「Wの悲劇」はYouTubeで第①話のシーンから第⑯話まで短いシーンが延々と続いて一応全編が観れる。アマゾンプライムは購入しないと観れない条件で、古い映画はまた別料金のサイトを紹介していた。料金はそれほど高くはないけれど、自由に観れるYouTube版を観た。
1984年のメガヒットした映画。夏樹静子の小説の映画バージョンで、二重の物語になっていて、舞台女優を目指す女性のトランジーション物語。そういえば漫画に舞台女優になる少女の物語があった。
『ガラスの仮面』ガラスの仮面 - Wikipedia(美内すずえによる日本の少女漫画作品)だ。「1976年から連載が始まり、未だに未完となっている。2014年9月時点で累計発行部数は5000万部を突破している。平凡な一人の少女が、ライバルとの葛藤を通して眠れる芝居の才能を開花させ、成長していく過程を描いた作品である」とWikiに紹介されているので、もう46年間連載が続いている漫画である。以前漫画の一部を読んだことがあったが、けっこう引き込まれた。
その『ガラスの仮面』の物語を一部彷彿させる「Wの悲劇」である。舞台女優を目指す女性の心のゆらぎや強い意志、また今や大女優の突然のスキャンダラスな出来事、パトロンの腹上死、その身代わりになることによって主役の代理に抜擢されるなど、そうして女優のスターダムを登っていく、女性が女優/俳優になっていく物語でもある。イニシエーションのような~。乗り越えの儀礼儀式があるような~。
そう言えば、ゲーテにしても村上春樹にしても、少年が大人になるイニシエーションの物語を書いている。マークトウェンも~。少女のイニシエーションの物語はどうなのだろうと一瞬思った。『ガラスの仮面』はその要素があるようだ。
ただこの作品「Wの悲劇」は、一人の演劇研究生が女優としてのステップを踏んでいく物語だ。彼女にとって男性との初体験も何らかの変化を求めて、のものだった。舞台女優という目的があり、そのためのtransitionトランジーションである。
なぜか女性、少女のイニシエーションが気になった。女の子、少女は初潮を迎えると、男性との関わりの中で子供が生める母体になっていく。女の子(少女)のイニシエーションは初潮によって始まるということだろうか。それにしては早い。平均は12~13歳とのことだ。つまり小学6年や中学1年生ですでに子供がうめる身体になる少女たちである。
しかし「15歳が人生における第二の誕生、自我の芽生えと思考の始まりである青春の 始まり」という亀井勝一郎さんのエッセイがある。15歳が大きな節目に見える。体はすでに出産可能な母体になりえても身体(精神と体)は15歳にならないと第二の誕生と言えないの考えは、中高校生だった過去を振り返っても、また子供の成長の過程を経験してもうなずける。
「Wの悲劇」は別に少女のイニシエーションではなく、単に一人の20歳の女性が女優になっていく物語で、映画の本筋に劇場版の物語が伏線として絡み合って、ミステリーを解くように物語が編まれている。女優の卵である主人公が演じる力(感性)によってスキャンダルを乗り越え、自ら選んだ道に進んでいくのだという終幕だった。女優という実体が、古来から変わらない属性を持ちながらかつ時代の色合いを加味した魅力的なキャリアであること、が台詞からもにじり出てくる。そこは再認識になり、興味深かった。
遊郭の芸妓を含め、芸に生きる共通項が現代に貫かれていることを、もう少し吟味してみたいと思った。女優についてボーボワールが『第二の性』で書いた言説も気になった。確か論文の中で引用したはずだった。芸妓と現在の女優/俳優に類似する属性と違いとは~?
演じる人間。いくつもの仮面をかぶった存在であることは、役者(俳優)ではなくても、同じだが、表現者として生身の体(全身全霊)で演じる役者はまた何か特別なものを付与されている。
Wの悲劇 (映画) - Wikipedia 以下あらすじ
「三田静香(薬師丸ひろ子)は劇団「海」の研究生で、女優になるために努力を重ねる20歳の女性。そんな真摯な静香を公園で見初めた森口(世良公則)は元劇団員の26歳、今は不動産屋の社員をしている。
静香は劇団の次回公演『Wの悲劇』の主役選考オーディションに臨むが、同期のかおり(高木美保)が役を射止め、静香は物語の冒頭でひとことだけ台詞のある端役(兼プロンプター)を担当することになった。オーディションに落ちて落ち込む静香に、森口は俳優時代の心理的な苦悩を語る。そして、森口は、静香がスターになれなかったらという条件で結婚を申し込み、反対に静香が役者として成功した場合はサヨナラの意味も込めて楽屋に大きな花束を贈ることを約束する。
そんな静香に、危険な第2のチャンスが待っていた。『Wの悲劇』公演のため大阪に滞在中、看板女優である羽鳥翔(三田佳子)のホテルの部屋で、羽鳥のパトロンの堂原(仲谷昇)が腹上死してしまったのだ。スキャンダルになることを恐れた羽鳥は、たまたま部屋の前を通った静香を呼び寄せ、身代わりになることを頼む。その見返りとして、続く東京公演でかおりを降板させ、静香を主役へ起用させることを約束する。舞台への情熱が勝った静香はその申し出を承諾し、羽鳥の代わりにスキャンダルの当事者としてマスコミの矢面に立つ。
そして、静香にとって初めての大舞台となる、東京公演の幕が上がる。羽鳥の後押しもあって、静香はステージの上で全身全霊で役柄を演じきり、観客や団員達の賞賛と祝福を受ける。
しかし栄光もつかの間、新しいスターを取材しようと集まった報道陣の前に真相を知ったかおりが現れ、事の全てを暴露、静香をナイフで刺殺しようとするが、森口が静香を庇って刺される。一夜の名声から再びスキャンダルの汚名をかぶった静香だが、同時に自分の道は舞台にしかないことを確信する。静香は女優として再起することを誓い、森口に別れを告げる。そんな静香の去り際を、森口は拍手で見送る。」
薬師丸ひろ子と三田佳子の演技が光っている。薬師丸さんは素の田舎娘の雰囲気で舞台では情熱的に演じている。舞台の演出家が蜷川幸雄さんというのも発見。若い。多くの映画賞を受賞している。1984年に観ていない。あの頃何をしていたのだろう。
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映画「ひとよ」(2019年)も興味深かった。子供たちを虐待する父親を母親がタクシーで轢き殺して、その15年後の物語。母親役、田仲裕子の存在感がすごい。子どもたちを連れてなぜ逃げなかったのか?普通に家族を虐待する夫を殺したいという妻は少なくないと思う。そうした父親のDVの中で親を殺す子供たちもいる。殺したいほど憎い、しかし多くの人は思いとどまる。理性が働くゆえだが、理性が事切れた時、感情が突っ走って、悲劇的な結末が起こる。
15年間の母親のいない空白の時間に子供たちに何が起こったのか、父を殺した母の存在をどう受け止めるか、成人した子供たちの心理的な描写や行為、関係性に物語の面白さがあった。世間の白い目があり、その中でタクシー業を続ける家族、親族の力強さもあった。
深い葛藤を乗り越えて生きてくそれぞれの姿に強さがあった。それだけ精神的に強くなければ、壊れてボロボロになっていたはずの家族は、再生していく可能性を見せた。日本社会の陰湿さを思うと、明るいエンディングだった。
個人の概念が弱い日本社会ゆえに、家族一人の罪が全員のものとして重しのようにのしかかってくる暗渠が横たわっている。アメリカの場合、家族の犯罪に対して、他のメンバーは自立した個人として、突っ立ているイメージが有る。それは宗教の差異ゆえなのか?家族一人の犯罪が家族全体の罪として認識される日本と、個人の罪として家族から切り離される社会との差異は何だろう。
個人主義や自立心、宗教の違いだけではなく、社会の構造にあるようだ。今どきは殺人者が手記を書いてその本がベストセラーになる劇場型社会になっている日本でもある。その辺はアメリカは先駆者かもしれない。何でもキャピトルの資本主義社会の現象の一つとみなしていいのかもしれない。センセーショナルな事件に、被害者として、あるいは加害者として身を袋小路に追い詰めるのではなく、事件(事実)そのものに当事者がメスを入れるのである。
それが物語として消費される社会になっている。インターネットやSNSの影響もあるに違いない。社会は、国は、世界は生き物のように無限(夢幻)に变化していく。変わり変わらないこの地球社会のようだ。
関係性の絶対性という言葉を吉本隆明は使っていた。
■関係の絶対性について【転載】https://www.amazon.co.jp/gp/aw/review/4061961012/R3A86ZPU7IHHF6
関係の絶対性とは、「不可避な敵対関係」の絶対性のことである。
文脈により「暴力的抗争関係の絶対性」「支配被支配関係の〜」「歴史的怨恨関係の〜」等とした方が明瞭になると思うが、吉本氏はこれらを総称して「関係の絶対性」と呼んでいる。本書について具体的にいえば
「ユダヤ教社会による新興キリスト教集団への迫害とそれに対する反撃、という歴史的敵対関係の絶対性」である。
関係の絶対性とは、「不可避な敵対関係」の絶対性のことである。
文脈により「暴力的抗争関係の絶対性」「支配被支配関係の〜」「歴史的怨恨関係の〜」等とした方が明瞭になると思うが、吉本氏はこれらを総称して「関係の絶対性」と呼んでいる。本書について具体的にいえば
「ユダヤ教社会による新興キリスト教集団への迫害とそれに対する反撃、という歴史的敵対関係の絶対性」である。
「絶対的関係」と言わずに「関係の絶対性」と表現したのは、当事者にはどうすることもできない状況の不可避さ、に主眼があるという事。個人がどれほどあつい信仰や高い理想を持っていてもその前では無力化されてしまう現実という壁、それに規定される人間同士の敵対関係、その客観的な剛さ、不合理さが「絶対性」。極端に言えば「殺すか殺されるかの宿命的関係」。
これが「愛憎関係」の絶対性と解釈できるならより広い概念となるが本書に関してはどこを探しても近親憎悪や親殺しはあっても愛情は見い出せない。