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(鳩は平和の象徴ですね。クークー、ホーホーとキャンパスで鳴いている。そういえば「東アジアの平和共同体」を推進している鳩山さんの姓は鳩とご縁があるのですね。なぜ鳩がついているのか興味を持ちます。友愛の海は間違っていませんね。友愛です。女性に教育を充実させ、男女平等が実現したら人口は自然に減りますね。戦争で人を殺すことなく世界の人口を安定させるためにも可能になります。教育レベルをあげて個として男女が対等に輝ける社会システムを築けば、世界の人口爆発は解消されるのではないのだろか?科学技術の運用も含めて。個々の尊厳と富の分配の公平さですね。)
(上の写真は全く中味と関係ないけれど、何もないよりあった方がいいので写真UPします。昨日の朝ホウホウーと鳴いていて見上げると鳩がいた!)
(つぶやき)
琉歌の叙情性、その恋の歌を歌ったのはほとんど男性でした。
彼らの思いが三線にのせられ、絶唱されたのですね。
男性の恋心をしかしそのまま身体表象できなかったのですね。
それを女性の恋に置き換えて、女踊りができたのでしょうか?
その発言の女性の根拠が古来、主婦や子女は歌舞に無縁であったからー、は間違っていますね。琉球の婦女子は歌舞が好きな人々です。しかし彼女たちに三線を持たさなかったのですね。箏もですね。三線はユカッチュの男性と遊女(辻の芸妓)が嗜んだのですね。冠船踊り、端踊りも辻の女性たちは歓待芸能として嗜んだのですね。玄人の遊里の女性たちの芸は村々でも重宝され彼女たちは村の芸能に招聘されたのでした。
古典女踊り=琉球の遊女の踊りである。古典女踊り=琉球の士族層が女性に仮託して踊った恋の具象化である。かな?
古典女踊り=表象の両性具有である。
「花風」も男が女を踊ったのである。近代の写実的なこの踊りは絵画を歌にしてそれを歌い身体でなぞったような踊りですね。現在の舞踊家の皆さんはジュリではないけれど、ジュリになったつもりで、模倣して形を踊っているわけですね。想像されたジュリ=遊女=芸妓の思いを身体表象しているわけですね。
玉三郎が綺麗な遊女を踊るようにー。遊女になった想像の具象化ですね。フィクショナルな遊女の美しさですね。
能動的な男の性と受動的な女の性があり、待つ女と働きかける男たちがいました。(←現在は逆も多くなりました?)ヒエラルキーは上部に薩摩の仮屋の在番がいてその現地妻は官選ジュリその下に王侯貴族、薩摩の船頭、水夫など商人がいた。そして琉球の士族層、資産を蓄え始めた間切の富裕農家、那覇の商人たち?時の王子でも資産のある薩摩の商人に愛人の女性を遊里で奪われたりするのですね。遊里なりの存在は価値としての金が介在していきますね。
古典女踊り=すべて辻の美らジュリの踊りである。「花風」の先駆的な女踊りである。本花風はその後ジュリに対する首里の婦人の踊りとしてできたのかな?古典女踊りを見ると=遊里の美らジュリだと思ってみてみると納得がいきますね。祭祀芸能、女性の演舞の得がたさがそこから感じられます。神々しさは『ウシデーク』や『シヌグ』の中にあるってことになりますね。人工的なフィクショナルな女性美=女踊りということになるだろうか?
カシカケは違うかなと思ったけれど、遊里の女性たちも大いに糸を紡ぎ機を織っていますね。城内の女性たちもですがー。美の象徴としての女性美=やはり首里の婦女子ではなく、遊里の美らじゅりですね。明治の頃の辻の女性たちの写真がたくさん並べられたのがあります。彼女たちの美しさに圧倒されます。真喜志康忠さんが話していました。戦前チュラカーギーの女性には「ジュリ小ぬぐとぅ」と言われたようですね。手足の綺麗な女性は遊郭にいたのです。芋と裸足(跣)の生活が長かった琉球王府であり、近代沖縄ですね。
乙樽の『忠孝婦人』の踊り「女クティ節」は、あれはフィクションで実在しなかった女性の踊りですね。村原の妻の踊りですが、あり得なかった踊りをありえたものとして想像して作品の中にいれたわけです。作品は面白くなります。何しろ首里ユカッチュはほとんど遊里に行きつ戻りつしていますから、まぁ1672年から1879年まで、そこで体験(経験)してきて蓄積されてきた美が「組踊の女の美」であり、古典女踊りの美、でしょうね。
ところで組踊の中の女性たちの踊りはあれはすべてフィクションですか?はいフィクションです。士族の婦女子が歌・三線で踊ることはなかったのですからー。城内に城人のような女性芸人を囲っていて彼女たちが踊ったという設定ならありえるかもしれませんね。
伊波普猷の凄さは大正初期にギリシャのヘタイラを比喩して「沖縄女性史」の中にもってきたことです。琉球のヘタイラも美しかったのですね。
この世は、虚構に満ち満ちている。虚構の作品そのものもまた現実のエキスとしての虚構である。
反論が多いだろうか? G先生のように、『女は無知だった』とー。