(最後の村人の踊り)
午後6時半から9時まで2時間50分、休憩は10分。
予定調和的な悲劇の結末だが、いい場面は校長の登場場面、喜助とサヨの喜一を思って痛みを強烈に表現するところ。
喜一とサヨの「テーマトウ」「カナーヨー天川」の琉球舞踊がいい。
最後のグソー結婚と弔いの場面!サヨが米兵に畑で襲われて死ぬ。それがあいまいな形で死へと向かう。
沖縄芝居役者が≪いみじくも言った≫ことは、台詞のことばの関係性があいまいで、言葉の整合性がなりたってないと、いうことである。
「きっと生きて戻ってくる、と言わせたのなら、生還させて最後のどんでん返しをするとか、徹底的な悲劇で、ある種の認識なり発見をもたらすなどの構図がいいね」
「こんなことになる前に」とか「アメリカ‐と闘ったよ」とか、しかし、無念の思いは溢れている沖縄の戦後である。
脚本にはナレーションがついていて、物語が語られる。語りの物語になっている。アクションがないので、エピソード的にスケッチがあるが、
それがあまり訴える力がない。それがなぜか、脚本の構成力の問題もあるかと思う。また一幕物のように古典的なスタイルである。
動かない舞台があり、物語はサヨと喜助の悲劇と鎮痛の思いに集約されていく。動かない舞台、周囲が動いていく。しかし梅吉にしてもその位置は
時代に身をすりよっていく役回りだが、どうもずれが感じられた。
井上ひさしの戯曲との違いを思った。小説と脚本は異なる。その想像力も異なることを考えさせられた。しかし確かに二幕から中身は面白く引き込まれていった。後半にかけてすすり泣きが聞こえてきた。かなりのすすり泣きである。しかし、市民劇のレヴェルを超えられたか、越えられなかったのだと思う。
29日の国立劇場おきなわの舞台はまたもっと集約されたキリリの演技になるのかもしれない。泣かせる。生涯を結婚を約束した恋人を思って生きていく。それはありえることであったし、ありえる。しかし、舞台の見せ方はまた別のことばがありえる。グソー結婚は象徴的だったが、「山のサバニ」でもあった。恋人たちをせめてあの世で思いを遂げさせたい優しさである。それはいいのだ、なぜか、安易にも思えた。同じ手法だからだでもあるがー。
痛い体験、その地獄の体験を超えてまた生きてきた沖縄の戦後があった。帰り際、コザでは、見知らない人に(男女問わず)身売りされて、買売春の檻に身を埋めた女性たちの話を聞いた。梅吉の商売の地獄図絵もある。晴れやかな女たちのコインの表裏もある。村の変化もある。そこだけ時が止まったような喜助とサヨの家がある。愛する人を待ち続ける情念、死を受け止めることのできない思いがある。その思いをさらに踏みつけるように米兵に暴行させる作家の視点もある。ある面残酷だ。でいご村=沖縄の設定だろうか?死を受け止めることのできない思いが、愛を断ち切れない思いが、日常を超えさせる。しかし、想いは悲嘆だけではないはずで、悲嘆を超えて静謐な日常の営みもあり得る。多くの死を超えさせるものは何だろう。
戦争の悲嘆を忘れない、忘れさせないデイゴの樹のシンボリズムは、たしかにそこに見えたが、サヨの無念と痛みがテーマなら一幕物の小編でもいい。それが集団の中での物語となると、その集団としての意志と時代の波とそれらの動きが、平板にも感じられた。んんん、はやり、脚本の根と台詞、とアクションがあまりない舞台の窮屈さは否めなかった。
原作は小説「でいご村から」でも、脚本はまた別の才能で練りかえされたらもっといいのが出来るのかもしれない。
例えば小説「八月十五夜の茶屋」と戯曲「八月十五夜の茶屋」では、舞台がはるかに面白い。パトリックの戯曲のメリハリは小説にはない構成になっている。逆転の鮮やかさ(劇構造のパターン化された仕掛け)を持っているのである。凡庸に流れる時間と異なるのが戯曲の時間であり、ことばのレトリックである。
あまり辛口でも29日の国立劇場おきなわでの舞台を見たくないという人が増えたら困るので、良い所はどこか、考えてみた。メインの主人公たち上江洲朝男、小嶺和佳子の演技がなかなか良かった。中里友豪さんの校長先生の場面が少ないけれど、時代を切り取っていた。あさと愛子さんの千代は良かったね。
せっかくの戦果あぎやーも乞食の桑江さんも、アル中の桑江さんも、いいのだけど、どことなくメインストーリーから浮いているのが、気になった。マルムン的な役柄だが、泣かせて笑わす台詞とキャラがなかなか出せなかったのが惜しい。
劇場で矢部久美子さんにあってビックリである。
ダビの光景 芝居女優には戦前戦後身近にあった光景で女性たちは着物を後ろからかぶって頭を覆ったようだ。
主役の上江洲さんと小嶺さん