(今帰仁歴史文化センター庭のソテツの花と実)
いわゆる9月18日のしまくとぅば記念日の県民大会に仲井真知事が顔を見せなかったということは、そのプロジェクトそのものが外注の企画だということに思いいたる。
博報堂や三菱UFJ、電通、JTBなど、大手の広報や旅行社が沖縄県のビジョンの根幹のプロジェクトの作成をしているのですね。沖縄独自の目線ではないのね。沖縄独自のコンテンツ企画ができないという現実。ODA、金は中央からやってきて中央に還流★
沖縄県の職員ならその構図をよくご存じのはずで、県のブレイン集団はどこにいるのだろうか?チーム未来に以前かかわった時も各市町村の青写真は大手広報会社に丸投げでそちらが描いたビジョンを何人かの委員が審議するという仕掛けでした。地元の人々の頭脳やアイディアからそれらが企画されるわけではなく、コンテンツ・コーディネートする会社、まぁー、さまざまなビジョンの制作会社は、資金力とリサーチ能力に長けていますからね。そちらが作ったプロジェクトプランで政治が社会が動く仕掛けです。つまり沖縄県の未来ビジョンは沖縄ではなく、東京の大手広告会社の中で決定される仕組みです。←もし、この私の認識が間違っていましたら、どなたかレスお願いします。
ですから、自ら作成した企画でもない「しまくとぅばプロジェクト」県民大会に沖縄県知事が参加しなくても、それは筋が通るのかもしれませんね。知事は熱くないのです。そこに大きな価値を見出し得ない方だということになります。
つまりウチナーグチでは経済が動かないと考えているのです。ところが「うちなーぐち」で大金を得た方々はその先を見通しています。ある沖縄芝居ご夫婦は億単位の資金をウチナーグチ役者の経歴で、テレビや映画、トークショーに出演することにより裕福になった、などの話も聞こえてきます。そこで彼らが今やっていることはご自分の娘をその道の後継者として育てることです。親の七光りは意外と当てにならないと思うのですが、政界は盛んですが、芝居の世界ではどうでしょうか?芸とチャンスが良くなければ、なかなか映画やテレビは厳しいですが、昨今のうちなーぐち(琉球諸語)の勢いは、それが沖縄文化のコア(核)であるかぎり、メリットはあるのです。沖縄の独自カラー(固有性)は観光でも売りになります。同じものを人は味わいたくありませんのでー。(最近の琉球舞踊の家元の世襲制は芸や権威や権益の保持のためのシステム化ですね。沖縄流ではありませんね。日本の体系への右ならえです)
比嘉豊光さんはウチナーグチ(琉球諸語)のパフォーマンス(歌・三線とトーク)で、十分それを職業とする方々を揶揄した言い方をしていましたが、民謡の盛んな沖縄は戦後新民謡も含めて、ウチナーグチ、宮古フツ、八重山くとぅばなど、芸能が盛んです。琉球舞踊、古典音楽、組踊、沖縄芝居と基本はウチナーグチ(琉球諸語)です。主に首里・那覇語が古典音楽、組踊、沖縄芝居で使用されています。それらは日本語にうまく翻訳できるものではありません。古典を民謡を日本語に翻訳して歌えませんよね。歌えるとしてもそれはもはやウチナー民謡でも古典でもありません。
日本語に置き換えできない言語があり、その体系があるわけで、それらは継承されつづけなければなりません。また多言語性なりその環境は言語意識が高まり、頭脳のスナップスが増えていきます。つまり、意識化、ことばの論理化が高まるのですね。それはすなわち世界の言語への関心へと導かれます。多様性への開示がうちなーぐちを使用することによって高まるのです。
これはビジネスそのものになります。ウチナーグチが多言語的に使用される社会、日本語、ウチナーグチ(琉球諸語)、英語、中国語、なにやら賑やかでいいですね。移民県ですから、スペイン語、ポルトガル語も盛んになったらいいですね。沖縄と近いヴェトナムもあります。ヴェトナムで働いている教え子がいますが、彼がヴェトナムにいる間にぜひ行きたいなどと考えています。
言語の修復と共にファッションセンスもヒーター小が気軽に身につけられる環境になってほしいです。沖縄の着物がどう流通しているのか知らないのですが、その産業の活性化が沖縄でよくなればいいですね。インドの女性たちのサリーのようにかつてのウシンチーの着物をつけて学校へもいいなー。などと思いだけは膨らみます。
名護で撮った月桃