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「ベルリン天使の詩」のWim Wenders, Peter Handke in conversation with Ian Buruma | MoMA LIVE

2019-10-17 13:28:24 | 映画

          (一羽の白鷺)

Peter Handkeさんに関心があって映像を検索していたらこのドキュメント(トークフォーラム)が公開されています。ドイツ敗戦後のアメリカの影響は大きかったのですね。意識、無意識にアメリカが相対化されていたようなー。アメリカに襲われていたという表現に驚いたのだが、敗戦後のことですから、敗戦後論と重なるでしょうか。ドイツの映画監督の内面の軌跡、そしてオーストリア出身作家、劇作家、脚本家の心象風景が見えてくるようです。

Wim Wenders, Peter Handke in conversation with Ian Buruma | MoMA LIVE

On March 4, 2015, filmmaker Wim Wenders and his longtime collaborator and Austrian author, Peter Handke spoke with Ian Buruma, recounting their inspirations, childhoods and visiting America for the first time. MoMA Film's retrospective of Wim Wenders continues through March 17, 2015. For more information and screening details, visit: http://bit.ly/1B7Pc54#live#livestream#art#moma#museum#modernart#nyc#education#film#director#wimwenders#filmmakers

以下ウウィキピディアより一部転載:気骨のある作家ですね。

ペーター・ハントケドイツ語Peter Handke1942年12月6日 - )はオーストリア出身の現代作家。小説、戯曲、詩から放送劇、フランス文学の翻訳まで幅広く活動。現在フランスシャヴィーユ在住。2019年ノーベル文学賞受賞[1]

経歴

母親の故郷であるケルンテン州グリッフェン(Griffen[2])で生まれる。グラーツ大学にて法律学を専攻。1966年に小説『雀蜂』で作家デビュー、直後に大学を中退。この年プリンストンで開かれた47年グループに参加しグループに対して痛烈な批判を行い、フランクフルトで最初の戯曲『観客罵倒』(四人の出演者が劇の始めから終わりまでひたすら観客を罵倒し続けるというもの)を上演しセンセーショナルなデビューを飾る。当時ビートルズの影響を受けたマッシュルームカットだったこともあり「文学界のポップスター」とも評された。

デビュー以来ほぼ年に1作のペースで話題作を発表しており、その活動分野は小説、戯曲、詩から放送劇、フランス文学の翻訳まで幅広い。孤児が言葉を知ることによって社会にとらわれていく様を幾つもの断章を用いて描いた戯曲『カスパー』(1967年)や、殺人者が次第に言葉や社会とのつながりを失っていく小説『ペナルティキックを受けるゴールキーパーの不安』(1970年)など、当初は社会に溶け込めない個人を主題とした実験的なものが多かったが、70年代から80年代から次第に肯定的、総合的な作風へ移行して行き、前年の母親の自殺を扱った『幸せではないが、もういい』(1972年)や、『ゆるやかな帰郷』(1979年)、母方の祖父の故郷スロヴェニアを旅する『反復』(1986年)といった自伝的な作品も手がけるようになった。またヴィム・ヴェンダースと組んでの映画製作が知られており、自作が原作の『ゴールキーパーの不安』(映画は1971年)『まわり道』(同1974年)や『ベルリン・天使の詩』で脚本を書いている。

1996年に発表した紀行文『ドナウ、サーヴェ、モラヴァ、ドリナ河畔への冬の旅』において、ユーゴスラビア紛争での西側メディアの報道の偏りを非難し、NATOによる空爆を批判。この言動は親セルビア的であるとしてマスコミから集中砲火を浴び、ギュンター・グラスハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーらからも強い批判を受け、また前述のヴィム・ヴェンダースともこの問題を機に仲違いをしている。ハントケは20年以上前に受賞したゲオルク・ビュヒナー賞を返上するなど態度を崩さず、この問題に関しては一貫して頑固な姿勢を崩していない2003年から始まったアメリカ主導のイラク攻撃及びその後発覚したアメリカの情報偽装問題に関してもユーゴ問題を引き合いに出し識者やマスコミは糾弾する資格が無いと月刊プレイボーイ誌において語っている。2005年にはスロボダン・ミロシェヴィッチ前大統領から国際戦犯法廷での弁護に立つように要請され、直接の弁護は断ったもののエッセーなどの言論でこれに答えている。(ハロルド・ピンターがUSのイラク介入を激しく批判していたのを思い出します!)

主要作品

小説

  • 雀蜂(1966年)
  • 内界の外界の内界(1969年)
  • ペナルティキックを受けるゴールキーパーの不安(1970年)
  • 長い別れに寄せる短い手紙(1972年)
  • 幸せではないが、もういい(1972年)
  • 真の感覚の時(1975年)
  • ゆるやかな帰郷(1979年)
  • 左ききの女(1976年)
  • こどもの物語(1981年)
  • 反復(1986年)
  • だれもいない入り江での一年(1994年)
  • イメージの喪失(2002年)
  • ドン・ファン(2004年)

戯曲

  • 観客罵倒(1966年)
  • カスパー(1967年)
  • 被後見人が後見人になりたがる(1967年)
  • クヴォドリベット(1969年)
  • 不死への備え(1997年)
  • 丸木舟での航海(1999年)
  • 地下鉄ブルース(2003年)
  • アランフエスの麗しき日々(2012年)

映画

 

  1. 1945年8月14日デュッセルドルフで生まれた。ギムナジウム卒業後、大学では1963年から1964年まで医学を、1964年から1965年まで哲学を専攻したが、いずれも断念した。1966年10月に画家を志してパリへ引っ越した。しかし、高等映画学院 (IDHEC) の入試に失敗。その後、モンパルナスにあるJohnny Friedlaenderのスタジオで彫刻を学んだ。この頃、1日5本以上もの映画を観る生活を送っていた。1967年ユナイテッド・アーティスツのデュッセルドルフ・オフィスで働くためにドイツに帰国。同年秋にはミュンヘンテレビ・映画大学 (Hochschule für Fernsehen und Film München, HFF) に入学。1970年まで『FilmKritik』誌や『南ドイツ新聞』、『Twen magazine』誌、『デア・シュピーゲル』誌で映画批評を執筆した。また、1967年からは映画監督としての活動を開始し、1969年までの3年間で『警察映画』(1969年)や『アラバマ:2000光年』(1969年)、『3枚のアメリカのLP』(1969年)など8本の短編映画を製作した。

    1970年、16ミリモノクロによる初の長編『都市の夏』を監督。1972年、友人でもあるペーター・ハントケの同名小説を映画化した『ゴールキーパーの不安』を発表し、第32回ヴェネツィア国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞した。以後もハントケはヴェンダースのいくつかの作品の脚本を手がけている。1974年アメリカからオランダへと旅する青年と少女を描いた『都会のアリス』を発表。翌1975年には戦後ドイツを表象した『まわり道』を発表。1976年の『さすらい』は即興演出によりロードムービーの頂点を極めた作品と評価され、カンヌ国際映画祭国際映画批評家連盟賞、シカゴ国際映画祭ゴールデン・ヒューゴ賞などを受賞した。これら3作品は「ロードムービー三部作」と呼ばれる。また、これらの作品により、フォルカー・シュレンドルフヴェルナー・ヘルツォークライナー・ヴェルナー・ファスビンダーらとともにニュー・ジャーマン・シネマの旗手として一躍注目されるようになった。

    その後、一時は作風を変え、パトリシア・ハイスミスの小説を映画化した『アメリカの友人』(1977年)や死期近いニコラス・レイの姿を映した『ニックス・ムービー/水上の稲妻』(1980年)などを発表した。1982年にはフランシス・フォード・コッポラの依頼を受け、ゾエトロープ社が製作した『ハメット』の監督を務めた。しかし、製作方針をめぐりコッポラと衝突。撮影は何度も中断され、ヴェンダースはこの期間にポルトガルにわたり、映画製作の現場を舞台にした『ことの次第』を製作。同作は第39回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞した。1984年サム・シェパードの脚本を元に、アメリカを舞台にしたロードムービー『パリ、テキサス』を発表。第37回カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞した。翌1985年には敬愛する小津安二郎に捧げたドキュメンタリー東京画』を製作。1987年、10年ぶりにドイツで製作したファンタジーベルリン・天使の詩』を発表。第40回カンヌ国際映画祭監督賞を受賞した。1989年にはファッションデザイナー山本耀司に関するドキュメンタリー『都市とモードのビデオノート』を発表した。

    1991年、念願の企画だったSF大作『夢の涯てまでも』を発表。1993年には『ベルリン・天使の詩』の続編となった『時の翼にのって/ファラウェイ・ソー・クロース!』を発表。第46回カンヌ国際映画祭審査員グランプリを受賞した。1995年ミケランジェロ・アントニオーニの指名を受け、彼の13年ぶりの長編『愛のめぐりあい』の一部を監督した。1997年には映画と暴力の関係を扱った『エンド・オブ・バイオレンス』を発表。1999年の音楽ドキュメンタリー『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』はヨーロッパ映画賞ロサンゼルス映画批評家協会賞のドキュメンタリー映画賞を受賞するなど高く評価された。

    2000年U2ボノの原案を元にした『ミリオンダラー・ホテル』を発表。第50回ベルリン国際映画祭審査員賞を受賞した。2003年にはマーティン・スコセッシのプロジェクトの一環として音楽ドキュメンタリー『ソウル・オブ・マン』を製作した。2004年には9.11以降のアメリカを舞台にした『ランド・オブ・プレンティ』を発表した。翌2005年には『パリ、テキサス』以来およそ20年ぶりにサム・シェパードと組んだ『アメリカ、家族のいる風景』を発表した。同年にはロカルノ国際映画祭名誉豹賞を受賞した。2008年にはデニス・ホッパーが死神役で出演した『パレルモ・シューティング』を発表した。

    2011年、20年にわたって企画を練っていたピナ・バウシュに関するドキュメンタリー『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』を発表。翌2012年第84回アカデミー賞では長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされた。2014年ジュリアーノ・リベイロ・サルガドと共同製作したドキュメンタリー『セバスチャン・サルガド/地球へのラブレター』を発表。第67回カンヌ国際映画祭のある視点部門に出品され、特別賞を受賞した[1]2015年第65回ベルリン国際映画祭名誉金熊賞を授与された[2]。同年、自身初の3D映画誰のせいでもない』を発表。

     


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