまったのですか?友人Hさんに訊かれた。「いまのように」というのは、憲法を無視し、9条をまったく歯牙にもかけず、歴史修正どころか、歴史の完全塗りかえ路線になったことを指すらしい。即答できなかった。喉もとには「ニッポンには歴史がないのだよ」という、捨てばちみたいなことばが浮かんだが、言わなかった。日本書紀伝承による神武天皇即位の日を「紀元のはじまり」とした「紀元節」(2月11日)が、天皇制維持のためのフィクションであること、1872 (明治 5)年にそれが国民の祝日とされ、その後、延々と「紀元節」が祝われ、とりわけ1940(昭和15)年には宮城前広場で内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催されたこと、ここに「神国ニッポン」の祝賀ムードが全国で最高潮にたっし、学校では「皇紀2600年奉祝曲」がうたわれたこと……は、ニッポン近現代史が、検証に検証をかさねられた客観的史実ではなく、「天皇制と戦争」によってゆがめられ、〈真実を無化された時間〉であることを証している。敗戦後の1948 年(昭和 23)に「紀元節」は廃止されたのだが、これとて、民衆の主体的意思と抵抗で廃止したのではない。GHQによってやめさせられたのだった。しかし、権力者だけでなく、かなり多数の民衆も、「紀元節」の情念にこだわり、「建国をしのび、国を愛する心をやしなう」とかいう趣旨で、1967 年(昭和 42)から旧「紀元節」を「建国記念日」として復活させてしまった。黒い魂の国家権力だけでなく、多数の人民も大メディアも、「神国ニッポン」のフィクショナルな心性にそまった「紀元節」からいまだにはなれることができないでいる。少なからぬ国会議員がげんざいでも西暦ではなく、「皇紀」(元年は西暦紀元前 660 年にあたるらしい!)で年をかぞえているのだ。「サムライジャパン」に「なでしこジャパン」。そんな国にそもそも歴史なんてしゃれたものがあるのかい?そうHさんに言いたかったけれど、若いひとたちの責任ではない。〈無歴史状態〉の責任は先達にある。堀田善衛「……満州事変なんていっても、いったい、いまの若い人たちが、それについてなにかを知りたいと思ってもちゃんとした歴史の本があるのかしら。きちんとした、日中戦争史さえないんじゃないでしょうか」。武田泰淳「あまりないですね」(『私はもう中国を語らない』73年、朝日新聞刊)。そのとおり。テクストはないのだ。じぶんでさがすしかない。戦後史ならいくつかある。そのひとつは、ジョン・ダワー著『敗北を抱きしめて――第二次世界大戦後の日本人』(Embracing Defeat:Japan in the Wake of World War II )。ピュリッツァー賞受賞のこの本を、首相Aは読んでいまい。「たしかに多くの日本人がほとんど一夜のうちに、あたふたとアメリカ人を礼賛するようになり、『平和』と『民主主義』の使徒となったかのような有様をみると、そこには笑うべきこと嘆くべきことが山のようにあった」。「平和」と「民主主義」は、似たようななにかがあるにせよ、戦ってかちえたものではない。じつはなにもかちえていないのだ。ふしぎな身ぶりとたちまわり(変わり身)の方法のほかは。だからこそ、ニッポンの「平和」と「民主主義」はいまだにインチキである。「たとえば原爆が投下された長崎においてさえ、住民は最初に到着したアメリカ人に贈り物を準備し……またすぐ後にも住民たちは、駐留するアメリカ占領軍軍人とともに『ミス原爆美人コンテスト』を開催したのである」。こうした歴史の大事な細部を、ロードアイランド州生まれの米国人の著書で知っておどろく、ということそのものが、わたしたちが〈自画像〉を欠く(あるいは鏡の奥をみたがらない)習性のもちぬしであることをしめしている。勉強家のHさんは、すでに目を皿のようにして読んだにちがいない。「終戦に至るまでに日本人は――日本の男たちのほとんどは、ほぼ確実に――帝国軍隊による破壊と残虐行為についてなんらかの知識を得ていた。何百万人もが海外に出ていたから、必ずしもみずから残虐行為に及ばなくても、そのような犯罪を目撃したり、噂に聞いたりはしていた」。こんなことを外国人の学者に言われるまで気づかないか気づかぬふりをするほど、ひとびととその政治的指導者は「集団的痴呆症」(ダワー)だったのか。いまもそうなのではないか。Hさんはこの本の「下」第16章の注(3)をお読みになっただろうか。それはこうです。「ドイツのユダヤ人とちがって、日本人が犠牲の対象にした人々――朝鮮人、中国人の労働者や「慰安婦」のような日本人が身近な関係をもった人々も含めて――は、日本社会の一員として受けいれられたことはなかった。『汎アジア』なるものは、ほんのわずかの例外を除いて、まったくの宣伝文句にすぎなかった」(436頁上段)。「日本人以外の死者には顔がないままだった」(289頁)のだ。首相Aのだいすきな「御英霊」とは、顔をはぎとったおびただしい他者の屍体の群れから、ゆらゆらとくゆりたつ戦中、戦前の幻である。ジョン・ダワーは東条英機を「巨大な愚者の船の船長」と形容した。おなじことばを安倍晋三氏に冠するのが妥当か妥当でないか。学生とかたりあうのも一興かもしれない。歴史をほんきで論じるとしたら、わたしたちがいまも血みどろの戦場にいるというイメージからはなれることはできない。教員だろうが記者だろうが学者だろうが、わたしのようなただのグウタラだろうが。雨。エベレストにのぼらなかった。(2014/11/25)
・「戦後」というものをみまちがえて、ここまできたのだな。このところ、そんなおもいがつよい。悔恨というのとも痛恨とも似ているが、ことなる。ずいぶんマヌケだったなあ……という虚脱感にちかい。『時間』も「審判」も再読した。『方丈記私記』も『上海にて』も『滅亡について』も。まるではじめてのように、おどろきつつ読んだ。読書というのは、おもしろい。時代と場で読後感は変わる。さいしょにそれらを読んだとき、ケツメドAはいなかった。集団的自衛権行使容認の閣議決定などかんがえられもしなかった。「恵庭事件」というのがあった。1962(昭和 37)年北海道恵庭町の陸上自衛隊島松演習場そばの牧場のオーナーらが、演習の騒音に怒って、通信連絡線を切断し、罪に問われた事件。裁判で「自衛隊の合憲・違憲」があらそわれたのだが、67年、無罪判決!東京のバカダ大学というところであそんでいたわたしは、「法学概論」の若い講師が、顔を紅潮させ目をうるませながら、無罪判決を評価する講義をしたのを聴いて、ひととしてなにかマトモで正常なものを感じたものだ。札幌地裁判決は無罪を言いわたしたが、「自衛隊の合憲・違憲」判断につては、被告人の行為が無罪である以上、憲法判断をおこなう必要はないとして、回避したのだった。ヘリクツというのか、ものは言いようだが、裁判官もかなりマトモで正常だった。検察は上訴をせず、無罪が確定。新聞は「肩すかし判決」と批判もしたが、自衛隊違憲の論調が主流か過半をしめていたのだ。自衛隊が違憲かどうか議論していたのだから、集団的自衛権行使などもってのほかだったのだ。新聞社にもまだマシな記者がいた。ケツメドAは13歳かそこらの、たぶん、あどけないお坊ちゃまで、ケツメドなどという理不尽なことをいわれなかったころである。もちろん、秘密保護法なんてとんでもないシロモノもなかった。そのころ、武田泰淳も堀田善衛も梅崎春生も中野重治も埴谷雄高も大江健三郎も、読んだ。安心して耽読した。感心した。いま、あどけないお坊ちゃまが手のつけられないケツメドになり、また『時間』や「審判」を繰りなおし、初読のようにおどろきはしたが、なんていえばよいのだろうか、えっ、こんなもんだろうか、こんな書き方で済むのか、お気楽じゃないのか、というきもちが抜けないのだ。比較は不可能だが、フランクルやレーヴィの深度と重さが、期待するほうがおかしいのだろうけれど、ない。「人間存在の根源的無責任さ」と堀田は『方丈記私記』に書いたが、そういうことで戦争を全般的に総括し、その手法で、じぶんという「個」や天皇ら他の「個」の無責任を全的に救済し、ガンバレニッポンというどくとくの「戦後」をこしらえたのだろう。短篇「審判」へのおもいは『時間』より深い。武田という人物と自称リパブリカンの堀田さんという人間の、人間観、宇宙観、疵のちがいからか。「審判」に、分隊長が「おりしけ!」と兵隊に命じるシーンがある。「おりしけ!」。なんだか耳の奥に聞きおぼえがあるような、ないような。怖い。また父をおもう。空気銃でスズメを撃った。わたしはあたったためしがなかった。父はひとがかわったようにおしだまり、痩身を鈍色の空気に溶けこませ、まったくの無表情になって銃をかまえ、スズメが気の毒になるほど弾をすべて命中させた。かれは「プロ」だったのだ。あたるとスズメはにこ毛を宙にパッと散らし、口を半開きにして瓦の屋根をコロコロと転がってくる。赤い舌がちろっとみえた気がするが、そうおもっただけかもしれない。「審判」に再三でてくる「鉛のような無神経」は、あれとつながっていないだろうか。若いころに感じなかったことを、いまはビリビリと骨に感じる。復員後、父はあの無表情でパチンコばかりやっていた。スズメを撃つときとおなじあの目で。ひとりで。前後するが、少尉になったとき、軍刀をじまえで調達する必要があったという。歯科医の伯母がお金をだして買った立派な軍刀を「佩用」していたらしい。よく斬れる刀だったろうな。なにを斬ったのか、なにも斬らなかったのか。伯母は立派なひとだった。勤勉で、不正をにくみ、貧者からは治療費をとらない、山を愛する女医だった。伯母は立派な姉として父を戦地におくりだした。父の写真。そうおもいたくなくても、眼鏡なども、東条英機にどこか似ていた。戦後、父は記者にもどった。けれども、堀田や武田のように達者に書きはしなかった。書けはしなかった。「人間存在の根源的無責任さ」なんて、書きも、言いもしなかった。黙ってパチンコをしていた。それでなんだかたすかったともおもう。もしも、父が、堀田のように「人間存在の根源的無責任さ」などと大層なことを書き、わたしが読んだりしたら、こっ恥ずかしくて、生きてはこれなかっただろう。わたしは戦後70年をみまちがえて、70年を生きてきた。敗戦後の70年という時間は、想像をはるかにこえて、ものごとをほとんどすべて腐爛させてきたのだ。それがあまり読めなかった。エベレストにのぼらなかった。(2014/11/26)